時給1500円の罠
はじめまして。
この物語は、リストラされた神様たちが、現代の日本で「再就職」を目指す、ちょっとゆるくて、ほんのりせつない物語です。
私自身、日本の小説や漫画が大好きで、いつか「自分の言葉で、日本の読者の皆さんの心に触れる物語を書いてみたい」と思っていました。この作品は、そんな思いから生まれました。
神様と言えば、尊くて、強くて、完璧な存在……というイメージがあるかもしれません。でも、この物語に登場する神様たちは、ちょっと違います。
自分に自信が持てなかったり、時代の流れに取り残されそうになったり、人間関係に悩んだり……どこか、私たち人間に似ている、等身大の“キャラ”です。そんな彼らが、効率化され、数字で評価されがちな現代社会で、自分なりの居場所と生きがいを見つけていく。その過程を、温かく、時にはコミカルに描いてみました。
もし、あなたも「うまくいかないな」「自分はこのままでいいのかな」と感じることがあるなら、この物語の神様たちの奮闘(と失敗)が、ほんの少しでも、明日への小さな勇気や、クスッと笑えるひとときを届けられたら、これほどの喜びはありません。
まだまだ未熟な筆者ではありますが、心を込めて紡いだ物語です。どうか、神様たちのゆるゆるで愛おしい旅路に、最後までお付き合いいただければ幸いです。
どうかよろしくお願いいたします。
神様、再就職お願いします!
渋谷の雑居ビル8階、「高天原人材開発コンサルティング」のドアを開けた時、尚羅夢は一瞬、区役所の窓口に迷い込んだのかと思った。
無機質な白色の壁。規則正しく並んだ灰色のデスク。埃っぽいコピー機の匂い。そして、壁一面に張り込まれたグラフと数値のシート──「神明再就職KPI進捗管理表(第3四半期)」「信仰力収益対前年比」「顕現事件処理効率」……。
「おや、来ましたか」
声の主は、窓際のデスクで書類に向かう男だった。背広の皺一つなく、髪はきっちり七三分け。顔に笑顔というものは存在せず、代わりに「表情の不在」が圧倒的な個性として空間を支配していた。男は名刺を一枚、滑るように差し出した。
鬼塚 猛
元・財務省主計局
神明再就職支援センター 室長
「財務省……と、神明……」
羅夢は中国人留学生だ。経済学を専攻し、来月の授業料を捻出するため、アルバイトを探していた。求人サイトに載っていた「特殊生活指導員・時給1500円」の文字に惹かれてここまで来たが、どうやら普通の仕事ではなさそうだ。
「では早速、適性検査です」
鬼塚はノートパソコンをくるりと向けた。画面には、複雑な折れ線グラフが表示されている。
『雷神直近5年間 信仰力収益曲線及び関連コスト分析(FY2019-2023)』
「当センターのクライアントです。ご覧の通り、信仰力収益は右肩下がり、一方で雷撃に伴う損害賠償費──主に電子機器故障と農作物被害──は上昇傾向にあります。コストパフォーマンスが悪化の一途を辿っている」
鬼塚の声は、雨戸を閉め切った部屋で鳴る時計の秒針のように、正確で冷たい。
「30分で分析し、利益改善案をエクセルでまとめてください。関数は自由に。では、始めて」
……面接でエクセル実技。自己紹介も志望動機も聞かれない。羅夢の、通称「ダメ人間目」がわずかに細くなる。しかし、彼の手は自動的に動き始めた。時給1500円。この数字が、すべての疑問を押し流す。
まずはデータの整理だ。賠償費用の内訳を見ると、「送電線被害」「家電製品破損」「水田直撃(稲作農家)」が突出している。特に水田への被害には、注釈がついていた。
※信仰離反率と直接相関。収益悪化の主要因。
(……雷神様、あなたの本業は雷を落とすことですか、農業破壊ですか)
内心でそう呟きながら、羅夢はピボットテーブルを組み上げる。信仰力収益が急落した直後に、賠償費用がスパイクしている時期がある。どうやら大規模な落雷事故を起こしたらしい。収益源が「雨乞い」や「厄除け」など多岐にわたる一方、コストが「雷撃」に集中している構造的問題も見えてきた。
キーボードを叩く音だけが、無機質なオフィスに響く。
その時、視界の隅で何かが動いた。
ガラス越しの待合室で、色あせた神官らしい装束を着た痩せた男が、自動販売機の前に正座している。男は硬貨を一枚、丁寧に投入口へ入れる。
カチャン。硬貨はそのままおつり口から出てきた。
男は一瞬凍りつき、もう一度深々と一礼すると、同じ硬貨を慎重に押し込む。再び、カチャン。
三度目は、男が微かに震える指で硬貨を挿入するが、結果は変わらない。硬貨は冷たく、確実に、彼の願いをはねつけた。
男はゆっくりと自動販売機に向き直り、額をガラス面にこすりつけるようにして──明らかに土下座を始めた。
(……あれも、クライアント?)
羅夢は一瞬目を奪われそうになったが、すぐに画面に視線を戻した。時給1500円だ。集中しろ。
30分後。羅夢は完成したシートを提示した。
「分析結果です。結論から申し上げると、『サービス構造そのものの転換』が必要です」
鬼塚の目が、ごくわずかに動いた。
「第一に、賠償費用の内訳を『保険』として事前積み立て、被害時は迅速に補償することで、信徒の不安を軽減します。第二に、『雷エネルギー転換事業』への投資。制御可能な形での放電技術を開発し、賠償コストを新規収益源への投資と位置づけます」
羅夢の声には熱も冷たさもない。ただ、データが示す最適解を読み上げているだけだ。
「第三に、収益性の低い『雨乞い』『厄除け』などのサービスを縮小し、賠償リスクが相対的に低く、付加価値の高い『精密機器放電テスト』『研究施設向け特殊電源』といった領域に特化すべきです」
画面には、賠償費用の逓減曲線と、新規事業からの収益漸増曲線が交差するポイントが、鮮やかな矢印で示されていた。
長い沈黙が流れた。鬼塚はシミュレーショングラフをじっと見つめ、やがて静かに口を開いた。
「……面接者15名の中で、データの誤読なく、『サービスの根本的転換』を提案したのはあなたが初めてだ」
彼は上着の内ポケットから、既に押印済みの書類を一枚取り出し、卓上に滑らせた。
採用通知書だった。
「尚羅夢さん。給与は提示通り時給1500円。交通費別途。社会保険完備。明日9時から出勤願います」
あまりにもあっさりとした採用に、羅夢ですら一瞬言葉を失った。しかし脳内では既に計算が完了している。時給1500円、週5日、月20日……授業料は余裕で賄える。
「……承知しました」
その時、ドアの外から「ガコン!」という音と、そして「あ……ありがとうございます……!」という、どこか切ない声が聞こえてきた。どうやら自動販売機は、ついに男の願いを聞き入れたらしい。
鬼塚はその音に微かに──ほとんど判別できないほど僅かに──眉をひそめると、尚羅夢に向けて、これまでで最も事務的で、そして最も衝撃的な一言を告げた。
「では、明日から宜しく。まずはあの『貨幣認識障害』の神様から、フォローをお願いします」
彼は一息つくと、冷たい視線を尚羅夢にまっすぐに向けた。
「尚羅夢さん、ようこそ──高天原のゴミ処理場へ」
ロビーを通り過ぎると、さっきの神様らしき男が、ようやく買えた一本の野菜ジュースを、嬉しそうに、そしてどこか恐る恐る抱きしめているのが見えた。パッケージには「当たり!もう1本!」の文字が躍っているが、ふたを開ける勇気はないようだ。
(……時給1500円……)
羅夢は心の中で呟き、ダメ人間目をさらに濁らせながら、雑居ビルを後にした。彼のアルバイト、そして常識は、ここから壊れていく。




