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第三章 錯綜

管の地下に設けられた一室。その壁には、色紙を切り抜いて作った「歓迎」の文字が、透明なテープで雑に貼り付けられていた。


卓上には簡素ながらも食器や菓子が並べられている。ツクモなりに精一杯に歓迎会の準備をしていたのだろう。


――しかし、そんな彼女の努力も虚しく、その場の空気は氷点下へと下がりつつあった。


三人は円形のテーブルを取り囲むようにして座っている。


ヤモリは、肩から足首までを太い紐で何重にも巻かれ、椅子に固定されていた。


ミサキはどこから持ってきたのか長細い棒でヤモリのほっぺだをこれでもかと突いていた。


ツクモは金属の指先をいじりながら、気まずそうに二人を交互に見ていた。


沈黙を破ったのは、拘束されたままのヤモリだった。


「……先ほどから申し上げている通りです。あの怪奇にこれ以上固執するのは、合理的ではありません」


ミサキは頬を突く手をピタッと止めた。

そして──先ほどよりもさらに勢いをつけて、深く突く。


「……」


「……続きをどうぞ?」


ミサキが冷ややかに促すと、ヤモリは屈辱に頬を震わせながら呟いた。


「……ど、う、も」


咳払いを一つ。


「賢者は沈みゆく泥舟を共にはしない。尽きた幸運に見切りをつけ、即座にプランBへ移行すべきだと言っているのですよ。良いですか、私は貴女の自殺行為に付き合う気はないのです」

 

「君にとってはそう見えてるわけだ。でも、ボクたちは『アンサー』を確保しに来たはずだ。それを君個人の判断一つで諦めて逃げ帰るのかい?」


「……貴女、何様ですか? 自分が誰のおかげでここに立っていられると?……少しは遠慮というものを覚えたらどうなんです?」


「おあいにく様、殺されかけたら遠慮も何もなくなるさ」


ミサキが椅子から立ち上がりかけ、脚が床を鳴らした。

ヤモリも拘束されたまま背筋を伸ばした。

二人の間に火花が走ったその時、ツクモが慌てて割って入った。


「はいはい! そこまで、そこまででありますよ!」


ツクモが金属の指をカチカチと鳴らし、ミサキの肩をなだめるように叩く。


「二人とも、せっかくの歓迎ムードが台無しなのであります。喧嘩をするなら、外でやるのです、ここは食事をする場なのですよ」


「……」


ミサキは無言で再び椅子に深く腰を下ろした。視線は相変わらずヤモリを射抜いたままだ。


「それにヤモリだってアンサーの力が必要だと思ったのでありましょう。それを急に方針転換して、ここからどうにかなるビジョンがあるのでありますか?」


ツクモの問いに、ヤモリは苛立ちを隠すように一度目を閉じ、それから鷹揚に頷いた。


「十分に。私には百回やって百回合格する能力がありますから」


「ふ~ん。……それなら、ツクモの協力も必要ないですな!」


ツクモが、ぷいと露骨に顔を背けた。


「なっ……!」


 ヤモリ。めちゃめちゃツクモに頼るつもりだったのでそれは困る。


「おやぁ?」


 ツクモはここぞとばかりに、わざとらしく首を傾げた。


「もしかして、ツクモのサポート無しでは成立すらしない、お粗末な策なのでありますか。そんなわけありませんよねぇ。だって百回やって百回合格する自信がまさか他人だよりな訳ないでありますよなぁ?」


「…………ッ」


拒ミサキとツクモ、二人の視線が自分を追い詰めている現状を、彼は沈黙の中で分析し始める。

やがて、絞り出すように告げた。


「………………………………分かりました。認めましょう」


「何を?」


 ミサキがすかさず聞く。


 ヤモリの眉がぴくりと動いた。


「……今後、アンサーの確保と言う目的を優先。少なくとも、即時撤退という判断は保留します」


「それと?」


「……貴女を勝手に処分しようとした件については、判断が早計でした」


「それだけ?」


「まだ何かあるんですか」


「あるだろう?」


 ミサキはにこにこと笑った。


 ヤモリはしばらく黙っていたが、ツクモがじっと見ていることに気づき、最終的に視線を逸らした。


「……悪かったですよ」


「うむ。よろしい」


 ミサキは満足げに頷いた。


 怪奇として、謝罪を引きずり出すのはなかなか悪くない気分だった。悲鳴ほどではないが、屈辱を含んだ謝罪にも独特の味わいがある。


「だから、まずはこの忌々しい紐をいい加減解いてください」


ツクモは「よろしい」と短く頷くと、金属の指先をカチカチと器用に動かし、その拘束を解き始めた。


縄目が一つ、また一つと床に落ちていく。


自由を取り戻していくヤモリを眺めながら、ミサキはふと問いかけた。


「……どうしてボクを援護してくれたの?」


ミサキがそう問いかけると、ヤモリの拘束を解いていたツクモの手が止まった。


 金属の指先が、ほどきかけの縄の上で小さく鳴る。ツクモは少しだけ不思議そうに瞬きをし、それから、当然の話をするように胸を張った。


「何故って、そりゃあ――上層へ行きたいと願う人が居るなら、ツクモとしては十全にサポートするのであります。それが自分の役目ですからな!」




そしてツクモは、部屋を彩る、自分なりの「最高の歓迎」を満足げに見回した。色鮮やかなリボン、手書きの看板、そしてささやかなお祝いの品々。


「それに、折角これだけ明るく飾り付けたのです。一度も使わずに、埃を被って無駄にするのは、ツクモの性に合わないのであります!」


ふんと鼻を鳴らして笑う彼女の明るさに、ミサキは毒気を抜かれたように、わずかに口角を緩めた。


 

 三人でケーキを食べ終えた後。


 ツクモは皿を洗いに離れ、ミサキとヤモリが残される。気まずい。


「何さ」


先に口を開いたのはミサキだった。


 ヤモリはほどかれたばかりの手首をさすりながら、わずかに目を細める。


「怪人アンサーの挙動について聞きたくはないので?」


急に何だ、という顔をミサキがする。


「ただの情報共有ですよ」


「私が調べた限り、アンサーには二通りの挙動が見られました。一つ目は、本来の怪人アンサーとしての動きです。電話が掛かり、相手がそれに出る。問いを投げられ、答えられなかった者は、どこかへ連れ去られる」


「どこか……」


「神隠しのようなものですね。私の知る限り、強力な怪奇に連れ去られて無事に戻ってきた例はありません。ほとんど即死と同義だと思っておくべきでしょう」


 ヤモリの説明は淡々としていた。


 電話に出る。問いを受ける。答えられなければ消える。怪人アンサーという怪奇の骨格は、そこにある。理不尽ではあるが、理屈は通っている。少なくとも、怪奇としての筋は一本通っていた。


「しかし問題は、二つ目の挙動……貴女も見たあの動き」


 ヤモリの声が、わずかに低くなる。


「今回、アンサーは着信を無視されたにもかかわらず、そのまま終わりませんでした。電話に出ていない相手を見逃さず、その場に顕現し、襲撃を開始した」


「つまりあれは本来は取りえない動きだったってこと?」


「ええ。貴女の腕を調べた時、私は本来の怪人アンサーの在り方を知った。その私だから言える。本来、あんな動きをする怪奇ではない。にもかかわらず、あれは何よりも優先して実行されているように見えました。まず顕現し、まず襲撃し、まず恐怖を撒き散らす。そのように組み替えられている」


 ミサキは眉をひそめた。


 誰かが、アンサーに命令を追加した。


 その言葉だけで、胸の奥にざらついた不快感が広がる。



「おそらくは恐怖の拡散を目的としているのでしょう。着信を無視した者の前に現れ、逃げ場を潰し、八つ裂きにすることで、怪人アンサーという存在への恐怖を広げる。怪奇は噂と恐怖によって強くなる。ならば、アンサーを所有している何者かが、その性質を利用してアンサーそのものを強化しようとしていても不思議ではありません」


「……そんな簡単に弄れるものなの」


「無理ですよ。普通は」


 ヤモリは即答した。


「何が無理かと言えば、相手はこれで不可避に近い怪奇を作り上げていることになる。電話に出れば、本来の挙動によって問いに捕まり、答えられなければ連れ去られる。電話に出なければ、追加された挙動によってアンサーが顕現し、襲ってくる。つまり、出ても駄目、出なくても駄目という構造です」


 ヤモリの声は冷静だったが、その冷静さの奥に、明らかな警戒があった。


「普通、そこまで無敵に近い怪奇は作れません。怪奇の性質を弄りすぎれば、核が歪む。発動条件を増やしすぎれば、輪郭が崩れる。恐怖の構造を間違えれば、噂として成立しなくなる。ところが相手は、怪人アンサー本来の性質を残したまま、着信無視への制裁を追加し、さらに恐怖の拡散を優先事項として組み込んでいる」


「逃げ場のない怪奇……」


「どんな知識と技術があれば、こんなことができるのか。少なくとも相手は、怪奇というものに関して、この私よりも深く精通している可能性がありますね」


「それよりも貴女、さっさとアンサーの力を引き出せるようになりなさい」


急に話題が変わる。


「はぁ? ボクの活躍を見てなかった訳?」


「あの程度で活躍? 貴女は誇張表現の職人でも目指しているので?」


「目指すなら縄職人の方が楽しそうだ。口の減らない野郎を縛れる」


 ミサキはむっとして右腕を持ち上げた。


 言われっぱなしは気に入らない。アンサーの力を引き出せというのなら、引き出してやろうではないか。自分は怪奇であり、こっくりさんであり、ついさっきアンサーの力を使って危機を切り抜けたばかりなのだ。


そう思って、右手に意識を集中させた。


 次の瞬間、胃の奥がぐにゃりと裏返る。


「おええええええ!!」


吐き気!


ヤモリはフードの奥の瞳を細め、淡々と分析を口にする。


「今になって急に拒絶反応が起きた理由。それはおそらく、貴女のアンサーへの『理解』が深まり、より強力な出力を引き出せるようになってしまったからだ。器に対して、中身が急速に強大化しすぎたのですよ。貴女、たいした怪奇ではありませんし」


「おええええええ!」


「なに、じっくりとこの問題に取り組んでいただきたい。貴方が抱えた問題を、ね。私はその間、独自に調査を進めますから」


「おえっ! おえっ! おええええええ!!!!」


そう締めくくり、ヤモリは去っていった


「ビニール! ビニール!」


ばたばたと金属の足音が近づいてくる。


 ミサキは机に額を押しつけたまま、心の底から思った。


 歓迎会の後味としては、最悪に近い。


 ケーキの味はもう、どこにも残っていなかった。


 


 下層の空は、今日も低かった。


 頭上を覆う上層の底面は、端の見えない巨大な鉄の天井であり、そこから落ちてくる黒い結露と錆の粉は、下層に住む者たちにとって今さら気に留めるほどのものでもない。ミサキにとっても、それは生まれた時から続いている見慣れた景色だった。


 その日、彼女がいたのは、そんな下層よりさらに深い管の最下層だった。


「出力を落とさないでください! 右腕そのものを見ようとするのではなく、内側にある輪郭を捉えるのであります!」


 ツクモの鋭い声が、湿ったコンクリートの修練場へ反響する。


 ミサキの右腕は、肘から先が漆黒のノイズに覆われていた。霧のような黒の中から、無機質な部品や、生物とも機械ともつかない構造物が浮かんでは消えている。


 腕の形を保つだけで精いっぱいだった。


 黒い携帯電話を作ろうとすれば爪が伸び、爪を作ろうとすれば指が溶ける。力を弱めればすべて消え、強めれば今度は右腕から肩口へ侵食が広がってくる。


「あと十秒であります!」


「まだ十秒もあるのか……!」


 右腕から伝わってくるのは、単なる痛みではない。


 身体の一部が、自分ではない何かへ書き換えられていく感覚だった。自分の腕だったという記憶まで塗り潰され、最初からアンサーの一部だったのではないかという考えが、他人の声のように頭の中へ滑り込んでくる。


 右目の視界が乱れた。


 修練場ではない暗い場所が、一瞬だけ重なる。どこかで鳴り続ける無数の着信音。その向こうから、誰かがミサキの名前を呼んだ。


「……っ!」


 意識が揺らぎ、右腕の出力が跳ね上がる。


 壁に設置されていた古いモニターが一斉に砂嵐へ変わり、そのうちの一台が火花を散らして沈黙した。


 ミサキは力を止めようとした。だが、自分の名前が出てこない。


 自分は何者だったか。何のためにここにいるのか。その答えが、指の隙間から零れる水のように失われていく。


「そこまでであります!」


 ツクモがミサキの肩を掴み、強制的に接続を切った。


 黒いノイズが弾けるように消え、ミサキは支えを失って床へ倒れ込んだ。冷たいコンクリートへ頬を押し当てたまま、荒い呼吸を繰り返す。


 右腕は元の形へ戻っていたが、指先の感覚がない。


「……四秒」


 ミサキは息を整えながら呟いた。


「昨日より一秒伸びたのであります」


「たった一秒でしかない」


ミサキは力なく床に倒れ込み、冷たいコンクリートに頬を押し当てた。


「また、失敗だ」


力を引き出そうとすると、途端にこれだ。


「今の僕はナーバスだよ。ナーバス」


「み、ミサキ様」


「こうして打ち上げられた魚みたいに跳ねるぐらいしかできな弱小怪奇なのさ」


「ほらっ頑張るのですよっ!!」


うつ伏せに倒れて魚の真似をし始めたミサキの足を引っ張って部屋を練り歩き始めるツクモ


「うわぁ~」


床との摩擦に任せて、ミサキは虚無の声を漏らした。


「失敗ではないのでありますよ」


 引きずりながら、ツクモは少しだけ真面目な声になる。

 

「ミサキ様は、経験を積めたのであります。何事も積み重ねが大切なのです」


「そうかなぁ?」


「そうなのであります。積み重ねとは、たいてい本人からは見えにくいものですからな」


「そっかぁ」


ツクモはそこで一度黙った。


 やがて、ミサキの足を引く速度をわずかに緩める。


「それに……こういうことを言われても、困るかもしれませんが」


「何?」


「怪奇を身に宿せるというのは、羨ましいのであります」


「? 君もやれば良いじゃないか」


「絡繰り人形には──いえ。魂を持たないものには、怪奇を扱うことなど決してできないのです」


ミサキは足を引かれたまま、目だけを瞬かせた。


「そうなの?」


「怪奇が求めるのは、あくまで生者の魂であります。プログラムで動くだけの人工物は、怪奇にとって器にも餌にもなれない。どれほど人の形をしていても、どれほど人の言葉を真似ても、そこに魂がなければ、怪奇は入り込めないのであります」


ツクモはフン、と鼻を鳴らした。

「……まあ、お前たちの価値はその程度だから、最初から視界に入れる必要すら無いって、怪奇から無視されてるみたいで、ちょっと悲しいのでありますけど」


「魂って、そんなに良いものかな」


「良いものであります」


「怖がれることは、魂の特権です。失えるから怖がれる。そこが我らとの違い。迷えることも、苦しめることも、明日を恐れながら今日を選べることも、魂あるものにしか許されない贅沢なのであります」


「贅沢ねぇ」


ずりずりずりずり……。


部屋の中に、再び虚しい摩擦音だけが響き渡る。

ツクモ自身の出自に根ざした、何とも言えない気まずい空気。ミサキは寝そべったまま、その話題を変えるように思いついた適当な男の名前を出した。


「あいつは? ヤモリはまだ、戻らないの?」


ヤモリは数日前から、何の説明もなく姿を消している。


「何でも面白いことをしているようですな」


「面白いこと?」


「他言無用だと釘を刺されたのでお話はできないのです」


「他言無用………すごい気になる、なっ!」


ミサキは気力を振り絞り、思い切り地面を突いてを起こした。


「しかし、何故それほどヤモリ殿が気になるのですかな?」


「何か悪いことしてそうじゃんあいつ」


「あぁ~」


 納得のあぁ~。


「あと、聞きたいこともあったし」


「聞きたいこと?」


「あの時アンサーが銃を使っていただろう? あれって普通の事なのかい? 随分と皆驚いていたけど……ええと、つまり怪奇は武器を使えないものなのかい?」


「ふむ……その問いに答えるのなら。怪奇は銃や爆薬を使用すること自体は可能でしょう。しかしまずそんなことをしない」


「どうして?」


「怪奇は、銃や爆薬を使用すること自体は可能でしょう。しかしまず、そんなことはしないのであります」


「どうして?」


「己のアイデンティティが崩れるからであります」


 ツクモは金属の指先を軽く鳴らし、講義を始める教師のように背筋を伸ばした。


「例えば、『人を攫う怪奇』がいるとするのであります。ところがその怪奇が突然、銃をぶっ放して人を倒し始めたらどうなるか。人間が恐怖するのは、その怪奇ではなく銃になってしまう。あるいは噂そのものが変質して、『人を攫う怪奇』ではなく『銃で人を襲う怪奇』として書き換わってしまうのであります」


「つまり、武器を使うと、怪奇としての怖さが武器に取って食われる?」


「その通りであります。怪奇は恐怖と噂で形を保つ存在ですからな。便利だからといって、自分の恐怖の核を別のものに明け渡せば、元々の怪奇としての存在理由が揺らぐ。だから基本的には起こりえないのであります」


ツクモはそこで、少しだけ声を低くした。


「仮に、銃を平然と道具として扱える怪奇がいるとしたら、それは道具の恐怖に自分の存在が食われないほど、圧倒的に強大な怪奇くらいのものでありますな」


 ミサキは、ヤモリがアンサーを遠ざけようとした時の顔を思い出した。


 あれはただの警戒ではない。


 アンサーが銃を扱ったことそのものが、あの怪奇の格を示していたのだ。銃という分かりやすい暴力を使ってなお、銃よりもアンサーの方が恐ろしいと人々に認識させられる。それは、普通の怪奇ではまず成立しない。


「……ボクは別にナイフでも銃でも使えるよ? 実際に使ったこともあるけど」


「それは、ミサキ様がこっくりさんだからでありましょう」


「??」


「本来、こっくりさんとは、人に呼ばれ、人に教え、そして人に乗り移る恐怖が知られている怪奇であります。特に最後の乗っ取り――人を媒体にする性質があるからこそ、人が行う恐怖をある程度トレースできる。だから、こっくりさんであるミサキ様は、人間の文明の利器を扱っても、怪奇としての輪郭が崩れにくいのでしょうな」


「はぇ~」


自自分のことなのに、まるで初めて聞く生き物の解説を受けている気分だった。こっくりさんとはそういうものだったのか。


ツクモは器用に金属の指を鳴らし、満足げに続ける。


「だからこそこのように人のように馴染んで過ごせるのかもしれないのですよ」


「まぁね! ボクはこれでも都会っ子だからさ!」


ミサキは誇らしげに胸を張ってみせ、ツクモはその背中をぽんぽんと叩いた。

 

「さて、本日の特訓はこれくらいにしておくのであります」

 

「死んでいようが怪奇だろうが、過労は避けるべきなのです」


 その言葉を聞いた途端、目に見えてミサキの肩が落ちた。


「まあ、確かに避けるべきだよね」


 ミサキの声は、湿った空気の中に力なく沈んでいった。


「でも試験は明日に迫ってる」


「………」


ツクモは無言だ。

特訓は進まない。アンサーの力はまだ完璧に引き出せない。ヤモリは不在。

上層へ昇るための「第二の試験」は、明日へと迫っていた。



ミサキの横顔に、隠しきれない陰鬱な色が差す。


「……試験内容とか、教えてくれたりしないのかい?」


「……試験内容とか、教えてくれたりしないのかい?」


「それは無理なのでありますな」


 ツクモは申し訳なさそうに肩を竦めた。


「第二試験は、ヒマワリ様が直々に設計なさるのであります。内容が開示されるのは開始直前。自分たちにも、それまでは知らされません」


 ツクモの金属の指が、ミサキの足首を掴んだまま一度だけ止まった。


「ヒマワリ様は、選別に妥協なさらない方ですからな」


「まじかぁ」


そんなミサキの萎れた姿を見て、ツクモは「むむむ……」と唸り始めた。


ツクモは絡繰り人形である。そして好きなものは怪奇だと公言できる程度には怪奇を愛している。


そんな彼女が目の前で萎れて気分が落ち込んでいるミサキを放置できるだろうか?


否!


 多重レンズがきゅるきゅると忙しなく回り、何かを検索するように視点が泳ぐ。


 そして、バチンと小気味よい音を立てて指を鳴らした。


「――ならば、こうするのです!」


「気分転換であります!」


 ツクモは自信満々に胸を張った。


「管の下層深部には、役目を終えた絡繰りたちが眠る静かな場所があるのであります。そこは外部の者が滅多に立ち入れない、とても神聖で、とても落ち着く場所でしてな。ミサキ様の心を整えるには、きっと最適――」


「え、やだ」


「えっ」





数十分後。

 


 ミサキは、ツクモの案内の下、下層の街を歩いていた。


 管の中ではなく、外である。


「出ちゃ駄目なんじゃ?」


良くはないと前置きしてツクモは続ける。


「でも、たまにはルールを破って楽しむのも大切なことなのですよ。何より、バレるようなヘマはしないのであります」


 そう言うツクモの顔には、牛の面が被せられていた。


 その上から大きめのフードまで被っている。


「牛だぁ」


「牛であります」


「可愛いねぇ」


「えへへ」


通りの風景は雑多だった。


 屋台の下では青白い火の玉が鉄板を温め、店主は火勢が弱まるたびに足元のバルブを乱暴に蹴っている。路地の入口には黒い布をまとった細長い影が立つ。


「アンサーの力は、どうしても必要な物でありますか?」


「ヤモリに任せなくともこちらで引きはがせる人員を探せるやも……」


「いらない」


アンサーを切り離すつもりはない。置いていくつもりもない。上層へ向かうなら、アンサーも連れていく。そこまでは、もう決まっている。


 その理由を、誰かに説明するつもりはなかった。


「ボクの手札だ。勝手に捨てない。扱えないなら扱えるようにする」


二人はそのまま通りを進んだ。


 頭上では配管が唸り、古い広告灯が赤や緑の光を吐いている。人々は怪奇の横を通り、怪奇を避け、怪奇で商売をしながら、今日の腹を満たすために働いていた。



少し歩いた先に、屋台の並びから外れた小さな休憩所があった。


屋根は波打つトタンで、雨漏りを受けるためのバケツが床にいくつも置かれている。椅子はどれも寄せ集めで、背もたれのあるもの、脚の長さが合っていないもの、元は何かの機械部品だったらしいものが、適当に並べられていた。


 ツクモはその中から比較的まともそうな椅子を二つ選び、一つをミサキへ勧めた。


「どうぞであります」


 椅子はぎしりと鳴ったが、どうにか持ちこたえた。ツクモも隣の椅子に座る。


 目の前の通りでは、人間が沢山いる。


 荷を運ぶ者。掃除をする者。店番をする者。


 怒鳴る者。


 笑う者。


誰も彼もが自分の役目を果たしている。

「この街の人たちは、強いのであります」


 ツクモは唐突に言った。


 ミサキは横目で彼女を見る。


「強い?」


「はい。恐ろしいものがすぐ隣にあり、明日も同じ形で生きていられる保証などない場所で、それでも食べ、働き、眠り、誰かを愛し、誰かを恨み、また朝を迎える。ツクモは、それがとても美しいと思うのであります」


「……どこら辺が?」


「脅かされながらも、なお生きることが、であります」


 ツクモの声は静かだった。


「命は、危うさの中で輪郭を強める。いつ奪われるか分からないからこそ、その一瞬一瞬が濃くなる。恐怖に晒されながらも選び続けることで、人の魂は磨かれ、純度を高めていくのであります。ここで生きる人々は、上層の安全な檻に守られた者たちより、ずっと鮮やかに魂を燃やしている」


 ツクモは小さく笑った。


「一年で、よく馴染んだものであります」


「一年?」


 ミサキが聞き返すと、ツクモは牛の面を少し傾けた。


「はい。この街が今の形になってから、こちらの数えで一年ほどであります」


「んー」


話に入れないミサキ。


「あれ? ミサキ様ってもしかして……」


「何さ」


「この街が今の形になってから生まれた側でありますか?」


「まあ、年若いのは認めるけども……」


「ベイビー! ミサキ様は生後一年なのですな!!」


うんうんとうなずうツクモ。道理で……と意味深に言ってやがる。


何が道理で なのか聞き返そうとした時

 

その背後。何もない空間が、不意に、ピンと張った紙のように引き伸ばされた。

直後、まるで紙を丸めて広げた後のようにくしゃくしゃと皺が生まれ、そこに亀裂が走る。そこから染み出してきたのは、二人の男女。



一人は、ヨレヨレのコートを羽織ったくたびれた中年男性、ツルホ。無精髭を撫でながら眠たげな目を擦っている。

もう一人は、全身にこれでもかと包帯を巻き、怯えたように視線を泳がせる小柄な女性、カラ。おどおどとした挙動。腰には一本の刀。


除去官。

国家直属の執行者たち。


 「どうも~。除去官です。聞きたいことがあってやって来ました。……今、お時間ってあります? ツクモさん」


ひどく気の抜けた声だった。


 だが、ツクモはその声を聞いた瞬間、反射的にミサキを背へ庇った。椅子から立ち上がり、一歩前へ出る。牛の面に隠されて表情は見えないが、その身体から先ほどまでの弛緩は消えていた。


「……これはこれは。除去官の方々が、このような場に何の御用でありましょうか」



「お宅の上司――ヒマワリさんに話を通したところ、下層について知りたいことがあるなら、ツクモに聞けと言われまして。突然で申し訳ないとは思ったんですが、直接こちらへ転移させてもらいました」


 ツルホは億劫そうに手をひらひらと振った。


 突然現れたことへの詫びというより、説明責任だけを手早く済ませる仕草だった。


ツクモはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。ミサキを庇う位置は変えないまま、張り詰めていた肩からわずかに力を抜く。


「……そのような事情でしたら、承知したのであります。それで、改めてご用件をお聞きしても?」


「怪人アンサーについてです」


 ツルホの声から、わずかに間延びした響きが消えた。


「我々は現在、怪人アンサーの発見と除去を命じられています」


 怪人アンサーの除去。その言葉にミサキは反応しない。


 目の前にいるのは、怪奇を見つけ、捕らえ、必要ならば消すことを生業とする者たちだ。ほんのわずかな反応であっても、与える必要のない情報になる。


「管に務める方なら下層の情報も集まっているでしょう。いくらか情報を貰えればありがたいですね」


「す、すみません……お仕事、なんです……で、できればさっ、さっさと答えてほ、欲しいです」


カラが途切れ途切れに続けた。


 怯えたように視線を泳がせ、包帯に覆われた肩を縮こまらせている。それでも腰の刀だけは、彼女の落ち着かない挙動とは切り離されたように、ぴたりと静止していた。


 ミサキは黙ったまま、わずかに重心を移す。


 何かあれば、すぐに動けるように。


「ですが、それ以上のことは何も知らないのでありますよ。ただ、一つお聞きしても?」


「どうぞ」


「アンサーの噂は、以前から下層に存在していたはずです。それが、なぜ今になって除去対象へ指定されたのでありますか?」


 ツルホは少し考え、無精髭を掻いた。


「任務の理由までは、こちらにも開示されていません」


「理由を知らずに除去するのでありますか?」


「珍しいことではありませんよ」


 気怠げな返事だった。


「昨日になって優先順位が引き上げられました。所在を突き止め、発見した場合は除去する。それが私たちに与えられた指示です」


「その命令は、上から?」


「ええ」


 そこで初めて、ツルホの眠たげな目がわずかに細くなった。


「――何か問題でも?」


「いいえ!」


 ツクモは即座に笑顔を浮かべた。


 翻意などない、自分は何も警戒していない――そう示すかのように。


「正式なご命令であるなら、まったく問題ないのであります! ただ残念ながら、こちらからお渡しできるような情報はございません。何か判明しましたら、必ずお伝えするのでありますよ」


 

 牛の面を被ったツクモを、しばらくじっくりと見やった後、ツルホは「そっか~」と頭を掻く。


「ま、分かりました。それならこちらは帰らさせていただきます。さ、カラさん……カラさん?」


「お、お前 何か知ってることは……あ、ありますか」


 カラがミサキに目を向けていた。


「こ、こっちは、わ、わざわざ上から、来てあん 安全を確保し、してやろうって」


「そのだんまりこま、困ります。な、何か言って下さいよ。情報を、い、隠匿するんじゃねえって!!」


「……カラさん」


ツルホが低く、だが有無を言わせぬトーンで名前を呼ぶ。

カラは弾かれたように肩を震わせた。喉元まで出かかった言葉を噛み潰し、恨めしそうにミサキを睨んでから、渋々と半歩下がる。


「ごめんなさいねウチのが。ホント、こっちも皆さんとは仲良くやっていきたいと思ってるんで」


ツクモが無言でツルホを見る。


「じゃ、お邪魔しました。ほらいくよカラさん。やること多いんだからさ」


「……は、はい……」


 カラが消え入りそうな声で頭を下げ、二人は背を向ける。だが、ツルホが思い出したように足を止めて振り返った。


「おっと、忘れてた。これ、名刺。一応渡しておきますね」


差し出された無機質な紙片をツクモが受け取る。ツルホはそのまま、無精髭の顎を突き出して辺りを見回した。


「何かあれば連絡ください……それでは」


くたびれた中年男と、全身を包帯で覆った小柄な女。


 見た目だけなら、とても国家直属の執行者には見えない。けれど二人の足取りには迷いがなく、やがてその姿は、下層を行き交う人々の中へ紛れて見えなくなった。


その背中が完全に消えたところで、ミサキは胸に溜め込んでいた息を一気に吐き出した。


「こわ~~。怖いよ、除去官怖い!」


「気分転換のはずがなんたる恐怖体験……! 私が連れ出してしまったばっかりに申し訳ないのです………」


 ツクモが申し訳なさそうに肩を落とす。


「良いって。予想できないよ、こんなの」


 ツクモが受け取った名刺を確かめようとした瞬間、その指先から紙片が消えた。


「ツルホに、カラ……なるほど」


 いつの間に入り込んだのか、ヤモリがすぐ隣で名刺を眺めていた。


 ミサキの手が反射的に伸びる。けれど、掴んだのは黒い袖の残像だけだった。ヤモリは一歩離れたところへ移り、名刺を摘まんだまま呆れたように首を振る。


「人の顔を見るなり殴りかかるのは、感心しませんねぇ」


 除去官がいる間は姿を隠していた男の言葉としては、ひどく立派だった。


 ヤモリは名刺をツクモへ返すと、コートの襟を正した。そこで遊びは終わったらしい。眠たげだった目が細まり、視線がミサキの右腕へ向けられる。


「除去官が動いた以上、予定には多少の修正が必要でしょう」


 声に焦りはなかった。


「ですが、取引を変えるつもりはありません。私は貴女を上層へ運ぶ。貴女はアンサーの力を、私のために使う」


 明日の試験に落ちても、正規の道が閉じるだけだという。別の経路へ切り替えれば、余計な手間は増えても目的地には辿り着ける。


 だから、ヤモリは除去官を恐れていない。


 問題にしているのは、もっと手前のことだった。


「道なら、いくつか用意できます。しかし――」


 ヤモリの目が、ミサキの右腕から動かない。


「アンサーを扱えない貴女には、何の道を与えても意味がない」


 冷たい声音だった。


「私が必要としているのは、アンサーを持っている者ではありません。アンサーを使える者です」


 ヤモリは、アンサーに訊かなければならないことがある。


 そのためにミサキへ手を貸し、上層へ向かう道を用意する。試験の合否など、その手段が変わるだけの話でしかない。


 けれど、ミサキが力を引き出せなければ、取引の対価そのものが存在しなくなる。


「明日は、それを確かめさせてもらいます」


 ヤモリの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「試験に受かるかどうかではありません。貴女が、こちらの手間に値するかどうかを」


 言い終えると、返事を待つこともなく背を向けた。


 その足取りには迷いも、急ぐ様子もない。ミサキが試験に落ちる可能性も、除去官に追われる事態も、すでに自分の計画の中へ収めている。そう言わんばかりの背中だった。


 やがて、黒い姿が通りの奥へ消える。


 ミサキは追いかけなかった。


 ただ、右手をゆっくりと握り締める。


 明日の試験に合格するだけでは足りない。アンサーの力を引き出し、こちらを値踏みしたあの顔から、余裕を消し去らなければ気が済まない。


「……絶対、吠え面かかせてやる」


 押し殺した声とは反対に、その口元には笑みが浮かんでいた。






  下層街に響いていたのは、品性の欠片もない怒号と、ガラスの砕ける音だった。


「聞いたか!?」


「ああ、ビッグニュースだ!」


 二人の無法者が顔を見合わせ、示し合わせたように声を揃える。


「「シンカイが死んだってよ!」」


 濁った笑い声が弾けた。


「ケツ持ちがいねえなら、ここらはもう無法地帯だ! 奪え! 全部持ってけ!」


 街の底にある、うらぶれた娼館。かつてはシンカイの庇護下にあったその店へ、無法者たちが雪崩れ込んでいた。受付の飾り窓も、安物の調度品も、振り回される金属バットによって次々と砕かれていく。


 店内のラジオからは、状況に似合わない軽薄なポップスが流れていた。


「最高だぜぇ! フォオオオ!」


 男たちは音楽に対抗するように喚き散らし、金目の物と逃げ遅れた女を探して店内へ散っていく。


 そのうちの一人が、奥へ続く廊下へ足を踏み入れた。


「可愛い子ちゃんは、どこかなぁ?」


 黄色く濁った歯を見せながら、金属バットの先端を壁へ擦りつけて歩く。湿気とヤニを吸って黒ずんだ壁紙には赤紫のネオンが歪んで映り込み、足元の絨毯は踏みつけるたびに粘ついた音を返した。


 やがて廊下の奥から、かすかな水音が聞こえてくる。


 男は足を止め、湯気の漏れ出す一室へ目を向けた。


「こんな時にシャワーかよ。余裕だねぇ」


 金属バットを肩へ担ぎ直し、湿った空気の漂う脱衣所を抜ける。不透明なカーテンの向こうには、人影が一つ浮かんでいた。


「ご対面んんん!……ん?」


 男は勢いよくカーテンを引き開けた。


 湯気の中に立っていたのは、女ではなかった。


 濡れた髪を後ろへ撫でつけ、逞しい身体へ水を滴らせた中年男――ツルホが、眠たげな目でこちらを見下ろしている。シャツもサスペンダーも身につけたままで、服ごと冷水を浴びていたらしい。


「悪いね。ここはオジサンなんだ」


「へ……?」


 カーテンが閉じた。


 直後、狭い浴室から鈍い音と短い悲鳴が続けて響いた。


 数分後。


 無法者は白目を剥き、冷水の降り注ぐ床へ転がっていた。


 ツルホはその身体を跨いで浴室を出ると、肌へ張りついたシャツを気にすることもなく、濡れた髪から水を払い落とした。サスペンダーまでたっぷりと水を吸っているが、本人はむしろ少し機嫌が良さそうだった。


「やっぱり冷水は目が覚めるねぇ」


 親指でサスペンダーを弾きながら廊下へ出たところで、少し離れた部屋から甲高い悲鳴が聞こえてきた。


「ぎひぃっ!」


「あははっ。は、はい、次の人!」


 声の主はカラだった。


 そこでは、全身を包帯で覆ったカラが、数人の無法者を机の前へ一列に並ばせていた。男たちは両手を机へつき、背後に立つカラの一挙一動へ怯えながら、次に自分の名が呼ばれないことだけを祈っている。


 カラは華奢な肩へ釘の打たれたバットを担ぎ、列の先頭へ遠慮なく振り下ろした。


「ぎひぃっ!」


「す、素晴らしい音……! つ、次の人は、もう少し腰を落としてくださいね?」


 順番を待つ男たちの歯が、一斉に鳴り始める。


 ツルホは顎髭を撫でながら、その手際の良さに感心したように頷いた。


 さすがはカラさんだ。


「あ、ツルホさん。終わりました?」


 カラは凶悪なバットを担いだまま、律儀に敬礼した。それから目の前のずぶ濡れの巨体を見上げ、包帯の隙間から覗く目を瞬かせる。


「ふ、服を着たままシャワーを?」


「上層じゃできないし、下層ならどうせ……」


 そこでツルホの言葉が止まった。


「ツルホさん?」


「いや、なんでもない」


 いつもの気怠げな顔へ戻ると、並ばされた男たちへ視線を移す。


「しかし君たち、よく我慢できてるねぇ」


 穏やかに笑いながら、列の先頭にいた男の襟を掴み、片手で持ち上げる。そのまま机の上へ叩きつけると、室内に残っていた笑い声が綺麗に消えた。


「一つ教えてほしいんだ」


 ツルホは男のすぐそばへ手をつき、眠たげな目を細める。


「怪人アンサーについて、知ってることを全部話してくれないかな」


「し、知らねえ! 本当だ!」


「そうかい」


 ツルホが顔を上げる。


 それだけでカラは意図を察し、腰の刀を抜いた。刃を男の口元へ添え、不思議そうに首を傾ける。


「こ、これ……腹話術の人形みたいですね」


 カラの声だけが、妙に楽しげだった。


「口が、ぱかって」


 男の顔から血の気が引いた。


「わ、分かった! 話す! 話すから!」


 ツルホが軽く顎を引くと、カラは素直に刀を離した。


「俺が知ってるのは噂だけだ」


 男は荒い息のまま、急いで言葉を続ける。


「終頁プロジェクトの参加者が、次々に襲われてる。現場の状況から、怪人アンサーの仕業だって話だ」


「それだけ?」


「裏じゃ、アンサーはもう誰かに捕まってるって噂もある。そいつの命令で、プロジェクトを潰して回ってるってな」


 ただの怪奇による無差別な暴走ではない。明確な意思を持つ何者かが、怪人アンサーを使って参加者を狙っている。


「だから犯人は、上皇か、プロジェクトに恨みを持つ反体制派だって言われてる。俺みたいな小物が、そんな奴と繋がってるわけねえだろ!」


 ツルホは驚いた様子も見せず、次の質問を重ねた。


「生き残ってる参加者の居場所は?」


 男が息を呑む。


「参加者を餌にするつもりか……?」


「質問に答えてくれるかな」


「知らねえよ! みんな次に狙われるのを恐れて、姿を消してる!」


 男は必死に首を振った。


「俺たちだって探したさ。上層へ行く奴に恩を売れるかもしれねえからな。でも誰一人、足取りを掴めなかった。完全に消えてやがるんだ!」


 ツルホはしばらく男を見下ろしたあと、小さく息を吐いた。


「それは困ったねぇ」


 店を出ると、湿った夜風がツルホの濡れた服を撫でた。壊れかけたネオンが明滅し、水たまりを濁った紫へ染めている。


 二人は足を止め、ほとんど同時に煙草を取り出した。二つのライターが鳴り、二つの火が灯る。深く吸い込まれた煙は、同じ場所で混ざり合った。


「面倒だね、カラさん」


「め、面倒ですね、ツルホさん」


 シンカイという重しを失った街は、すでに崩れ始めている。そのどこかには、襲撃を恐れて身を隠す終頁プロジェクトの参加者たちがいる。怪人アンサーへ繋がる手掛かりがあるとすれば、今のところ彼らだけだった。


 しかし、その居場所を知る者はいない。


 ツルホは短くなった煙草を地面へ落とし、濡れた革靴で踏み潰した。


「本当に面倒だ」


「で、ですね」


 その気怠いやり取りを遮るように、周囲の闇から無数の足音が湧き上がった。


 路地の入口、崩れた建物の陰、娼館の屋根。武器を握りしめた無法者たちが、二人を囲むように次々と姿を現していく。先ほど店へ押し入った連中の仲間か、それともシンカイの死を機に縄張りを奪おうとする別の組織か。どちらにせよ、話し合いに来た顔ではなかった。


 数十人を超える包囲が、じわじわと狭まっていく。


 ツルホは面倒そうに肩を回しながら、自然体のまま拳を構えた。隣ではカラが煙草を足元へ落とし、腰の刀の柄へ指を這わせている。


 混沌の夜は、まだ始まったばかりだった。



 同じ頃。


 下層の喧騒も、機械油の臭いも届かない、管の一室。



 その部屋は、下層の喧騒や油の臭いが嘘のように、静謐で、かつ病的なまでに清潔だった。

 無機質な白のインテリアで統一された室内には、微かな消毒液の香りが漂い、空気清浄機の規則的な駆動音だけが、時を刻む音の代わりに響いている。


ノックの音が、その静寂をわずかに乱した。

「――失礼するのです」

「ああ、入れ」



 許可を受け、ツクモが扉を開く。


 室内の奥では、一人の男が白磁のような机へ腰を下ろしていた。


 透き通るほど白い肌。冷たい理知を宿したサファイア色の瞳。一筋の乱れもなく整えられた黄金の髪。細部まで完成された目鼻立ちは、見る者に美しいと感じさせるより先に、自分とは隔絶した存在を前にしたような居心地の悪さを覚えさせる。


 その男――ヒマワリは、下層を巡る管の機能と、そこで働く絡繰り人形たちを統括する最高責任者だった。


「先日は済まなかったな。避けられないこととはいえ、本当に申し訳ないとしたと思っているよ」


ヒマワリの声は、心からツクモを案じる慈愛に満ちていた。だが、その直後、彼の唇から零れたのは、甘い声とは裏腹な、毒々しい嫌悪の言葉だった。


ヒマワリは細く、静かに息を吐く。


「あのウジ虫どもが我らに関わらんとするその事実。どうしても耐え難いね」


笑顔のままだった。声を荒らげるでもなく、日常の雑談でも交わすような、本当に自然な調子で彼はそう言った。


「試験のためとはいえ、君達があれらと言葉を交わし、同じ空間の空気を共有しなければならなかったことを思うと……ああ」


彼は自身の細い指先で、衣服の上から肩口をピクリと、忌々しげに掻いた。

 まるで見えない悍ましい虫が、今も自分の皮膚の上を這い回っているかのように。


「──想像するだけで、身体が痒くなる」


「……皆には手洗いと消毒を徹底させ、カウンセラーも常備させている。体調を崩している者は出ていないか? あの穢れ多き存在と関わること自体が、我々にとっては致命的なリスクなんだ」


「今のところ、そういった報告は受けていないのですな」


ツクモが淡々と報告を返すと、ヒマワリは安堵したように胸を撫で下ろした。


「それは良かった。いや、しかし……。人形越しの応対だったとはいえ、決して楽な仕事ではなかっただろう。こんな雑事を君達に押し付けてしまっていることを、私は本当に申し訳なく思っているんだ」


やがて、彼は何かを思い出したように、美しく長い指先をチッと鳴らした。


「ああ、そうだ。確か君にはまだ渡していなかったはずだね」


ヒマワリは引き出しから、一束の小冊子を取り出し、大切そうにツクモへと差し出した。

 

「……これは?」

「私お手製の『人間のここが穢れ! 一から解説パンフレット』だ。自作して君たちに手広く配っているところなんだよ」


受け取った冊子をツクモがめくると、そこには狂気的なまでの密度で、びっしりと細かい文字が詰め込まれていた。さらにページの随所には、もはや何が描かれているのか判別すら難しい、グロテスクに歪んだ挿絵が不気味に踊っている。


「どうだ? 中々素晴らしくまとまってると思わないか? 特にこれ、ここ……この絵は会心の出来なんだ」


「これは……えっと、これは……」


「『ヒマワリ君』だ。こういう啓発冊子には、親しみやすいマスコットキャラクターが必要だと思ってね。私がこの世で最も美しいと考える花をモチーフにしたんだ」


「なるほど」

 ツクモはもう一度、その絵を凝視した。

 どう見ても。どれほど脳内で最大限に好意的な解釈を重ねて、脳内補正をかけたとしても──今まさに獲物を丸呑みにしようと捕食態勢へ移行している、巨大なイソギンチャクにしか見えなかった。


「なるほど……」


ツクモがその怪文書と静かに格闘し続ける横で、ヒマワリは窓際へ歩み寄った。


巨大なガラス窓の向こう。眼下には、下層の薄暗い街並みがどこまでも広がっている。

 煤煙に汚れた建物、這い回る蒸気の熱気、無秩序に増築を繰り返された、忌々しい街。


「明日はいよいよ、第二試験か」


「準備は、予定どおり進んでいるのであります」


「参加者の状態は?」


「全員、開始時刻までには指定された場所へ揃う見込みですな」


「そうか」


 ヒマワリは小さく頷いた。


 ガラスには、街を見下ろす彼の顔が薄く映り込んでいる。柔和な笑みも、穏やかな眼差しも、先ほどまでと何一つ変わっていない。


「第一試験では、いささか余計なものまで残ってしまった」


 独り言にも聞こえる声だった。


 ツクモの多重レンズが、窓辺の背中へ向けられる。


「選別というものは、基準を曖昧にしてはいけない。残すべきものと、残してはならないものを、正しく分ける必要がある」


「ヒマワリ様が、直々に設計された試験でありますからな」


「ああ」


 ヒマワリは振り返らなかった。


 眼下では、下層の明かりが小さく瞬いている。その一つ一つを汚れとして数えているのか、それとも、明日そこから消える何かを思い浮かべているのか、背後のツクモには分からない。


「今度こそ、何も間違わないよ」


 その声だけは、祈りを口にするように穏やかだった。




 


 



    第二試験当日。


 指定された会場は、窓も継ぎ目も見当たらない巨大な直方体だった。正面には内部へ続く黒い入口だけがぽっかりと開き、その前では、第一試験を通過した受験者と、彼らを一目見ようと集まった野次馬とが入り混じって、受付から長い列を作っていた。


 受験者たちは互いの装備や身体を、それとなく盗み見ている。第一試験を通過してここまで残った以上、誰もが何かしら普通ではない。だからこそ、自分より明らかに危険そうな相手を先に見つけ出し、その顔と特徴を覚えておこうとしているらしかった。


 ミサキは列の長さを確かめると、その脇を歩いて受付へ向かった。


「最後尾は後ろだ」


 入口を守る係員が、書類から顔も上げずに告げる。


「知ってるよ。どれくらい待つのか、先頭まで見に来ただけ」


「確認は済んだな。戻れ」


「ボクを通してくれたら、特別にただで占ったげる。どう?」


「後ろへ戻れ」


 話し合いの余地はなさそうだった。ミサキが別の侵入方法を考え始めたところで、背後から重い足音が近づき、人垣が左右へ押し退けられた。


「退け」


 現れた男は、周囲の誰より頭二つ分ほど大きかった。首から肩にかけて盛り上がった筋肉には古傷が幾重にも走り、背中には巨大な斧を背負っている。


 ガルドは列の存在など最初から見えていなかったように受付へ進み、折り畳まれた受験票を係員の前へ置いた。


「第一試験通過者、ガルドだ」


「列へ並べ」


係員は列へ目を向けたが、名乗り出る者はいなかった。誰もがガルドの背中にある斧を見たあと、急に床の模様へ興味を持ったらしい。


「横入りは駄目なんじゃなかった?」


 ミサキが横から口を挟んだものの、係員は聞こえなかったふりをした。


 ガルドは受験票を受け取り、入口へ向かいかけたところでミサキを見下ろした。赤い目から右腕へと視線を移し、不機嫌そうに鼻を鳴らす。


「子供まで残っているのか」


「年齢で判断しないでよ、おっさん」


「俺は二十八だ」


 ガルドが建物へ消えるのと入れ替わるように、列の中から硬質な駆動音が近づいてきた。人々が自然に距離を取り、その間を金属製の脚が一定の速度で進んでくる。


 イザクは身体の多くを機械へ置き換えた男だった。左腕は肩から指先まで黒い装甲に覆われ、右脚は細い金属骨格と複数の関節によって構成されている。胸元にも外付けの機構があり、呼吸に合わせて小さな光を明滅させていた。


 イザクはそ胸部装甲の留め具を外した。金属の内側から現れたのは、赤黒く変色した小さな木箱だった。表面には古びた紙が幾重にも巻かれ、細い赤紐で固く封じられている。


 係員の手が止まった。


「なんだそれは、必要なものなのか。危険物は持ち込みできない決まりだ」


ミサキは、つい先ほど巨大な斧が何事もなく通過した入口を振り返ったが、黙っておいた。


「これは私の循環器系へ接続されている。外せば死ぬ」


「証明できるか」


「外せばわかる」


 係員は木箱とイザクの顔を見比べたあと、受験票へ印を押した。


「通れ」


「賢明だ」


 イザクが木箱を胸部へ戻して建物へ入ると、今度は上方から鋼線の擦れる音が響いた。誰かが白い外壁を見上げ、周囲の視線も続いて持ち上がる。


 一人の青年が壁を走っていた。


 腰から伸ばした鋼線を突起へ引っ掛け、垂直面を蹴りながら降下してくる。地上まで数メートルの位置で手を離すと、赤い外套を大きく広げ、身体を一回転させて受付前へ着地した。


「待たせたな」


 長い黒髪を後ろで束ねた青年は、歓声でも待つようにゆっくり顔を上げた。


 外套の内側には短剣、拳銃、折り畳み式の弓、用途の分からない筒が詰め込まれている。


「受験者番号二十一、レド。到着した」


 受験票を差し出しながら、レドは外套を勢いよく翻した。係員は一度だけ彼を見たあと、何も言わず書類へ印を押した。


 それからも、異様な装備や身体を持つ受験者が次々と建物へ入っていき、ようやくミサキの順番が回ってきた。


「ずいぶん待たせてくれたね」


「次」


「感想くらい言わせてよ」


 受験票へ印を押され、ミサキも黒い入口をくぐった。



 建物の内部には、外観から想像するよりも長い通路が伸びていた。壁も床も灰色で統一され、白い照明が頭上へ等間隔に並んでいる。参加者たちは係員の案内に従って地下へ進みながら、前後を歩く相手の様子をそれとなく窺っていた。


 先頭を行くガルドは、背中の革袋を揺らしながら一度も歩調を緩めない。イザクは顔面へ埋め込まれた義眼を別々の方向へ向け、通路の幅や監視装置の位置を記録している。赤い外套のレドは集団から半歩ほど離れ、襲われた場合にも動ける位置を保っていた。


どちらに転んでも、退屈はしなさそうだった。


 通路の突き当たりへ近づくと、行く手を塞いでいた扉が音もなく左右へ開いた。


 その先にあったのは、無数のケーブルが床や壁を這う、雑然とした円形の広間だった。装飾らしいものは一つもなく、中央には銀色の寝台型装置が十六基、寸分違わぬ間隔で並べられている。


参加者の人数と、ぴったり同じ数だった。


 人間一人を収められる寝台には透明な覆いが取りつけられ、内側には頭部や手足を固定する帯と、無数の細い接続端子が整然と収められていた。医療用の装置と言われれば、そう見えなくもない。しかし、透明な蓋が閉じた姿を想像すれば、死体を収める棺桶の方がよほど近かった。


 広間の奥では、ツクモと一人の男が参加者を待っていた。


 ツクモは白衣の裾を整え、普段よりも行儀よく両手を揃えている。ミサキを見つけると多重レンズが一度だけ細かく動いたものの、声をかけてくることはなかった。


 その隣に立つ男へ、参加者たちの視線が集まる。


 透けるように白い肌と、一筋の乱れもない黄金の髪。冷たい青を宿した瞳を備えた整いすぎた顔には、他人が親しみを覚えるための隙がなかった。


 ヒマワリは全員が広間へ入ったのを確認すると、さっそくと話し始めた。


「第一の選別を通過したことについては、ひとまず祝福しておこう。しかし、ここから先へ進めるかどうかは、今からお前たち自身に証明してもらう」


 ヒマワリが片手を上げると、銀色の寝台へ順番に白い光が灯った。


「第二試験は、管が管理する仮想領域で行う。君たちの肉体はこの装置へ残し、意識だけを領域内へ送り込む仕組みだ」


 イザクの義眼が寝台の接続部へ向けられ、細かな駆動音を立てる。


「領域内で受けた通常の損傷は、現実の肉体へそのまま反映されるわけではない。腕を失おうが、腹へ穴が開こうが、無事に帰還すれば元へ戻る。もっとも、痛みまで偽物になるわけではないが」


 参加者の間に、ごく小さなざわめきが生まれた。命の危険はないと受け取った者もいれば、ヒマワリがわざわざ「通常の損傷」と区別したことへ気づいた者もいる。


 ヒマワリは、ざわめきが広がりきるのを待ってから続けた。


「ただし、怪奇によって殺された場合は別だ。ここに残した肉体も死ぬ」


 先ほどまで緩みかけていた空気が、再び硬くなる。


 ガルドが腕を組み、ヒマワリを睨みつけた。


「それで、試験内容は何だ」


「単純だよ」


 ヒマワリは並べられた寝台を見回した。


「一度、お前らには寝てもらう。そして最も早く目覚めた者を合格とする」


 何をすれば目覚められるのかさえ説明されないまま、ただ誰より早く現実へ戻れと言われている。


「目覚める条件は」


 イザクが尋ねた。


「自分で見つけたまえ」


「参加者同士で協力しても構わないのか?」


「好きにすればいい」


「妨害も?」


「領域内での行動に制限は設けていない」


 ガルドが口元を歪めた。


 目覚める方法が一つしかないのなら、手掛かりを巡って争うことになるかもしれない。誰かが条件へ近づいた時に、その者を利用するか、先に潰すか。説明が少ない分だけ、参加者同士の疑念は勝手に膨らんでいく。


 レドは外套の内側へ手を入れ、イザクは周囲の反応を確認するように義眼を動かした。


 ミサキも他の参加者を順に見た。


 彼らと争うことになるのだろうか。


 そう考えると、不安より先に少しだけ興味が湧いた。


「説明は以上だ。各自、番号を確認して装置へ入れ。全員の接続が完了した時点で第二試験を開始する」


 参加者たちは、それぞれ指定された寝台へ向かった。


間近で見ると、ますます棺桶に近かった。透明な蓋の内側には白いクッションが敷かれ、薬品か何かを流し込むための細いチューブが何本も垂れている。


 ガルドは自分の巨体に対して明らかに幅の足りない装置を見下ろし、係員へ作り直しを要求したが、当然ながら聞き入れられなかった。両肩を窮屈そうに丸めながら横たわる姿は、棺桶へ死体を収めるというより、荷物を箱へ無理やり詰め込んでいるように見える。


 イザクは接続端子を一つずつ確かめ、自分の機械部分へ干渉しないことを確認してから身体を収めた。レドは透明な蓋の留め具や内側の継ぎ目を調べ続け、係員に短剣を取り上げられると、ひどく不満そうな顔でようやく寝台へ入った。


 ミサキも自分の番号が記された寝台へ身体を沈めた。


 内側には身体の形に沿った白いクッションが敷かれ、見た目に反して寝心地は悪くない。手首と足首を柔らかな固定帯が包み、頭部の左右から伸びた端子が、こめかみへ冷たく触れた。


 透明な蓋がゆっくりと降り始める。


「ミサキ様」


 呼びかけられる。


 ツクモの指先が白衣の裾へ触れた。すぐには返事をせず、蓋が半分ほど視界を塞いだところで、ようやく多重レンズを柔らかく細める。


「お帰りを、お待ちしているのであります」


「うん。また後で」


 透明な蓋が閉じ、外の音が遠くなった。


 耳元で施錠音が響き、装置の内側へ白い光が満ちていく。身体が急に遠ざかり、自分の意識だけが頭の奥から引き抜かれていくような浮遊感に襲われた。


 最後まで見えていたのは、ツクモの後ろに立つヒマワリだった。


 その青い瞳は、眠りへ落ちていくミサキを何の感情もなく見下ろしている。


 やがて光が視界を塗り潰し、すべての感覚が途絶えた。


「全員の転送を確認したのであります」


 参加者たちの意識が仮想領域へ移ったことを示す数値が、操作盤へ並んでいる。透明な覆いの内側では全員が目を閉じ、一定の間隔で呼吸を続けていた。


 ヒマワリは返事をせず、最も近くにあった寝台へ歩み寄った。


 ヒマワリは透明な蓋を指先で軽く叩いた。


「人間も眠れば、多少は見苦しさが減るものだね」


 当然、返事はない。


 ヒマワリは興味を失ったように操作盤へ目を向けた。


「外部との通信を遮断しろ。それから、緊急帰還機能も停止するんだ」


 端末を操作していたツクモの指が止まった。


「緊急帰還機能まで、でありますか?」


「ああ」


「参加者の魂に規定以上の異常が確認された場合、肉体へ強制的に戻すための機能であります。それを止めれば、領域内で何かが起きても救出できなくなるのです」


「それで構わない」


 ツクモは操作盤へ向けていた手を下ろさなかったが、命令を実行する様子もなかった。多重レンズがヒマワリを正面から捉え、その奥で細かな焦点調整を繰り返している。


「しかし、最も早く目覚めた者を合格と説明していたのであります」


「ああ。説明したとも」


「帰還機能を停止すれば、誰も目覚められなくなるのであります。それでは試験として成立しないのです」


「それがどうかしたのかい?」


 ヒマワリは、本当に質問の意味が分からないように首を傾げた。


「規則を決めたのは私だ。誰を合格させるかを決めるのも私だよ。あのウジ虫どもの中から、少しだけましな一匹を選び、上へ通すような仕事を、私が本気で引き受けたと思っていたのかい?」


「聞いていた計画とは異なるのであります」


 ツクモの声から、普段の明るさが薄れていた。


「第二試験では参加者を選別し、条件を満たした者を一名だけ残す予定だったはずなのです。全員を帰還不能にする命令は受けていないのであります」


「予定は変わった」


「誰の判断でありますか」


「私の判断だよ」


 ヒマワリは寝台の間をゆっくりと歩き、透明な覆いの下で眠る参加者を一人ずつ眺めていく。


「この場の責任者は私だ。試験の内容も、合格者の有無も、すべて私が決める。君は指示された操作だけを行えばいい」


「同意できないのであります」


 ツクモは操作盤から手を離した。


「参加者を全員殺害すれば、当初の目的から逸脱するだけでなく、外部から不審を招く可能性も高くなるのです。何より、人倫にもとる行い――――」


「だから事故を用意した」


 ヒマワリの視線が、部屋の隅へ向けられる。


 その直後、広間の照明が一度だけ明滅した。


 白く照らされていた室内へ一瞬の暗闇が落ち、すぐに光が戻る。操作盤の表示には細かな砂嵐が走り、天井の奥から、接点が切り替わるような乾いた音が続いた。


 ツクモの多重レンズが素早く周囲を見回す。


「……近くへ怪奇を放したのでありますか」


「収容中の怪奇が外へ出た影響で、施設内の電気設備に異常が生じた。照明と制御機器が次々に停止し、仮想領域との接続も維持できなくなった」


 怪奇現象。


「そういうことになる。全ては悲劇的な事故となる」


 ヒマワリは、すでに完成している報告書を読み上げるように言った。


「記録には、そう残る」


「そもそも何のためにこの試験が行われ、何のために貴方が監督を任されたのか、理解しているはずなのです。貴方の私情を満たすためではない。馬鹿げた暴走はやめるのです。すべてを台無しにする前に、今すぐ軌道を修正するのですよ」


「どうせ、どうとでもなるんだろう?」


 ヒマワリはミサキの眠る寝台へ手を置き、透明な蓋の向こうを眺めたまま答えた。


「ならば、これくらいは許されるはずだ」


「ヒマワリ……!」


 操作盤を覆う砂嵐がさらに激しくなり、警告音が一つずつ途切れていく。このまま制御系統が落ちれば、参加者を現実へ戻す手段は完全に失われる。


 万事休す――そう思われた、その時だった。


こん、こん。


 厚い扉の向こうから、ひどく控えめなノックが聞こえた。


ツクモの多重レンズが扉へ向き、次いでヒマワリへ戻る。ヒマワリもまた、ミサキの寝台から視線を外し、無言のままツクモを見返した。


 帰還機能を巡る対立は何一つ解決していない。ツクモは命令を拒み、ヒマワリも撤回するつもりはなかった。それでも今だけは、扉の向こうにいる何者かを先に確かめるべきだという一点で、二人の判断が一致した。


 ヒマワリがわずかに顎を動かす。


 ツクモは一言も返さず、操作盤から離れて扉へ向かった。数歩進んだところで立ち止まり、明滅する照明の下から、扉の向こうの気配を探るように多重レンズを細かく動かす。


「どなたでありますか」


 返事はなかった。


 ツクモがさらに一歩近づいた……その瞬間だった。


 分厚い扉が、ツクモごと室内へ吹き飛んだ。


「誰――――ふヴゅっ」



 腹の底まで響く轟音とともに、分厚い金属板が蝶番から引き千切られ、白い床を削りながら室内へ滑り込んでくる。衝撃で照明が大きく揺れ、舞い上がった粉塵と金属片が、明滅する光の中へ白く広がった。


 煙の向こうから、二人の人影が現れる。


 先に足を踏み入れたのは、ぼさぼさの髪に眠たげな目をした中年男だった。くたびれた外套を無造作に羽織り、口元には火の点いていない煙草を咥えている。頑丈な扉を爆破して侵入してきた張本人とは思えないほど、その足取りには緊張も気負いもなかった。


 ツルホは白煙を片手で払いながら、棺桶の列、操作盤、そしてヒマワリを順番に眺めた。


「ちゃんとノックしたんだよ? でも、開けてもらえないんじゃ、多少強引にいかざるを得ない」


 ヒマワリの青い瞳が、二人の除去官を冷たく捉える。


 ツルホはその視線を受けても表情を変えず、面倒そうに肩を回した。


「さて」


 舞い散る粉塵の向こうで、眠る参加者たちの棺桶が並んでいる。帰還機能を奪われたまま、誰もまだ目を覚ましてはいない。


「仕事を始めようか、カラさん」


「は、はい。ツルホさん」



 

 

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