17
それから十数分してから、近所のスーパーの買い物袋を提げて、篠原紫が俺のアパートに戻ってきた。
そして特に何も言わずに、おもむろに台所に立ち、袋から出した食材をテーブルに並べ始めた。
「え、ちょっと、何のつもりだよ?」
「何って、料理よ。少し待ってて頂戴。コンビニの弁当なんて当てにしないで、少しは自炊する事を考えなさいな」
「え? ああ、はい、すんません」
「小道具にエプロンがあったわね。ちょっと貸して貰うわ」
完全に困惑している俺をよそに、篠原は、ゴスロリにエプロンという奇妙な格好で、調理に取り掛かった。
なんというか、非常に不思議な光景だ。
篠原が料理だ? 信じられん。
一体何を作るつもりなんだろう。
悪いが、俺には篠原が台所に立っている姿に、違和感しか覚えないね。
それからしばらくして、部屋には旨そうな匂いが漂っていた。
俺の目の前には、篠原が作った料理が並んでいる。
ご飯に味噌汁、肉じゃが、そして漬物。至って質素で、それでいてごく普通な晩飯だ。
正直、どんな食い物が出てくるかと内心ハラハラしていたのだけれど、どうやらちゃんと、「人間」の食べ物みたいだ。
篠原の口から「料理」という言葉が出た瞬間は、魔女が怪しげな鍋をかき混ぜてる光景が脳裏を過ぎったんだが。
不思議そうな顔でちゃぶ台に並んだ皿を眺める俺を、これまた不思議そうな顔で篠原が眺めている。
「……食べないの?」
「え、あー、いただきます」
と言い、箸を取ったのだが、よく見れば料理は全て、一人分だ。
「俺の分だけ? どうせ作るんだったら、お前も自分の分作って、食って行きゃいいのに」
「いいでしょ、別に。私には私の都合があるのよ。そこまで暇じゃないわ」
「ああそう、じゃあ遠慮なく。いただきます」
改めて箸を取りなおし、おっかなびっくりと肉じゃがを口に運ぶ。
あれ?
……普通に旨い。
「おお、旨い。すげーな、篠原」
「当然でしょう? 人間に偽装して生きていくには、この程度のスキルが無くてどうするの?」
「いや、それにしたって旨いよ。普段から料理とかしてるの?」
「……ふん、別に」
鼻を鳴らして篠原は、そっぽを向いて台所に行ってしまった。
なんというか、ものすごく家庭的で、いかにもおふくろの味、って感じだ。
意外すぎる。
篠原が料理をするってだけでも意外なのに、まさかの和食で、しかも旨いなんて。
俺はてっきり、もっと奇抜で、人類にはまだ早すぎるような飯が出てくると思ってたのに。
まさかこんな、安心して食べられるような料理作るなんてさ。
俺の中で、篠原のキャラが崩壊しちまうね。いい意味で。まさかこんな家庭的な奴だとは思いもしなかった。
ああ、これがギャップ萌えってやつで、ツンデレって事なんだな。
台所で後片付けをしていた篠原の後姿を眺めながら、そんな事をぼんやりと考えていたら、ひゅっ、と何かが空を切って、俺の頬をかすめた。
恐る恐る振り返ると、真後ろの壁に小ぶりの文化包丁が、見事に突き刺さっていた。
「……今、背後で何か邪悪な気配がしたのだけれど?」
「…………気のせいじゃないっスかね」
「そう。ならいいわ」
そう言って作業に戻った篠原の手には、より殺傷能力の高い、出刃包丁が鈍く輝いていた。
おいおい、そんな鋭利な刃物を装備して、一体何をする気だったんだ?
ゴスロリに刃物。この組み合わせがここまで似合う女を、俺は他に知らない。
どうやら俺の中の篠原像は、崩れずにすみそうだ。
「いやー、旨かったよ。助かった」
「まったく、今日は特別ですからね。明日からはちゃんと、自分で料理なさい」
意外なほどに美味だった篠原の手料理を堪能した俺は、茶の一杯でも入れようかと思っていたのだが、けれど篠原は、さっさと帰り支度を始めていた。
「ちょっと待てよ。茶でも入れるからさ」
「言ったでしょう? 私も暇じゃないのよ」
その割には、ここに至るまで随分とゆっくりしていたような気がする。後片付けもとっくに終わっていたのに、俺が食べ終わるのを待っていたようだ。
「さてと。それじゃあ、もう帰るわ」
それだけ告げて、篠原は玄関を出て行ってしまった。そこで俺は急に思い出して、篠原を追いかける。
「お前、何か言いたい事があって来たんじゃなかったのか?」
ちょうど篠原は、アパートの外階段を中ほどまで下りたところだった。
「ああ、あれね。……別に大した事ではないのだけれど」
ゆっくりと、ゴスロリが振り返る。
「改めて、ちゃんと書いて欲しいのよ。『アパートから始めよう』を。今はまだ、映画の台本としてしか書いていないでしょう? だからもう一度、ちゃんとした小説として。あなたの今の、本気で書いて頂戴」
「……それを言いに、わざわざ戻ってきたのか?」
「ええ。そうね、さっきの食事の報酬として要求するわ」
そう言われてしまうと、断りようがなくなってしまう。
「昨夜も言ったけれど、私も……、もう一度書いてみるわ。あなた如きの小説とは、比べ物にならない様な小説を。ふふ、勝負よ」
篠原はそれだけ言うと面食らっている俺をよそに、くすくすと笑いながら夜の闇へと消えていった。
天使のような、それでいて悪魔のような笑みだけを残して。
「……言いたいことだけ言って、行っちまったよ」
とりあえず、誰にともなくつぶやいた。
無茶言いやがるぜ。
あの超駄作『アパートから始めよう』を、ちゃんとした小説にしろだ?
そいつは難しい相談だぜ。
そう思いながらも、どうして俺はノートPCを立ち上げて、その超駄作のデータを開いているんだろうね。