灰色の壁に咲く花ー前編
北辺の地にあるマスレイン収容所―― 灰色の石壁に囲まれ、冷たい風が容赦なく吹き荒れるその場所は、絶望の牢獄だった。失意のなか、看守として赴任したバルド・ヴァルクレンは、無期刑囚人・エリス・レイノルズと出会う。彼女の行動がバルドの心を揺さぶる。だが、収容所を支配する冷酷な看守長・グレゴールは陰謀を巡らせる。命を賭した脱獄計画、囚人たちの連携。―― これは、絶望の地で灯った希望の物語。 人は何を守り、何を信じて生きるのか。
冬の朝、王都の石畳を冷たい風が吹き抜ける。
空は灰色に覆われ、光はほとんど街に届かず、鐘の音だけが孤独を増幅させる。
通りを行き交う人々の足音も、風にかき消されるように微かだった。
商人たちはまだ店の戸を開けず、運河の水面には氷の膜が張り、凍てつく冬の静寂が街全体を支配していた。
バルド・ヴァルクレン
――かつて王都騎士団の副隊長として剣の腕も誠実さも、民を守る心も誇っていた男は、今、背を丸め、肩をすくめ、ただ歩くしかなかった。
かつての栄光は遠い記憶に過ぎず、その目には以前の輝きは一片も残っていない。
数カ月前、彼は上司の不正を告発した。
その瞬間から、世界は静かに、そして確実に崩れ落ちたのだった。
仲間は目を逸らし、顔を背け、友は距離を置き、王都の上層部は責任を押し付けた。
公正で正直であろうとした者が、あらゆる孤立と非難を背負う現実。
バルドはそれを、肌で、骨で、魂で知ったのだ。
「……正義を貫いただけで、こんな仕打ちを受けるのか」
静かに漏れる声は、風にかき消されそうだった。
名誉は剥奪され、家族を守るために愛する妻子とは離別し、家名からも除籍された。
かつて誇り高き騎士の肩に巻き付いたのは、冷たい鎖――失墜と絶望という名の鉄鎖だった。
その重さは心を締め付け、歩くたびに身体の芯まで響いた。
王都の城門をくぐるとき、かつて戦場で振るった剣は、もう自分の誇りを守るものではなく、ただ空虚と疲労を映す鏡になっていた。
* **
そして出された転属命令――北辺のマスレイン収容所。
罪人たちの終着地。
表向きには「経験豊かな元騎士を派遣することで秩序を保つ」という温情ある措置とされていたが、バルドには理解できた。
これは彼を絶望の淵まで追い詰め、自ら命を絶たせるための配置なのだ、と。
凍りつく北辺の風と、囚人たちの冷たい視線に囲まれれば、正義を信じる心も簡単に砕かれる。
「……わかっている。俺に残された道は、ここだけだ」
声に感情はなく、ただ空虚を確認するかのように口から漏れた。
心には怒りも誇りももはや存在せず、ただ深い虚無が広がっていた。
剣を握る手も、かつてのような力強さは失われ、重く鈍い感覚だけが残る。魂の奥底には、無限の疲労と絶望だけが静かに澱んでいた。
旅の途中、凍てつく雪原に立ち止まる。
吹き荒れる風が衣服の隙間を容赦なく突き、頬を刺す冷たさに痛みを覚える。
空は鉛のように重く、遠くの山々はぼんやりと霞んで見えるだけ。
北辺――その名を耳にするだけで、死と孤独の匂いが漂う。
しかし、バルドの胸に恐怖も希望も、もはや宿ってはいなかった。
過去の誇りも未来の夢も、氷の下に埋まったまま、彼はただ前へと足を運ぶしかなかった。
馬車の車輪が石畳を叩く音、軋む木製の扉の音、凍結した川面を風が滑る音……すべてが孤独を増幅する。
だが、その孤独の中で、わずかな思考が彼を苛む。
もし、あの告発をしなければ、名誉も家族も、すべてを失わずに済んだのではないか――。
しかし答えは見つからない。胸の奥の小さな炎は、かつての正義と誇りの記憶に過ぎず、現実の冷たさに押し潰されていた。
夜になれば、雪はさらに厚く降り積もり、北辺の寒風は骨まで凍りつかせる。
街灯もほとんど機能せず、街は灰色の闇に包まれた。
バルドは独り、馬車の窓から外を見つめる。
雪原に浮かぶ遠くの灯りは、まるで遥か遠い世界のものに思えた。
生きる意味は何か、正義は報われるのか――問いかけは増えるばかりで、答えはどこにもなかった。
馬車の軋む音と風の唸りだけが、絶望の旅路を淡々と刻む。
かつての騎士はもういない。
残されたのは、灰色の世界に一歩ずつ踏み出す孤独な影――バルド・ヴァルクレンその人だけだった。
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