19
小野寺の家からの帰り道も、家に帰ってからも、だめだった。
何も考えられない。
何も思いつかない。
頭ではちゃんと解ってはいた。
批判された事は言いがかりで、似ていた事も偶然の一致、それを理解している人の方が、圧倒的に多数だと。
きっとこの騒ぎも、しばらくすれば落ち着くはずだ。
実際に盗作なんてしていないし、その「まほろばの歌姫」というゲームも知らない。ありきたりな設定が、少し似ていただけなのだから。
それなのに。
頭では解っていても、心が解っていなかった。
ただただ、あの一文だけが、頭の中をぐるぐる、ぐるぐると渦巻いている。
放心状態、とでも言うのかな。
自分が一番よく解っていた事を、あえて名前も顔も知らない誰かに指摘された。
ただそれだけの事実が、俺の思考を完全に殺した。
怒りとも、焦燥とも、悲しみとも、憎しみとも違う、何か得体の知れない感情に囚われて、俺の頭は、何かを考える事を停止していた。
虚無感。
俺には、何の取り柄もないと思っていた。勉強ができるわけでも、スポーツに秀でたわけでもなかった。
それでも、小説を書くことだけは、人に自慢できると思っていた。
だから、それこそガキの頃から小説を書き、友達に読ませ、ネットにも公開し、こうやって今でも小説を書くこをと辞めずにいる。
自分の作品に納得が行かず、執筆を中断していた時期もあったけど、それでも俺の小説を面白い、と言ってくれる人がいて、その人のために俺は小説を書き続けてきた。
俺にとって小説を書くことは、俺という存在を認めてもらう手段だった。
それ以外に、何もないから。
俺に唯一、他の人より優れている事だったから。
もちろんプロの作家から比べれば、相当にひどい部類だろうけれど、それでも俺は、そう信じていた。
他に、何もないから。
俺の書いてる小説なんて、結局は自分の妄想でしかない。
何の取り柄もない俺でも、小説の中では、妄想の中では何でもできた。
サッカーで全国を目指すことも、パイロットになって大空を舞うことも、超能力や魔法を使うことや、世界を救うことだって。
囚われの姫君を救うために、巨悪と戦うことだってできた。
何もできない現実から逃避をするために、俺は妄想に生き、その妄想をキーボードに叩きつけ、文章として形に残し続けてきた。
登場人物一人一人に自己投影し、こんな自分でありたいと願いを込め、叶わぬ夢を叶えるために、俺は文字を打ち続けた。
そうでなければ、俺という人格が、なくなってしまうから。
何もない俺に残された、唯一のアイデンティティだったから。
故に。
全てを、それこそ俺という人間そのものを、否定された気分だった。
いや。実際に、そうだった。
他に何もできない俺に、たった一つだけ残された、自分の存在を世に示す唯一の手段を、絶たれた。
それだけで、もう死んだも同然だ。
存在を認められない人間は、死んだも同じ。
試しに、PCを立ち上げ、ワープロソフトを起動した。
キーボードに指を添えても、もう何も書けなかった。
ただの一文字も。
もう、何も書けなかった。
「ははっ」
ふいに、笑い声が漏れた。
それが自分の発した声だとは気付かずに。
「ははははっ」
どうして自分が笑っているのかも解らずに。
嘲笑だけが、自分を支配していた。
ゆっくりと、沈むように、溶けるように。
玄関のベルが鳴り、続いてドアが叩かれた。
あれ以来俺は、しばらくアパートの部屋に閉じこもっていた。一応仕事には行くが、けれどそれだけで、ただ自宅と会社を往復するだけの日々を送った。
家に帰っても何もせず、何も手につかずにただ虚空を見つめ、いつの間にか眠りに就き、そして朝になり会社に行くだけ。
何も考えないのが一番楽だ。
それでいいんだ。
そう自分に言い聞かせながら、全てを忘れてしまおう。
そう思っていたのだが。
「河野、いるんだろー?」
小野寺の能天気な声が、ドア越しに響く。
「今日は撮影の日でしょ? さっさと始めようよ。みんな来てるんだよ?」
到底、そんな気分になどなれない。
ここでまた映画作りを再開してしまえば、また俺のテリトリーが侵されてしまう。
嫌だ。
もう嫌だ。
これ以上、俺を殺さないでくれ。
そして俺は深呼吸をし、ドアを開け、少しだけ顔を出した。
「なんだ、いるんじゃん。心配したんだよ」
「悪い、みんな」
ドアの外には、よく見知った四つの顔があった。
「自分勝手だっていうのは分かってる」
小野寺裕一。
大垣強志。
村主綾音。
篠原紫。
「でも、もう疲れたんだ」
俺はこの大切な仲間に、ある種の別れを告げる。
「もう、止めにしよう」
そして俺はドアを閉め、鍵を掛ける。
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……………………これで、よかったんだ。
申し訳ない。俺の勝手で。
そう思いながら、ドアに背を向ける。
暗い部屋の真ん中まで行き、四人が立ち去る足音を待った。
しかし、いつまで経っても人の気配が消えない。
早く諦めて帰ってくれないかな。
そう思った矢先、いきなりドアがブチ破られた。