20
突然のことで何が起こったのかわからなかったが、ドアの無くなった玄関の先に、脚を蹴り上げた篠原紫が立っていた。
蹴破った!?
篠原の脚力がすごいのか、ドアが弱すぎたのかは知らないが、篠原の蹴りの一撃で玄関のドアは、いとも簡単に吹き飛んだ。
余りのことに、後ろに立っていたほかの三人も、呆然としている。
土足のままずかずかと部屋に侵入してきた篠原の表情からは、一切の感情を読み取れなかった。
そしてへたり込んでいた俺のそばまで来ると、俺の胸倉を掴んで無理やりに立たせる。
「……っ、何のつもりだよ」
俺が何とか絞り出した非難の声にも動じず、赤と青の瞳が俺を射抜き続ける。
「別に。ただ、忘れてしまう前に、何か勘違いをしている莫迦の顔を、よく見ておこうと思って」
嘲るでもなく、責めるでもなく、その口は動き続ける。
「話は聞いたわ。あなた、その様子だと相当参っている様ね」
「……ふん、ほっとけ。だからどうだってんだよ。同情なんてしてもらいたくないね」
「同情なんてしないわよ、莫迦らしい」
「じゃあ、何の用があるんだよ」
「特に用なんてないわ。ただ、失望しただけ」
吐き捨てるように言われたその言葉が、俺の心に突き刺さる。
「私もあなたのサイトを見させてもらったけれど。まさか、あの程度の批評でもう音を上げてしまったの? 情けないわね」
あの程度、だと?
「……んだと、おい」
「あら、聞こえなかったのかしら。ならば何度でも言ってあげるわ。あの程度の小説しか書けないくせに、あれしきのの批評をされた位で腑抜けになってしまうなんて、情けないにも程があるって言ったのよ。所詮ワナビの分際で、プライドが高すぎるんじゃなくて?」
ぷつり。
どこかでそんな音が聞こえた。
「……分かるのかよ、お前に。俺のこの気持ちが」
手が、ふるふると震える。
「これしか無いって思ってたのに! 面白いと信じてたのに! 他に何もできないのに! それを全部否定された俺の気持ちが! お前に分かるのかよ!」
気が付けば、胸倉を掴む篠原の手を掴み返し、俺の手はゴスロリの黒い襟元を締めていた。
「小説を書く意外になんの取り柄もない俺が、それすら奪われて、何も言い返せないで、惨めで。そんな気持ちが、分かるのかよ……。もう、何も書けない。何も書きたくないんだよ。もう……、なにも…………」
涙混じりに叫び、最後には、嗚咽に混じった声が喉から漏れ、そして力が抜け、またへたり込んでしまう。
「……言いたいことはそれだけかしら?」
見上げると篠原は、乱れた襟を正しながらため息を吐いていた。
「あなたの気持ちなんて、私には分からないわね」
冷たく突き放すように言う。
「……だったら、もう放っといてくれよ」
「嫌よ」
「……なんでだよ。もう構わないでくれよ」
「だってあなた、それでも書くのを辞めていないでしょう?」
「……あ」
俺のすぐ背後を指差す篠原。そこには俺のノートPCが起動していて、たった今まで書いていた、新しい文章が開いたままになっている。
「それでもあなたは、もう小説を書かないなんて言えるのかしら? いいえ、違うでしょうね。あなたも私も、つまるところは同じ穴の狢なのよ。小説家とは、ワナビとは、そういう人種なのよ」
モニターに表示されているそれは、小説とは呼べるような代物ではなかった。今の俺の心情を、そのまま丸写しにしただけに過ぎない。小説家志望のうだつの上がらないワナビが、それでも小説を書き続ける物語。仲間とともに、小説を書き上げ、華々しくデビューする、そんな俺の妄想が。そうでありたいと願った、理想の俺が。
「結局のところ、あなたは物語を書くことを辞められない。物語を書かずにはいられない。小説家の性が、新しいお話を求め続けているのよ」
そうだ。それでも俺は、批評された現実から逃れるために、小説を書くことで気を紛らわし、自分に帳尻を合わせようとしていた。
「あまり話したくは無かったのだけれど、いい機会だから教えてあげるわ。私が小説を書けなくなった理由を」
それを俺は、黙って聞くしかなかった。
「私もあなたと同じ。あれはそう、中学一年の時だったわね。小説を書き始めて思い上がっていた私は、よせば良いのに、新人賞に入稿したのよ。……結果は散々。それでも諦めないで、二度目、三度目と応募を続けたわ。そして高校二年の時、編集から声が掛かったの。きっといい話に違いないって、喜んで出掛けて。そんな私を待っていたのは、編集者からの酷評の嵐。まずはプロットから、キャラクター、そして文章の隅々まで。これではだめだ、こうした方がいい、って。延々と半日はそんな話を聞かされたわ。それで、泣いて帰って。それっきりよ」
遠い眼で話す篠原は、その時のことを思い出しているのか、瞳が潤んでいた。だが、それでも声には力が宿っていた。
「その時の私は、今のあなたのようにふさぎ込んでいたわ。あんな言われようをするくらいなら、もう書かないほうがいい。もう何も書きたくない、って。それでも、私はあなたの小説を読んで、もう一度物語を書きたい、って思ったのよ。もう一度書ける気がする、って思ったのよ。あなたの小説は、そんな私に力をくれたの。ここであなたがだめになってしまったら、私の立場はどうなってしまうの?」
へたり込んだ俺の目線に合わせ、篠原が腰を落とし、真っ直ぐに俺の瞳を見つめる。
「お願い。書くのを辞めないで頂戴。あなたの小説を待っている人が、どこかにいるのでしょう? あなたの読者のためにも、あなた自身のためにも。そして小説の主人公達のためにも。あなたが書くのを辞めてしまったら、彼らはどうなってしまうの? 世に発表されない小説なんて、無いのも同じよ。彼らの物語を、無かったことにして良いの? いいえ、そんなことはないわ。彼らは、誰かに読んでもらうために生まれてきたのだから」
篠原の叫びは、最後にはほとんど懇願に近かった。
「どうしてだよ……。どうしてそこまでして、俺に構うんだよ。お前だって、俺の小説をボロクソに批判してたくせに」
「……莫迦じゃないのあなた。私は、面白くないと思ったものを最後まで読んだりしないわ。私はあなたの小説が面白いと思ったから、映画作りに参加したし、他の小説も全部読んだの。そしてもっと読みたいから、こうして頼んでるんじゃない」
そうだ。
一番大切なことを忘れていた。
当たり前の事じゃないか。
つまらない、という人ばかりじゃない。俺の小説を読んで、面白かったという人もいて、続きを待ち望んでる人もいて、もう一度小説を書きたいといった人もいるんだ。 批評されることを恐れても、何も始まらない。
それに、あれだけの批評をされたということは、つまりそれだけの人数が、俺の小説を読んでくれたということだ。
俺は、一人でも多くの人に、俺の小説を読んでもらいたかったんじゃなかったのか?
だから俺は、今まで書き続けてきたんじゃないのか。
批判されたって、別に気にすることじゃないんだ。出版されてる小説だって批評の対象になってるんだし、それを書いている作者だって、そこに至るまでたくさんの酷評を浴びてきてるんだ。
だったら、ここで立ち止まる必要なんて、どこにもない。
もう一度立ち上がって、歩き出せばいいんだ。
批評する人がいるなら、その人を唸らせる事のできる小説を書けばいいんだ。
もう二度と、つまらない、と言われない小説を書けばいいだけなんだ。
俺には何もない。
頭も良くなければ、腕力もない。
それでも俺は、俺には、筆を取る事ができる。
文章を書く事ができる。
物語を動かす事ができる。
知恵も力もなくても、俺はペンと原稿用紙で戦う事ができる。
盗作だと騒ぎ立て、批評していた連中を、見返して、降伏させて、そのまま俺の小説のファンにさせてしまうような小説を書いてしまえ!
「……分かったよ」
俺は立ち上がった。
力強く。
「もう一度、書いてみる。何度でも書いてやる。どんなにボロクソに言われようと、もう筆を置く事はしない。何度でも何度でも、面白い小説を書いてやる」
インクの切れたペンが、再び白紙を走るように。
止まっていた物語が、もう一度動き始めた。