『影』
離婚して、三年が過ぎた。
元夫は、もう別の女性と再婚している。
風の噂で聞いた話では、新しい妻とは夫婦仲がよく、休日には二人で出かけ、笑い声の絶えない家庭を築いているらしい。
「幸せそうよ」
そう聞かされたとき、私は笑って答えた。
「それなら、よかった」
本当に、そう思えたらよかった。
けれど夜になると、決まって思い出してしまう。
まだ夫婦だった頃のことを。
朝、眠そうな顔でコーヒーを飲んでいたこと。
仕事から帰ってきて、
玄関で「ただいま」と言った声。
何気なくテレビを見ながら笑った横顔。
そして――あの女の存在。
夫が私ではない誰かに心を奪われていたことを知った日から、私の時間は止まっていた。
浮気。
私が夫に捨てられた。
正確には、浮気前から夫の心は私からとっくに離れていた。
だから離婚した。
頭では、何度も言い聞かせた。
「あんな男、忘れればいい」
友人にも同じように言われていた。
私自身も、そう思っていた。
離婚した直後、髪を切った。
新しい服を買った。
新しい仕事も始めた。
そして、少しずつ笑えるようになった。
新しい恋人もできた。
優しい人だった。
私を裏切らない。
私を大切にしてくれる。
それなのに。
ふとした瞬間に、元夫を思い出す。
彼が好きだった音楽。
彼が使っていた香水。
昔二人で行った店。
街角で似た背中を見つけるだけで、心臓が跳ねる。
もう私の人生には関係のない人なのに。
ある日、偶然、今の元夫の写真を見た。
新しい妻と並んで笑っていた。
そこに写っていた彼は、私が知っている彼だった。
でも、私の知らない笑顔だった。
幸せそう。
その写真を見ながら、私はしばらく動けなかった。
悔しい。
悲しい。
寂しい。
そして、一番苦しかったのは――
「私といた頃より、夫は幸せそう」
そう思ってしまったことだった。
私は、彼に捨てられた。
なのに彼は、私を置いていった場所から先へ進み、別の誰かと幸せになっている。
離婚したことで私は自由になったはず…なのに。
彼はもう私を見てもいない。
新しい妻だけを見ている。
新しい家族を見ている。
新しい人生を幸せそうに生きている。
それなのに私は、まだ彼の背中を見つめている。
ある夜、鏡の中の自分に問いかけてみた。
「いつまで、あの人を見続けるの?」
答えは返ってこなかった。
けれど、気づいた。
私は元夫を今も愛しているのではなく、
元夫に愛されていた頃の自分を、彼を愛していた自分を、まだ失いたくないのかもしれない。
あの人の妻だった。
誰かに必要とされていた。
一緒に笑っていた。
それを全部、離婚と一緒に置いてきたつもりでいた。
でも本当は、何も置いてはこれなかった。
だから私は、元夫の影から出られないのだろう。
翌朝。
カーテンを開けると、眩しいほどの光が部屋に入ってきた。
私はiPhoneを手に取った。
元夫の名前を検索しかけて――やめた。
画面を閉じた。
そして、窓を開けた。
冷たい風が頬に触れた。
元夫がどこで誰と暮らしていても、もう私の人生ではない。
そう思える日は、まだ来ない。
それでも。
今日だけは、彼のいる場所ではなく、自分のいる場所を見てみようと思う。
影は、光の反対側にしかできない。
それならば、いつか。
私が自分の光を見つけたときに。
この長い影も、きっと少しずつ短くなる。
元夫のいない未来を想像してみた。
そこにはまだ、何もなかった。
でも――
何もないということは、
これから見つける新しい何かを、直ぐに始められるということだ。




