ぶっとばせ!
管の内部には、何もなかった。
しかし実際に広がっていたのは、継ぎ目の目立たない白い壁と、照明を冷たく反射する床だけだった。
その簡素な空間の正面に、一基のエレベーターが据えられている。
白銀の筐体には傷一つなく、下層を覆っていた煤も、黒い雨の残した染みも、長い年月による曇りさえ見当たらなかった。閉じた金属扉の脇では、細長い操作盤が淡い光を宿し、上へ運ぶべきものが到着する時を、無言のまま待ち続けている。
そしてエレベーターの隣には、同じほどの床面積を占める無骨な鋼鉄の箱が置かれていた。
人一人を横たえて収められる長方形の筐体であり、側面からは太い配管と束ねられた導線が壁の内部へ伸びている。白銀のエレベーターとは対照的に、その外装には無数の引っかき傷が刻まれ、分厚いハッチの縁には、洗浄を重ねても落ちなかったような黒ずみがこびりついていた。
その形には見覚えがあった。
下層の路地で、一つ目小僧を押し込めていた怪奇加工機。内部で何かを折り畳み、削り、元の形を失わせた末、青黒い四角形へ変えて吐き出した鋼鉄の箱。
目の前にあるものは、それを多少拡張した装置だった。
丁度、人ひとり
丁度、ミサキが一人。問題なく入る大きさだ。
怪人アンサーが車椅子を押し、二つの箱の前で止まる。
エレベーターの横には、ヒマワリが立っていた。
怪人アンサーの力を奪われた身体からは、黒い装甲も青い光も消えている。衣服は戦闘によって裂け、整えられていた髪も崩れていたが、サファイアを思わせる瞳だけは鋭さを失わず、ツクモと、その後ろから運び込まれてきたミサキを睨んでいる。
ミサキは身体を捻ろうとした。
胸元から足首までを縛る縄はほとんど緩まず、皮膚へ貼りついた呪符が淡く発光した途端、力が抜ける。車椅子を倒そうと肩へ力を込めても、台座を揺らすことすらできず、肘掛けを握った指が僅かに震えただけだった。
「安心するのであります、ミサキ様」
真鍮針を束ねた指が、鋼鉄の箱のハッチを愛おしそうに撫でる。
「これは下層で使われている粗末な加工機とは、まったくの別物なのですよ。あちらは怪奇を持ち運べる形へ圧縮するだけの、乱暴で不完全な道具でありますが、こちらは怪奇の構造そのものへ手を入れるために作られた特別製なのであります」
ミサキは答えなかった。
その裏側で、思考だけが激しく回り続けていた。
縄は切れない。
呪符がある限り、怪奇としての力も使えない。
背後には怪人アンサーがいて、正面にはツクモとヒマワリがいる。出口へ逃げるには車椅子から抜ける必要があり、仮に立てたとしても、この距離から怪人アンサーをかわして管の外まで走り切れるとは思えなかった。
「どうやってミサキ様を上層へ連れていくか。色々と考えたのです。私たちは今日まで怪人アンサーを百に据えるために行動してきたのです。上に行けるのは一人だけ。でも二人が親友だと知って、その仲を引き裂くことなく円満に解決するにはどうすればいいのか」
「まず、この中でミサキ様を一度”解く”のであります」
ハッチの内部からは、低く湿った駆動音が響き始めていた。
「こっくりさんとして与えられた形、ミサキという名前、人間に似せて作られた身体、記憶同士を結びつけている境界。それらは今のままでは、怪人アンサーと接続する際の邪魔になるのであります」
ツクモは楽しげに操作盤へ触れ、内部の状態を示す表示を順番に立ち上げていく。
「ですから、いったん全部を柔らかくするのです。固まった輪郭を崩し、記憶と規則を分け、自分と他人を隔てている境目を溶かす。蛹の中で幼虫の身体が一度崩れ、別の生き物として組み直されるようなものでありますな」
ミサキの指先が、肘掛けへ深く食い込んだ。
「もちろん、今のミサキ様の意識が、そのまま残ることは無いのです」
あまりにも自然な調子で、ツクモは続ける。
「ムーツ様の知性も、怪人アンサーの規則も、ミサキ様の人格も、それぞれ別のままでは互いを阻害してしまう。そこで、どれが誰の記憶だったか分からなくなるまで混ぜ合わせるのであります」
多重レンズが細く絞られた。
「そうして初めて、三つは完全に一つになれるのです」
ツクモの言う一つとは、共に生きることではなかった。
ミサキとムーツが互いの意識を保ったまま、一つの身体へ入るのでもない。鋼鉄の箱へ押し込まれた時点で、どちらがどちらだったかを区別する境目は消される。
死ぬのとは違う。
これは、自分というものが最初から存在しなかったかのように分解され、別の何かの材料へ変えられる処置だった。
喉の奥から何かが込み上げたが、ミサキは声を出さなかった。
無表情を保ち、ツクモの言葉を聞き流しながら、頭の中では手掛かりだけを拾い続けた。
、今の状況を崩す一手へ変えなければならない。
怪人アンサーは電話を通じて標的へ接触する。呼び出しに応じれば問いを投げかけ、答えられなければ向こう側へ連れ去る。応じなければ、今度は標的の前へ直接現れ、物理的に殺害する。
ツクモはそう作った。
電話へ出ても、出なくても、標的を逃がさないために。
ヤモリは、その電話に出て向こう側へ消えた。
その直前、黒い鞄を預け、真実を知ってから決断しろと言い残している。自分が死ぬと予測しながら、何の保険も用意せずに呼び出しへ応じるような男ではない。
ツクモは加工箱からエレベーターへ視線を移し、いつもと変わらない軽さで尋ねた。
「……これがお前の望みか、ツクモ。これが」
ヒマワリの声は、地を這うように低かった。
「? 何を言っているのです? 今更、そんなことを聞くのです?」
ヤモリは何かを残していた。
「準備はよろしいのでありますか、ヒマワリ」
ツクモは一瞥すらまともにくれず、エレベーターの操作盤へ、針金をよじったような不気味な指を置く。
黒い鞄を開けていられたのは、ほんの僅かな時間だった。
それでも、中に収められていたものは覚えている。十円硬貨と、文字や鳥居の描かれた降霊盤。どちらも以前、ミサキ自身がヤモリへ渡したものだった。
だから何だ。
鞄はもう手元にない。硬貨も盤も、この場では使えない。ヤモリは怪人アンサーからの電話を取り、すでに向こう側へ連れ去られている。いまさら道具の所在を考えたところで、身体を締め上げる縄が緩むわけでも、皮膚へ貼りついた呪符が剥がれるわけでもなかった。
それでも、思考はそこから離れようとしなかった。
ヤモリが意味もなく降霊の道具を持ち歩いていたとは考えにくい。まして彼は、自分が怪人アンサーから逃げ切れない可能性を、かなり早い段階で見抜いていたはずだ。死ぬと分かって電話を取った男が、ただ諦めて運命を受け入れたとは思えない。
ばらばらだった出来事が、頭の中で何度も位置を変える。
怪人アンサーが標的を認識する仕組み。
電話を受けるまでに、ヤモリが取ることのできた行動。
降霊という行為が、呼び出した側と呼び出された側へ何を残すのか。
思いついた可能性を拾い上げ、条件を当てはめ、ひとつでも矛盾が生じれば崩して、また最初から組み直す。答えを急げば、願望を事実と思い込む。ここで必要なのは希望ではなく、怪奇の理不尽な規則へ足を掛けるための、一本の細い道だった。
ミサキは顔を上げた。
車椅子の背後には、ツクモの命令を待つ怪人アンサーが立っている。
青い顔面を白い文字列が絶え間なく流れ、頭上を旋回する無数の携帯電話から、ときおり短い電子音が漏れていた。巨大な鉤爪は垂れ下がり、今はただ、逃亡を防ぐための護衛として沈黙している。
しかし、怪人アンサーは忠実な兵器である以前に怪奇だった。
ツクモがどれほど手を加え、ムーツの知性で動きを制御しようとも、その根幹に刻まれた規則まで完全に消し去ったわけではない。
問いへ答えられなければ、向こう側へ連れ去る。
呼び出しを拒絶すれば、自ら標的のもとへ現れ、その手で殺す。
どちらを選んでも逃がさない。そのために用意された二つの殺害手順。
そこへ降霊盤とヤモリを重ねた時、噛み合うはずのない歯車が、頭の奥で僅かに動いた。
ミサキはすぐにその考えを疑った。
都合がよすぎる。前提の一つでも間違っていれば成立しない。
仮にヤモリが何かを仕掛けていたとしても、それがミサキの望む結果へ繋がる保証はなかった。
それでも、完全には捨てられない。
ヤモリが残したものと、怪人アンサーを縛る規則。その二つを繋げれば、閉ざされた現状を内側から覆せる可能性が、ただ一つだけ残っている。
荒唐無稽だった。
幾つもの条件が同時に成立し、そのすべてが最も都合のよい方向へ転ばなければ届かない。策と呼ぶにはあまりにも頼りなく、他人の仕掛けと怪奇の気まぐれへ、自分の存在そのものを投げ込む賭けに近い。
だが、鋼鉄の箱へ入れられれば、賭ける自分さえ残らない。
成功するか、失敗するか。そんなことを迷えるのは、ミサキがまだミサキでいられる今だけだった。
問題は、賭けの場へ辿り着く方法である。
身体を縛る縄は切れず、車椅子を倒すこともできない。何より、皮膚へ貼りつけられた呪符が、怪奇として外へ伸びようとする力を根元から押し戻していた。
考えが正しくても、このままでは始めることすらできない。
呪符さえなければ。
ミサキは手首を僅かに捻り、縄の下から覗いていた札の端へ爪を潜り込ませようとした。
指先が紙へ触れた途端、墨で記された文字が強く発光する。
冷たい圧力が腕を駆け上がり、肩から胸の奥へ食い込んだ。内側から心臓を掴まれたように息が詰まり、力を込めていたはずの指が、肘掛けの上で頼りなく弛む。照明に照らされた白い壁が遠ざかり、視界の輪郭が一瞬だけ暗く沈んだ。
ミサキは呼吸の乱れを飲み込み、何事もなかったように指を戻した。
その間にも、ツクモの説明は途切れない。
「加工を終えれば、ミサキ様は怪人アンサーへ接続されるのであります。ムーツ様の知性、アンサーの規則、そしてミサキ様の柔軟な怪奇性。それぞれを隔てる境界をなくせば、現在の怪人アンサーとは比較にならない完成形となるでしょう」
真鍮の指先が加工機の操作盤を滑り、待機していた機構を順番に目覚めさせていく。
鋼鉄の箱が低い唸りを上げた。
壁へ伸びた太い配管の内側を、粘り気のある何かが流れていく。ハッチを囲む留め具には一つずつ赤い光が灯り、暗い内部から、細い金属同士が互いの位置を確かめるような乾いた音が連続して聞こえてきた。
「完成したあとは、こちらのエレベーターで上層へ運ぶのであります」
ツクモは白銀の扉を仰いだ。
「百物語りによって現実との境界が開いた瞬間、新しい怪人を向こう側へ送り出す。人間が完全に死を忘れてしまう前に、もう一度、恐怖と終わりを届けるのであります」
ミサキは答えず、加工機の表示へ視線を移した。
数字が減っている。
五十八。
五十七。
五十六。
機械の唸りが一段深くなり、ハッチの隙間から吐き出された白い蒸気が、床を舐めるように広がった。冷気を帯びた靄が車椅子の車輪へまとわりつき、足元を徐々に覆い隠していく。
残された時間は、一分にも満たない。
思いついた方法を試すには、まず呪符を剥がす必要がある。だが、自分の力ではどうにもならない。
何かが必要だった。
今の均衡を崩し、呪符の一枚でも剥がすための、外から加わる何かが。
自分はまだ賭けの席にすら着けていない。
何かが必要だ。この状況を一変させるような何か。
何かが――。
「答えろ」
「まだ、支配者気取りでありますか」
「っ」
「ヒマワリ。貴方の役割は「選別する者」──ただそれだけでしかない。試験を課し、ここに乗るべき人間を、ただ選別するだけ」
「役割、か。便利な言葉だな。全部そこに押し込めれば、何も考えなくて済む」
「考える必要なんてないのです。それで目的が果たせるのなら」
「しかし我らには自我があり、命がある」
ツクモは数秒、ぽかんとしたあっけにとられた顔をしたあとに──お腹を抱えて吹き出した。
「アハハハあははははははは!!!」
「いや、お前に命なんて無いでしょう。何を抜かしてるのです? 我らに命などない、魂などない、心などない」
トントン、と指先が自らの胸を軽く叩く。
「ただの部品。交換可能な機械。ガラクタ」
冷たく、ツクモの瞳が細められた。
「何とち狂ったことを言ってるのです。自己陶酔も感情移入も程ほどにするのですよ」
ツクモが滑らかな手つきで操作盤へ文字を入力すると、直後、重々しい駆動音がエレベーターの内部から響いた。銀色の箱は上へ向かう準備だけを進めていく。
「さ、ミサキ様を運ぶのを手伝うのです」
ツクモは淡々と告げる。
「共に働く者同士、悲願を果たすのですよ」
ヒマワリは、しばらくツクモを見ていた。
「共に働く者同士?……私は一度とて君と同じ景色を共有させてもらえなかった。……私は今の今まで夢幻の中にいた」
「ヒマワリ……?」
ヒマワリとミサキの視線が交差した
「――――」
一瞬の事だった
ヒマワリは、ゆっくりと、頭上のエレベーターを見上げた。
「確かにすべてが偽りだった。全て無意味だった。全部お前らの掌の上だった。──だがな、偽りだろうが何だろうが、私は試験官だ。私が選んだ者のみがこの箱に乗れるのだ」
──チーン。
静寂の中、エレベーターの到着を告げる電子音が、軽快に響いた。
ヒマワリの口元が、裂けるほど大きく吊り上がる。
「私はお前を、合格させた覚えは無いぞ、ツクモ」
直後──。
真っ白な爆炎が蹂躪した。
事前にエレベーターの内部に仕掛けられていた爆薬が、一斉に咆哮を上げたのだ。
凄まじい爆圧が、ツクモの小さな身体を容赦なく捉え、吹き飛ばす。
白煙が、一瞬で包み込んでいく。静謐だった空間は一転して、焦熱と硝煙の入り混じる地獄絵図へと変貌した。
「……っ、がはっ……!」
吹き飛ばされたツクモ、美しい衣装は黒く焼け焦げ、関節からは火花が散っていた。
「こ……れは。流、石に想定外──」
顔を上げたツクモと、縄から腕を引き抜いたミサキの視線がぶつかった。
その一瞬だけが、異様なほど長く引き延ばされる。
ミサキが自由になった。
ツクモは、それを確認した瞬間に判断を終えていた。
情も、迷いも、これまで語ってきた絆も、合理的な処理の前では何の障害にもならない。
陶器の指が端末の一箇所へ触れた。
たった一度、押しただけだった。
直後、ミサキの服の内側から冷たい着信音が鳴り始める。
「何もさせるわけにはいかないのであります」
偶然がミサキへ味方した。
それは状況の流れが、一瞬だけ向こうへ傾いたということだった。ならば、傾きが大きくなる前に切り捨てる。それがツクモの判断だった。
「ごめんなさいなのであります」
「……いや、謝ることないさ」
ミサキは床へ片膝をつき、鳴り続ける携帯電話へ手を伸ばさなかった。
さあ、答え合わせを始めよう。
「アンサーの殺害パターンには、二種類。一つは、電話に出た相手に問いかけ、その問いに答えられない場合、問答無用で相手をあの世に攫う挙動」
ミサキは、二本目の指を立てる。
「二つ。電話に出ない相手を確実に処理するため、その場に直接アンサーを転移させ、物理的に殺害するパターン」
服の内側で、着信音が鳴り続けている。
出れば攫われる。出なければ殺しに来る。怪人アンサーとは、そういう怪奇だ。逃げ道を塞ぐために、ツクモがそう作った。電話という入り口を通じて相手を捕まえ、応答しようがしまいが、最後には必ず処理へ繋がるように仕組まれている。
「ボクはこれに出ない。だからアンサーは直接ボクを引き裂きに来るはずだ」
「これは状況を打開できるようなものじゃないし、君にうち勝てるようなものでもない。そうだね、綺麗に言い繕って、いいとこ……他人任せの賭けかな」
これは賭けだ。
幾つもの絶対なる前提条件があって、多分それを支える些細な条件が無数にあって、それらを全部踏みつけにして、ようやく手を伸ばせる賭け。
「人間なら殺してはい終わり。でもあいにくボクってば人間じゃないから」
こっくりさんは、呼ばれた先に残る。紙の上にも、声の中にも、誰かの内側にも。
「彼が――ヤモリが、ボクを中に入れていたとしたら?」
ツクモの顔が、わずかに強張った。
「君のアンサーは、ボクを殺すためにどこまで追うのかな。ここにいるボクだけ? それとも、向こう側に攫ったヤモリの中まで?」
確証はない。
だが、怪人アンサーが本当に逃がさない怪奇なら、殺すべきものを見つける。見つけたなら掴む。掴んだなら、向こう側にいるヤモリごと引きずり戻す。
「ボクには分からない。だから賭けなのさ」
鋭い銃声が、静寂を切り裂いた。
弾丸はツクモの腹部へ吸い込まれる。透明な球体が甲高い音を立てて砕け、内側に満ちていた培養液が白い衣装へ弾けた。そこに収められていたものが支えを失い、管と共に崩れ落ちる。ツクモの身体が大きく揺れ、細い指が反射的に腹部を押さえたが、砕けた器はもう形を保てない。
生温かい培養液の飛沫と共に、ドサリと重い音を立てて朱塗りの木床へと零れ落ちる暗赤色の肉塊。どろりと這い出た、黒ずんだ肝臓の鈍い塊。その隙間から滑り落ち、嫌な粘液の糸を引いて複雑に絡み合う太い小腸と大腸。さらに、まだ僅かに生前の温もりを記憶しているかのように、ピクリと生々しく脈動する心臓の残骸。
人間を構成する際に無くてはならないものが、からくり人形の白磁の身体から無残に這い出し、黒ずんだ血の海の中に広がっていく。
「な ── ――――」
硝煙の向こうから、外套を翻し、一人の男が静かに歩み出た。
「お返ししますよ」
男が指先で弾いた硬貨が、綺麗な放物線を描く。ミサキはそれを、慣れた手つきで受け取った。
「お帰り、ヤモリ。あの世はどうだった」
「二度と行きたくはないですね」
ヤモリは、いつもの調子で答えた。
【こっくりさん】
ヤモリは、怪人アンサーから逃げ延びた後、保険として降霊の儀を行っていた。自分が助からないと知っていた彼は、怪人アンサーに攫われることを前提に、ミサキの一部を自分の中へ招き入れていた。向こう側へ落ちた後でも、怪人アンサーがミサキを殺そうとすれば、その一部を探してヤモリへ辿り着くように。
怪人アンサーの「標的を逃がさない」という性質を逆手に取り、殺すために伸びた手で、向こう側に沈んだヤモリをこちら側へ引きずり戻させるための罠だった。
「…………………………………………何故」
腹部から零れ落ちる臓器を必死に押さえながら、彼女は小刻みに震えた。
「何故、アンサーはヤモリを“そのまま”にしなかったのです……!」
赤黒い液体が、彼女の細い指の隙間からどくどくと滴り落ちる。
「ミサキ様の推論は、あくまで可能性に過ぎない! 論理的裏付けも不完全、証明も無い、ただの仮説止まりだ! ならば合理性を優先すべきだった! ヤモリはすでにあの世だ、ならそのまま放置し、ミサキ様を、目の前の最大の脅威を排除する──それが最適解でしょう!? 怪人アンサーは、その程度の判断すら出来ないほど低劣ではないはずだ! 悩む必要すら感じられない二択であります!!」
合理的ではない。論理的ではない。最適解ではない……!
そんなものは――――
「『二択』だからですよ」
あっさりと、そう答えられる。
「――――」
「選択の余地があるのなら、もう片方を選ぶことが能う。そんなシステムの余地を作り出してしまった時点で、貴女の作品は未完成と言わざるを得ません」
百物語りの到達点。
そう呼んできたものに、今、初めて別の名がつけられた。
それは、未完成。
「貴女は最初から、致命的な勘違いをしていた」
事実を述べられていく。
「怪奇を、ただの操作可能な『機械』として扱おうとした」
「それが間違っていたとでも言うのです……?」
ツクモが呆然と顔を上げる。その瞳の奥には、純粋な探求者としての好奇心があった。
「少なくとも、半分は正しい」
ヤモリは小さく肩を竦めた。
「貴方方が改変したこの世界において、怪奇は解析され、分類され、加工される。機械に押し込め、兵器に変え、人格を削ぎ落として使役される。貴女のやったことは、怪奇利用という観点で見れば見事です。時代の最先端と言ってもいい」
「なら ── !」
「ですがねぇ」
ヤモリが言葉を切る。その冷徹な目が、ゆっくりとツクモを射抜いた。
「“怪奇とは何か”を、貴女は最後まで理解できなかった」
「怪奇は法則です。恐怖です。現象です。……ですが同時に、人間から生まれたものでもある。人の噂。人の悪意。人の祈り。人の執念。人の後悔。人の、ドロドロとした感情──それらの澱が積み重なったものこそが、“怪奇”だ」
ヤモリは静かに、ツクモを見下ろした。
「怪奇とはそういう『不合理』の塊なんですよ」
ツクモの呼吸が、ガタガタと乱れる。
「何故、アンサーはヤモリを連れ戻した……!」
「これは推論とはなりますが――――嫌だったんでしょうねぇ」
「――――」
「貴女に、全部好き放題されるのが。……道具として扱うのは結構ですが、今一度、自身が扱うものの正体を識っておくべきでしたね」
ミサキが、張り詰めた空気の中で、ふっと吹き出した。
「……はは」
爆炎の赤に照らされた顔で、彼女は心底愉快そうに笑う。
「確かに。ボクでもそっちを選ぶ。君に一泡吹かせられるなら、なおさらね」
「とまあ」
ミサキの言葉に合わせるように、ヤモリが肩をすくめた。
「当の怪奇も、そう言っているようにね」
沈黙。敗北を認めるためのものではない。こんなものツクモにとっては敗北ですらない。ヤモリは戻った。ミサキの賭けは通った。怪人アンサーは合理だけでは動かなかった。そこまでは認めよう。
「……なる、ほど。ですが状況は何も変わっていないのです。要は、改めてアンサーが目の前で二人を殺すということ。むしろこちらの方がツクモ的には良かったのですよ」
その声には、先ほどまでの狼狽はもう無かった。
言葉の通りだ。ただ、あの世から一人を連れ戻した。確かにそれは偉業だろう。
──で? そこから何が出来るというのか。
「お二人とも同時に同場所で仲良く一緒に殺せる。こちらの方がかえって良かったかもしれないのですよ」
ツクモが手を挙げる。その背後にアンサーが、いつの間にか佇んでいた。
二メートルを超える、圧倒的な巨躯。
その頭上には、無数の黒い携帯電話が同心円状に浮遊している。それらは不吉な衛星のようにゆっくりと回転しながら、不気味な着信音を断続的に鳴らし続けていた。
両腕の先には、あらゆる人間を怪奇を切り裂いてきた鋼鉄の巨大なかぎ爪。
その顔には眼も鼻も口も無い。ただ、のっぺりとした青い表層──ブルースクリーンに、白いエラーコードの文字列だけが絶え間なく明滅し、流れ続けている。
そうだ。
これが、最後の相対となるのだ。
「さあ怪人アンサー、二人を殺すのです」
ツクモが反撃を命じようと、勝ち誇って――――。
「──え?」
巨大な鉤爪が、背後からツクモの肩を掴んでいた。
華奢な絡繰りの身体が、軽々と持ち上がる。ツクモの足が宙を掻いた。ミサキも、ヤモリも、すぐには動けなかった
アンサーはただ静かに。極めて、丁寧な動作で。
ツクモの頭部を、両の巨大なかぎ爪で左右から包み込むように掴む。
メキ。
メキリ。
軋んではいけない強度の硬質パーツが、悲鳴を上げて歪んでいく音が、静まり返った箱庭へ響き渡った。
「……あ」
凄絶な音を立てて、ツクモの頭部が胴体から強引にもぎ取られた。
切断面から狂ったように噴き出す火花と、黒いオイルの雨。
アンサーは、もぎ取った彼女の頭部をゆっくりと自身の頭上へ持ち上げた。
それはまるで、卵の殻を優しく割り、中から大切な黄身だけを取り出すような──そんな手つきだった。
パカリ、とアンサーの爪がツクモの頭部を真っ二つに割る。
そこから、とろりと、人間の『脳』が零れ落ちた。
最後の臓器。
すべてを統括する脳だけは、腹部ではなく、ツクモの頭部の中に隠されていたのだ。
重力に従って落下した臓器が、アンサーののっぺりとした青い顔面に触れる。
まるでブルースクリーンめいた平坦な輝きが、水面のようにぐにゃりと波打ち、内側へと完全に融解させていく。
ごめんなさい。
あの「その短さが〜」みたいな型は使いません。普通に直します。
---
頭部を完全に失ったツクモの身体が、どさりと崩れ落ちた。
ミサキもヤモリも、すぐには動かなかった。
怪人アンサーは二人を襲わない。ツクモの命令にも従わない。ただ、取り戻した脳を青い顔面の奥へ沈めたまま、静かに立っている。
頭上を巡っていた携帯電話のいくつかは、すでに光を失っていた。青白い表層を流れるエラーコードも途切れがちで、巨体の輪郭には細かなノイズが混じっている。
ヤモリは、アンサーから目を離さないまま一歩下がった。
助けるための距離ではない。
何かが起きた時、自分だけは逃げられる距離だった。
「ミサキさん。ムーツさんは、もう保ちません」
ミサキは返事をしなかった。
「ツクモの体内で保存されていた脳だけが、彼女と怪人アンサーを繋いでいた。それも今、保存環境を失った。数分もてば上等でしょう」
ヤモリは懐の呪符に指をかけた。
「怪人アンサーは、本来なら怪奇のルールに縛られる。問いを投げる。答えられない者を連れていく。無視した者を殺す。ですが、ムーツさんが中核にいたからこそ、そのルールを人間の判断で曲げられていた」
ミサキは、アンサーを見上げた。
巨大な怪物だった。
青い顔。無数の携帯電話。人を裂くための鉤爪。何度も敵として立ちはだかった、問いの怪奇。
けれど今は、ツクモの命令にも、自分自身のルールにも従っていない。
ただ、ミサキの前に立っている。
「ムーツさんが死ねば、その制御は消えます」
ヤモリは続けた。
「消えるのか、暴走するのか、ただの怪人アンサーに戻るのかは分かりません。私は、近づくべきではないと思います」
外へと歩き始めるアンサー
「えっと……」
「お先に行きなさい。私はまだやることがある」
ミサキはアンサーと共に出ていった。




