15
ふと、目が覚める。
時計を見ると、明け方の四時少し前だった。
どうやら全員、潰れるまで飲み明かしたらしい。
見れば誰もが、ひどい有様で眠っていた。小野寺は一升瓶を抱えたまま、床に大の字に寝ていて、大垣はトイレで、便器に頭を突っ込んだままいびきをかいていた。もちろん人の事なんて言えなくて、俺も目が覚めたら押入れの中だった。
半分開いたふすまの奥で、村主だけが隣の部屋の隅で、毛布に包まって三角座りの体勢で寝息を立てているのが見えた。
やれやれ、と頭をぼりぼり掻きながら、水を飲もうと台所まで移動する。蛇口をひねり、頭から冷水を浴びる。
これだけ悪酔いしたのも久しぶりだ。考えてみれば、こうやって気心の知れた仲間内で飲むのも、久しぶりだった。
と、ここで、三人分の寝息の中で、PCのシーク音が聞こえることに気が付いた。
村主が寝ている隣の部屋から、薄明かりが漏れている。
そっとふすまの陰から覗いて見ると、俺のノートPCに向かっている、篠原紫の後姿が目に入った。
何やってんだ、あいつ。そう思って目を凝らす。モニターがちょうどこちらを向いていたので、そこに表示されているものがよく見えた。
「……って、お前何やってんだよ!?」
「あっ……」
俺は全速力でノートPCをふんだくり、胸に抱えた。
なぜならモニターには、俺の過去の遺物であり、墓場まで持って行くつもりだった『黒歴史』フォルダの中身が、包み隠さず表示されていたからだ。
「かっ、かかか、勝手に人のパソコン見てんじゃねーよ!?」
「あら? いいじゃない少しくらい。友達の家に行って、ガサ入れをする。当然じゃないの」
「何がガサ入れだよ! プライバシーの侵害だ!」
「プライバシー? フッ、安心なさいな。あなたの心の闇は、この私が全て、覗かせて貰ったわ」
不敵な笑みを口元に浮かべながら、篠原は言う。
ちくしょう。誰にも見せるつもりなんてなかったのに。特に、この『黒歴史』フォルダの中には、俺が小中学生のときに書き溜めた、本当に本当に恥ずかしい、厨二全開の妄想小説が大量に保存してあったのだ。
小野寺あたりに見られただけでも自殺を検討するレベルの代物なのに、それをよりにもよって篠原に見られるなんて。
もう手遅れとは解っていても、無意識に画面を胸元で隠す俺。
「……読んだ、のか?」
「ええ、読ませていただいたわ。せっかくの機会ですからね。一言一句、隅から隅まで。更新日時順に、古いものから順番に、残らず全て」
うわああああああああああああっっっ!!!
顔が紅潮しているのは、酒気のせいだけではない。
これを見られるくらいなら、秘蔵のエロ画像フォルダを覗かれる方がよっぽどマシだ!
今この場で舌を噛み切って死んでしまおうかと考えていると、篠原はただ、口元に薄ら笑いを浮かべたまま、哀れむような、蔑んでいるような、それでいて懐かしんでいるような、そんな眼で、俺を見ていた。
その表情を見て、俺はバカにされてるんだ、って思ったね。だから俺はいつの間にか、半ば自暴自棄に叫んでいた。
「ハ、笑いたきゃ笑えよ、クソっ。どうせ俺はワナビですよ。小説家かぶれの痛い奴さ。デビューする気が無いって言っても、これだけ書き溜めてたら、言い訳にしか聞こえないだろうな! でもいいじゃねえか。所詮は自己満足なんだから。ほっといてくれよ、もう」
それだけ言って、俺は力なく俯いた。
「そうね、笑っちゃうわね」
しかし言った篠原本人は、全然笑ってなどいなかった。
むしろそう、遠い眼をしていた。
「あなたが一番最初に書いたの、ちょうど十年前ね。私もそう。あなた、私と同じ頃から書き始めたのね」
「……だから、何だよ」
「私も初めの頃は、まだ普通の小説を書いていたわ。普通といっても、児童文学の真似事をした、それはもうひどいお話だった。それがちょうど、中学二年の時。あなたたちの学校に転校してから、作風も大きく変わったわ。あなたの黒歴史と同じような、痛々しいようなお話ばかりを書いていた。天使やら、魔術やら、やたらと設定に凝り固まって、もちろん主人公には自己投影して。それでも、そんなお話が面白いと信じて、書き続けていたわ」
篠原は、自分と同じ時期に作家への道を歩み始めた俺の小説を読みながら、過去の自分を省みていたんだ。思い出に浸りながら。それを嘲ながら。
「こうやって、真夜中に一人で起きていると、ふいに昔の事を思い出してしまうのよね」
「……つまるところ、お前と俺は、同じ穴の狢、って訳か」
「いいえ。全然違うわね」
そっけなく答えた篠原は、より一層の嘲笑を浮かべていた。おそらくは、自分自身への嘲笑だ。
「あなた、過去の作品をわざわざ別フォルダに保存してた理由、恥ずかしかったからでしょう?」
図星だった。とても他人になんて見せられないから、こうして隠していたんだ。
「その気持ち、良く解るわ。私もそうだった。……けれどあなたは、こうして今も、書き続けているのでしょう?」
「あなたは、って、……篠原は、書くの止めちまったのか?」
篠原は、静かに頷いた。
「私もそう。急に、ふと冷静になって。恥ずかしくなって。それっきり、もう筆が進まなくなった。何も書けなくなったのよ」
「そっか……」
何も言えなかった。なぜなら、そこで止まってしまった篠原の気持ちが、痛いほどによく解ったからだ。
自分には才能なんて無いと実感したあの日。俺にも篠原と同じように、あの場所で立ち止まる、という選択肢があったからだ。
実際、俺も一時期、執筆を中断していた時期があった。それはほんの一年くらいの間だったけれど、それでも、俺は歩くのを止めていた。
その間は、何も書く気が起きず、それどころかワープロソフトを立ち上げる事すらためらっていた。
それでも、ある日突然、無性に書きたくなった。書きたくて書きたくて、どうしようもなくなった。衝動に駆られ、見えない力に支配されるままに、キーボードを叩いていた。出来上がった作品は、もちろん今までと代わり映えのしない、邪気眼小説だったけれど、それでも、満足だった。
それから俺は、今日まで書き続けてきた。だから。
「でもね。……あなたの小説を読んだら、もう一度、また書けそうな気がしてきたわ」
もし、俺と同じように立ち止まってしまった小説家志望者を、もう一度奮い立たせる事ができたのなら。
「ありがとう。いい刺激になったわ」
俺はワナビをやってきてよかった。そう思えた。
「お、おいっ……」
何かを言おうとして、俺は篠原を呼び止めようとしたが、けれど篠原はそのままふすまを閉めてしまった。
「今夜は遅いから、もう寝るわ。この扉を少しでも開けたら……、解ってるわよね?」
そんな脅迫めいた言葉とともに、俺は部屋から閉め出されてしまった。
あんな痛々しい駄文の集合体でも、誰かの心の中に、納まるように収まってくれれば。あの文章にも、生まれてきた意味があったんじゃないか。そう思った。消さずに保存しておいてよかった。そう思える日が、来たのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は酒瓶に残った日本酒を、一人で一気に飲み干した。