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丙午の女

作者: 糸宮 凛
掲載日:2026/03/02

丙午の女


「すごくもったいない」

 占い師の女が言った。それはわかっている。ほかでもさんざん言われてきたことだ。私の命式はとても珍しいもので、とてももったいない命式なのだった。


二〇〇一年八月十一日午後一時ニ十分 東京生まれ

年柱 辛巳 正財 食神 建禄

月柱 丙申 比肩 食神 病

日柱 丙午    比肩 帝旺

時柱 乙未 印綬 劫財 衰


 四柱推命において一番重要なのは日柱で、日柱はそのひとそのものを表す。つまり私は丙午。十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支の組み合わせは必然的に六十あって、そのなかでも丙午は最強。丙は太陽、午は真夏。真夏の太陽、ぎらっぎらでパワフル。天干は甲乙丙丁……の部分、地支というのが子丑寅卯……の部分。その下が通編星と蔵干通編星。さらに下が十二運って言われる部分になる。

 その昔、丙午の年が巡ってきた際、人々は産み控えをした。過去のデータを見ればわかるが、一九六六年の出生率はなぜだかべっこりとへこんでいる。丙午の年に生まれた女は夫を食い殺すし、丙午の年には火災が多いとは江戸時代から言われてきた。

 その丙午が日柱にあるから、私の命式は本当に強いとよく言われる。けれど、同時にもったいない。

 天干と地支には、干合と支合・冲という組み合わせがあって、天干なら「甲己」「乙庚」「丙辛」「丁壬」「戊癸」の組み合わせ、地支は二種類あって支合ならば「子丑」「寅亥」「卯戌」「辰酉」「巳申」「午未」、冲なら「子午」「丑未」「寅申」「卯酉」「辰戌」「巳亥」。この組み合わせが起こるとき、命式内の天干や地支は変化、あるいは無作用になる。

 つまり、私の命式の場合「巳申」と「午未」の支合で地支がすべて無作用になる。なくなる。作用しない。天干に対して根がなくなる。根というのは、天干に金があれば地支にも金があること。これがないとすっからかん。どんなにいい天干を持っていても根がなければ弱い。踏ん張れない。三匹の子豚の藁の家と同じで暴風雨には耐えられない。

 流派によっては午未は合化して丙を強くするけれど、私は支合は無作用の方がしっくりくる。この辺は占い師の裁量次第だ。

「支合じゃなかったら、これ炎上格でもよかったんですよね」

 私が言うと、占い師が目をぱちくりとしばたたいた。

「知ってるんですか?」

「まあ、少しは。でも、月令を得ないと炎上格と言わない流派もあります」

 月令を得る、というのは、日柱の天干と、月柱の地支の季節が合うこと。

 甲乙は春、丙丁は夏、庚辛は秋、壬癸は冬。で、地支は亥子丑が冬、寅卯辰が春、巳午未が夏、申酉戌が秋。この三つがそろうと方合っていって、季節がそろうから地支はそれぞれの季節、春がそろえば木なり夏がそろえば火なりに変化する。

 ほかには三合っていう組み合わせもあるけど、これはさっきの方合よりも力が弱い。

 三合木局 亥-卯-未、三合火局 寅-午-戌、三合金局 巳-酉-丑、三合水局 申-子-辰、四墓土局 丑-辰-未-戌。

 四柱推命の基礎なんてこんなものだから、何人もの占い師に話を聞くうちに自分でもなんとなく命式が読めるようになった。八文字の漢字が私に訴えかけてくる。アナタはもっと強く生きられるはずなのよ、支合がなければ一行得気格の炎上格なのだから。

 炎上というと悪い意味にとられがちだが、火一辺倒という意味で、ツイッター(あえて私はツイッターと呼ぶ)での炎上とはまた違った意味がある。

 ほかには潤下格とかいろんな一行得気格があるなかで、炎上格は特別だ。ことさら運気がいい。

「でも、もうほぼ炎上格だから、運気は強いはずね」

 でも、ヒキニートだがな。

「運気の上がり下がりは激しいですね」

「そうでしょう。いい時と悪い時がはっきりしてるから、落ちるときはとことん落ちる。火の性質ね」

 それで、それをどうにかしたくてここに来たんだけど。

「あ、時間ですね。お代は、えーと」

「あ、学割きくんですよね」

 学生証を提示する。私立K高校の緑色の生徒手帳。まあ、これはもう私には無関係なものだけれど。最後くらい、利用してやっても罰は当たるまい。鮮やかな緑色が目に眩しい。結局生徒手帳ってなんのために発行されるんだっけ?

「学生さんだったの。学校は?」

 平日の昼から占いの館で占うなんて、だ れがどう見てもおかしな話だ。ここまでくる道すがらも、おばあさんなんかは無遠慮に私に視線をよこした。穴が空くんじゃないかってくらいの悪趣味な視線。太陽は頭上で私たちを見守っていた。

「ああ、まあ。不登校でして」

「あっ、ごめんなさい。じゃあ、お代は学割で三千円です」

 電卓をはじいて占い師さんが私に差し出した。デジタルの数字が私を笑った。私はどこにも属せない、社会の弱者だ。何者でもない私。学生になれなければ社会に属せない、可哀想な子供。私は一体だれなの?

「ありがとうございました」

「待って」

 立ち上がり、荷物を手に取った。占い師も立ち上がって、テーブルにあった名刺を一枚、私に渡した。営業熱心な。私は同じ占い師には二度と行かない。占いジプシー。ほかの占い師ならもっといい結果をくれるのではないか。この結果は間違っている。私はもっと、いい人生を歩めるはずだ。

 営業を笑顔で振りきるべく、私は息を吸い込んだ。肺のなかに満たされた酸素がぎゅんぎゅんと脳にめぐっていく。

「学校に行かないのなら、私のもとで働いてみない?」

「え?」

「ほら。アナタ、占いに興味があるみたいだし」

 興味があるのは自分の命式だけで、他人の命式なんて読めるはずもない。漢字八文字で占うから、中国では八字と呼ばれるらしい。または子平。

「私には偏印はないですよ?」

 偏印というのは十二運のことで、これがあると占い師に向くのだという。特に、偏印と長生が同じ柱にあったり、月柱に偏印があったりするひとは占い師が天職であると言われる。私の命式にそれはないから、じゃあ私ってやっぱり学生に戻るべきでは?

「四柱推命ってね。占いっていうより学問なのよ。アナタみたいに、疑ってかかるくらいがちょうどいい」

「考えておきます」

 別に、学校は自分で選んで不登校になった。そもそも自業自得なのだ。私が占いの館に出入りしている姿を友人に見られて、あいつはスピだと揶揄されて、仲間外れにされて友達が離れていって、いつの間にか教科書がなくなって上靴がなくなって、買いに行くのも面倒だから、私自身も学校のなかからなくなっていった。


***


 今日もお客様を占う、占う。占いは三種類あって、偶然性から占う卜術、四柱推命などの生年月日などから占う命術、それから手相や人相で占う相術にわけられる。どれも好きだったけど、ことさら命術が好きなのは勉強が好きだからかもしれない。命術ってほら、統計学みたいなところがある。この生年月日ならば十干はなにで、干支はなにって決まってるから。

 私は師匠から四柱推命とルノルマンカード占いを習って、今こうして店を任されるまでになった。カードは相手の気持ちを占うのに使う。でも私はあまりうまくない。四柱推命のほうがしっくりくる。カードにはストーリーがあって、私にはカードの意味は覚えられても、ストーリーを繋げるのは苦手。「見た印象でいいのよ」師匠のリーディングは美しい。流れるようにカードを繋ぐ。私は理数の女だから、カードは向いてないのかな。

 タロットカードは二十二枚の大アルカナと五十六枚の小アルカナにわかれていて、大アルカナは太陽とか賢者とか、女帝とか法皇などの大きな意味を表す象徴が描いてあり、小アルカナはワンド(棒)、ペンタクル(金貨)、ソード(剣)、カップ(聖杯)があって、それぞれ一から十、加えてペイジとナイトとクイーンとキングがある。これらには正位置と逆位置があって、展開したカードをつなげて読むのは私にはまるでちんぷんかんぷんだった。あまりにも覚えが悪かったから、師匠はルノルマンカードを教えてくれた。ルノルマンは全部で三十六枚、身近な絵柄が記されている。本とかコウノトリとか花束とか。逆位置は人物カードしかとらないけれど、師匠は鎌と雲は逆位置を取る。カード占いは相手の気持ちを占うには必要よ、と師匠にみっちり叩き込まれた。四柱推命だけでも覚えることがたくさんあって、私はてんやわんやだった。

 あれこれ悩みながらも勉強を始めてから二年がたった。大運「己戌」流年「辛丑」つまり二〇二一年のことだ。己戌は私にとって喜神だし、辛丑も私にとっては喜神だ。特に丑は未と冲の関係にあるから、私の午と未の冲を解いて、午が活動できるようになる。この年だけは、私の丙に根ができる。つまり、日柱の火が安定する。火と火で真夏のギラギラ太陽、この年は私にとって転換期となる年だった。

「不倫で悩んでて」

「不倫ですか。つらいですね」

「そうなんです。それで、夫と不倫相手、どちらと相性がいいか見てください」

 占いのお客さまの半分くらいは不倫の相談。不倫なんて実ることはほぼないのだから、占い師ではなく相手の奥さんと話し合えばいいのに。それでもひとは、なにかにすがって確証が欲しい。占いはうってつけだった。カウンセリングでも話せないような重い悩みを、お客さまはつらつらと話している。傍ら、私は最初に聞いておいた生年月日から三人分の命式を計算する。

 ふむふむ、彼女が辛巳のひとで不倫相手は戊申。旦那さんは乙亥。

 生まれた時間が分からないから、喜神と忌神はわからないけど、日柱だけ見ても不倫相手とはそりゃあ相性がいいだろう。不倫相手は土で、彼女は宝石(金)。土からは宝石が産出する。相生の関係ならば相性はいい。対して旦那さんは彼女に剋される木だ。木と金は相性が悪い。木はのこぎり(金)に切り取られるからだ。この夫婦の問題は彼女のほうにある。彼女が旦那さんを抑え込むから、旦那さんは窮屈でたまらない。

「不倫相手の方とは相性がいいですね。ただ、時柱が分からないとなんとも言えませんが」

 日柱の地支はその人の結婚相手を指す。彼女は辛巳だから巳のような人。夏のような人。明るくひとを引っ張るリーダーシップのあるひと。

 旦那さんの結婚相手は乙亥だから、水のようなひと。柔軟性があり共感力が高い。彼女の辛巳とは大違いだ。繊細でパワフルな彼女、したたかさももちあわせた頭のキレるひと。

 不倫相手の好きになるひとは戊申で秋のひと。彼女は辛で秋だから、相性がよく感じるだろう。ただ、四柱推命はあくまで四柱がそろわないと正確な占断は下せないため、ぬか喜びになるだろうが。

「ありがとうございました、心が軽くなりました」

「いえ、またなにかありましたらいつでもどうぞ」

 結局このお客さんは、自分の状況をつらつらと話すだけ話して満足して帰っていった。お客さんが吐き出したガスが部屋に充満している。ぽわぽわ、むくむく。

 次の予約は十分後だ。私はペットボトルの水を一口飲んで、その場を浄化するためにクリスタルチューナーを三回鳴らした。きーん、きーん、きーん。天界の扉が開く音。四〇九六ヘルツの特別な音。天使が私の細胞を浄化する。ほわっと頭が軽くなった。

「ここだ。こんにち――」

「いらっしゃいませ」

 しかし、私はその人物を見て固まった。なぜ。

「あれ、舞じゃない。え、麗華先生って舞だったの?」

「亜美。だれ」

 男の高圧的な態度。世の中は変わった。コロナ禍を過ぎてもいまだにマスクを外すひとは少なく、なのに目だけでもそれがだれだかわかるのだった。

「この子、小中高校の同級生。そうだよね?」

 一番会いたくなかった人物に、私は万年暦を落としそうになった。


***


 小学五年生の時、私は亜美という女の子と仲良くなった。亜美はいつも教室でひとりぼっちで過ごしていて、周りのみんなから避けられていた。いわく、「お母さんが愛人だから」らしい。ぽっちゃりしていたのも原因のひとつかもしれない。ひとのことは言えなかったけれど、私は高学年になるにつれて、成長期で身長だけが伸びた。だから亜美の気持ちもわかった。太っているだけでクラスのガキ大将は私たちをからかった。「でーぶ、でぶ! オマエの母ちゃん不倫の愛人!」

 そのころの私は馬鹿で愚鈍で、いや、今も馬鹿でうすのろだけど、私はそれでも、そんな同級生の言葉なんてどうでもよかった。デブがなんだ、家庭がなんだ、嫌われてる? なぜ。亜美が悪いの? それは違う。亜美はきっと、なにもしてない。

 きっかけは他愛ないことだった。私が亜美に落とした鉛筆を渡したら、翌日は亜美のほうが消しゴムを拾ってくれた。それがなんだかおかしくて、「今日は亜美ちゃんにされちゃったね」と私は笑った。亜美もくしゃっと笑った。みんなの前でもそうすればいいのに。くしゃくしゃの笑顔は可愛かった。だれも亜美を責めないだろう。

 そこから、どちらから言い出したわけでもなく、交流が始まった。時折、わざと鉛筆や消しゴムを落として渡し合うという子供ならではの遊びは、私たちの距離を縮めるのにはじゅうぶんだった。きゃっきゃと子供特有の甲高い笑い声が私たちを包み込んだ。箸が転がってもおかしかった。亜美は控えめな子で、いつも私が話題を振る。亜美はうん、うん、と私の話を聞いてくれた。振り子人形みたいだった。

「舞ちゃん。今回の月例テストどうだった?」

 六年生の七月、亜美とは去年から引き続き同じクラスになった。月例テストを思いだし、私は苦虫をかみつぶしたような顔をした。この月例テストは平均点が低かったと、先生が不機嫌にこぼしていた。

 私は亜美になにも言えなかった。筋肉を引き攣らせて不細工な笑み。

「そっか、舞ちゃんもよくなかったんだ」

「あ、いや……」

 そうじゃない、逆だ。言ったら嫌味にならないだろうか。筋肉が下がって無表情。私は、ずるい。亜美には当たり障りのない話しかしていない。本当はほかのクラスメイトと同じで亜美を見下している? そんなはずない、そんな。

「私はさ、馬鹿だからやっぱり赤点」

「へえ、そうなんだ」

 やっぱり真実は口から出ない。喉元で止まって、つっかえたから飲んでしまった。「舞ちゃんだってそうでしょ?」

 私は別に、勉強ができる子供でもなかった、そう自覚している。そもそも、小学生の時点での成績なんて、中学に上がってからいくらでも挽回できる。別段家で勉強してるわけでもなし、なんとなく、小学校の授業は退屈だった。

 私はその月例テストで、算数も国語も満点を取った。テストを返したあとの授業で、先生が私をにこりと見つめていた。

「えー。さっきのテストですが、井上舞さんだけが、満点を取っていました」

 やめてくれ、と思った。亜美に黙っていたことを、先生にあっさりとばらされてしまった。私は亜美をちらりと見やる。彼女の心の内が、わからなかった。亜美は私のほうを見ていない、ほかの生徒は私をしげしげと眺めているのに。私は机に突っ伏した。がやがやと教室内はうるさくて落ち着かない。

「ねえ、舞ちゃんすごいね」

「だな、井上だけ満点とか」

 休み時間になって友達がそう、私に声を掛けた。私はなんて答えればいいのかわからなくて、「えー」「あー」とどもっていた。言葉は消え去り子供たちもすぐにいなくなる。いっときのひと。忘れ去られた芸能人の気持ち。私がクラスの中心になることはない。

 その日の帰り、亜美はいつもは私と一緒に校門まで歩くのに、さっさと一人で歩いて行ってしまった。スタスタスタ。足取りは軽い。私を振り返りもしなかった。

「亜美ちゃん、怒ってる?」

 翌朝、亜美は私に朝の挨拶をしてこなかった。いつもは私よりも早く登校して、昇降口で私を待ち伏せて、私の姿が見えるや、先に「おはよう!」と笑顔で挨拶してくるのに。それで私が、「今日も亜美ちゃんに先こされたあ」と悔しがって、一緒に教室までの階段を上がる。きゅっきゅと上靴が廊下をこすって、にぎやかな小学校の一日が始まる。しかし今日は、亜美は昇降口にはいなかった。朝陽のせいで昇降口に伸びる影を踏んだ。

「怒るって? 私が?」

「うん……月例テスト」

「じゃーん!」

 亜美はけたけた笑って、机の中からかわいらしいフェルトの人形を取り出した。ぐしゃっとつぶれたそれに、私は首を右にかたむけた。

「え、え?」

「ほら、舞ちゃんって来月誕生日だったでしょ? 来月は夏休みだから、これ用意してたんだよね。サプライズ。うれしい?」

「わ。わー、うれしいな」

 私は亜美に、プレゼントなんてものをしたことがない。

 亜美はいつも私と遊ぶとき、なにかしらを私におごってくれた。それは五十円のかき氷のことが多かったけれど、亜美はきっと、友達の作りかたがわからないのだ。

「もらってばかりで申し訳ないなあ。亜美ちゃんの誕生日っていつ?」

「私のことは気にしなくていいの」

「気にするじゃん。で、いつなの?」

「三月二十一日」

「そっかあ。覚えておくね!」

 なにをあげよう。亜美と同じように、手作りのものがいいだろうか。いや、いつもかき氷をおごってくれるから、フラペチーノがいいかな。甘いし、冷たいし、きっと亜美は好きだろう。キンと頭に響くかき氷を思い出して、私はフェルト人形を光にかざす。

「かわいいね」

「うん、舞ちゃんのつもりで作ったんだ」

「え、これ私なんだ」

 不格好な人形だった。髪の毛はもじゃもじゃだし、体もいびつで綿が偏っている。

 しかし、小学生の手作りなんてこんなものだ。

「舞ちゃん、ちょっといいかな」

「あ、京子ちゃん。どうかした?」

 私は亜美以外にも、クラスの仲良しがいた。その子たちが私に話しかけると、亜美はいつもなにもいわずにどこかに消える。亜美は今でも、クラスに無視されている。私だけが亜美と話をしていて、クラスメイトはそ知らぬふりをする。

「舞ちゃん、亜美ちゃんには気を付けた方がいいよ」

「え。なんで? 亜美ちゃんいい子だよ?」

「あの子猫かぶりで有名だもん。お母さんが愛人だからお金無くて、友達の家でお昼食べるように親から言われてるんだって」

 私と遊んでいるときは、亜美はそんなこと一度もしたことがない。

「そうなんだ」

 私はすこし言葉を強めた。けれど、否定はできなかった。この子との関係を壊したくなかった。私は八方美人だ。亜美の味方をすることもなければ、クラスメイトの味方をすることもない。


 中学に上がる際、どうやら担任の先生が気を利かせて、私と亜美のクラスを同じにしたらしかった。亜美は、授業参観や作文の発表会、学校行事がある日は決まって学校を休んでいて、不登校に片足突っ込んだようなところがあった。私の前ではあんなに明るくふるまうのに、どの亜美が本当なのか、私にもはかりかねた。太陽があれば月があり、月があれば光があり、光があれば影がある。亜美は太陽に照らされていただけなのかもしれない。

「わ、亜美! 一緒のクラスじゃん!」

「ほんと! 舞と一緒のクラスとか!」

 亜美と私は、名前で呼び捨てにする仲になっていた。しかし、私を驚かせたのは亜美とクラスが同じだったことだけではなかった。

「え、舞?」

「え、真子?」

 私は、幼稚園からの幼馴染みがいる。ずっと一緒で、でも、小学校五年六年は別のクラスだった。だから亜美は、真子のことを知らない。

 真子はまごうことなき親友で、つい最近も交換日記の返事を書いたばかりだった。日記はなん十冊にも及び、私は遊園地で買ったクランチのカンカンに入れて大事に保管していた。

「わー、うれしい!」

「ね! 九クラスもあるのに、こんな奇跡ってあるんだね!」

 奇跡ではなく、亜美のおかげなんだろうなと私は思った。そもそも小学校のクラスの担任が、私と亜美を同じクラスにしなければ、この奇跡は起こらなかった。私は亜美を振り返る。亜美は小さい目を目一杯広げて、真子と私を交互に見ていた。きょろきょろ、おどおど。大丈夫、真子は悪いひとじゃないよ。

「幼馴染みの親友の真子。真子。こっちは五年生の時に友達になった亜美」

「初めまして。高田亜美です」

 亜美が私の背中に隠れた。

「かわいい。人見知り? 私は上野真子。真子でいいよ」

 朗らかな真子の雰囲気に、亜美は私の後ろから顔をのぞかせて「よろしく」と頭を下げた。

「久しぶりに同じクラスだね。会うのも久々……てか、めっちゃ痩せたよね」

「いやあ、小六の陸上記録会あったじゃん? なぜだか長距離走に選ばれて、朝に晩に体育の時間に、延々と走らされたらこうなってた」

 嘘じゃない。私は延々、延々、走った。ひたすら走った。陸上記録会では真子は障害物走だったから、長距離の私と顔を合わせなかったのも私が痩せて驚かれた理由のひとつだ。陸上記録会に集まったのは四つの学区の小学校だった。小学校同士で競わせて、親睦を深めながら体力の向上をはかる。

「そうなの。舞って頑張ったから。私は太ったままだったけど」

 亜美がひょっこり顔を出して、真子ににこやかな顔を向けた。ふくふくの頬を、真子の人差し指が突っついた。

「そんなことないって。成長期だもん、女の子はいつ変わるかわからないってお母さんも言ってたよ」

 真子の言葉に、亜美がまた、表情をやわらげた。ふ、と今までにない穏やかな顔。緊張が一切無くなったかのような、素の顔?

「真子ちゃんってさ」

「真子でいいって」

「じゃあ、真子ってさ。舞の昔のこと教えてよ。どんな子だったの?」

 亜美が私の後ろを離れて、真子の隣に立った。そのまま亜美は、真子の腕に自分の手をからませた。蛇のように絡んだ手が、私を少しだけ不安にさせた。首をふるふると振って否定する。なにこれ、私は亜美に嫉妬してる? バカバカしい。真子はだれのものでもないんだよ?

「トイレ行こう」

 亜美の甘ったるい声が喉に張り付く。

「あ、うん。舞は?」

「私はまだいい」

「そう。じゃあ、亜美、行こうか」

 私は二人の後姿を見送った。亜美は真子は仲良くやれそうで安心した。嫉妬なんてお門違いだ。亜美は真子より十五センチくらい低い頭を上に持ち上げて、真子と話しながら教室を出ていく。

「さて、私も新しい友達作ろう」

 中学生活は希望に満ちている。私はきっと、なにも知らない馬鹿な太陽。雲に遮られて輝くことのできない太陽は、人々からは見ることができない。


***


天神あまがみ達也です。一九九六年一〇月十九日十八時四十八分、東京生まれ」

「私は二〇〇二年三月二十一日二十一時二十分、東京生まれ」

 相性診断なんてものは、今までに千件は見てきた。師匠と同席していろんな命式を見せてもらったのを合わせたらだけど。デビューしてひとりで命式を看るのはまだまだ心もとない。

 ぎらんぎらんの太陽には、今のところ出会ったことがないけれど、相性の良くないカップルはそう珍しくはなかった。

「高田さんにとって結婚相手は子、つまり水のひと。天神さんにとって結婚相手は丑なので土のひとですね。高田さんの日柱が戊子で土なので、天神さんのほうから高田さんを好きになりましたね」

「すげ、当たってるし」

「口コミよかったんだもんここ」

 そもそも、占い師というのは基本顔出しするもので、このお店のホームページにもまた、私の顔写真は掲載されていたはず。それを確認もせずに亜美はここに来たというのだろうか。

「ねえ、舞。命式ってもらえるの?」

「あ、最後に渡します」

「なんで敬語なの? 友達じゃん!」

 そんなもの、私はもう、思っていないのに。亜美だって同じでしょう?


天神達也

年柱 丙子 印綬 偏財 絶

月柱 戊戌 劫財 偏印 墓

日柱 己丑    食神 養

時柱 壬酉 偏財 食神 長生


高田亜美

年柱 壬卯 偏財 劫財 帝旺

月柱 癸卯 正財 正官 沐浴

日柱 戊子    正財 胎

時柱 癸亥 正財 偏財 絶


 命式にがあると財運が巡る。普段は財がまわらないのだが、冲が巡ってくると墓庫冲開といって、墓が開いて財が巡る。はかというのは本来、大事なものをしまっておく場所だった。だから墓が開くと財が大きくめぐるのだ。天神さんの場合は辰が年運(流年)や大運に巡ると墓が開く。

「ええ、たっくんってお金持ちになるの?」

「マジか、俺すげーめいしきなんだな」

 二人は能天気に喜んでいるが、墓が開くときは不慮の事故や身内の葬儀も重なることがある。本来の墓の意味もあるのだ。

「天神さんは食神が日柱と時柱にあるので、四十歳以降は余裕のある暮らしができますね」

「すごーい。ねえ、舞。私は?」

 占い師名で呼んでほしいのに、亜美はまるであのころと変わらずに私の名前を呼んでくる。彼女はもう、忘れてしまったのだろうけれど、私の心にはアナタのことは一時だって消えたことはないんだよ。今の今まで忘れていたけれど。

「高田さんは財の星が多いから、やっぱり金運には困らないでしょうね」

「ええ、そうなの?」

 そりゃあ、アナタのお母さんは――いや、今は仮にもお客さまだ。失礼なことは言わないでおこう。

 私は命式を見る。本当に、うらやましい命式だ。冲や支合がないから、根がある命式。

 四柱推命を習い始めて、ならば私はいつ生まれていたら完璧な丙午になれたのか、万年暦でいろいろ調べたことがあった。

 結果として、私がもしもあと二か月早く生まれていたら、つまり二〇〇一年六月十二日の十三時二十分だったら、命式は次のようになった。けれどやっぱり、そうそううまい命式ができるはずもなく、この命式も不完全なままだった。


年柱 辛巳

月柱 甲午

日柱 丙午

時柱 乙未


 この場合、日柱の地支「午」と、時柱の地支「未」が支合で無作用になってしまう。よって一行得気格の巳-午-未の力は弱まってしまうのだが、そもそも支合や冲に関係なく、一行得気格を取る流派もあるので、私の命式よりは完璧に近い。月令も得ているし、支合だって子の冲が来れば未が活動できるので、その年は完全なる一行得気格になれるのだ。

「じゃあ、今日はありがと」

「はい、二名様で一万円です」

「え、まさか舞、友達からお金取るの?」

「友達以前に、お客様なので」

 ええ、こすいわあ、と亜美が天神さんに笑いかけた。真子にしたみたいに腕に絡みついて、高いヒールを履いているのに亜美の顔は天神さんのはるか下にあった。金色キラキラの髪の毛と、マスカラたっぷりのまつ毛。いや、ツケマ? ダイエットしたのか体はほっそりして、最後に見たときよりも痩せている。やや痩せすぎだ。きっと相当努力したのだろう。折れそうな足で、一所懸命高いヒールを飼い慣らす。

「払わないのなら、通報しますけど」

「なに、友達割ってないわけ?」

「私はこのお店を師匠から任されているので」

 かたくなな私に、天神さんが財布の中から一万円札を取り出して、私の顔に投げつけた。失礼なお客さまには慣れている。別に、私は対価を払うだけのことをしたのだから、このお金は受け取るべきものだった。ひらりと一万円札がテーブルに落ちる。諭吉が私を見上げていつもの表情をしていた。

「亜美の友達だから来たってだけで、でっち上げの嘘っぱちで金巻きあげて。消費者生活センターに訴えてやる!」

「ご自由にどうぞ」

 別に、霊感商法で壺を打ったりしたのなら話は別だが、占いだってれっきとした商売だ。私は誰にやましいこともしていない。私は師匠を尊敬しているし、師匠が教えてくれた四柱推命に、誇りを持っている。


***


 高校三年の時、私の大運と流年で方合金局を迎えた。つまり、命式と大運と流年の干支が、申-戌-酉でそろったのだ。私の命式は日柱が丙で身強(ただし根がないので身強でもぐらぐらと不安定な太陽だ)、それで、金は火を合去する。合去するというのは、火は金を溶かす際、そのエネルギーを使用するから、火に金が来ると火が弱まるということだ。でも、私に一番痛手を与えるのは水だから、壬や癸が来ていたらもっとひどい年になったんだろうなと思う。とはいえ、身強の私の喜神は自星の火を弱める土、金、水だから、一概に悪いとはいいがたい。のだが、私の命式は自星に根がない弱弱だから、自星をこれ以上弱める三合金局は泣きっ面に蜂。

「おはよう」

 高校は滑り止めの私立に進学していた。中三の私は人間関係に疲れて、勉強に身が入らなかった。

 私立K高校は、偏差値が三十から七十と開きがある。特待生はMarchに進学するし、通常の学生はお金を払えばだれでも入れるような私立の大学が半分、残り半分は就職する。

 私は特待生としてK高校に受かっていたから、学費は半分免除された。

「おはよう」

 最初は些細なことだった。私がいつも通りに仲のいい友人に挨拶しても、だれも返事をしなかった。がやがや、クラスの喧騒が耳に響く。聞こえなかったのかな? もう一度挨拶する。やっぱりだれも、私が見えてないみたい。私ってまだ生きてるよね? 幽霊になった覚えはないし。

「聞いた? 舞ってスピ狂いの男垂らしなんだって」

「聞いた。占いの館から出てくるとこ見たひとがいるんだって」

 ひそひそ話は隠すそぶりもなく、つまり私は、このクラスからつまはじきにされたらしかった。幽霊になったわけじゃないらしい。幽霊だったほうがどんなにかマシだった。

 しかし、私は占いの館になんて行ったことがない。誰かの嫌がらせだ。私はその場で否定する。

「私、そんなとこ行ったことないよ」

「うわ、きも。話しかけないでよ」

「だれがそんなこと言ったの?」

「あー、耳が腐る」

 私は噂の出どころに心当たりがなかった。誰だろうか。私は占いなんてこれっぽっちも興味ないのに。

「舞! 大丈夫?」

 特待生と通常生の棟はわかれていて、特待生のA棟には冷暖房が完備されているのに、通常生のN棟にはエアコンはなく、いつ終わるかもわからない工事のせいでプレハブの教室だった。だから通常生は「オマエら特待生のA棟の設備は俺たちが払ってるんだ」と主張するし、特待生は「オマエたちのせいで私たちまで馬鹿扱いされる」と犬猿の仲だった。

 私はA棟に居場所がなくなって、隠れてN棟でご飯を食べるようになった。そんな私の話をどこから聞きつけたのか、亜美は廊下の踊り場でご飯を食べる私に、心配そうな顔をのぞかせたのだった。

「亜美。私と一緒にいると、亜美まで仲間外れにされちゃうよ」

「大丈夫。私は舞の味方だよ」

 本当ならば、私は亜美の言葉をうのみになんかするはずがなかった。なのに、溺れた人間は藁をも縋るとは本当のことらしい。

「亜美、亜美!」

 私はその日以来、亜美に悩みを洗いざらい話すようになった。亜美は私のそばで、私の話をただ静かに笑顔で聞いてくれるのだった。


***


「四柱推命の基本は、陰陽五行。木火土金水もっかどこんすいの五行で世界は成り立って、陰と陽が存在する。男が陽で女が陰。太陽は陽で月は陰。この世界は相生と相剋の関係で成り立つのよ」

 木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む。木は土を剋し、火は金を剋し、土は水を剋し、金は木を剋し、水は火を剋す。四柱推命は自星である日柱の天干からみて、ほかの柱との天干や地支がどのような関係であるかを看ていく占いだ。

 日干を強める五行が多ければ身強、逆に日干を弱める五行が多ければ身弱。身強はわれがつよい、つまり自分の意見をまっすぐに通すことができる。身弱はわれが弱い、つまり他者の意見に流されやすい。さらに身強のうち、極端に日柱を強める命式は従旺格や一行得気格になり、極端に日柱を弱める命式は従児格、従財格、従殺格となる。

 きのえようの木で樹木を表し、きのといんの木で草花を表す。ひのえは陽の火で太陽を表し、ひのとは陰の火でロウソクなど人工の明かりを表す。つちのえは陽の土で山を表し、つちのとは陰の土で田畑を表す。かのえは陽の金で生の鉄や鉱石を表し、かのとは陰の金で宝石を表す。みずのえは陽の水で海を表し、みずのとは陰の水で雨を表す。

「先生は、なんで私を弟子にしてくれたんですか?」

 本当は、つらくて学校を退学して、そのまま死のうと思っていた。だからいろんな占いを受けて、自分の死期を当ててほしかった。

 師匠はお人好しなひとだから、お金がないひとにはつけ払いをするし、占い依存の人にははっきりと「占えません」と言う。かといって、あげ鑑定するわけでもなく、鑑定結果はいつも正直だった。それに、「あくまで占いは占い。最後に決断を下すのは自分自身よ」何回も口酸っぱく言われてきた。

「アナタ、死ぬつもりだったでしょ」

「四柱推命ってそこまでわかるんですか?」

「まあ、それもあるけど。大人ならわかるわよ」

 習ったことによれば、傷官の年は死ぬことが多いのだそうだ。ほかにも偏官や比劫などもそうだけど、師匠は傷官をことのほか用心している。私が師匠のところに行った年が傷官だった。二〇一九年。しかも翌年の流年が庚子で、子は日柱の午と冲になる。日柱の冲はトラブルの暗示だ。よくないことが起きるとされる。

「平日の昼間から、しかも十二月よ? もうすぐテストって時期にひとりで高校生が占いになんて来たら、普通の大人は心配するものよ」

 でも、私のお母さんはなんにも気づかなかったけれどな。

 私は師匠に弟子入りして、何度も何度も説得されて、受ける予定のなかった期末テストを受けて、なんとかぎりぎり出席日数を満たして高校の卒業だけはこぎつけることができた。学校の先生たちは、成績が落ちた特待生にはなんの期待も寄せないらしく、私は学校を休んでもなにも言われたことがなかった。

 私のいじめは最後まで先生たちに認めてもらえず、今も母は高校に対して文句を言っている。加えて、私の仕事にも。

 私が師匠の弟子になって、世間はコロナが騒がれていて、友達は大学がzoom講義になって、私にはコロナなんて無関係で、お母さんは家に帰った私にアルコールスプレーを噴霧した。

「占い師って、みんな怪しいひとたちばかりだと思っていました」

 高校であることないこと言われて、傷ついた私は変な方向に度胸が振り切れて、「みんながスピスピ言うんなら、本当に染まってやろうじゃないの」そうやって、初回学割サービスを利用して、お小遣い月二万円のほとんどを占いの館に溶かした。私はギャンブラーの素質があるのかもしれない。

「でも、本当に良かった。アナタが死なないでくれて」

「師匠は本当にお人好しですよ。弟子って言ったって、授業料取らないなんて」

「いいの。私はこの知識をアナタに教えたいって思ったから。だから弟子になってもらったの。私が頼んだのよ」

 もしも私があと二か月早く生まれていたら、月柱に偏印があって占い師としての素質もあったのに。師匠は私のなにがそんなに占い師に向いていると判断したのだろうか。それ以外に就職できそうにないから? もったいない丙午をぎらぎらさせたかったから?

「地支が全部支合の場合、その福分も凶分も弱まります。それはこの前教えたわよね?」

「はい。私の命式ももう少し強くなったらいいんですけど」

「そうね。二〇二一年は辛丑で、午未の支合が解けるから、その時にアナタにデビューしてもらおうと考えてるの」

 支合を解くには、冲が来ればいい。冲を解くには、支合が来る。私は占いに通っていたから四柱推命には詳しいつもりだったけれど、この辺の理論は師匠に出会わなければまるでわらなかった。つまり、午未の支合を解くのは、子か丑が来ればいい。

「でも、なんで死のうなんて考えてたの?」

 師匠の万年暦はボロボロだった。私の新品ピカピカとは大違いだ。青いカバーが黒ずんで光を失っている。

「いや、しょうもないことなんですけど」

「しょうもないわけないでしょう」

「友達が……多分亜美って子なんですよね、私が占いの館から出てきたところを見たって、根も葉もないうわさが広まって、『アイツはスピだ』って、最初は無視されて、教科書がなくなって、上靴がなくなったので、私自身もいなくなればいいのかなって」

「……つらかったのね」

 つらかった? そんな生易しいものじゃない。私のすべてが否定された。なんで生きてるの? なんで学校来るんだよキモイ。死ねばいいのに。生きてる意味なくね? 虫でも食ってろ。スピスピスピ厨の井上舞でっす! 死ねよカス。うわスピ厨に触られた、タッチバリヤー! うわ菌つけんなよきたなっ。げええ、なんで俺にばい菌つけんの?マジやめろし。うえ、うえ、スピ菌が通ります~! 息吸うなし。

「大丈夫。泣いても誰も責めないわよ」

 泣く? 鳴く? 誰が? 私が? スピ厨の私が? なんで? 空気が汚れる。しゃべるな息するな泣くな動くな、存在するな。

「大丈夫。そのつらさは、いつかアナタの糧になる。アナタはひとの痛みを知っているから、だから占い師になれると思ったのよ」

 師匠が私を抱きしめた。ダメだよ、けがれる。私はばい菌なんだよ。息しちゃダメ、触っちゃダメ。私の存在がきたない。そこにいるな、存在を消せ。私はそこにいない、いない、いない。いない!

「私、占い師、なれるかは、わからないです」

「うん。呑み込みが早いから、私も本心では弟子としてデビューさせたい。でも、井上さんが嫌なら、普通の仕事に就いていいの。これは私のエゴだから」

 師匠には子供がいた。らしい。詳しくは教えてくれないけれど、いつもその話は過去形だ。「息子がいたの」「母親思いでね、母の日にはいつもお花をくれたの」「旦那と私は、息子を愛していたの」「旦那とは、離婚したの」「息子は、いつも笑顔だったの」

 師匠はもともと、専業主婦だったと聞いている。だけど、十年前に離婚したのを機に、占いの世界に飛び込んだのだそうだ。

 師匠も師匠から四柱推命を教わって、その時は月謝が二万円、独立するのに五年かかったのだそうだ。師匠はなけなしの貯金と、借金までして四柱推命を教わって、たくさんのひとを救っている。

「師匠は、誰を救いたかったんですか?」

「一番すくいたいひとは、きっともうこの世にはいないの」


***


 中学に上がって真子と同じクラスになって、亜美は真子と毎週のように遊びに出かけているらしい。私は一切遊びに誘われることはなくなって、寂しい反面、亜美もようやくクラスメイトから避けられることはなくなって安堵していた。

「亜美ってばさ、あのアニメの声真似がうまいの」

「え、私も聞きたい」

「やだよ。学校では恥ずかしいもん」

 あのアニメ、というのは、私が真子にすすめたもので、いまやすっかり私と真子の話題はそのアニメのことばかりだった。仲のいいグループの友達を巻き込んで、私たちはアニメの話でもちきりだった。亜美もそのアニメを見てくれて、私たちは他愛のない日常をげらげらと笑い転げた。

「あてくしが成敗いたしましてよ!」

「あはは、舞やめて、下手すぎる!」

「あてくしが、あてくしが!」

「はは、あはは、もうお腹痛い。私舞のそれに弱い」

 真子は私の声真似が好きだった。亜美のようにうまくマネはできないけれど、こうやって馬鹿なことを話して笑いあう休み時間は、なにものよりもキラキラと輝いていた。

 私と真子は、成績が近いこともあって勉強の話も弾んだ。

「舞、この数式」

「ああ、これ、たぶんこう」

「なるほど! さすが理数強いね」

 真子と私が勉強の話をしているときは、亜美は会話に入ってこない。ついていけないから遠慮しているらしく、夏休みの自由研究は私と真子のふたりでやることになった。真子が亜美も誘ったらしいのだが、亜美が断ったのだという。私に無断でそういうことをされるのは困るけど、真子のそういうところが好き。ある意味広く浅くな真子は、仲良しグループの中心的存在だった。

「真子、テストの点数どうだった?」

「私はまあまあ。舞は?」

「私九十だったの、ケアレスミスばっかでさあ!」

 私は真子にだけはテストの点数を教えた。亜美にはなんとなく知られたくなかった。亜美は相変わらず、真子とだけ休日に出かけ遊び歩いているらしい。昔の私が顔を出す。なんで私は誘われないのかな。嫌われたのかな。

 それでも私は、なんの不満もないように振る舞った。亜美が小学校時代よりも明るくなったのは意外だったけれど、それが亜美の本来の姿なのだろうと思っていた。

 私は馬鹿で愚鈍な少女だった。

「舞のばーか、死んじゃえ」

「え……?」

 なんの脈絡もなく発せられた言葉に、私は耳を疑った。死ね? なんで?

 いくら友達だって言っていいことと悪いことがある。亜美がきゃはっと笑っていた。真子の腕に蛇みたいに絡みついて、亜美の心がわからなかった。

「亜美?」

「あ、ほら、舞ってお馬鹿だよねえ」

 仲良しの友人たちの空気が一瞬凪いだのを察して、亜美が慌てて付け加えた。

「あの……アニメの声真似。マジでへたくそ! 私なら死んじゃう!」

「だよね、私舞の声真似すごく笑う」

 真子がなにもなかったように続けた。ほかの友人も次々と私の声真似を馬鹿にして、私は教室から走り出たくなった。

 私ってなんだ?

 亜美にとって私は、つなぎの友達だったに違いない。小学校時代は私しか友人がいなかったから私に優しくしていただけで、真子という新しいお気に入りを見つけた亜美は、私なんてどうでもいいようだった。いつも亜美は真子と一緒にトイレに行くし、休みの日だって私を遊びに誘わなくなった。亜美は、私の機嫌をとるように、真子の手を離して私の手をとりくねくねと絡んできた。

「あはは、私って馬鹿だよね」

 ああ、馬鹿だ。オマエは馬鹿だ。小学校時代に戻れるのなら、いや、小学校時代の自分に伝えることがあるとするのなら、「亜美は噂通りの人間だったよ」


 中学二年になって、私はまた真子と同じクラスになった。亜美とは離れた。私はそれに安堵して、また平和な日常が戻ってくる。

「亜美が悩んでたよ」

 真子がある日、だしぬけに私に言った。

「なにが?」

「舞が最近一緒に帰ってくれないって」

 私は返す言葉がなかった。それは真実だ。意図して亜美を避けている。私は亜美と関わりたくない。亜美は今でも、毎晩真子の家に電話しているらしい。亜美は自分のスマホを持っているから、真子のお母さんのLINE電話で、その日の出来事を話しているらしかった。

 亜美はひとに取り入るのがうまい。いまではしょっちゅう真子の家に遊びに行って、真子のお母さんは遊びに来た亜美にご飯を作ってあげているそうだ。ああ、やっぱり。亜美のお母さんはお水のママだから、亜美にご飯を作ってくれないというのは本当らしい。毎日の給食を、亜美は残さず平らげる。残った給食のパンを、こそっと家に持ち帰ることもあった。

「最近忙しかったからかな。今度一緒に帰るよ」

「うん、そうして」

 外堀から埋めていくなんて、なんてしたたかな。それとも、亜美はいまだに私と友達のつもりなのだろうか。私を会話のネタにして、私の印象を下げようとしている?

「舞、久しぶりだねえ」

「うん、最近勉強で忙しくて」

 自転車に乗って、私はヘルメットをかぶって、亜美はヘルメットをかごに入れた。亜美が勢いよく自転車をこぎだす。私も横に並んで自転車をこいだ。部活帰りに時間を合わせるのは、骨だ。私は料理部で亜美は合唱部。料理部は料理が終わったらすぐに帰れるから、下校時刻前に終わることが多い。対して合唱部は時間ぎりぎりまで部活をするから、待っているのだって手間だった。そう思っている時点で、私のなかで彼女は友達ではなくなったのかもしれない。

「舞さあ、月例テストでひとりだけ満点取ったことあったじゃん」

「え?」

「あれ、めちゃくちゃ腹立ったんだよね」

「ちょっと待って、なんの話?」

 きゅ、とブレーキをかけて亜美が自転車を止めて地面に足をついた。私もならって自転車を止める。地面が遠いからつま先立ちだ。

「舞ってさ、そういうところあるよね」

「え? え?」

「ひとの顔色ばっかうかがってさあ。私と一緒に帰りたくないなら、はっきり言えよ、このくず!」

 亜美が怒声とともに私を突き飛ばした。ばしゃん、自転車が倒れる。私も倒れる。自転車に足が挟まる。体が道路に投げ出される。

 亜美が私を見て笑っている。すぐそこに車が走る。ブレーキ音、どんっと私の体がなにかにぶつかる。がくんと首が揺れた。亜美のようにヘルメットを外していたら、私の頭は地面にたたきつけられていただろう。

 車は幸い、私に気づいて急ブレーキをかけたから、大事には至らなかった。

「舞、舞! 大丈夫!?」

 亜美が自転車のスタンドもかけずに放り投げて、私を心配しかけよる。ふりをする。

 車の中から出てきた若い男性が、スマホを出して救急車を呼ぶ。「ざまあみろ、偽善者」空耳だろうか? 亜美が言ったのだろうか? 事故の衝撃で幻を見ているのだろうか?

「お兄さん、この子は私が見てるので、お兄さんは車を安全な場所に移してください」

「あ、はい」

「舞、大丈夫だからね、大丈夫」

 亜美がハンカチを出して私のこめかみに当てた。あ、血が出てるのか。救急車が来るまで亜美は甲斐甲斐しく私の世話を焼き、私は混乱する頭を整理することすらできぬまま、生まれて初めて救急車に乗った。寝たまま頭の方向に向かって乗り物が進む感覚は、好きになれそうにない。


 そんなことがあったのに、私は中学二年の終わり、三年生になったら同じクラスになりたいひと、のアンケートに亜美の名前を書いた。別に、一緒になりたくないひとの欄に名前を書いたって、真子にばれるわけでもないのに。

 結果として、私と亜美は中学三年で同じクラスになった。真子とは別のクラスになった。けれど、亜美は今度は佳代というお気に入りを見つけて、私とは部活を引退した後も、毎日一緒に帰路を共にするだけの仲になった。私はあの日のことをだれにも打ち明けられなかった。亜美に突き飛ばされて事故にあったあの出来事。言ってしまえば私の周りからみんないなくなりそうで、ドジな私は自分で自転車から転げ落ちて、車に轢かれたのだった。幸いにして、怪我はかすり傷程度だった。


***


「舞! 助けてほしいの!」

 聞いた話、亜美の彼氏の天神さんは、亜美が高校生のころからの付き合いだったらしい。最初のころはよく、「俺の彼女。JK」と友達に紹介されていたらしいが、最近の倦怠期を打開すべく、私の占いを受けに来たようだった。

「出禁にしたお客様のご相談は承れません」

「占い師としてじゃなく。友達としてきたの!」

 今思えば、中学時代にあんなことをされてなお、私はおろかな子供だった。亜美と同じ高校だったとは知らずに、私は特待生としてMarchを圏内に据えて勉強していた。ちなみに真子は、危なげなく都内一の進学校の都立高校に進学していたから、私にも亜美にも手の届かない存在になってしまっていた。

 それでも真子は、時折私とお茶会をしてくれた。今でも真子と私は、共通のアニメの話題で盛り上がれる。対して、亜美はもう、アニメを見ていない。亜美は他者に媚び売るような性格だった。アニメだって、真子との話題を確保するために仕方なく見ていたのだろう。亜美はアニメよりも某アイドルが好きだったが、そのアイドルは度々性加害が取りざたされては消えていた。亜美が好きだったグループは、活動を休止しているらしかった。

「友達? 誰が?」

 今日は珍しく、師匠も一緒に店に立っていた。

 高校時代、私のいじめの火種を作ったのは、まぎれもなく亜美だった。私はそう、聞いている。私をいじめていたクラスメイトの言うことだから、真偽はわからないけれど。

「私、妊娠、して……」

「亜美、大学は?」

「あと一年あるのに……」

「天神さんはそのことは?」

「たっくんが、たっくんが……子供は堕ろせって。私とも別れるって……」

 ひっく、としゃくりあげて、亜美は私の腕に絡みついた。真子や天神さんにしたみたいに。私はその手を払う――ことができずに、パソコンを開いて亜美の命式を出した。今まで占ってきたお客さまのデータは、厳重に管理している。リピーターさんも少なくないため、命式はパソコンにも打ち込んでおいて、いつでも見直せるようにしている。

 亜美の命式を見て、私ではなく師匠が口を開いた。

「二〇二一年と二〇二二年はどちらも木が強いですね。アナタにとっての忌神。凶になる五行が巡ってる。この先――二〇二六年には日支の冲、つまり子に対して午が巡ってくるから、そこでもなにかひと波乱あるでしょうね」

「そ、そんなあ。この子は、じゃあ、この子の運勢を」

 亜美はお腹をさすって、客用の椅子に腰かける。師匠は私にかわって亜美の正面に座り込んで、

「今何か月?」

「三か月、って言われました」

「じゃあ、生まれるのは二〇二一年の十二月ごろね。生まれたらまた改めて来てください」

「え? この子の運勢は?」

「そもそも、産むか堕ろすかも決まってない、誕生日もわからなければ、占うことはできません」

 ぴしっと言い放って、師匠は立ち上がって亜美の手を取る。

「麗華さんが今後アナタを占うことはありません。が、どうしてもうちで占いたいのなら、私が看ます」

「なん……私は舞の友達」

「友達に死ねと言うんですか?」

「なんの話」

「友達を道路に突き飛ばすんですか?」

「あれは舞が自分で転んで」

「友達に悪い噂を流すんですか?」

「結果的に舞は本当に占い師になったじゃない!」

 いつも穏やかな師匠が、亜美の肩をぐっと掴んだ。突き押しこそしなかったが、師匠のあんな表情は初めて見た。まるで般若のよう、いや、見た目はお多福みたいに穏やかだったけれど。

「な、子供が」

「亜美、じゃあ、噂流したの、本当に亜美なの?」

「あ……」

 失言に気づいたらしく、亜美が口を開けて呆けている。お腹を無意味にさすって亜美は唇をかみしめて、店を走り出ていった。

「井上さん、大丈夫?」

「や、はは……なんか、すっきりしました」

 ずっと疑心暗鬼だった。私が占いに通っているなんて噂を誰が流したのか。亜美だという話も聞いたけれど、いまいち信じ切れなかった。いや、私は知っていたはずだ。そんなに嫌われている自覚もなかった。まあ、道路に突き飛ばされた時点で気づくべきだったんだけれど。なにが彼女をそうさせたのか、なんとなくはわかっていた。ひとはみな、だれかの顔色を伺って生きている。亜美がそうであるように、私も、師匠も。お父さんも、お母さんも、ぜんぶ。

「しばらくお休みしなさい」

「いいえ。いえ。私、占い師としてやっていく覚悟ができました」

「本当に?」

 師匠は大げさに喜んで、私の手をぎゅっと握った。

「アナタならきっと大丈夫。ゆくゆくはこのお店を頼みたいと思ってるの」

「ええ、なんでそんなに優しくしてくれるんですか」

「そうねえ。そっくりなのよ、アナタ」

 師匠はあまり過去の話をしたがらない。師匠は万年暦に挟んであるメモ帳を取り出した。


一九八六年六月十一日五時十八分

年柱 丙寅

月柱 甲午

日柱 丙戌

時柱 辛卯


 日柱と時柱の天干は干合で辛のみ無作用。地支の戌と卯が支合で無作用になっていて、三合火局 寅-午-戌が成り立たない。非常に「もったいない」命式だった。

「息子の命式なの」

 丙が強い身強だ。本来ならば一行気格になるところを、支合が邪魔してなれなかった。私の命式ほどではないけれど、彼の命式もなかなか強い。

「二〇〇九年にね。亡くなったの」

 傷官の年に亡くなった。メモの端にそう、走り書きされていた。私は彼が自分のように思えて、私のなかの丙がうずく。私は太陽で彼も太陽。亜美は土の人だから、私のエネルギーを吸い取るひと。私の喜神は土・金・水で亜美の喜神は火と土。私と亜美の共通は土しかなくて、相性もあまりよくない。喜神は同じであるほど相性がいいとされる。亜美の忌神は金・水・木で、私の忌神は火と木。忌神も喜神もひとつずつ共通があるから、相性は可もなく不可もなく。

 天神さんの喜神は亜美の忌神だった。相性は最悪だろう。

「師匠。大事な話をしてくれてありがとうございます」

「いいの、いいの。アナタが生きてくれてるだけで、私はすくわれたのだから」

 師匠はどこまで行ってもお人好しだと思った。私が跡を継ぐかもわからないのに、自分の知識を私にわけ与えて。占い師はみんなスピだと思っていた自分や高校の同級生に言ってやりたい。

『私は生きている』


***


 高校三年になってから、ずっとクラスメイトは私を無視していた。なのに亜美だけが私の話を聞いてくれて、私は一刻も早くお昼ご飯を食べに出かけたかった。

「亜美」

「あ、舞。待ってたよ」

 いつ亜美が来なくなるか、私は不安でいっぱいだった。亜美は私と関わって、嫌われたりはしないのだろうか。亜美は高校に入ってから痩せた。髪の毛も薄くなった。きっと無理なダイエットをしたのだろう。相変わらずいろんな男の子と遊び歩いてるらしい話だけは聞いていた。

「舞、そのスカート」

 今日は昇降口で水を掛けられ、ジャージもびりびりにされたから濡れたまま授業を受けていた。教師も気づいているはずなのに、「今日は雨だったかあ?」なんて言葉でクラスの笑いを誘っていた。グルだ。教師も一緒になって私を揶揄する。そんなに滑稽だろうか。

「井上ぇ、オマエ占いの館に通ってる場合じゃないぞ?」

 この前、教師に呼ばれて職員室に行ったとき、私の淡い期待は一瞬にして崩れ去った。もしかして私の現状を解決してくれるのかもと浮足立っていたその足が、棒のように地面にくっついて動かなくなった。なんだって?

「わ、私、占いの館になんて行ってないです」

「だったらなんだ? クラスメイトを嘘つき呼ばわりか?」

「ちが……」

「そんなんだから成績が落ちるんだ。全く。特待生だからって怠惰な態度だったら、いつだって通常生のクラスに下げられるんだからな」

 それだけはやめてください。ただでさえ私立に通ってお母さんに怒られているのに、学費が半分になる特待生までおろされたら、私の居場所はどこにある?

 お母さんはいつも不機嫌だった。私の受験が失敗すると、弟にばかり時間をかけるようになった。「悠斗ちゃんは県立に行くのよ? ダメなお姉ちゃんとは話しちゃだめよ?」

 そんな母に、特待生から外れたなんて言ったら、またなにを言われるかわかったもんじゃない。くず、ごみくず。世界の恥。ごくつぶし。

「私頑張る、ので」

「頑張るのは誰でもできるよね?」

「え?」

「だから、頑張るより先に謝るのが先でしょ? 不埒な場所に出入りしてすみませんって」

 だから、行っていないものをなぜ謝る必要がある? 心とは裏腹に、私の頭は深く地面に垂れ下がっていた。

「すみません。もうしません」

「頼むよほんと。うちの名前穢さないでくれよ」

 別に、私は行ってないんだから謝る必要もないのに、頭が地面にめり込むんじゃないかってくらい深々と頭を下げる。さっきまでぞうきんをかぶせられていた頭が、先生に匂うこともいとわなかった。


 家に帰って、お母さんは私の変化に気づく様子もなかった。

「雨降ってたの? 通り雨?」

「うん、車洗ってるおじいさんに間違って水掛けられちゃったの」

「どんくさい子ね。お風呂入っちゃいなさい」

「はぁい」

 それが一週間のうち三日。体操服をなくすのは週に一回。上靴は一か月に一回サイズが合わなくなって、制服のスカートがびりびりになった時には、さすがにお母さんも異変に気付いた。

「もしかして、いじめられてるの?」

 スカートがびりびりで、下にジャージを履いたら先生に指導されて、ジャージを脱がされた。パンツがちらちらスカートから覗いて、クラス外の男子生徒が廊下から私を眺めていた。

「お母さん……」

 話そう。全部。つらかったんだよ。助けて。私はごみじゃない。私は人間なんだよ。クラスメイトには人間扱いされてないけど、私はひとなんだって言ってよ。

「嫌だわあ、そんなにどんくさい子だったの?」

「え?」

「ほんと、頼むからやめて。今は悠斗ちゃんの受験で忙しいの。中退とか、学校内での問題とか、そういうのが広まっちゃうと、悠斗ちゃんの進学先がなくなるから。適当にあしらいなさい。あと一年もないんだから」

 絶望。っていうのかな、これ。これが絶望? なんにも考えられないや。私ってなんだっけ。私が悪いんだっけ。私が馬鹿なんだっけ。私が愚鈍だからなのかな。私っていらない子なのかな。私って。

『なんで生きてるんだっけ?』


 そもそも、私は占いの館に行っているらしく、ならば今日は授業をさぼって駅ビルにある占いの館シェリーに足を運んでみた。

「こんにちはー。占い師のリリカです! 若いねー? 学生さん?」

「あ、はい。高校生で。学割きくって聞いてきたんですけど」

「あーはいはい。珍しいね。学生さんは確かに割引してますよー。今日はどんな悩みで?」

 最初の占い師は気さくなひとだった。定番のタロットカードで占ってもらって、当たり障りのない話をされた。

「うーん、クラスメイトさんも軽くいじってるだけみたいですね。気にしすぎな部分ありますよー。あと、教師も知ってるっぽいけど、アナタなら乗り越えられると思ってるみたいですねー」

 タロットは偶然出たカードに意味を持たせる卜術だ。ほかにはルノルマンカードやルーン占いも受けたが、どれも同じような内容だった。そりゃあ、いじめの話なんてまともに取り合っていたらきりがない。

 何件か回った後、どうやら占いにも種類があるらしいことがわかってきた。

「手相見ても、アンタ長生きするねえ。恵まれたひとだ」

 なにがだ、このインチキやろうが。私が今、なにに悩んでるのか言ってやろうか?

「死期ってわかるんですか?」

 手相のじじいに意地悪く言う。

「わかりますよ。でも、お客さんには言っちゃだめ。これ占い師全部がそうなんだけど、試験の合否は言わない。言ってしまうと慢心して努力しなくなるから。人の生き死にも言わない。これ言うと人生投げやりになる人がいるから」

「へえ、そうなんですね」

 いんちきめ。私は内心で舌を出して、次の予約の占いの館に入る。今日は初めての占い、西洋占星術だ。

「Tスクエアがふたつできてますね。ミディアムコエリと火星と土星、ミディアムコエリと冥王星と土星。かなりキツいと思います。悩みが多い」

 ミディアムコエリというのは南の

、ホロスコープの頂点をいう。アセンダントは日の出の空、一番左。ディセンダントは日の入りで一番右。

 天体が左に偏れば自分の意見を大事にし、右に偏れば他者の意見を優先する。上に偏れば社会に自分の居場所を見出し、下に偏ればプライベートを大事にする。

 性格は西洋占星術が一番わかりやすい。西洋は『個』を重要視するからだ。だが、時期読みは弱い。ソーラーアークなどで、ネイタル(生まれた日の天体)と、一日を一度として進ませた天体の重なりを見て時期を読むことはできるが、どうにも『弱い』。

 調べるうちに、西洋占星術と同じ理論、つまり生年月日から占える占術に、四柱推命というものがあることがわかった。

 私は早速四柱推命のできる占い師を探して予約して、自分の四柱を見てもらう。

「一行得気格ですね。命式強いなぁ。うらやましい」

「命式が強い?」

「四柱推命は中庸を良しとするんだけど、偏っているひとはより偏らせるのが正解。だから、アナタの場合木と火が喜神」

「木と火」

 紙に書かれた命式を持ち帰って、自分でも調べながら見てみる。だが、どうにも納得いかない。一行得気格と読む流派もあれば、地支がすべて支合だから、一行得気格にはなれないと読む人もいる。西洋占星術と違って、読むひとによって結果が違う。四柱推命は一子相伝だから、流派によって読みかたが違うらしいところまでは突き止めた。

 私はまた、四柱推命ができる占い師を探しては通い、探しては占い、探しては悩み、探しては納得できなかった。

「私の命式は仮の一行得気格で、そもそも身強なのでは?」

「同業者さんはお断りしてます」

 私は自分が知りたいだけだった。この運気の上がり下がりは、命式のせいだと確証が欲しかった。私の運気は決まっていて、もうすぐ尽きようとしている。

「アナタ、もったいない命式ね」

 出会ってしまった。私は、人生の師に。初老の占い師は自分の母親より年がいっていて、どちらかと言えばおばあちゃんのようだと思った。

干支えとにはそれぞれ五行が入っているの。子水、丑土金水、寅木火、卯木、辰土木水、巳火金、午火、未土火金、申金水、酉金、戌土木火、亥水木。これらを数えると身強・身弱が分かるのだけれど、数えるときに天干の干合、地支の支合や冲でそれらは無作用になるの。無作用になるとその福分も凶分も弱くなるんだけれど、アナタの場合、巳-午-未で折角の方合なのに、支合が邪魔してる。さらに言うと、天干の丙と辛も干合で無作用。これがなかったらあなたの命式は一行得気格の炎上格。火は十干のなかで一番強いから、これに偏るひとは成功者になる運命なのよ」

 今まで聞いてきたなかで一番わかりやすい説明だった。これを聞くために、今まで占いを受けてきたのかもしれない。

「そうなんですね」

 そうか、私は成功者なのか。私は社会の弱者じゃなかった。私は世界に必要とされる人間だった。私は生きていていいんだ。私はこの世界に生まれてきたんだ。私は望まれて生まれてきたんだ。私を産み落とした時間が、もう二か月早かったら、私は完璧な丙だったのに。命式に太陽は一つしかいらない。私の命式にも太陽はひとつだ。私がこの世でひとりであるように。

 私はきっと、丙だった、ぎらんぎらんの太陽でなくても、誰かを照らすことができたのなら、それはもう、太陽と言っても過言ではない。今は日差しが弱くても、いつか立派な太陽になる。私は太陽、この世界を照らす、唯一無二。


***


 中学三年の修学旅行は散々で、私はまったく楽しめなかった。亜美と佳代が夜中に部屋を抜け出して、男子の部屋に遊びに行ったのだった。

「高田亜美さんと田辺佳代さんと同じグループのひとは、連帯責任で自由行動はなし!」

 佳代は髪をうっすらと茶色に染めて、隠れて煙草を吸う、ややヤンキー寄りの女の子だった。その佳代と付き合うようになって、亜美は自分も髪の毛を淡いピンクに染めていた。茶色じゃなくピンクを選ぶのは実に亜美らしかった。

 本来の気質なのか、佳代と悪いことをするようになった亜美は、活き活きしていた。廊下で唾を吐いたり、教師にメンチ切ったりして、亜美はいつも下賎に笑っていた。小学校のころの面影はなかった。スカートを短くして、時々パンツが丸見えだった。同じ不良グループの男が、亜美を誘って夕暮れの体育館裏でディープキスをしていた。それだけじゃ飽き足らず、亜美は使われていない柔道部の部室のなかで、不良の男と交わった。その日佳代はほかの男のバイクのケツに乗って、町に迷惑をかけに行っていたから見張り役が見つからず、私に猫なで声で頼んできた。

「舞にお願いがあるんだけど」

 修学旅行の件があっても、亜美はなんら悪びれることはなかった。

「見張るだけ、ひとが来たら教えてくれたらいいだけだから!」

 そこでなにするの、とは聞かなくてもわかった。猫かよ、そこらじゅうでサカって。

「ちょっと無理だよ」

「昼休みだしいけるでしょ?」

「ほかの子に頼みなよ」

 私以外にも仲良しグループは教室にいたのに、亜美はどうしても折れない。

 根負けして、私は柔道部の部室の前に仁王立ちする。あまりひとが通らないのは幸いだった。柔道部の部室はふたつあって、体育館内にあるほうは使われているけど、体育館から出て五分のこの場所は使われていない。

 キョロキョロと周りを見回す。来ないでくれだれも。来ないよねこんなとこ。

「そこでなにしてるの?」

 清掃員のおばちゃんだった。逃げることができない。後ろを振り返り部室のドアを叩いた。

「ひときた!」

 どんどん、ドアを叩くと「やべ」「まじか」慌てふためく声。この時点で清掃員さんが部室のドアを開けた。素っ裸の男女ふたりが絡み合っていた。


 教師に呼ばれてこってりと叱られた。私は巻き込まれただけなのに、反省文を書かされた。亜美と不良男子は親を呼び出されて三者面談になったらしい。

「舞のせいだよ」

「私?」

「もっと早く知らせてよ」

 八つ当たりされて、言い返す言葉もなかった。私は知らせたよ、ドア叩いたし。絶頂のふたりには届かなかっただけで。

 最近亜美は、学校に化粧をしてくる。佳代は、母親の財布から一万円を盗んだ。

「亜美、言いたくないんだけど」

 どう見ても、佳代に毒されていた。

「あんまり、不良みたいなことしないほうがいいよ。高校受験もあるんだし」

 やんわりと、佳代との関係をなじった。私以外の仲良しグループは、亜美の自由奔放になにも言わない。私はただ、亜美の将来が心配だった。

「うざ。うっざ。舞って偽善者だよね」

「それは否定しない、けど」

「私が誰と付き合って付き合わないかは、私が決める。舞は私の交友関係に嫉妬してるの?」

 それは断じてない。私は、できれば私は、亜美とは関わらずに生きていきたい。亜美のことを友達だなんて思ったことはない。あれ? じゃあなんで私は亜美を心配してるの?

「そうだね。亜美の自由だね」

 もうどうにでもなれと思った。


 結局、亜美にとって私は代替品に過ぎなかった。私はとうに捨てられて、過去の人間に成り果てた。

「私たち、冬休みにあの駅ビルで万引きするから」

 佳代の言葉だ。最悪の修学旅行も終わって、亜美は放課後によく佳代と遊ぶようになっていた。相変わらず、帰りだけは私と帰路を共にしたけれど、教室の中ではいつも佳代にべったりだった。

「佳代、万引きなんてやめなよ。なんでそんなこと考えたの?」

「頭硬いな。万引きして捕まった方が、今の生活より何倍もマシ。ただそれだけだよ」

 彼女がどこまで本気だったのか、私にはわからなかった。けれど佳代にはどこか危うい雰囲気があった。例えば、学校に剃刀を持ってきたり、親の財布から金をくすねたり。

 そんな佳代と亜美は、休日によく駅ビルに遊びに行っていたようだ。万引きの下見だったのかもしれない。そしてふたりは、思春期特有の病気でもあって、それがふたりをさらに意気投合させた。

「自律神経失調症? ってなんだろ。私も亜美も、それらしいよ」

「眠れないんだっけ。病院に行ったら?」

 私の言葉は正当すぎて、逆に佳代の反発を生んだ。

「なにもわかってないくせに。眠れないってどれだけつらいか知らないでしょ」

「ごめん」

 佳代と亜美は、ふたりして不眠で、だからこそ、万引きなんて極端な手段に出たのだと思う。本当はただ、自分たちが苦しんでいることを、大人たちに気づいてほしかっただけなのではないか。

 今となっては確かめるすべはない。

 だけれど、私は彼女らの言葉を真に受けて、自分ひとりで抱えることができなかった。私は養護教諭に佳代と亜美が万引きすると毎日のように言っていることを相談した。養護教諭は担任の教師にそれとなく連絡を入れたようだった。

 私が養護教諭に相談してしばらくして、佳代と亜美は別々に養護教諭に呼び出されて、「なにか悩みはない?」と聞かれたそうだ。

「誰かがチクった」

 佳代が鬱陶しそうに舌打ちした。私は真横でそれを聞いて、だけれどなにも言えなかった。きっと、仲良しじゃないクラスメイトが教師に告げ口したのだと思っているのだろう。私は口を閉ざして、それ以降、余計なことはしないことにした。

 思えば亜美は、気に入った子に取り入るために、必死に媚びうる性格だったように思う。真子と同じクラスだったときは、真子を毎週末遊びに誘って、いろんなものをプレゼントしたらしい。そして佳代の時には、佳代の万引きの誘いを、ただ笑顔で頷くような。

 結局、冬休みの夜にふたりは深夜まで家に帰らず、仲のいい友人の家全部に亜美の母親が電話をかける始末だった。佳代の母と言えば、娘が帰ってきていないというのになんら動じることもなく、亜美の母親は佳代の母親を怒ったらしい。

 日付が変わった深夜〇時、亜美がビルの見回りに名乗り出たことで、佳代と亜美が駅ビルの職員用の部屋にいたことが明らかになった。

 警察を総動員しての大騒ぎだったが、ふたりが職員用の部屋にいた理由を言わなかったため、この件はふたりの『家出』として片付くことになった。


 狂言、というものになるのだろうか。この件で私のなにかがふつりと切れた。私はいったい、彼女らのなんだったのだろうか。友達だと思っていた、けれど彼女らは私の制止に対して、「うざい」「アンタのために生きてんじゃねえよ」そう言ってはねのけたくせに、三学期に入って会うや、開口一番「万引きできませんでしたあ」笑いに変えようと必死だった。そのくせ、万引きのために職員用の部屋に忍び込んだことを武勇伝の様に語りだし、「あのスリルに比べたら、学校の先生なんて怖くないじゃん」「喜久子は万引きしたくなるほど悩んだことないでしょ」と私をなじった。

 私の心は擦り切れて、勉強に身が入らなくなっていった。


 なのに亜美は、受験が差し迫った三学期の初め、髪を真っ黒に染めてスカートを新調した。古いのは切って短くしてしまったから、新品の膝にかかるピカピカをヒラヒラさせていた。

「舞。勉強教えて!」

「え、と。私帰って受験勉強しないと」

「なに。私は友達じゃないの?」

「ええ、でも亜美、まだ中一の内容やってるんじゃん」

 だからちゃんと授業を受けたら良かったのに。私じゃなくて、お気に入りの真子に頼めばいいのに。亜美は言い出したら聞かない。私は仕方なく、一週間の半分の放課後を、亜美の勉強の時間に当てた。私は受験対策をしたかったのに、亜美の勉強は基礎すら理解できてなくて、教えるだけで時間が無駄に溶けていった。

「やった! 受かったよ佳代!」

「わ、よかったね亜美」

 亜美ははなから県立は諦めて、私立に絞っていたらしい。佳代もまた、別の私立への進学が決まった。私は滑り止めの私立に特待生で受かって、本命の都立への勉強に勤しんでいた。あと一ヶ月ある。挽回しなければ。

「ねえ」

「……」

「ねえってば!」

 亜美の髪の毛はまた、ピンク色に染まっていた。私が休み時間に勉強していると、亜美は決まって私に話し掛けてきた。うるさい、本当に勘弁して。

「今度の休み、佳代と遊びに行くんだけど、一緒にどう?」

「私は受験あるから無理」

「なぁんだ。真子も来るのに」

 真子が?

 でも、私は行かなかった。真子は違うクラスだから亜美のことを知らないんだ。そもそも、「きれいな髪」なんて真子が亜美を褒めるから調子に乗る。同じクラスになって、修学旅行の自由行動はなくなるし、見張り役はさせられるし、反省文は書かされるし、狂言自殺はするし、勉強の邪魔はされるし。

 私って亜美にとってなんなんだろう。下僕? 都合のいい駒? 人間? 友達?

 亜美は私の勉強を度々邪魔しに来たし、度々私を遊びに誘った。私は勉強に身が入らなくて、受験に失敗して滑り止めへの進学を余儀なくされた。受験が終わると、亜美はパッタリ私を遊びに誘わなくなった。聞いた話、真子とは遊んでいたらしい。都立に落ちて意気消沈していた私が誘いにくかったわけではないだろう。

 私が都立に落ちたのは実力と言ったらそれまでだけど、もしも亜美が私と違うクラスだったら、なんてタラレバばかりが頭のなかを支配して、私は亜美と同じ高校だと知らずに私立K高校に進学した。学費半額免除につられた私は、どこまでも世間知らずな子供だった。


***


 師匠が私を自宅に招いてくれた。弟子入りした最初のころは、店に立たせる知識も技量もなかったから、よくこうして師匠の家に勉強しに行くことがあった。それに、コロナなんてものもあったから、師匠は自宅でパソコンを通してWebで通話占いをすることが増えた。占いと言っても、現代は便利なもので、占いの館以外にもチャット占いやメール占い、電話占いというものがある。私は対面が一番好き。ひとと話すと私も救われるし、お客さまの顔を見ながら結果を伝えると、最初は暗い顔だったのがだんだん明るくなっていって、帰るころには声に張りが出るのだから不思議だった。

 私は東京に住んでいたから、大抵の場所は交通の便がいい。師匠は東京のど真ん中のマンションの中層階に住んでいて、部屋のなかはモノクロを基調としてシックな家具で彩られていた。

 私は、自分がいかに馬鹿であるかを説明するとき、いつもこの話をする。

「私、小さいころは食べ物の好き嫌いがない良い子だって言われてて」

 今は、占いにおぼれるおかしな子供として、お母さんと顔を合わせても会話すらなかった。

「でも、私はずっと、トマトが嫌いだったしふりかけが嫌いだったし、お子様ランチなんて、ナポリタンもフライドポテトもハンバーグもオムライスも、全部嫌いだったんです」

 そのうえ、お母さんが「学校の給食はまずい。手作りの母親の料理こそ真の愛情よ」なんていうもんだから、給食はまずいものだと認識していた。本当は、お母さんがお弁当に詰めてくれるナポリタンやミニトマトよりも、給食に出てくる甘い煮物やカレーライスが好きだった。カレーは手抜きよ、ほほほ。お母さんが頭の中で笑っている。

「高校に入ったくらいかな。私、おいしくないって感覚を初めて知って。なんていうか、青天の霹靂。ずっとお母さんに外食を許してもらえなくて、でも高校の友達と入ったファミレスのご飯が止まらなくて。それで初めて、『あ、これがおいしいって感覚なんだ』って」

 それがわかると、自分が本当はなにが好きでなにが嫌いなのかがわかるようになった。トマトは青臭いから好きじゃない。けど、トマトを乗せて焼いたピザは好き。ピッツァか。ナポリタンのトマトケチャップは好きじゃなくて、手作りボロネーゼのパスタは好き。

 好き、嫌いの基準が私のなかで育たなかったのは、ひとえに母親の過保護があるだろう。いまもお母さんは、「そんなところで働かずに今からでも大学に行きなさい」と言う。私は怖い。また、仲間外れにされることが。私のなにがいけなかったのだろう。私のなにが嫌われていたんだろう。逆に、私が好かれる部分ってなんだろう。

「井上さん、ハーブティーでいい?」

「はい。いつもありがとうございます」

 亜美が店に来たからか、今日は久々に師匠が自宅に私を招いた。師匠のお店は自宅外に構えている。フリーランスだと自宅で開業する人も多いけれど、師匠はオンオフわけたいから、という理由で貸し店舗で占いをしている。所属する占い師は、師匠をのぞいて三人。師匠は今日は早番だったから、十七時に上がれた。

「亜美さんのこと、聞いてはいたけれど」

「あ、はい。大丈夫です。なんかもう、すっきりしたので」

 亜美が私のいじめの主導者だった。でも、意外と落ち着いていられる。師匠が傍にいるからかもしれない。

 師匠が真っ赤なルイボスティーをカップに注ぐ。独特の香りが鼻腔をくすぐる。師匠のハーブティーは天下一品だ。変な癖もないし、体の芯から温まる。まるで母体のなかのように。ふわりふわりと揺蕩って、私はまた、生まれ落ちる。

「井上さんは、強いのね」

「初めて言われました」

 ふうふうとルイボスティーを冷まして口に含む。甘い香り、独特の風味が喉を通って胃の腑に落ちた。なかからじんわりと温まって、私の体温が生まれ変わる。こんにちは、新しい私!

「ひとを無条件に信じろ、とはいわない」

 師匠らしい。

「けれど、陰があれば陽があるように、悪いひとがいればいいひともいる。それだけは覚えておいて」

 知ってます。私の目の前にいますもの。

 私はまた、あたたかな赤色を体に入れる。私の体がみずみずしく光っている。赤は太陽の色だ。暖色はよう。陽の気を取り戻した太陽は、そう簡単には沈みません!

「私、占い師になって、もっとたくさんのひとを救いたいです。師匠みたいに」

「麗華さんにならできますよ」

 師匠は私と二人きりの時は私を「井上さん」と呼ぶけれど、占いの現場にいるときは「麗華さん」と呼ぶ。私は井上舞であり、占い師の麗華。ぎらんぎらんの、明るい太陽。サンライズ。日の出の太陽って、本当にきれい。


***


 いじめにあって、私は亜美になんでもかんでもあけすけに話した。亜美はそのすべてを真剣に聞いてくれて、私はそれだけで学校に行く勇気が持てた。だけど、私に悪いうわさを流したのが誰なのか、いまだにわからない。

「聞いた? あのばい菌。なんか本当に占いの館に行ってるんだって」

「聞いた聞いた。なんだっけ、A棟の子が言ってたって。写真もあるんだってよ」

 私が占いの館に本当に通いだして、その写真が学校中にばらまかれた。私のスケジュールを知っているのは、思い当たるのは亜美しかいなかった。

「亜美、なんか……みんなが私の動向を知っているんだけど」

「そうなの? やばいね。盗聴器でも仕掛けられてるんじゃない?」

 私は相変わらずトマトが嫌いで、ナポリタンも嫌い。ボロネーゼは好きで、ピザに乗ったトマトは好き。

 真子は好きで、じゃあ亜美は?

「亜美、まさかとは思うけど」

「は? なに、友達を疑うの?」

「……そう、だよね。私がどうかしてた」

 疑心暗鬼に陥って、だれが味方で敵なのかもわからない。わからないから、疑う。亜美は本当に私の友達なの? 私の味方はだれなの? 私はなんなの? この世界にとって私ってなに?


 カマをかけた。悪いことだってわかっているし、こんなことで本当に犯人がわかるとも思っていなかった。私は亜美に、今度の土曜日に占いの館マリーに行くんだ、と嘘をついた。嘘をついて、亜美の家の前で張り込んで、亜美が出かける先についていった。外れてほしかった。私の考えなんていつも薄っぺらで、なんにも正しくない。ばい菌、くず、かす。カスなんだからしゃべるな考えるな。誰を疑ってるの友達だよ。亜美は友達なの本当に? 亜美だけは私の話を聞いてくれたじゃない疑うの? だって亜美しか知らないことをばらされたんだよ。でも私は占いの館になんて行ってなかった。少なくとも、最初の噂が立つまでは。

 亜美が家を出る、バスに乗る。駅に着く。たどり着く。

 は?

「嘘だぁ」

 亜美は、スマホを片手に占いの館マリーの向かいの店舗の看板に隠れて、ちらちらとあたりをうかがっていた。

 なんだぁ、私、私馬鹿だけどなんでこういうことだけは当たるのかなあ。馬鹿のままでよかったのに。なんでかなあ。私って馬鹿のはずだよね?

「亜美」

「あ、舞。どしたの偶然」

 亜美はスマホを後ろに隠した。亜美は私をだましていたの? そのスマホで写真を撮ってまた学校にばらまこうとしていたの? あ、手には新聞もあるんだね。一緒に写せば私が今日、占いの館に来たっていう証拠にもなるもんねえ。なるほどなるほど。

「あ、舞……誰にも言わないで!」

「なにを?」

 うすのろまぬけ、役立たず。私は亜美に背中を向けて歩き出す。亜美は慌ててなにか言い訳をしていたけれど、私はもう、そんなことどうでもよかった。亜美の声が遠くに聞こえる。亜美はぎゃあぎゃあとわめきたてている。絶交だ、って聞こえた気がする。そもそも切る縁を持っていたんだね、私たち。

 私はその日以来、学校に行くのを辞めた。冬が始まろうとしていた。


***


 年が明けても亜美は占いに来なかった。

 私が占い師としてデビューしてから一年がたとうとしている。四柱推命では一年の始まりは立春で、二月の頭から始まる。よくある、中国のひとが春節に仕事を休んで爆買いに日本に来るその春節が、旧正月で一年の始まりだ。これに則り、一か月の始まりも一日ではなく、七日に始まったり五日に始まったりする。それを節入り日という。四柱推命では節入りからなん日で生まれたかで大運を出す。性別男・陽で陽の年柱なら順運、男・陽で年柱が陰ならば逆運。女ならば陰で年柱が陰なら順運、女・陰で年柱が陽なら逆運。大運というのは、立運から巡っていく十年ごとの運気のことだ。例えば、立運が七歳ならその後は七歳から十七歳、十七歳から二十七歳、二十七歳から三十七歳、というふうにきりかわっていく。


「お母さん、私」

 デビューから一年、春の気配が芽吹くその日、私はお母さんに時間をもらって、面と向かって話している。お母さんは悠斗の受験の結果にご満悦で、最近きりきりもカリカリもしない。私はなるべくお母さんの機嫌のいい時を狙って、作り置きのご飯を食べ終えたその席で、久しぶりに「お母さん」という言葉を使った。

「なあに」

 今日は悠斗が高校の制服を採寸してきて、ああ男の子は成長期だから大変だわあ、とうきうきした様子で私に話していた。私に、というのは思い過ごしかもしれない。そこに私は、いつでもいない。

「私、ひとり暮らしするから」

「え? なに言ってるの。アナタ、まだ占い師ごっこしてるの?」

「ごっこじゃない。ちゃんとした仕事だよ」

 家にいくばくかはお金を入れていた。けれどお母さんはそれをお父さんには言わないで、毎月私は給料の半分をお母さんに貢いでいた。でも、実家暮らしなんだから半分渡してもじゅうぶん貯金はできた。それはありがたいことだった。

「でも、この家にいてもしょうがないし」

 私って必要ないみたいだし。

「女の子が嫁入り前にひとり暮らしなんて、もらい手がいなくなるわよ。ダメ」

「でも、私はこの家にいたらずっとこのまんまだと思う」

「このままって?」

 お母さんは今でも、私のいじめを認めてくれない。私のカバンにぎゅうぎゅうに生ゴミが入っていても、制服がびりびりでも、ぞうきん臭い娘の頭の匂いを嗅いでも。私はそこにいるのに、いなかった。お父さんだって、私のことを見て見ぬふりをしている。

 結局、私はできそこないで、弟の悠斗だけが自分の子供なんでしょう?

「私、出ていくよ」

「ああ、そう、そう。そう」

 お母さんは怒るとき、何度も返事を繰り返す。にっこりと笑って、お母さんは私の腕を取った。

「痛い」

「じゃあ、カウンセリングに行こう。アナタ占い依存症なのよ、おかしいのよ。治してもらって、まともな人間にしてもらおう。少し疲れてるのよ。そうだ、高校を相手取って裁判を起こしましょう。いじめなんてものにさらされたから、おかしくなったのよ。高校の学費くらいは賠償金とれるかしら」

「やめてよっ!」

 私はお母さんの腕を振りほどいた。お母さんが目を真ん丸にしている。牛みたいに間抜け。いや、牛に失礼かな。

 お母さんがへなへなとその場に座り込む。

「舞ちゃんが変。変になっちゃった……」

「変じゃないよ。お母さんこそ、私のなにを見てきたの?」

 私が助けを求めたとき、なにをしてくれたの? いまさらいじめを認めて、お金目当てで裁判するの? 私がずぶぬれでも、心が痛くても手当てしてくれなかったのに、今さら学校になにを言おうっていうの? いまさら、いまさらだよ。

 私の心はもう、壊れたんだよ。でも、こうやって血潮が流れているのは、まぎれもなく占い――師匠のおかげだっていうのに。

「私も成人してるし、出ていくから」

 保証人には師匠がなってくれるし、私はただ、自由になりたかった。お父さんにも念のため報告したら、「そうか」と無関心だった。私はきっと、きっと私は、この家で生きていくことはできない。海水魚が川で生きられないように、淡水魚も海では生きられない。私は窒息しておぼれそうになったところを、すんでのところで自分の住処へと帰るのだった。


「保証人、助かりました」

「いいのよ、アナタ本当によく決心したわね」

 アパートに引っ越して、荷物が届く。お母さんは最後まで私を引き留めたけれど、私はお母さんに最後の挨拶をして家を出た。弟が玄関で私をにらんでいた。

「この恩知らず。親を泣かせるとか最低だな」

 弟はお母さんに毒されているから、いつだってお母さんの味方だ。お母さんが私になにをしてくれた? 受験に失敗した姉とは話すな、一緒の食卓は囲まないでね作り置きはするけど。洗濯もわけなきゃねえアナタぞうきん臭いし。制服なんでそんなに頻繁に買い換えてるの。なんで占いの館に行ってたの? そういえば、今年に入って亜美ちゃんが占いの館に行っていたのを見たひとがいるわね。亜美ちゃんってお水のママの娘よね。ああ、あの子に毒されたの? あの子中学時代から不良だもんねえ。でも、聞いた話亜美ちゃんは実家でお水の家業を手伝ってるとか。ああ、ああ、だからお友達は選びなさいって言ったのに。


「どう? ひとり暮らしはうまくいってる?」

 引っ越して、荷物が片付いた六月、師匠は私を自宅に招き、今日はカモミールティーを淹れてくれた。そっとカップに口をつける。師匠のティーカップは妖精が飛んでいてかわいい。きらきら、きらきら、妖精の鱗粉が私の体に入っていく。きらきらはぎらんぎらんになって、エンプティがフルになる。

「いやあ、仕事との両立が難しくて、コンビニ弁当ばかりで」

 お母さんのありがたみを知る。毎日作り置きだけだったけれど、バランスの取れた食事がどれだけありがたかったか、今度改めてお礼を言おうと思った。まあ、お礼だけではすまないんだろうけど。嫌味のひとつも聞き流す覚悟を決めなければ、あの実家には帰れない。

「自炊はしないの?」

「します。味噌汁くらいは。でもこの前じゃがいもの味噌汁を作ったら、じゃがいもが生煮えで」

「水から茹でた?」

「え。じゃがいもって水から茹でるんですか?」

 根菜類やイモ類はそうよ。師匠が苦笑している。ダメな弟子と思われたかもしれない。慌てて取り繕う。

「でも、味噌汁で野菜取るようにしてて」

「お弁当はカロリーも高いし塩分も多いしなあ」

「あ、あ」

 私がおろおろすると、師匠は笑って私の頭を撫でてくれた。

「ひとの顔色をうかがう必要はないわ。そうね、今日、夕飯一緒に食べていかない?」

 師匠がにこりとハーブティーのカップを手に取った。それが様になる。どんな生きかたをしたら、こんなにティーカップが似合う女になれるのだろう。

「でも、ご迷惑じゃ」

「いいの。私はアナタのこと、娘だと思ってるの。おせっかいかしら」

「そんなこと!」

 私も、師匠の娘だったらって何回も想像したよ。毎朝ホットミルクとトースト、スクランブルエッグにサラダ、フルーツヨーグルトなんておしゃれな朝食が出てきて、お昼は仕事を一緒にするから、近場のレストランでサンドイッチのランチ。野菜はバイキング。夕飯は師匠が私の大好きなカレーにして、「手抜きでごめんね」「手抜きじゃないです! 私師匠のカレーライス大好き!」と笑いあって、一日の出来事を話しながら食事する。そんな当たり前が、私は欲しかった。

「じゃあ、カレーライス作りましょうか。材料同じだし、肉じゃがも」


 キッチンに立ち、師匠のモノクロのエプロンを借りる。

「じゃがいも青い部分は食べちゃだめよ。芽の部分は深く取って」

「はい」

 ピーラーがくるくるしてうまく皮がむけない。師匠は玉ねぎの皮をむき、くし形に切っていた。

「師匠、じゃがいもできました」

「はい。じゃあ人参もむいて」

「人参の芽はどうします?」

 師匠がくすっと笑った。

「人参の芽は大丈夫。さて、皮がむけたらこれを」

 くるくると回して、乱切りというらしい。くるくるじゃがいもの辺と面が増えていく。師匠はじゃがいもを一個切り終わると、場所を交代して私に同じように促した。猫の手、猫の手。くるくる、くるくる、ザク。

「うわあ、大きさが違いますね」

「上出来よ。さて、人参も乱切りにしてちょうだい?」

 人参を切る間、師匠はフライパンに油を熱して、まずは肉を焼いている。じゅうう、と肉が鳴いて、それだけで美味しいにおいがした。くう、と漫画みたいにお腹が鳴いた。

「食いしん坊さん」

「や、これは」

「ふふ、冗談よ」

 しわしわの師匠の手が、切った野菜たちをフライパンに入れる。じゅっと音がして、私はフライパンを覗き込んだ。

「いい匂い……」

「そうね。おいしくできるわよ、きっと」

 具材の大きさがばらばらだった。ごろごろとフライパンのなかを転がる野菜たち。野菜が汗をかき油が回って周りが透明になったら、半分にわけてそれぞれ鍋に入れる。

「カレーはそのまま火を通して、肉じゃがはまず、砂糖とみりん、酒で煮る」

「醤油は入れないんですか?」

 あ、授業でなにか習った気がする。調味料は。

「さしすせそ、の順に入れるんでしたっけ」

「正解。砂糖、塩、酢、せいゆ(しょうゆ)、味噌」

 せいゆ、っていうのか。醤油。私はぐつぐつと鍋の中を踊り泳ぐ具材を見る。まだどちらの鍋も大差ないけれど、確実にふたつは違う人生を歩むのだ。左の君はカレーで、右の君は肉じゃが。材料が同じでも、全く違う料理になれる。私と同じだと思った。

「十分したら肉じゃがには醤油ね。そのあと冷ましたら食べましょ」

「え、できたては食べないんです?」

「ええ、煮物って、冷めるときに味が染み込むの」

「へえ、それは知らなかった」

 ぐっつぐっつ、なべをかき混ぜて、師匠がカレールウを溶かす。傍ら、肉じゃがは五分ほど冷ます。とろみのついたカレーが鍋のふちにへばりつく。お玉をかき混ぜ、師匠は嬉しそうに笑っていた。

「味見する?」

「します!」

「本当に、アナタって素直でいい子ね」

「いい子? 私が?」

 そんなはずない。私はお母さんに親不孝をして家を出て、占い師なんてものになって、後ろ指さされて、いじめられて、亜美を見捨てて、だけど私の傍には師匠がいる。恵まれすぎて、怖い。

「はい、カレーと肉じゃが」

 先生にもらった欲張り味見セットに口をつける。カレーの香辛料の風味が鼻に抜ける。辛くて、甘くて、野菜のうまみがぎゅっと詰まった茶色いとろみ。

 肉じゃがのじゃがいもは、少し煮とろけていて、熱くてやけどしそうになった。

「あつ」

「ほら、冷ましてから食べなさいな」

「や、すみません。いつも冷めたものしか食べてなかったので。冷ますっていう概念を忘れていました」

 馬鹿ですよね、と私が笑うと、先生はお玉を鍋に突っ込んだまま、火を止めてふたつの鍋のふたを閉めた。

「井上さんは、馬鹿じゃないですよ」

「え?」

 単なる冗談なのに、なにか、気に障ることでも言ってしまっただろうか。

「井上さん。今のは冗談には聞こえなかった。井上さんは――私の息子もそう。いじめにあっている子って、自分なんて無価値だって、そう、思ってしまうらしいんだけれど」

 冷たいご飯しか食べてこなかった。お母さんが一緒の食卓につくなって言うから。もしも一家団欒で食事をしていたら、私は自分の悩みを両親に打ち明けられただろうか。つらいんだ、助けてと素直に言えていただろうか。

「私はね。息子がいじめられて、何度も何度も学校に行ったの。でも、今と違って学校はなにもしてくれないし、被害者が転校するっていうこともできない時代だった」

 学校に相談に行ったせいで、いじめがひどくなった。息子さんは、「余計なことすんな!」と両親の心配を振り切った。ひとりで悩んで抱えて、自分の心を保つことができなくなった。高校を出て大学に行っても友達を作れなくて、就職するのが怖くなって、家に引こもるようになった。そのあとはもう、壊れるのは速かった。師匠の息子さんは大学を出てから一年ほどで、自ら命を絶った。二年後の私だと思った。私はあと二年で、息子さんを追い越していく。

 子供を守るのが親の役目だ。師匠は親ではなくなって、旦那さんとの喧嘩がたえなくなった。だから離婚した。いじめは本人だけでなく、家族の幸せをも奪っていった。なんで、なんで。なんで。どうして!

「師匠の気持ちは、それでも師匠の愛情は、息子さんには届いていたと思います」

「そう、だといいんだけど」

 師匠はスン、と鼻を鳴らしながら、食器棚からカレー皿と、大きな焼き物の器を出した。

「ご飯、好きなだけよそってきて」

 私は師匠の涙を見ぬふりをして、炊飯器をパカッとあけた。もくもくと白い湯気が、甘いにおいを漂わせる。炊き立てご飯は最強。なのに、今はそれがつらい。白いほかほかをカレー皿に二人分よそって、私は師匠にそれを渡した。師匠は肉じゃがを盛り付け終えて、ダイニングテーブルにランチョンマットを敷いていた。

「たくさん食べるのね」

「はい、私カレーが好きなので」

「いいわね。私もたくさん食べちゃおう」

 鍋のふたをあけて、師匠は私の分のカレーを溢れんばかりにお皿に流す。自分の皿にもタプタプさせて、こぼさないようにそっとダイニングテーブルに運んだ。


 黄色いランチョンマットにカレーを乗せて、ふたりで向かい合わせに座って「いただきます」

 まずは、カレーだけで食べる。冷ますのを忘れない。

「あつ、あ。おいひい!」

「もう、かわいいわね、アナタは本当に」

「いや、師匠これ本当に美味しいです」

 私の好きな辛口。具材がごろごろ不揃いなのも味がある。

 肉じゃがのとろとろの玉ねぎと人参を一緒に箸で挟んで口に入れる。人参に味が染みていて、カレーとは別に白米が欲しくなった。

「たまにでいいから」

 師匠がカレーを頬張りながら、私に穏やかな笑みを向けた。慈愛。母性。あたたかさ、ぬくもり。師匠は聖母のようなひとだ。私を拾って占い師にしてくれて、こうやって一緒にご飯も食べてくれる。できたてのご飯を食べるのはもう三年以上ぶりで、私は本当に、本当に、本当にうれしかった。飛び上がりたかった。心の中ではスキップしていた。この時間がもっと続けばいいのにと思った。

「たまにでいいから、また一緒にご飯、食べましょうね」

 いろいろ料理も教えないといけないみたいだし。

 師匠はどこまでもお人好しだ。私はその日、できたてのカレーと肉じゃがを食べて、デザートにはプリンまでもらって、持ち帰りでカレーと肉じゃがをタッパーに入れてもらって、クリスマスにはふたりでちょっといいところのディナーを食べようねって約束した。

 そうして月日が流れ、私はきれいに大きさのそろった乱切りができるようになった。季節は春。二〇二四年、甲辰の年が始まった。私にとっては喜神の年がやってきた。四柱推命の界隈では、二年後に迫る丙午の年に注目が集まっていた。


***


 久しぶりに真子と心美から連絡があって、私たちはいつものファミレスで待ち合わせた。心美とは中学一年きりの仲だったが、なぜだか真美が私と一緒に会いたいと誘った。

 今年は癸卯の年、二〇二三年、私はちょっと注意が必要。水は火を消す、消防隊。丙が弱まる、でも壬ではないからその作用は弱い。けれど雨は太陽を隠すから、私の存在もきっと透けている。

「素敵なネックレスだねえ」

 最初はそんな、他愛ない話からだった。

 中学生の時の仲良しグループは全部で十人いて、高校に上がって私は一時期疎遠になって、占い師になった今また付き合い始めたのが二人の友達。それが真子と心美。真子とは幼馴染みの仲良しだから縁が続いて、ずっとLINEだけはしていたけれど、合唱部だった心美が真子と今でもつながっていたのは意外だった。合唱部の子と仲良くすればいいのに、というのが私の本音。

「これ、いいでしょう? これに惹かれるってことは、舞もアセンションの時なんだよ」

「あせん……?」

 嬉々として語りだした心美と私は、共に過去に不登校を経験している。だからか、今日は真子は、私と心美を引き合わせたいらしかった。

 私たちの不登校には別段、理由なんてなかった。いや、私には理由はあるけれど、心美はどうも、中三のころから不登校の兆しがあった。やりたくないのだ。とにかく、自分の趣味以外は。たとえば、大好きなアイドルのテレビ番組があれば必ず学校を休むし、好きなアイドルのワイドショーやドラマを全部録画しているから、夜遅くまで起きている。だから、心美はそれらを理由に、学校にはほとんど行っていない。

 つまり、自分の趣味のせいで夜寝る時間もないし、昼間も趣味に勤しみたいから、ならばと削ったのが学校生活だった。そして心美は今も家に引きこもっているらしい。そんな馬鹿な。口から出そうになった本音を飲み込んで、私は心美の引きこもりを肯定していた。

「アセンションっていうのは、今地球で起きている大規模な次元上昇なの。私が通っている心療内科のドクターが詳しいから、今度聞きに来なよ」

「そう……考えとく」

 私はあいまいに返事をして、真子はずずっとアイスコーヒーを飲み干した。真子はいつも、都合が悪い話題には返事をしない。だから、心美のこの話は私が相手をする羽目になる。真子がドリンクバーに席を立つ。カツカツとヒールを鳴らす真子はすっかり都会の女だ。数年前まで高校学生だった真子と心美は、もうすっかり垢抜けた。化粧をしてイヤリングをしゃらしゃらとぶら下げて、私の耳にはなにもないっていうのに。心美は無職だからか髪をキンキンの金髪に染めて、イヤリングはいつか何十ものピアスにすげ変わるのだろうと思った。心美が好きなアイドルみたいに。

「それでね、アセンションは人類の三分の一しか乗れないんだけれど」

「ねえ、あっちでなんか新しいコーヒー豆入れてたよ。めちゃくちゃおいしい」

 帰ってきた真子が椅子に座り、話題を転換する。心美が「マジで!」と顔をぱっと明るくした。私がこのお茶会にまじる前は、ふたりきりでこのファミレスに通っていたらしい。なんの話をしていたのだろう。やっぱりアセンション? だったら真子が、心美とのお茶会に私を誘ったのは、その話題についていけなかったからなのかな。

「そういえば、舞はどうするの」

 真子の話題転換であまりよろしくない方向に話が進んだ。私もドリンクバーに行けばよかったと後悔して、

「どうするって?」

「就職。今のところは腰掛けでしょ?」

 真子の言葉に、「なに?」と心美が真子を見た。真子を止める間もなく、真子は苦笑い交じりに心美に話した。

「舞、占い師なんてやってるの。なんか、師匠に拾われたから、恩返し的な?」

 苦しい、酸素が足りない。なにも知らないのに、占い師ってだけで真子は私をけなすの?

 それは心美も同じだった。さっきまでは、無職の心美は居心地悪そうに私の機嫌をうかがっていたのに、今は侮蔑の目を向けている。苦しくなって、うつむいた。

 あっぷあっぷで口を開いて大きく空気を吸い込むのに、一向に酸素は私の肺に入らない。私の肺は壊れてしまったのかもしれない。

「そうなんだ、舞はその占い師に騙されてるんだよ」

 心美がアイスティーのカップを手に、私に言った。

「騙されてる訳じゃないよ。私、占い師に誇りだってあるし」

「占い師に誇り? それ、洗脳だって。私の病院紹介するから、一回受診しなよ、ね?」

 私は耳を疑った。なんて?

 私の話聞いてた? 私は自分の意思で占い師をしている。心美のアセンションだって、私は否定しなかった。なのに、私はおかしくて、心美は正しいの?

 なにを信じるか信じないかは、その人の自由だ。

 どこまでも他人事な二人に、私はあいまいに笑って見せた。キラキラのプリズムが真子の真っ黒な髪を綺麗に演出していた。心美の話を聞いていなかったら、単なるプリズムのネックレスだったそれ。

「うーん、転職も病院も考えたことないかな」

「そうなんだ。まあ、いつでも来られるし」

 真子が安心したようにアイスコーヒーのストローに口をつけた。もう、心美のアセンションの話は終わったらしい。結局、アセンションってなんだったんだ? この肉体は宇宙から繋がる仮の姿で、本体は宇宙にあるらしい。なんだそれ、ちんぷんかんぷん、蝶々がひらりと舞った。

「そうそう。仕事だって、何歳になってもできるんだから」

 心美の言葉には重みがない。きっとその言葉たちはアセンションのドクターの受け売りなんだろうなと、私は冷めたホットコーヒーを喉に流し込んだ。ぬるいコーヒーって苦味が消えて酸味が際立つから、あまり好きじゃない。私は苦味の強いエスプレッソが、好き。


 私は相変わらず占い師で生活費を稼いで、真子と心美とは今も定期的に会っている。

 その日はどうにも心美の誘いを断れず、心美の心療内科のイベントに参加した。そこには私のお母さんが、いた。お母さんは私が家を出て以来、心療内科に通っていたらしい。私の職業を否定するために。

 きっとお母さんのカウンセリングは私の話より自分の話のほうがメインなのだ。

 お母さんと鉢合わせて、私は話したくなかったのに、お母さんは嬉々として私に話しかけた。

「舞、お母さんわかったのよ」

「なにが」

 声はやたらとテンションが高かった。

 私はお母さんの目を見られず、お母さんの声だけに耳を傾ける。

「アセンションだったのよ、お母さんもアナタも」

「……は?」

「だから、アセンション。次元上昇の準備段階に、不調が起こることがあるんだって。だからお母さんも舞も、こうやって苦しかったのよ。もうすぐ地球は次元上昇して、私たちはアセンションに乗るために準備をしなきゃいけないの。アセンションに乗れなかったひとたちは、この三次元の地球に取り残されるんだけれど、上昇に乗れたひとたちは、五次元の地球で生きやすくなるのよ」

 そんな説明を求めていたわけじゃなかった。私はその話を知っている。何度も聞いた、心美という友人から。まさか。

 自分には関係ないと思っていた。私にはあんな馬鹿な話は無関係で、愚かなひとたちの戯言だと。アレは馬鹿な人間たちのまやかしのはず。

「お母さん、その話って」

「ああ、この広野クリニックのドクターに聞いたのよ。お母さんね、最初は母親の会なんて行きたくなかったの」

 母親の会とは、病気の子供を持つ母親の集まりだ。そこでは洗礼として、母親叩きがある。つまり、子どもの病気はすべて母親のせいだと責め立てられるのだ。それを認めて初めて、子供の病気を分かち合えるのだという。そんな馬鹿な。父親の存在はどうした。そもそも、私は病気じゃない。不登校だって、選んだのは私だ。私のせい以外になにがある?

 言葉を失うとはこのことで、だけどこれだけは伝えなくては。カラカラの喉から声を絞り出した。しわがれていた。

「お母さん、私この病院は嫌」

「なに言ってるの。お母さんようやくわかったのよ。アナタの不登校も占い師になったのも、三次元的な教育が悪かったのよ。従来の三次元の地球式の学校じゃ、アナタも苦しかったでしょう? 広野クリニックにたどり着く子供はね、最初から五次元の子供だから、三次元の地球では生きにくくて不登校になっちゃうんだって。そうよね、アナタは五次元の子供なのだから、苦しかったわよね」

 ごめんねえ、とお母さんが泣きだした。そんなはずない、お母さんが壊れた。

 隣の心美が、うんうんとうなずいている。私の手が汗ばんだ。心美は一家でこのクリニックに通っていて、家族中でアセンションの祈りを捧げているらしい。お母さんだけじゃなくお父さんも母親の会に行って、お父さんは給与の低い会社に転職した。「すべてをリセットして家族で一からやり直しなさい」

 心美のお父さんはそれなりの会社で部長まで上り詰めたのを、我が子のために惜しげも無く捨てた。お母さんは心美の言うなりで、心美がやりたいことをなんでもやらせている。たとえば、アイドルの追っかけは親子で遠征するし、ブラインドのグッズで十万溶かしたと言っていた。そのお金は、心美の両親の老後の資金を崩したらしい。「働くようになったら返すからいいの」

 心美の昼夜逆転は甘やかされて、たとえば心美はよく私たちのお茶会約束を反古にした。待ち合わせに現れない心美に電話しても繋がらないから、心美の親に電話したら、「まだ寝てるのよ、ごめんねえ」とおばさんすら悪びれる様子はない。あとでそれを問い詰めると、「仕方がないんだよ、そういう病気なの」

 過保護な心美の親と私の親は、同じ穴のむじなだったらしい。

「だから、もう無理してお金稼がなくていいのよ」

「もう縁切ったじゃない」

「母親の会でね。お仕事もらえたのよ。これ見て」

 お母さんは首から下がるネックレスを服の中から取り出した。見覚えのあるデザインだった。一目見たら忘れられない独特のデザイン。ミスティッククオーツを蝶の体に見立てたネックレス。心美がぶら下げていたものとおんなじだった。

 クオーツにチタンを加工で入れて、紫を基調にミステリアスに光る石。デザインは蝶々。私には鱗粉を振りまく蛾にしか見えなかった。

「これをね、いろんなひとに伝えると、お母さんもアセンションに近づけるんだって」

「待って。それってマルチ商法」

「なんてこというの! このネックレスはね、必要としているひとに届くのよ」

「いくらしたの」

 うきうきした様子で、お母さんはネックレスを光にかざした。朝日をプリズムしてミスティッククオーツがきらめいた。蝶々は今にも羽ばたきだしそうに私の周りを飛んでいた。

「広野先生の患者だと、半額の五十万で買えるのよ」

「……は? そんなお金どこに」

「つけ払いよ。このネックレスをいろんなひとに売って、その売り上げから差し引きで買えたの」

 頭を抱える。私の母親なだけあって、馬鹿だ。やめてくれ。私だけでじゅうぶんだろうに。馬鹿な親子は、世間からどんどん取り残される。どこで間違えた。濁った黒色の目が私を見て笑っている。胸元の蝶が太陽を私に見せつける。

「お母さん、それ、詐欺だよ」

「なにを言ってるの?」

「だから! この病院はやめて!」

「そんなこと……そんなことしないわ! お母さんはアセンションするんだから!」

 なにを言っても無駄だった。お母さんはむきになり、ネックレスを握りしめてなにかを天に祈っていた。「ああ、偉大なるレムリアンの叡智よ……」

 お母さんはその日以来、私の同級生の家を歩いて回り、詐欺まがいの百万円のネックレスを売りに出るようになった。


 そんなことがありながらも、私と真子と心美は、三人で定期的にお茶をしていた。お母さんとは、相変わらず連絡を取っていない。

「舞が高校落ちたのって……勉強は出来てたのに調子崩したのって、やっぱりアレが原因なの?」

 出し抜けに真子が言った。

「……ん、まあ」

「気にしすぎなんだよ、愛美は」

 心美は少し不満気にごちた。あれ、とういうのは、合唱部の仲間内では有名な話だ。心美の友人でもある、亜美の万引き騒動。亜美は自分を過大評価しているから、万引きすると騒いで周りから心配されることが気持ちよかったのだろう。

「だって、心美だって、亜美が万引きするって騒いでたの知ってたでしょう?」

「あんなの、嘘だって思うじゃん」

「でも、知ってて止めないわけにはいかないじゃない」

 私だけが、亜美を止めた。ほかの仲良しグループの友人は、亜美の言葉を誰一人真剣に聞かなかった。私だけが気に病んで、だから私は、わからなくなった。友達ってなに? 私は亜美を友達だと思っていたけれど、亜美は私に言った。

「うざいんだよ、心配するふりして。アンタのために生きてるんじゃないんだからほっといてよ」

 それならば、亜美が万引きすると騒いだ時、私はどうしたらよかったのだろうか。亜美は他者からの関心を引くのに必死だった。そうすることでしか自分の価値を確かめることができなかった。

「心美だって、傷ついてるんだよ。舞だってわかるでしょ」

「そうだね、同じ合唱部だったんだもんね」

 もしかして、それが原因で心美も不登校になったのかなと思ったけれど、私の想像なんて見事に外れた。心美は自分の都合ばかり優先するから、今も無職でいるのだ。私は亜美のことを今でも引きずっているっていうのに。その亜美に、いじめを主導されたのに。

 心美の不登校は親が許してくれて、私の不登校にお母さんは無関心だった。

 私は、今も自分が分からないというのに。


 ある夜、心美からLINEが来た。個別に連絡が来たのは初めてで、私は連絡に気づいた午前三時、そのメッセージを何気なく開いた。真っ暗な部屋にスマホのブルーライトが光っていて目に悪い。次に返事が来たら既読だけつけて寝ようと思った。

『舞もアセンションの子供だから、次の日曜、また広野先生のイベント行こう』

 にこにこのペンギンのスタンプと、なんかよくわからない虹のエネルギーの書かれたスタンプ。私はどう返信していいのか迷った。また誘われるとは思っていたが、その速さに苦笑すらできない。

 既読をつけて、速攻で返信した。スタンプも顔文字もつけない。

『私はそういうの信じてないから』

『でも、舞のお母さん、反省しているんだし。きっと舞の転職もいい方向に向かうよ!』

 先輩面されて、私は少しだけ腹が立った。心美は私がアセンションすると信じて疑わないらしいが、そんなものこっちから願い下げだ。私は間髪入れずフリック入力する。

『変だよ、それ。アセンションとか五次元とか。そんなもの存在するはずがない』

『は? なにそれ。舞のお母さんが折角心入れ替えたのに。ねえ、今度の休みに、直接話そう?』

 断るつもりが、なぜだか今度は真子と心美と私のグループLINEからの通知。すぐに開いて、

『今度の日曜日に、会えないかな?』

 心美のメッセージ。ついた既読は私のものだけだ。今は午前三時、当然真子は寝ている時間だ。

 私は読むだけ読んで返事をせず、その日はもう、布団に入ることにした。心美のLINEを思い出して、布団の中でひとり憤慨する。なにがアセンションだ、次元上昇だ。そんなもの、存在しない。存在したのなら、私はいったいなんだっていうのだろうか。


 次の日曜日、私と心美と真子はいつものファミレスで待ち合わせた。注文を済ませて各々がドリンクバーを持ってきたところで、心美が私にではなく真子に話した。

「聞いて、真子。舞のお母さんがね、私と同じ病院に通いだしたんだけど」

「ああ、あのすごい先生の?」

 真子は心美の話を真剣には聞かない。合わせているのだ。私はわざとらしく顔をしかめる。なにが『すごい先生』だ。心美は狂信してるだけで、あそこはある種の宗教と同じだった。

「それでね、舞はアセンションした子供だってわかったのに、お母さんのこと信じてないんだよ」

「だから、アセンションとか、宗教みたいで嫌なの」

「宗教じゃないよ。アセンションは合理的な次元上昇なの。私も舞も、アセンションした五次元の子供なのに、なんでうれしくないの?」

「うれしいわけないじゃん。五次元なんて信じてないし」

「不登校になったこと自体が、五次元に生きる証明だよ?」

 心美は心底広野先生に心酔しているらしく、なにを決めるのも広野先生の言いなりだった。

 例えば、運動療法がいいと言われれば、付属のジムに通ったし、デイケアがいいと言われれば、デイケアに通う。ただ、続くかは別問題だった。心美は今でも趣味優先の生活が治っていないから、どの療法も長くは続かない。けれど、それでいいのだ。先生からしてみれば、自分の指示通りに動く患者は、いや、信者は気持ちがいいだろう。そうやって傷の舐めあいをして、悦に入って、意味の分からないアセンションの講釈を垂れる。次元が高いからアナタたちは生きづらいだけだよ、大丈夫アナタたちはなにもおかしくない。

 なんて甘い言葉。自分のせいじゃなくて他者のせい。心美さんは五次元だから次元の低い他者とかかわれなかっただけなんだよ。就職はまだ早いです。じゃあいつが? それは先生が見極めるから大丈夫。わかりました、私就職はまだやめときます。

 そもそも、次元が高いだの低いだの、そういう考えかたが嫌い。誰しも人間は平等で、いいも悪いもない。そう思う反面、幸と不幸だけは存在するのだから、私は頭がおかしくなりそうだった。

「私もさ、最初は学校なんて行きたくなくて生きづらかったけど、ちゃんと通信制高校に復帰できたんだから、愛美もきっとちゃんとした仕事に転職できるよ」

 なんともいえない、言葉にできない不快感を覚えた。心美にできたから私にもできる、というのはいささか乱暴すぎないだろうか。

 私がいまいちぱっとしないでいると、心美はふっと眉間にしわを寄せたままに笑った。無邪気でいて邪悪だった。

「だから愛美は、占いなんてしちゃうんだよ」

「それは私も同感」真子が畳み掛けた。

「これは私の胸にしまっておこうと思っていたんだけど。舞、亜美の占いで散々酷いこと言ったんだって?」

 心美の言葉に、しかし私は呆れてなにも言えなくなった。亜美はどこまで私の話を他者にしているのだろう。あることないこと、いや、占いは実際にしているけれど。亜美から見た私って、どんな人間なのだろうか。出来損ない? 光の子供?

 でも、私はただ、真摯に仕事に向き合っていた。

「え、ちょっと、私少し引いたわ」

 真子がことりとアイスコーヒーのカップを置いた。コーヒーのコップが汗をかいている。真子はナフキンでコップの結露を拭きながら、私に侮蔑の目を向けていた。心美に悪気はないらしく、

「でも、大丈夫。それもアセンション前の一時の落ち込みなんだって。舞がアセンションするには必要なことだったんだって。私にはわかるよ」

 なにもわかってない。これは私と亜美の問題で、たとえ真子でも立ち入ることは許されない。

 亜美はそれをわかっていて、心美に私の話をしたのだろうか。私が孤立するように。

 けれど、今の私は、昔とは違う。私はたくさん、たくさん悩んで、乗り越えて、時々後ろは見てしまうけれど、師匠のために、自分のために、精一杯の人生を歩み出した。だから、亜美の行動にも、不思議と恐怖はなかった。

「だって、舞のお母さんは一生懸命いろんなひとにアセンションの教えを説いて回っているんだから、きっと愛美も広野先生の話を聞いたら、自分の役割がわかるようになるよ」

「……さっきから、アセンションとか役割とか……! アンタになにがわかるっていうの!」

 お母さんがいてお父さんがいて、ちゃんとお母さんが自分を見てくれて。私とはなにもかも違うじゃない。亜美のことだって、心美はこれっぽっちも気にしていない。私だけが気に病んで、受験に失敗して、変な噂のせいで不登校になって。

 誰が私を救ってくれたの? 心美も真子も、私の苦労を「大変なんだね」の一言で受け流した。私はどこに行けばよかったのだろう。心美と真子のふたりだけのお茶会のままのほうがよかったね、きっと。

「私をくだらない話に巻き込まないで!」

「くだらない? は? 五次元に上昇してもいないくせに、私がくだらないって?」

 真子はそこにいないかのようにふるまって、心美は私の胸倉をつかんだ。ティーシャツが伸びて、ああこの子はまったくなんにもわかっていない。アセンションが悪いわけじゃない、私が言いたいのはその危うさ。アセンションのみが世界の真実だと思い込む、視野の狭さと決めつけに他ならない。

「アンタみたいなエセスピがアセンションなんて、こっちから願い下げだっていうの! あーもう、本当に腹立つ!」

 心美は財布から千円札を取り出して、テーブルにどんと起き席を立つ。真子が困ったように私と心美を見て、しかし立ち上がることはなかった。

 あれは私だ、足を踏み外した私。占いは適度に利用すれば人生の指針にはなるが、のめり込めばただの毒と化す。私は心美で、心美は私だった。占いもアセンションも、元を正せばどちらも同じ、知らない人から見ればただの『怪しいスピリチュアル』。それなのに、心美はアセンションは正しいスピリチュアルで、占い師の私をエセと断じた。

 それは、覚悟していたことだった。少なからず、占い師になると決めた時点で、そういった目を向けられることはわかりきったことだった。

 証拠に、真子が私に向ける目も、言葉も、冷たかった。

「占い師なんて、やっぱり私もおかしいと思う」

 聞いた話、真子は都の公務員になったらしかった。真子からしたら、私も心美も等しく不可解なはずなのに、真子は私だけを異端と判断したようだった。でも、私は占い師を天職だと思ってる。

「舞の成績なら、今からでも大学に行けるでしょうに」

 真子の言葉には血が通っていなかった。どこまでも他人事に、事務的な言葉。昔の私なら、それだけで折れていたであろう言葉だった。でも生憎、私は真子や心美が否定する占いに――師匠によって、救われた。人間のなんたるかを知った。悪意のうらにある真意も、儚さも愚かさも。全てひっくるめて人間なのだと、今の私は知っていた。

 春のファミレスは暑くも寒くもないはずなのに、私は羽織っていたラベンダーのトレンチコートを脱いで、隣の椅子に掛けた。

「私、何度も言うけど、占い師って、やりがいのある仕事だよ」

「そうなんだ。じゃあ、私の運勢って占える? 嘘か本当か、見極めたい」

 真子は今も、事なかれ主義だ。心美も私を見下ろし言葉を待つ。私はつとめて冷静に、口を開いた。

「お店に来てくれたら占うよ」

「え。お金取るんだ」

 ああ、そういう反応なんだ。それが普通なんだ、やっぱり。友達だからって、能力を無料で提供するはずがないでしょう? 自分の仕事を家に持ち帰って、旦那や友達にやらせる人間なんていないのに。ましてや、「見極める」とまで言われたら、真正面から向き合うために、お店という『仕事場』の区切りは必要だ。

 私はルイボスティーに口をつけた。師匠の淹れるものと違って、癖が強い。ぬるくてちょっと、臭みがあった。

「実はね。私のところにもこの前亜美から久しぶりに連絡が来て。私も亜美から舞のこと聞いていて……亜美に舞ってどうしてるって聞かれてたんだけど。やっぱり、心美の言う通り。酷い占い、したんだ……」

 私はカップをソーサーにおいて、姿勢を正した。真子はアイスコーヒーを一点に見つめていた。心美は相変らず私を睨むように見下ろしている。私は深呼吸する。なにも間違ってなんか、いない。

「亜美にはね、高校時代いじめを主導されて、占いの仕事をけなされて、それで縁を切ったし、それに亜美は私の店を出禁になったの。亜美の占いはちゃんとやったよ。でも、亜美『も』友達だからって理由で代金を払いたがらなかった。だから少し揉めたんだけど、占い自体は、真摯にやったよ」

「え。待って。舞って亜美と仲良かったのに、なんでそんなことしたの?」

 今理由話したじゃん。私はルイボスティーをまた喉に流す。苦みが喉を焼いて、私はため息とともにルイボスティーをすべて飲み込んだ。おいしくない。

「縁を切ったの。中学時代に私、事故にあったことあったでしょ? あれね、亜美に突き飛ばされたの」

「待ってよ、そんな嘘つく子だったの、舞って」

「嘘じゃないよ。亜美になに聞いたのかは知らないけれど」

 だって亜美、舞の占いでひどいことを言われて、そのせいでノイローゼになって安心できなくて、不眠症になって精神科に通っていて、スナックでしか仕事をもらえなくて、亜美の人生を狂わせたのは舞なんだって、聞いたよ。

 亜美も真子も心美も、スナック勤めを不幸だと思ってるらしかった。私が占い師であるように。仕事に貴賤なんてあるの? 真子も私も亜美も心美も、なにが違うっていうの?

 真子はどちらの味方をするわけでもなく、どちらの意見も聞きたいらしかった。昔から変わらない、広く浅く。

「真子と心美がどちらの話を信じるのかは勝手だけど。私は真子にも心美にも嘘ついたことないし、亜美との仲を裂こうとしているわけでもないよ」

「待って、うん、整理つかない」

 真子は心美に助けを求めた。心美は、「舞がおかしいじゃん」と真子の手を取った。

 真子はそのまま立ち上がり、私を見下ろす形になる。

 真子が即断できないところを見ると、亜美の言葉も信じているのだろう。私ってそんなに信用なかったのかな。そもそも、亜美は相変わらず外堀から埋めていく。私の動向が気になるのなら、お店に直接くればいいじゃない。私は逃げも隠れもしないんだから。まあ、そのお店も出禁で、来たところで対応するのは師匠なんだけれど。

「言い訳ってそれだけ? じゃあ、私たち帰るね」

 心美が真子を引いて歩いた。私は止めもしなかった。

「頭の整理ついてないだろうし、私も亜美の話を聞きたくないからいいよ。私は亜美の友達じゃないよ。それは亜美も同じだと思う」

 私のなかで、ようやく答えが出たような気がした。私はきっと、ずっとこうしたかった。真子と心美との関係がこれで切れるのなら、残念なことだけれど仕方がない。それでも私は、一歩前進した自分を褒めてやりたかった。帰りの足取りは軽やかで、誰にもばれないように少しだけスキップしてみた。着地の瞬間脳みそがぐらぐら揺れて、私のステップで世界が崩れていく、生まれ変わっていく、輝いていく!


***


 亜美はどの面下げて私のもとに通えるのか、クリスマスに子供を連れて師匠の元を訪ねてきた。最後に訪れてから三年がたった、二〇二五年の終わり。子供は女の子らしく、かわいらしいワンピースを身にまとっている。お母さんや真子の話では、亜美は未婚で出産して、今は母親の商売の跡を継いだらしい。ついでに、ほうぼうの占いの館を出禁になっている。ブラックリストにも載っていた。

「助けて、舞」

 私のかわりに亜美の前に座った師匠は、私に奥の部屋に行くように促した。私は少しだけ迷って、

「師匠。私はここにいるべきです。それから」

 亜美と話をさせてください。師匠の心配そうな目をよそに、私は立ったままに亜美を見た。

「亜美。私が亜美に救われたのは事実だったよ。高校の時、亜美が私の話を聞いてくれたことは、今でも感謝してる」

 亜美は子供を膝からおろして、立ち上がって私と視線を合わせる。亜美は私より背が十センチ低いけれど、今日も高いヒールを履いていたから私とはほぼ同じくらいの身長だった。亜美の小さな目が私を睨んだ。涙で濡れていた。

「アンタを見下してただけだって知ってるくせに」

 そうだね。あの噂をばら蒔いたのは亜美だって知ってるよ。

「でも、私は亜美がいなかったら、師匠に出会う前に死んでいたよ」

「アンタのそういうとこが嫌いなんだよ」

「私もだよ。私も亜美のそういうところが嫌い」

 だけどもう、私にはどうでもいいことだった。過去は消えない、傷跡は残る。けれど私たちには、未来がある。

 亜美が涙をこぼして私をまた睨んだ。

「ほら、ほら。本音が出た。アンタは偽善者だった、最初から」

 それはお互いさまだよね。私は師匠に目配せして、師匠が亜美を椅子に座らせる。亜美はごしごしと目をこすって、また膝に子供を抱っこして愛おしそうに頭を撫でた。子供を堕ろさずに生んだのは、実に亜美らしいと思った。

「誕生日はわかったの?」

 師匠が亜美を見据えている。亜美はふっと深呼吸した。

「二〇二一年十二月十四日三時二十分です」

「冬生まれね」


年柱 辛丑

月柱 庚子

日柱 丙申

時柱 庚寅


「身弱の内格。喜神は木と火ね」

「この子はちゃんと育つんですか? どこの占い師さんも身弱でって――」

 占いジプシー。過去の私。亜美も占いに助けを求めるんだね。

「アナタは出禁なのに占うから、先払いでお願いしてもいいかしら?」

 師匠の凛々しい言葉に、亜美はブランドの財布から一万札を取り出した。

「アナタ、旦那さんは?」

「たっくんは……別れました。子供はいらないって。そもそも、JKと付き合ってるって話すと友達がうらやましがるから付き合ってただけで、だから大学生の私には興味がないって……その大学も、退学しました。今は家業を手伝っています」

「泣き落としはやめなさい。そうね、子供っていうのはまだ生まれて間もないから、あくまで参考程度にしかならないのだけれど」

 丙申だから太陽のように明るくリーダーシップのある子。申だからなんでも器用にこなす。ただ、こざかしいともとられることもある。

 そしてこの子は、私と同じで地支が全部無作用。ない。根がない。踏ん張れない。台風で飛ばされる。

「身弱だから、内気でしょうね。根がないから踏ん張りがきかない。身弱でも根があればまだよかったけれど。福分も凶分も薄れるってことは、あまり安定した運気とはいいがたい。でも、大運や流年によってどうとでもなるのよ」

 亜美の日柱は戊子だ。戊は土で山を表す。山は包容力や忍耐力を表す。確かに、クラスののけ者にされても学校に通い続けたことは評価しよう。日柱が子。ネズミはどこにでも入り込む。誰とでも仲良くなれるといい風にも取れるが、したたかで取り入るとも読める。

 水が多いから共感力は高いしコミュニケーション能力も高いから、社会で生き残ることができるだろう。通変星も財星が多かったから、きっとこの先も援助者が現れるだろう。

 私はたまたま亜美と出会って、亜美のしたたかさに気づかぬふりをして、馬鹿で愚鈍な子供で、亜美に利用されて、亜美に突き飛ばされて、亜美にいじめを主導されて、亜美の占いをしている。

 亜美と私の相性なんて、今さら知りたくもなんともない。

 師匠の占いを真摯に聞く亜美は、高校時代私が占いの館から出てきたとクラスメイトに吹聴した。私はそのせいで死ぬことまで考えて、傷官の年に師匠にすくわれて、辛丑の年に丙午がぎらんぎらんと力強く輝きだして、師匠の店で働きだした。その占いだけが、亜美を救う。

 占い師はカウンセラーみたいな仕事で、いろんなひとが誰にも言えない悩みを私に託して、私は慎重に命式を読み解いて、言葉を選んでそれを伝える。私は師匠の息子さんと同じ歳になった。

 二〇二六年は丙午の年だ。六十年ぶりの丙午は、産み控えが起こるのだろうか、それとも、少子化で右肩下がりに出生率が下がるのだろうか。

 二〇二六年六月十二日午後一時から三時、丙午の年、甲午の月、丁巳の日、未の刻。完璧な一行特気格。日柱が陰干なのは少し気になるけれど。

 干支併臨、私の年が来る。私の日柱丙午と流年丙午が重なる希少な年。丙午の年の生まれの子供たちと、丙午の日の生まれの私。その日私は太陽になり、太陽の子供がたくさん生まれ、世界は燦燦と輝いて、きっとそこに、私は、いた。私はギラギラ太陽、丙午の女。

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