第四章 襲撃
第二試験を終えた、次の日の夜だった。
「「かんぱーい!!」」
ミサキとツクモがグラスを打ち鳴らす。
彼女たちの目の前には……狭い食卓を埋め尽くすほどの料理の数々。
肉料理、魚料理、煮込み、見たこともない色合いの前菜に、湯気を立てるスープ。下層の薄汚れた食堂で出てくるような粗末な合成食ではない。香辛料の刺激的な香りが部屋いっぱいに漂い、見ただけで胃袋が暴れ出しそうになる。
そして、これほど見事な御馳走を作り上げた張本人はといえば……。
「残したら殺します」
黒いエプロン姿のヤモリが包丁を手に立っていた。今日のシェフはお残しを一切許さない構えらしい。
「へぇ?」
ミサキが不敵に頬杖をつく。
「そう言うからには、味には相当自信があるんだろうね」
ヤモリは何も答えず、無言で顎をしゃくった。はやく食え、それで分かると絶対の自信が滲み出ていた。
「さて、ボクはこれでも味にはうるさいほうで――――」
能書きを垂れながら、まずは一口。
「…………」
「……………………」
「…………滅茶苦茶うまい!!」
ミサキは勢いよく顔を上げた。その瞳は驚きと感動で爛々と輝いている。
それからしばらくは、食事に夢中だった。
料理はどれも手が込んでいて、皿を空にするたびに次の料理へ興味が移る。
ツクモは楽しそうに写真を撮り続け、ミサキは食べ続け、ヤモリはそんな二人を横目に静かに酒を飲んでいた。
「ところでさ」
ミサキはパンに似た圧縮穀物をスープへ浸しながら尋ねた。
「ボク、本当に合格したことになってるの?」
「大丈夫なのです。ヒマワリ様ご自身が、最初に目覚めた者を合格とすると仰っていたのですよ。このツクモ、道理に反したことはさせないのです」
「ならいいか」
結構暴れたつもりだったけど、
気付けばグラスの中身も半分ほど減っている。
そんな中で、ヤモリは不意に思い出したように言った。
「結局、貴女の言う『世界の破滅』は来ませんでしたね。確か今日だったはずでは?」
「ゲホッ……!!」
ちょうど大ぶりの肉を飲み込もうとしていたミサキが、盛大に喉を詰まらせてむせた。
ミサキの絶対的な(はずの)予言によれば、本日、世界は綺麗に崩壊する予定だった。
しかし現実はどうか。
下層の街は、今日もいつも通り薄汚れて健在。
窓の外では安っぽいネオンがチカチカと瞬き、遠くの方で酔っ払いが怒鳴り合っている。
世界は、拍子抜けするほど普通だった。
「まだ分からないじゃん! まだ今日は終わってないしっ……それに……それに……」
必死に反論を試みようとして、しかし、それに続く言葉がどこにも見当たらない。
「はぁ~~……」
ついには机へ突っ伏した。降参の構えだった。
「絶対に当たってると思ったんだけどなぁ……。もう自分の能力にも自信無くなってきたよボク」
「わ、わ!」
ツクモのレンズがさらに激しく音を立てる。
「ミサキ様が落ち込んでる! 」
両目のカメラが忙しなく明滅した。
ミサキは指先だけで力なくピースサインを作ってみせる。
「勘違いという線が最も濃いでしょうが……まぁ、貴女の何らかの行動が未来を変えた可能性もあります。案外、ちょっとしたことで破綻してしまう出来事は多い」」
「慰めてくれてるの?」
「気色悪いことを言わないでください。私はただ……」
「ただ?」
ヤモリは答えなかった。
代わりに、手元のグラスを静かに持ち上げる。
毒々しい紫色の液体が、音もなく彼の喉の奥へ消えていった。
グラスがテーブルへ戻る、小さな音が響く。
「……怪人アンサーを、どう思いますか」
「どうって?」
「電話へ出ても死ぬ。出なくても死ぬ。だっけ?」
ミサキがぽつりと言葉にする。
文字にしてしまえばあまりにも単純で、だからこそ、付け入る隙のない理不尽さが際立っていた。
「怪奇とは理不尽なもの。しかし、その理不尽さには大抵どこかに綻びがある」
「だというのに……怪人アンサーにはそれが見当たらない」
「だから厄介なんです。奴は――完成され過ぎている」
「怖いの?」
投げられた言葉に、ヤモリの眉がぴくりと動いた。
「………………………………はぁ?」
低く聞き返す彼を前に、ミサキはいたずらが成功した子供のように口元を歪めた。
「隠さなくても分かるさ。君からは恐怖の匂いがする」
ミサキは小さく鼻を鳴らし、陶酔したように目を細めた。
「うぅん……良い匂いだ。実に芳醇な香りがするよ」
ヤモリは不快げに眉間を寄せ、無言で居住まいを正した。
「……気色の悪い表現はやめていただきたい。これは恐怖などではありません」
「これは、正しく彼我の戦力差を認識した上での”警戒”です。先を冷徹に見通した結果の判断と言い換えてもいい。そもそも、この期に及んで現状を楽観視できる方がどうかしているんです。致命的に想像力が欠如しているとしか思えませんね」
「ふぅん」
ミサキは気のない返事をしながら、トントンと机を叩いて頬杖をついた。
「怖けりゃ怖いで、別に良いと思うけどね。――ボクだって怖いし」
「今までは何となくここまで来たんだ。目の前の怪奇を片付けて、目の前の試験を突破して。気付けば、こんなところまで歩いてきていた」
ふっと、煤けた天井を見上げる。その瞳には、いつになく真剣な光が宿っていた。
「でもさ、あと少しなんだよ。あと少しで、本当に手が届く」
視線を落とし、少女はぽつりと呟いた。
「だからかな。目的が道半ばで終わってしまうことが、今は一番怖い」
ツクモが、フォークを置いてひょいと口を挟んだ。
「そういう時は、手に『人』と書いて飲み込むと良いらしいのです」
「へぇ? じゃあ100人食べよう」
ミサキは即座に自分の掌へ猛烈な速度で指を走らせ始めた。
「……あれは緊張している時にやる気休めのおまじないでは?」
ツクモはフンスと誇らしげに機械の胸を張った。
「恐怖と緊張はご近所さんなのです。だから片方を上手になだめてやれば、もう片方もつられて静かになる……ヤモリもやってみたらどうなのです?」
「すみませんがね。あまりに馬鹿らしいことはやらないって決めてるんです。人生の無駄ですから」
「無駄?」
ツクモが小さく首を傾げた。
「それは違うのです、ヤモリ。自分で自分の背中を後押しする行為にこそ、こういう一見すると馬鹿らしい儀式が必要なのです。人は、理屈や計算だけで動けるほど賢くはできていない」
ツクモの瞳がキラリと輝く。
「だからこそ、こういう子供騙しのようなまじないが、何百年も廃れずに残っているのです」
ツクモは当然のような顔をして、ヤモリの前へ小さな機械の手を差し出した。
掌を上に向けて、じっと彼を見上げる。ヤモリはそっぽを向いた。向きながら嫌そうに手に指を這わせた。
「これで100っと。100だよ100。リラックス効果も100倍だよ」
「よくぞそこまでひたすらに書き連ねたのですよ。キリ良く百も書けばそれは素晴らしい効果が得られるのですよ」
「むしろ希釈されませんかね?」
つい先程まで、怪人アンサーについて語っていたとは思えないほど、底が抜けたようにくだらない会話だった。
意味はない。
何一つ役にも立たない。
これによって眼前の過酷な状況が改善されるわけでもない。
それでも、誰もこの話を切り上げようとはしなかった。
だから、ヤモリも切り上げなかった
ミサキの視線が、ふっと斜め上の宙へ向いた。
ゆっくりと立ち上がり、すっと腕を耳元へ寄せる。それに応えるように、右手の表面へ黒が滲む。墨を垂らした水面のように広がった闇は、瞬く間に硬質な輪郭を結び、一台の携帯電話へと姿を変えた。
――――ピリリリリ。
無機質な着信音が鳴る。
たったそれだけだった。
それだけで、先程まで部屋を満たしていた温かな空気は、跡形もなく消え失せた。
ミサキは何事もない日常のひとコマのように、携帯電話を耳へと当てる。
「もしもし」
『最終通告をしに来た』
受話口の向こうから響いたのは、ヒマワリの冷徹な音色だった。
『今すぐ棄権しろ。でなければ、殺す』
短い沈黙の後、ミサキの唇が楽しげに吊り上がった。
「わーお」
ミサキは低く笑った。
「実に分かりやすい。脅迫のお手本みたいな台詞だね」
『冗談だと思うか? こちらはいつでもお前の命を奪うことが出来る』
一度息を吸い吐く。
「何時でもかぁ。そりゃすごい自信だ。ねえねえ、ちょっと聞いて欲しい話があるんだけどさ」
声音が、鈴を転がすような軽やかさのまま、ほんの少しだけ低くなる。
「君がそんなに傲慢で自身にあふれていられるのは――――怪人アンサーを所有しているから、違うかい」
声は軽いままだったが、その底には先ほどまでの食卓にはなかった硬さがある。
それは、この場で思いついた当てずっぽうではない。
終頁プロジェクトの参加者たちは、試験の裏で相次いで命を落としていた。その多くに怪人アンサーの影があり、被害者が無作為に選ばれていないことも分かっている。
狙われたのは、いずれも上層へ近づこうとしていた者たちだった。
ヤモリは集めた記録を突き合わせながら、すでに一つの結論へ辿り着いていた。
「参加者を最初から一堂に集めて殺さなかったのは、そこまで露骨な凶行へ及べば、さすがに周囲の目を誤魔化しきれないと判断したからでしょう」
だから、試験そのものは続ける。
最低限の人数だけを残し、審査が正当に進んでいるという体裁を外向けに保ちながら、裏では怪人アンサーを使って生存者を一人ずつ消していく。
そうすれば、終頁プロジェクトは最後まで運営されたことになりながら、合格者だけは一人も出ない。
すべては、人間を管へ入れないため。
下層の者を、上層へ昇らせないためだった。
ミサキはその推理を、受話口の向こうにいるヒマワリへ突きつけた。
「怪人アンサーに参加者を襲わせたのは君だ。試験を続けるふりをしながら、生き残った人間を裏で消していた」
返ってきたのは、怒りでも動揺でもなかった。
『……なんだ、今さらその話か』
受話口の向こうから漏れ出たのは、拍子抜けするほどに気の抜けた、ひどく退屈そうな声だった。
『プロジェクト参加者が死んでいるから、私が人間を憎んでいるから、それらを単純に等号で結んだか?』
鼻で笑う音。
『正解だよ。ゴミめ』
どろり、と。
粘つくほど濃密な悪意が、受話器越しに滲み出す。
『いいか、教えてやる。憎しみは、この世で最も優れた原動力だ。目的のために動き続けること、考え続けること、折れずに進み続けること――その全てを可能にしてくれる』
彼は心底愉快そうに、喉の奥を鳴らした。
『私が毎日こうして精力的に活動できるのも、お前たち人間のおかげと言えるだろうな』
「感謝してくれてもいいよ」
『心の伴わない感謝に価値はない。それに、たとえ口先だけであろうと、お前たち人間へ謝意を示すつもりは毛頭ない』
わずかな間が空く。
『ところで、お前は今、管から離れた地下施設にいるそうだな』
ミサキの目が細められた。
ヒマワリは答えを求めることもなく、愉悦を含んだ声で続ける。
『知ったときは驚いたぞ。ネズミめ、いつの間にそんな場所へ潜り込んだ。しかも、そこからまだ上を目指そうとしているとはな』
「別にそれぐらい良いじゃないか。そんなに人が嫌いなんだね」
『当然だ。そしてその中でも私をここまで不快にさせた奴は、後にも先にもお前だけだ』
「へぇ奇遇だね、ボクも君が大っ嫌いなんだ。……あの子を、ただの道具みたいに扱っている君のことがさ」
一瞬の静寂。
次の瞬間、ヒマワリは狂ったように嗤った。乾いた、壊れた楽器のような笑い声。
『お互い様だろう! 人間は昔から、自分たち以外のものを道具として扱ってきた! 使い、壊し、不要になれば捨て、それでも自分たちだけは善良だと思い込んでいる!』
言葉を重ねるほど声は熱を帯び、押し殺していた嫌悪が剥き出しになっていく。
『私はそれを嫌というほど見てきた。慈愛を語りながら、結局は自分たちの都合しか考えない。痛みを知っていると言いながら、他者へ同じ痛みを与えることには躊躇しない。だから嫌いなのだ。お前たちが――私と同じ人間であるという、その事実ごとな!』
荒い呼吸の音が受話器を震わせる。
数秒の沈黙の後、彼は感情を無理やり押し殺した低い声に戻った。
『……それで? 答えを聞こう。参加するのか、しないのか』
「参加するよ。決まってるだろ? 大声を出さないでくれよ、耳が痛くなる」
ミサキは空いた左手で、耳元を軽く掻いた。
『……………………』
返答はない。しかし、その濃密な沈黙だけで、血管がちぎれんばかりの怒りが伝わってきた。
『……それが…………答えか』
『ならば、第三試験へ進むことを認めよう』
「ずいぶん素直だね」
『内容は単純だ――――生き残って見せろ』
唐突に通話が途切れた。
あとに残されたのは、鼓膜を虚しく叩く無機質な電子音だけ。
ミサキは端末を下ろし、背後に控える面々へと振り返る。
「来るよ!」
「あの子が――――怪人アンサーが!!」
◇
ヒマワリは受話器を叩きつけるように置くと、深く、重く、息を吸い込んだ。
吐く。吸う。吐く。
何度も繰り返し、脳を焼く衝動を冷徹な理性で縛り上げていく。
今すぐ管の地下へ突き進み、あの女の首を骨ごとへし折ってやりたい。
そんな煮え繰りかえるような憤怒を、自らの内側に力ずくで閉じ込める。
あの女はまだ生き残れると思っているのだろう。
第二試験の罠を破り、除去官二人を相手に生き延び、試験監督である自分までこけにして、それで愚かにも自信がついたのだろう。ああ、私ならどうにかなるはずだ。
その思い上がりを、徹底的に潰す必要があった。
掌の上へ黒い染みが浮かび、皮膚の内側から染み出すように指先まで広がっていく。闇は一定の形へ収束し、古びた携帯電話となって彼の手中へ収まった。
番号を入力する必要はなかった。
怪人アンサー。
この街の闇から、無数の人間を文字通り“存在ごと”消し去ってきた、完成された不条理。
ヒマワリにとって最高の『道具』であり、同時に、人間どもへその傲慢の報いを受けさせるための、絶対的な切り札。
彼はこれを渡してくれた相手に深く感謝していた。
不意に、室内の照明が狂ったように明滅し始めた。
室温が急速に低下し、空気が鉛のように重くのしかかる。
怪奇現象だった。しかし、ヒマワリにとっては見慣れた前兆に過ぎない。
彼は眉一つ動かさず、ただ静かにその時を待った。
やがて、机の正面に広がる何もない空間へ黒い染みが現れた。
最初は煤が付着した程度の小さな汚れだったものが、周囲の光を吸い込みながらゆっくりと広がり、床から天井までを縦に裂く深い亀裂へ変わっていく。
その奥から、青い貌が浮かび上がった。
輪郭を失った人影、鋭いかぎ爪、青の貌、そして頭上には、無数の携帯電話が同心円を描くように浮かんでいる。
ただそこに立っているだけで室温はさらに下がり、執務室を満たしていた機械の駆動音さえ遠のいていく。空間そのものが、アンサーという存在を受け入れるために音と熱を明け渡しているようだった。
「さて。対象は理解しているな?」
アンサーは答えない。
返答など最初から求めていなかったヒマワリは、机を回り込んで壁際へ向かうと、飾られていた大きな額縁を外した。その裏側に隠されていた認証盤へ掌を押し当てると、重い駆動音が床下から響き、四方の壁面がゆっくりと反転を始める。
白く整えられていた壁の裏から現れたのは、執務室の外観とはあまりに不釣り合いな武器庫だった。
整然と並ぶ銃器、冷たく光る刃物、絡み合う鎖。用途不明の器具。
それは、人を殺すためだけに作られた純粋な殺意の結晶だった。
「お前にはその爪がある。空間を跳躍する機動力もある。素の性能だけでも、あのネズミどもを屠るには十分だろう。だが――」
ヒマワリが視線でそれらの武器群を示した。
「私は“最大効率”による蹂躙を期待する。好きなものを好きなだけ使え。人を殺すために作られた道具だ。使われるために存在し、殺すためだけに研ぎ澄まされた。これらすべてをお前の力に変えるがいい」
アンサーが動く。
かぎ爪が武器棚へ伸び、銃を、刃物を、爆薬を、自らの体の中へと沈めていく。
形を持つ殺意を次々と呑み込み、自らの一部として再構築していく。
ヒマワリはその様子を満足そうに見つめていた。
これこそが怪人アンサー。
人を殺すという一点において、どこまでも完成へ近付き続ける怪奇である。
最後の武器がアンサーの身体へ沈むと、ヒマワリは一歩後ろへ下がり、道を空けるように片腕を広げた。
「さあ――行け」
怪人アンサーの輪郭が陽炎のように揺らいだ。
頭上に浮かんでいた携帯電話が一斉に暗転し、黒い身体が無数の細かな粒へ崩れていく。次の瞬間には、その姿も、周囲にまとわりついていた冷気も、最初から存在しなかったように消え失せていた。
「さて。駆除は迅速に、だ」
ヒマワリはゆっくりと、元の壮麗な椅子へと腰を下ろす。
慌てる必要などない。焦る理由もどこにもない。成すべき準備はすべて終わった。あとは極上の結末が届くのを、ここで静かに待てばいい。
豪奢な机へ肘を置き、指を組む。
その瞳には、揺るぎない勝利の確信が灯っていた。
恐怖を隠して虚勢を張るのか。仲間を盾にして逃げるのか。それとも最後まで、自分だけは特別だと信じながら死ぬのか。
どの結末であっても構わなかった。あの女さえ死ねば、それでいい。
上層へ誰もを通さないという目的さえ果たされれば、それでいい。
彼の瞳には、揺るぎない勝利の確信が宿っていた。
ミサキがゆっくりと肺の空気を吐き出すと、背後の闇から静かな声が響く。
「相手方には貴女に直接電話を架ける選択肢もありましたが……少なくとも現時点では、確実な手段を選ぶつもりはないようですね」
ヤモリだった。
壁へ寄り掛かったまま腕を組み、薄暗い室内を眺めている。蝋燭の灯りは頼りなく、その横顔の半分以上は影の中へ沈んでいた。
「猫がネズミを捕まえる前に弄ぶようなものなのです。どうせ逃げられないと思っているからこそ、最後まで反応を楽しみたがる。本人は余裕のつもりでしょうが、こちらからすると非常にありがたい欠点なのですよ」
「おかげで準備の時間が稼げました」
ヤモリは淡々と言った。
「もし彼が合理性だけで動く相手なら、今頃もっと厄介な状況になっていたでしょうね」
そう言うと、彼は改めてミサキへ視線を向けた。
「作戦は理解したでしょうね。貴女はこの先の戦いにはついてこられない。この部屋に籠もっていなさい」
ヤモリは自動扉の前に立ち、蝋燭の輪の中央へ座るミサキを見下ろしていた。
机の上には古びた降霊盤が置かれ、その中央に載せられた十円硬貨へ、ミサキの右手が添えられている。橙色の炎が揺れるたび、煤けた壁へ獣の耳と尾を備えた影が大きく伸び縮みしていたが、彼女は緊張した様子もなく、椅子の背へ軽く身体を預けていた。
「言われなくても分かってるよ。君たちの戦いに混ざったって、邪魔になるだけだろ」
「理解が早くて助かります」
「それより、君こそ大丈夫なのかい。さっきは随分と怖がってたみたいだけど」
ヤモリの眉間へ浅い皺が寄ったものの、反論する代わりに扉の操作盤へ指を伸ばした。
「じゃ、死なないように頑張りなよ」
「当然です」
重い金属音を立てて扉が閉まる。その音が完全に途切れるや否や、ヤモリとツクモは弾かれたように通路を走り出した。
目指すのは、この防衛線の心臓部――名を付けるとするなら中央管制室。
地下施設の各所へ設置された監視装置と迎撃設備を一括して扱うため、既存の制御室へツクモが手を加えた即席の管制拠点である。
二人が室内へ飛び込むと、壁一面に並んだ監視画面の青白い光が、暗い部屋の中から迎えた。
地上へ続く搬入口、地下へ延びる螺旋階段、複数の通路が交わる大型区画、長く使われていない整備路。施設内の映像が途切れることなく並び、その明滅の合間を、機械の駆動音と冷却装置の低い唸りが満たしている。
ツクモはまっすぐ操作卓へ向かい、両手をコンソールへ置いた。
「監視装置はすべて正常なのです。地上側から最深部まで、今のところ死角はないのですよ」
画面が次々と切り替わり、地下施設の構造が一つの見取り図へまとめられていく。
地上から内部へ入る経路は三つあり、その先では通路が四方へ枝分かれしている。さらに最深部へ進むには、迂回の難しい大型区画を幾つも通らなければならず、どの道を選んでも、必ず迎撃地点を横切る構造になっていた。
「どれだけ近道を選ぼうと必ず何度か足を止める必要がある」
「その通りなのです」
ツクモは頷く。
「そして、その全てに迎撃の仕込みがごまんとあるのです」
ヤモリの視線の先、モニターが映し出す通路の床、壁、天井には、びっしりと墨文字の刻まれた黄色い呪符が貼られていた。それらはすでに怪異を拒絶する青白い煙を毒々しく漂わせ、空間そのものを絶対的な結界へと作り変えている。
「一体どれだけの金が消えているのでしょうね」
「ですが、その甲斐はあるはずなのです。怪奇は呪符を嫌い、避けざるを得ませんから」
少なくとも理論上は。
言うべきことを言い終えると、室内に降りてきたのは重苦しい沈黙だった。
いつ来る。どこから襲ってくる。
二人はただひたすらに施設の全域を網羅する監視映像を凝視し続けた。
静寂。明滅する光に照らされながら、ヤモリが喉を鳴らす。
「これだけの密度で結界を張ったんですよ。いくらあの怪異が真正面から突進してくるにしても、突破するのには相当な時間が――」
壁面に並ぶ画面の一つへ激しいノイズが走り、地下十五階、第三螺旋階段の映像が一瞬で砂嵐へ呑み込まれる。ツクモが操作卓へ身を乗り出した直後、乱れていた映像が唐突に復旧した。
階段の中ほどに、黒い人影が立っていた。
何かが近づいてきた様子も、闇の中から現れた瞬間も映っていない。まるで監視映像が乱れる前から、そこに立っていたかのような自然さで、怪人アンサーは踊り場を占めていた。
「……初手で、ここまで肉薄されますか」
ヤモリの瞳が見開かれる。
地下十五階は、すでに防衛網の中核に当たる。そこへ辿り着くまでには、幾重もの結界と隔壁があり、どれほど強力な怪奇であっても、少なくとも数十秒、条件がよければ数分は足止めできるはずだった。
だが、アンサーはもうそこにいる。
怪奇は踊り場で静止していた。微動だにせず、ただ、監視カメラのレンズをじっと見上げている。
映像を隔て、真正面から、こちらを。
ヤモリを、見ている。
「……ッ!」
背筋に、氷を流し込まれたような悪寒が走った。
視線が合った。カメラを介し、映像を隔てているというのに、確信できる。
“向こう”もまた、自分たちを認識している。
「ツクモ、遮断!」
「はいです!」
ツクモの手が卓上の赤いボタンを躊躇なく押し込む。
地下十五階、第三カメラ。
映像が白く飽和し、次の瞬間、カメラそのものが火花を散らして爆発した。
監視室に、重苦しい静寂が降りる。
「怪奇は繋がりを辿ります」
ヤモリが、噛みしめるように低く言った。
「視界、認識、あるいは記録媒体。見られること自体が奴にとっての侵入口になり得ます」
モニターを睨みつける。
今はもう暗転したままの画面を。
「少なくとも……爆破は間に合ったようですが」
直後、けたたましい警報が室内に鳴り響いた。
『侵入検知。侵入検知』
赤色灯が回転を始め、別の監視画面が自動的に拡大される。映し出されたのは地下十五階の通路であり、壁から床、天井に至るまで、墨文字を刻んだ黄色い呪符が隙間なく貼り巡らされていた。
並の怪奇なら、通路へ足を踏み入れることすらできない。
だが今、その呪符は通路の奥から順に青白い炎を噴き上げ、次々と黒い灰へ変わっていた。
燃え落ちる札の向こうから、怪人アンサーが歩いてくる。
一歩進むたびに呪符が爆ぜ、その身体の周囲では、空気が陽炎のように歪んだ。結界が存在そのものを拒み、空間の外へ押し返そうとしていることは、映像越しでも明らかだった。
「耐えてる……!? 」
怪異を拒む炎に炙られながら、アンサーは平然と前進してくる。
「……化物ですね」
ヤモリが呟いた直後、第一防壁が作動した。
通路全域に高圧の電流が走り、青白い雷が空間を焼き焦がした。
モニター映像が一瞬真っ白になる。
全身を焼かれ、電撃に貫かれ、煙を上げながら。それでも、膝一つつかない。ただゆっくりと、青の貌を上げる。
「封鎖、急げ!」
ヤモリの鋭い声と同時に、防衛システムが起動した。
数十トン級の防爆シャッターが轟音を立てて降下を始める。爆発にも耐えるよう設計された、分厚い鋼鉄隔壁。通路を完全に断絶するための物理防壁だった。
重々しい音を響かせ、シャッターが床へと到達し、完全閉鎖する。
直後。
衝撃波。鋼鉄の隔壁が、内側からボコりと歪に膨らんだ。
間髪入れず、二撃目。
隔壁を固定していたボルトが次々と弾け飛び、火花を散らしながら壁へ突き刺さる。分厚い鋼鉄が、耐えかねて悲鳴を上げていた。
「早すぎるのです……!」
ツクモの声に焦燥が混じる
「あれほどの呪符を突破した直後で、どうしてこれほどの力が……!」
ヤモリは答えず、監視画面を見つめていた。
呪符が力を削り、電撃が動きを鈍らせ、防壁が時間を奪うはずだった。その前提が、一つずつ目の前で崩されていくにつれ、彼の顔から血の気が失われていく。
三度目の衝撃が訪れた。
今度は打撃音ではなく、爆発に近い破壊音だった。
狂ったように回る赤色灯。鳴り止まない機械の警報。
破壊され、煙の立ち込める暗い通路の奥から、青白い光が、静かに、じっとりと差し込んでくる。
一歩。また一歩。
その足取りに迷いはなく、躊躇もない。
まるで既に結末を知っているかのように、怪人は歩いてくる。
死を連れて。いや――あれこそが、死そのものだった。
「……糞ッ!!他に何か無いのですか!? 実はこの時のために隠していた切り札だとか! 都合良く状況をひっくり返す秘策だとか!」
「無いのです!」
ツクモも珍しく声を荒げた。
「全部使ったのです! ヤモリと自分で出来ることは全部やったのです! 秘策は無から生えたりはしないのですよ!」
「何故こういう時に限って私の代わりに死んでくれる人間が居ないのでしょうね! 命を投げ捨てて時間を稼いでくれるような馬鹿は!」
吐き捨てるような声だった。
「ごめんですよ! 私は! こんな場所で死ぬのは!」
取り乱すヤモリを、ツクモが痛ましげに見つめる。
だが、ヤモリはただパニックを起こしているわけではなかった。監視モニターを射抜くように睨みつけたまま、荒い呼吸の中で低く問いかける。
「はぁ……っ、はぁ……っ……糞が!」
吐き捨てるように悪態をつくと、次の瞬間には叫んでいた。
「ツクモぉ!!」
「っ! はいなのです!」
「このまま奴が進んだ場合の最短ルートを出せ! 今すぐ!」
正面の大型モニターが切り替わり、地下施設全体の構造図が表示された。複雑に入り組んだ通路と階層が青白い線で描かれ、まるで巨大な迷路を上から見下ろいているかのようだった。
「現在位置は地下十五階、第三通路なのです!」
そう言いながら、ツクモは隣の監視モニターへ視線を走らせる。
そこに映る怪人アンサーの位置と進行方向を確認しながら、構造図の上へ予測経路を描き出していく。
「この速度、この進行方向なら中央区画を迂回、第六整備通路へ侵入。そのまま旧搬送路を抜けて地下十八階まで降下する可能性が最も高いのです」
青白い予測線が地下構造図の上を伸びていく。
「地下十八階まで一直線なのです!」
カタカタ、と乾いた高速のキー入力音が響く。
「その途中に、一つだけ大型の空洞があるのです。……絡繰り人形の廃棄場なのです」
モニターがその場所を映し出した。
広大な、空間。そこには無数の、かつて稼働していた人形たちの残骸が山のように積み上がっていた。
錆び付いた機械の腕、半壊した頭部、虚無を湛えた空洞の眼窩。人形の死骸が成す黒い山々は、地下の巨大な墓場だ。
「その場所の詳しい説明を」
「地形は極めて複雑なのです」
ツクモが即座に答える。
「視界も悪い。人形の残骸が至る所に積み上がっているので、見通しはほとんど利かないのですよ」
ヤモリは黙った。
モニターを見つめる。
複雑な地形、悪い視界、大量の遮蔽物。
頭の中で条件が並び、組み上がり、一つに収束していく。
「ヤモリ?」
「……私が出ます」
静かな声だった。その手はかすかに震えている。恐怖が消えたわけではない。むしろ今この瞬間も全力で逃げ出したかった。怪人アンサーと向き合うなど論外であり、自殺と大差ない。
それでも、他に手段が見当たらなかった。
「他に手段が無い。無いのだから仕方がない」
自分に言い聞かせるように呟き、立ち上がる。
足取りは決して軽くない。一歩ごとに寿命が縮んでいるような気分だった。処刑台を歩かされる罪人のようだった。どうせ怪奇に狙われることも無いだろうツクモに嫌味の一つでも言ってやりたかった。
「それじゃあ、行ってきます。さようなら」
扉へ向かう。そして最後に付け加えた。
「せいぜい私の無事を祈りなさい、ツクモ」
そう言い残すと出口へと歩んでゆく。
ツクモの指が、凍りついたように止まった。
一瞬、本当に一瞬だけ、彼女は何かを叫びたそうな顔をした。だが、その言葉を喉の奥で強引に飲み込み、代わりに、祈るように言葉を吐き出した。
「……生きて帰るのですよ」
ヤモリは振り返らない。
「当たり前でしょうが。私はここで死ぬ予定なんて組んでません」
ヤモリは部屋を後にした。
◇
地下十七階、通路。
古びた蛍光灯が天井で不規則に明滅し、静寂をかき乱している。
ジジッ。ジジ、ッ。
白い光が通路を照らし、次の瞬間には闇が落ちる。そして再び光が灯る。その繰り返しが、ただでさえ薄気味悪い地下空間を一層不安定なものに変えていた。湿気を吸ったコンクリートの壁には赤錆が複雑な筋を描き、どこか遠くでは水滴が落ちる音が規則正しく響いている。
ヤモリは気配を完全に殺し、一歩ずつ確実な足取りで歩を進める。
その両手には、使い込まれた二丁の黒鉄の拳銃。
呼吸を整え、鼓動を抑え、余計な思考を切り捨てる。
恐怖も緊張もあるが、今はそれに飲まれるわけにはいかなかった。必要なのは観察だ。相手を知り、自分が生き残るための情報を一つでも多く拾うこと、それだけを考える。
そして――彼は足を止めた。
「…………」
視線の先には何もない。長く続く直線の通路、点滅する灯り、錆びた壁。それだけだ。
だがヤモリは迷わなかった。両手の拳銃を静かに持ち上げ、銃口を正面へ向ける。指を引き金へ掛けた。いつでも撃てるように、いつでも逃げられるように。
蛍光灯が明滅する。
光が消え、闇が落ちる。
アンサーが立っていた。
「……いつぶりですかね。私の事、覚えていますか?」
【……………………】
「たいそう立派なかぎ爪だ。ひと撫でするだけでありとあらゆるものを切り裂ける。それとも今日はそれを使わずに拳銃でも使いますか?」
軽口を叩きながらも、ヤモリはアンサーの肩、腰、足元から目を離さなかった。
僅かな重心移動や指先の変化を見逃さず、何を出してきても即座に退けるよう身体へ力を巡らせる。
「…………貴方の手札は理解しています。あの時と同じとは思わない事ですね」
そう口にしながらも、自分でその言葉を信用してはいなかった。理解は大事だが、理解しているつもりになるのは自殺行為。相手は怪奇なのだから。
【……………………】
果たしてどう動く…………? 一挙手一投足をつぶさに観察する。全神経を研ぎ澄ませていたヤモリだったが相手が選んだのは今まで同様の――――想定外。
アンサーの肩が僅かに揺れた。
そのかぎ爪がいつの間にか握っていたのは……細長く、重厚な円筒。
中央部には無骨な黒のグリップ。後部には反動を殺すための硬質ラバー製パッド。
人の胴ほどもある長大な筒身を軽々と持ち上げ、左手が前部グリップを確実に固定し、右手の指が発射装置へとかかる。
暗い筒の先端が、ヤモリを捉えた。
――ロケットランチャー。
「……それは、聞いてないですよ」
呟きが消えるよりも早く発射装置が押し込まれ、狭い通路を揺るがす轟音とともに砲弾が放たれた。
ヤモリは床を強く蹴って左手の壁際へ飛び、肩から転がり込むように射線を外した。直後、背後のコンクリートが爆炎に呑まれ、粉砕された壁材と金属片が衝撃波に押し出されて通路全体へ降り注ぐ。
耳鳴りの中で身体を起こしたときには、アンサーはすでに煙を突き抜けていた。
使用済みの発射筒は消え、その鉤爪には短い銃身の散弾銃が握られている。
銃口が上がるのを見たヤモリは、床を滑るように後退しながら二丁の拳銃を立て続けに撃った。
放たれた弾丸は確かにアンサーを捉えていた。肩を撃ち抜く。胴を貫く。青白い貌のすぐ脇を掠める。
だが、止まらない。怯まない。速度すら落ちない。まるで弾丸を受けているという事実そのものに意味が無いかのように、怪人は距離を詰めてくる。着実に、確実に。
「何故ッどいつもこいつも怪奇らしく振る舞わないのですかっ!」
悲鳴のような叫びが漏れる。さらに散弾が迫り、ヤモリは身を捻りながらそれを躱した。
「理不尽の方向性が全く違ぁあうッ!!」
怪奇は理不尽だ。その認識に間違いはない。だが普通は呪いだとか、訳の分からない概念だとか、そういう方向で理不尽なものではないのか。何故拳で戦おうとする。何故、ロケットランチャーや散弾銃が飛んでくる。こんなのは絶対に間違っている!
アンサーの腕が僅かに動く
嫌な予感に従って身を沈めると、銀色の鋼線が頭上を通過し、直後に分厚いコンクリート壁へ食い込んだ。線が巻き取られる勢いだけで壁面が紙のように裂け、埋め込まれていた鉄骨ごと無惨に引き剥がされる。
何だこれは、何て名称だ。駄目だこれは。近づけちゃだめだ。待てよ相手は銃器も使うぞ、つまり遠ざけてもだめだ。何だこれ、ふざけてるのか。
ヤモリは床を蹴り、猛烈な速度で走り出す。
崩れ落ちる配管を潜り、死を孕んだ爆炎を掠め――。
やがてヤモリは、巨大な開口部へ飛び込んだ。
そこは、かつてこの世界の歯車をだった人形たちが、打ち捨てられた終着駅だった。
天井を支える巨大な円柱が、神殿の列柱のように整然と立ち並んでいる。光ファイバーから漏れ出した微かな光の筋が、静謐な空間に幾重もの白い帯を落としていた。
その光に照らされているのは、山を成す絡繰り人形の残骸だった。
千切れた腕、砕かれた頭部、光を失った硝子の眼球が折り重なり、場所によっては円柱の半ばまで届くほど高く積み上がっている。かつて人間の代わりに働いていたものたちは、今では黒く錆びた墓標となり、広い廃棄場を埋め尽くしていた。
ヤモリは人形の山を踏み越えながら進み、一本の円柱の影へ身を滑り込ませた。
呼吸を整え、鼓動を抑える。そしてゆっくりと顔を出した。
正面、二十メートルほど先。
瓦礫と人形の残骸が積み重なった小高い山の上に、アンサーが立っていた。
ヤモリは二丁の拳銃を構えたまま、その姿を観察する。
アンサーの内部には、先ほど使用した発射筒や散弾銃、鋼線を発射するやつだけでなく、まだ幾つもの殺傷手段が残されているはずだった。何を取り出しても不思議ではない以上、武器そのものを予測するより、身体が動く兆候を見逃さないことの方が重要だった。
アンサーが動く。
ガシャン、と重い金属音が響く。
まず足元へ転がったのは、使い終えたロケットランチャーだった。続いて散弾銃、さらに刃物、爆薬。次々と武器が投げ捨てられていく。乾いた金属音が広い空間へ反響し、人形たちの墓場に奇妙な余韻を残した。
「…………」
ヤモリが不審に眉を寄せる。
全ての武器を捨て終えたアンサーは、その場で静かに両腕を下ろした。そしてゆっくりと、本当にゆっくりと、再び腕を持ち上げる。
その鉤爪に握られていたのは、二丁の大型拳銃だった。
重厚な黒鉄。無骨な造形。人間用としては大型に分類される代物だ。アンサーはそれを構える。右、左。まるで見本でも見せるかのように正確な動作だった。
それはまるで――ここからは同じ条件で、互いの技術のみで仕切り直そうとでも言うかのように。
「……は」
ヤモリの唇から、呆れの吐息が漏れた。
「真似事ですか。趣味が悪い」
アンサーは答えない。ただ、鏡合わせの動作で銃口をヤモリへと向けた。
ヤモリがゆっくりと拳銃を握り直す。
薄暗い光が、二人の銃身を等しく、鈍く照らし出した。
周囲には無数の人形の死骸。物言わぬ硝子の目玉たちが、闘いの始まりを静かに見守っている。
アンサーも、ヤモリも動かなかった。
互いの引き金へ掛かった指だけが、相手の僅かな動きを待ち続ける。
均衡が永遠に続かないことは分かっていた。どちらかが先に撃った瞬間、この静けさは消え、次の一瞬で勝敗が決まる可能性さえある。
アンサーの貌が、青が瞬く。
ヤモリはそれを見据え、汗をたらし……笑みを浮かべた。
「――ビギナーに譲ります。お先にどうぞ」
そう言って――撃った。弾丸が、アンサーの捨てた爆薬を撃ち抜く。
轟音とともに人形の山が弾け、火炎と金属片がアンサーの足元をまとめて呑み込んだ。
怪奇相手に礼儀も作法もあったものではない。生き残るためなら、不意打ちだろうが騙し討ちだろうが躊躇う理由など無かった。
爆炎がアンサーを覆った瞬間、ヤモリは円柱の陰を離れ、残骸の山を盾にしながら右側へ大きく移動した。
煙の向こうから猛烈な銃火が走り、先ほどまでヤモリが隠れていた円柱の表面が、巻き添えを食らった絡繰り人形の四肢が四方八方へと無残に散乱した。
しかし、そこにはすでに彼の姿はない。
ヤモリは隣の円柱の死角から滑り出ると、無駄のない動きで二発を撃ち込み、アンサーの黒い肩を正確に穿った。
だが、それだけだ。裂けた傷口は砂嵐のようなノイズを散らしながら、瞬く間に塞がっていく。
通じてはいるが、決定的に足りない。そして次の瞬間には、それを考える暇すら消し飛んだ。
アンサーの姿が掻き消える。
刹那の空間跳躍。
気配を察知したときには、怪異はすでにヤモリの鼻先、完全なゼロ距離にまで肉薄していた。
「――ッ!」
頭上から容赦なく振り下ろされる鉤爪。ヤモリは半ば反射的に二丁の愛銃を胸の前で交差させ、これを受け止める。
激しい火花と共に凄まじい衝撃が肉体を突き抜けた。
両腕の感覚が麻痺し、前腕が悲鳴を上げて軋む。人間を遥かに超越した異様な膂力。
ヤモリは即座に相手の胸元へ鋭い蹴りを叩き込み、その反動を利用して距離を作ると、迷路のように立ち並ぶ円柱の隙間へ深く飛び込んだ。
そのまま人形の墓場と化した廃棄場の奥へ滑り込む。
巨大な円柱、積み上がった残骸、複雑に入り組んだ死角。
この場所ならば、まだ戦える。少なくとも――正面から磨り潰されるよりは遥かにマシだった。
間髪入れずに響き渡る銃声。苛烈な追撃。
ヤモリの逃げ道を塞ぐように巨大な円柱が次々と削り飛ばされ、砕け散ったコンクリート片と人形の千切れた腕が、雨となって二人の頭上に降り注ぐ。
「ッ……!」
速い。そして、あまりに精密すぎる。
戦いの中で、アンサーはこちらの回避行動、射線、果ては肉体の挙動の癖までも完全に理解し始めていた。
その証拠に、戦闘が進むにつれて奴の弾道から徹底的に無駄が削ぎ落とされ、必殺の精度を増していく。
対してヤモリは、衣服が裂け、頬が抉れ、腕には無数の擦過傷が走っている。まともな直撃こそしていないが、それも時間の問題だった。
怪異の分際で、これほど理詰めの戦闘をしてくるか。
次の瞬間、黒い腕から伸びた鉤爪が異常な長さまで膨張し、銀色の軌跡を残しながら横薙ぎに振るわれた。
一瞬遅れて、巨大な円柱が斜めに切断され、数十トンもの巨柱が轟音を立てて崩落する。コンクリートが砕け、鉄骨が悲鳴を上げ、死骸の雨となって降り注いだ。
ヤモリは逃げ切れなかった。瓦礫の波に飲み込まれ、床を激しく転がる。肩を、背中を強打し、全身の骨が軋む。
肉の裂け目から溢れ出る生温かい血が、冷たいコンクリートの床にどす黒い模様を描いていく。
高級なスーツは引き裂かれ、血と煤に汚れて見る影もない。
「――ッ、は、ぁ……っ!」
息を吐き出すたびに、どろりとした鉄錆の混じった血の味が喉の奥からせり上がってくる。
崩れた円柱の上から、アンサーが静かにこちらを見下ろしていた。
「怪奇風情が……この私を見下ろしてんじゃ、ないですよ……っ!」
血を吐きながら顔を上げた瞬間、容赦ない銃声が響く。直前まで頭があった場所を弾丸が貫き、床を爆砕した。
アンサーが重力を無視して音もなく降りてくる。二丁の拳銃を微動だにせず構えたまま、確実に命を刈り取るために。
ヤモリは、恐怖と疲労で笑い出しそうな膝を精神力だけで叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。視界は赤く滲み、意識の縁が遠のいていく。
だが、まだだ。まだ一秒でも長く、この場を繋ぎ止めなければならない。
自分がここでアンサーを繋ぎ止めている間だけ、残された可能性は消えずに済む。
「来なさい、化け物」
震える両手で、どうにか拳銃を構え直す。
刹那、アンサーの姿が視界から掻き消えた。瞬間移動。どこだ、見えない。捉えられない。――勘だ。
放たれた弾丸が、背後へ現れたアンサーの胸を撃ち抜いた。命中。だが、その結果を確認するより早く、光が視界を横切る。
鉤爪が一閃。
脇腹が抉り取られ、鮮血が噴き上がった。ヤモリの身体は吹き飛ばされ、背後の円柱へと叩き付けられる。
「が、はっ……!」
そのまま床へ崩れ落ちる。手から滑り落ちた愛銃が、乾いた音を立てて虚しく遠くへと滑っていった。
アンサーが、歩み寄ってくる。一歩、また一歩。
顔面の青い光が、床に広がり続けるヤモリの鮮血を、不気味に、青白く照らし出していた。
「……なるほど、ここまで、ですか」
ヤモリが溢れる血を吐き出しながら、自嘲気味に弱々しく笑った。
もう指一本動かせない。魂の器が、明確な限界を告げている。次の一撃が、自分にとっての永遠の眠りになるだろう。
アンサーがその脳天に向けて、黒々とした銃口を突きつける。逃げ場のない、絶対的な死の宣告。
その指が、引き金にかかり――。




