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「どれどれ」
俺は平積みされていた中から、同じものを一冊拾い上げ、ページを捲ってみた。
一ページ読み、二ページ読み、三ページ読み、……いかん、頭が痛くなってきたぞ。
「読みにくいことこの上ないな」
俺は正直な感想を述べた。すごい。これはすごい。全体的な文章自体は、まあいい。言い回しが回りくどかったり、常用外の難読漢字を多用してたりは許す。
ただ、いちいち漢字の固有名詞にカタカナのルビが振ってあるのが辛い。確かに「深夜の騎士団」の英訳は「ナイトオブナイツ」だけどさ。だったらどっちかにしろや。
あと、登場人物の名前が読めない。読み方は普通なのに、当ててる字が人の名前じゃない。なんだよ、夜神魔叉魅って。男か女かもわかんねーよ。
……というのが、今の俺が感じた、正直な感想だった。
あくまで、今の俺の、だ。
たぶん、これを読んだのが、数年前までの俺だったら。
きっと「面白い」と言ったはずだ。
「俺、未だに厨二病を卒業できてないと思ってたんだけどさ、上には上がいるもんだな」
「でしょ? 正直信じられないんだけど。それでも一応、新人賞の選考に残って、こうして本になったわけだから」
「こういう需要もあるんだろうな」
とまあ、お互いに口から出てきたのは酷評だったのだが、けれど(言い方は悪いが)こんな作品が新人賞の選考に残るってのが、本心から信じられなかった。
この類の話は、俺がまだガキだった頃に考えてて、そして今の自分が否定していたものだったからだ。
あの頃は、本当にこういった話が面白いと信じていたし、こんな話ばかり書いていた気がする。
けれどある程度の大人になった俺は、過去の自分が書いた物語を、陳腐でダサくて、独りよがりの恥ずかしい黒歴史だと認識していた。
なのに、だ。
どうやら世間には、それを認めてくれる物好きもいるらしい。
そこで俺は、とうの昔に忘れようとした夢を思い出した。
このレベルでいいなら、あるいは俺にだって。
……いやいや、下らない妄言だってのは自分で一番よく分かってる。
俺なんかに、そんな可能性は一パーセントもないって事は。
けれど、何でだろうね。今更そんな事を考えるなんて。
もしかして、悔しいのかね、俺は。どこの誰とも知らない、友達の友達とやらに先を越されてしまった事が。
デビューする気なんてとっくに失せてるのに、悔しいもくそもないと思うんだけど。
しげしげと文庫本の表紙を眺めながら考えていた俺に、小野寺はとんでもない事を言いやがった。
「俺が思うに、河野の実力だったら、狙えると思うんだけどな。新人賞」
「なっ……、何を言う」
せっかく人が今、必死になって否定した事を蒸し返しやがって。
「俺の小説なんて、所詮マイノリティにしかウケないんだよ。俺なんかに手の届くような簡単なもんじゃないだろ、賞なんて」
「そうかな。俺は面白いと思うけどな、河野の小説」
「だから、お前がそのマイノリティなんだよ」
笑いながらそう答えたが、まんざらでもない気がした。
やっぱり、何だかんだ言っても褒められて悪い気はしない。
だからと言って、思い上がった事をするつもりもないけどね、俺は。いいんだ。マイノリティに向けて書いてればさ。
ちょっと違うかもしれないけど、需要と供給ってやつかな。
俺は、好きなものを書く。読みたい人が、それを読む。それでいいじゃない。
別にプロの小説家じゃなくたって、小説は書けるんだからさ。
その後、小野寺に誘われるがままに、併設された喫茶店へと入った。
小野寺の手には、買ったばかりの文庫本がある。一応、友達の義理として買ったらしい。
「俺に言わせれば、別に大衆向けの小説なんか書かなくてもいいと思うんだけどね。自分の好きなことを書けばいいんだよ。こいつがいい例だよ。こんな趣味丸出しの小説書いて、本にしてもらえてるんだから」
とりあえず適当なブレンドコーヒーを注文し、手近なテーブルにかける。
「何が言いたいんだよ。……まあ確かに、小説なんて独りよがりなところもあるとは思うけどさ」
「でしょ? だから、河野だって十分にいけると思うんだけど」
「ふん、やなこった」
「相変わらず頑固だね。大体、いままで賞とかに応募した事はあるの?」
「ないけどさ……。分かりきってるじゃん、結果なんてさ」
「分からないよ、そんな事。なんだ、試しもしないのに、頭から決めつけてたの?」
コーヒーをすすりながら、皮肉交じりに答える。
「自分の実力なんて、自分で一番よく分かってるつもりだよ。わざわざ自分から、恥をかきに行く事もないだろ」
皮肉ってのは、自分に対しての皮肉だ。
俺の実力なんて、自分で読んでて恥ずかしくなる程度の力しかないんだよ。
「ま、人が何やってても、俺は口出ししないけどさ。でも小説の価値を決めるのは、作者じゃなくて、読者だと思うよ。結局は、読んだ人がどう思うかが肝心なんじゃないの?」
それを読んだ俺自身が、これはひどいと思った訳なんだけど。
「そうだろうけどさ」
「俺は、河野の小説読んで面白いと思ったから言ってるんだけど」
「そいつはどうも」
コーヒーカップを傾けながら、俺は視線を逸らした。
知ってるよ、そんな事。
当たり前だ。値打ちを決めるのは、作者じゃなくて読者だ。
例え書いた本人がどんなに絶賛していようと、読んだ人間が面白いと思わなければ、それは駄作でしかない。
逆に、駄作を書いてしまったと後悔しても、意外と賞賛されることだってある。
でもな、そんなのはほんの一握りでしかないんだよ。
だってさ、小説家志望って、どれくらいいると思うよ? そいつら全員、面白いものを書けると思って書いてるわけだろ。そいつらがデビューできないのって、結局はそういう事だろ? 俺だって、そいつらの内の一人でしかないわけさ。
小説家なんて、狭き門なんだ。本を出せた連中には才能があって、くすぶってる連中にはそれが無かった、それだけの事だ。
才能の無い俺には、小説家デビューなんて。
そんな俺を、なんか意味ありげな目で見ていた小野寺は、コーヒーを飲み干すと、何の脈略もなく切り出した。
「じゃあ、映画を作ろう。俺たちで」
「……はい?」
「映画だよ、映画。自主制作映画ってやつ」
こいつとの付き合いは長いから、こいつが突然こう思い付きみたいな事を言い出すのは嫌っていうほど知っていた。
「いや、そんな『バンドやろうぜ』みたいなノリで急に言われても」
以前にも、『漫才やろう』とか、『旅行行こう』とか、『クルマ作ろう』とか、そんな事を突発的に言いだしたことがあった。しかも、大概その全てがその場の思いつきで、未完に終わっている。
「大学でさ、そういった系のサークルやってんだ、俺。だからさ、作ってみない? 映画」
「だったら、そのサークルでやればいいじゃんか」
すると小野寺は、立てた人差指を左右に振りながら、チッチッチと舌を鳴らす。
「分かってないね、河野は。俺は、河野の小説を映画にしたいんだよ」
「俺はしたくねーよ」
ごめん嘘。
実を言うと、映像化ってのはすごく興味あるんだ。
何でかって、俺は基本的に、頭の中に出てきた映像を、文章に起こすタイプだから。だから、俺の頭の中では、小説は動画になってるんだ。
毎度毎度、これこのまま映像化できればなーなんて思ってたんだけど。
これが小野寺の誘いじゃなくて、本物の業界人からの誘いだったら間違いなく乗るんだけどな。
自主制作映画なんかだったら、俺の黒歴史に新しい一ページが刻まれるだけだ。
「でもね、結構楽しいんだよ? 映画作り」
小野寺はやたらとニヤニヤしながら話してくる。
多分、俺の顔に『ホントは超やってみたい』ってのが書いてあるんだな。俺の心が読まれやすいのは、きっとそういうことなんだろう。間違っても、一人称小説だからってことはないはずだ。
「仕方ねえ、やってやるか」
「相変わらず、素直じゃないねえ」
ほっとけ。