魔物を倒さない魔術師が、白い霧に包まれた峠でタロットカードの《愚者》と《隠者》に出会った
この話は、『響律の魔術師レンとセナの旅ー短編 ちゃんとしていたい私が、山道で転んだ~魔物の声を聴く魔術師は恥ずかしさの奥に隠された自分の声と出会う』の続編です。
【グレートアルカナ峠の白い霧】
レンとセナは、グレートアルカナ峠と呼ばれる高い峰を目指していた。
そこは、そこは、旅人が「自分の中に眠る響きと出会う」と言われる場所だった。
徐々に空気がひんやりと湿り気を帯び始め、霧が深くなってきた。
「そろそろ峠に近づいてきたな。」
レンはやや荒い息をしながら、後ろからついてくるセナに声をかけた。
「峠が近いから、霧が深くなってきたの?」
「そうだ。もうしばらくしたら、お互いの姿が見えなくなるかもしれない。」
「えっ!」
「これからもし何かあったら、さっき転んだときのことを思い出せ。」
「どういうこと?」
レンの姿が、白い霧の向こうへ消える。
「先生!」
返事はない。
セナは慌てて走ろうとする。
そのとき、レンの言葉を思い出す。
『何かあったら、さっき転んだときのことを思い出せ』
セナは立ち止まる。
「転んだとき……?」
【セナと《愚者》】
白い霧の中から、笑い声が聞こえる。
現れたのは、ぼろぼろの旅装を着た少年。靴は片方だけ。荷物は空っぽ。それなのに、楽しそうに笑っている。
「お前、また転んだのか?」
セナはむっとする。
「まだ転んでない。」
「じゃあ、これから転ぶな。」
「あなた、誰?」
「俺か? 《愚者》だ」
少年は白い霧の中を崖の縁へ歩いていく。
セナは叫ぶ。
「危ないよ! 前が見えないよ!」
愚者は振り返る。
「見えないから歩くんだ。」
セナは眉をひそめる。
「意味が分からない。」
「見えてから歩くなら、誰でも歩ける。」
愚者は笑う。
「俺は、転ぶかもしれない。でも、転んだらまた立ち上がればいい。」
霧が愚者の周りに渦を巻く。
「お前は一度も転ばずに生きるのか?」
セナは答えられない。
愚者は地面に座り、笑った。
「転ぶのが怖いなら、歩かなければいい」
「……。」
「失敗が恥ずかしいなら、何もしなければいい」
セナは、さっきのことを思い出す。
転んだ。恥ずかしかった。
先生に弱いと思われたくなかった。でも、レンは自分を軽率だとは言わなかった。
セナは愚者に尋ねる。
「転んでも、恥ずかしくないの?」
愚者は首をかしげる。
「恥ずかしいぞ。」
「え?」
「恥ずかしいけど、歩く。」
セナはしばらく考えた。
「私は、恥ずかしくない人になりたいんじゃない。」
「じゃあ、何になりたい?」
「恥ずかしくても、自分で歩く人になりたい。」
すると、愚者の手元に一枚のカードが現れる。カードには、崖の前で空を見上げる旅人が描かれている。
「先が見えなくても、一歩を選べ」
愚者は笑った。
「やっと峠に来たな。」
セナがカードに触れると、霧の向こうに『グレートアルカナ峠 最高地点』と書かれた石柱が現れた。
【レンと《隠者》】
一方、レンは別の霧の中を歩いていた。
どれだけ進んでも、同じ岩へ戻ってくる。
その岩陰には杖を持った老人が座り、小さな灯火を守っている。
「《隠者》か。」
レンは尋ねた。
「ここで何をしている?」
「待っている。」
「誰を?」
「私自身を。」
老人は灯火を掲げる。
「お前は、いつも他人の声を聴いている。」
「それが響律師です。」
「では、お前の声は、誰が聴く?」
レンは答えられない。
「人の声を聴く者が、自分の声を聴かなければ、何を導く?」
レンは音叉を見つめる。白い霧が深くなる。
「お前は、誰かを導く時、自分が迷っていることを許しているか?」
「……。」
「答えを知らないまま、人の前に立てるか?」
レンは長い間黙った後、つぶやいた。
「師匠はいつも答えを知っていた。」
隠者は静かに笑った。
「お前は師匠のもとを離れた」
「……ああ」
「それでも、まだ師匠のようになろうとしている」
レンは目を伏せる。
「優れた響律師とは何か。正しい導きとは何か。お前は、まだ誰かの答えを探している」
「では、私はどうすればいい?」
「分からない。」
「分からない?」
レンは驚く。
「それが、私の答えだ。」
隠者は灯火を差し出した。
「一人でいることは、答えを見つけるためだけではない。自分が、まだ分からない者であることを許すためでもある。」
レンは灯火を見る。
「私は、分からないままでも、響律師でいていいのか。」
老人の姿が霧へ溶けていく。最後に声だけが残る。
「答えを持つ者が導くのではない。共に問い続ける者が、道を照らす」
霧が徐々に薄くなり、古い石柱のそばにセナが立っているのが見えた。
【グレートアルカナ峠の古い石柱】
「セナ。」
レンが呼びかけるとセナが振り向いた。
「先生!」
セナは、心持ち吹っ切れた顔をしている。
レンは、いつもより静かな顔をしている。
お互い、何かがあったと感じながら、沈黙が流れた。
「先生」
「なんだ」
「私、また転ぶかもしれない」
「そうだろうな」
「でも、歩くよ」
「そうか。」
レンも空を見上げる。
「分からないままでも聴いていい。いや、分からないからこそ、聴ける。」
「え?」
「ちゃんとしていなくていい、ということだ。」
二人の足元で、霧がゆっくり谷へ流れていく。
そして峠の石柱に、今までなかった文字が浮かび上がる。
『答えを得た者がここを越えるのではない。』
『分からぬまま歩く者と、転んでも歩く者が、共に峠を越える。』
【おまけ】
二人は、峠の道を下り始めた。
ズルッ。
「うわっ――」
今度は、レンの足が濡れた苔を踏んだ。
身体が大きく傾く。
ドサッ。
レンは、見事に尻もちをついた。
あたりが静かになった。
風だけが、木の葉を揺らしている。
やがてセナが尋ねた。
「……先生。」
「なんだ。」
「痛い?」
「痛くない。」
「……見られたくない?」
レンは少し黙り、上半身を起こした。
「忘れてくれ。」
セナは目を丸くした。
「先生?恥ずかしいんじゃない?」
「まあまあ、恥ずかしい。」
セナが近くにしゃがみこみ、小さく笑う。
「先生も転ぶんだね。」
「人間だからな。」
「先生も『ちゃんとしてると思われたい』の?」
レンは腰の音叉を取り出した。
「鳴らしてみる?」
レンは音叉をセナへ渡した。
「さっきと同じだ。恥ずかしさは、何かを守っている。」
セナは音叉を受け取り、少し迷ってから、軽く鳴らす。
キィン――。
澄んだ音が森へ広がった。
セナは目を閉じた。
最初に聞こえたのは、小さな声だった。
『弟子の前で転んだ。』
『頼れる先生でいたい。』
『まだ未熟だと思われたくない。』
セナは目を開いた。
「先生も、ちゃんとしてる人だと思われたいんだね。」
「それは、そうだ。」
「私に?」
「みんなに。」
セナは驚いた。
いつも落ち着いていて、何でも知っているレン。
そんなレンにも、「頼れる先生だと思われたい」という声があった。
「でも。」
レンは続けた。
「今は、転んだ。」
「うん。」
「だから、転んだ私も、ここにいる。」
レンは立ち上がり、服についた泥と苔を払い落とした。
少し歩いてから、セナが嬉しそうに言った。
「先生、さっきのこと、忘れないね。」
「なぜ?」
「先生も転ぶって分かったから。」
レンは少し笑った。
「それが嬉しいのか。」
「うん。ちょっと安心した。」
峠の下り道を、二人はゆっくり下り始めた。
今度は、どちらも足元をしっかり見ながら一歩一歩慎重に・・・。




