灰色の壁に咲く花ー後編
アランが出所してから数ヶ月後。
皇太子の恩赦により、マスレイン収容所から一部の囚人が釈放されることが決まった。
その恩赦による、釈放される囚人リストは、看守長グレゴール・ハルツの手によって作成された。
当然のように、そこにエリス・レイノルズの名前はなかった。
だが、バルドはその中にエリスが献身的に看病をしている末期がんの囚人
――ロゼ・ノアールの名を見つける。
しかし、ロゼ・ノアールが恩赦で出所したところで行き先もなく、治療を受ける手段もない。
その疑問を胸に抱えたまま、バルドはグレゴールに問いかけた。
「……なぜ、ロゼ・ノアールを出す?」
グレゴールは一瞬、口元に冷笑を浮かべた。
「死ぬなら外で死ねばいい。ここで無駄に食料を消費されるよりはな」
その言葉に、バルドの胸の奥で何かが軋んだ。
それは怒りか、悲しみか、それとも
――かつて失ったはずの正義の残響だった。
バルドは、この状況を静かに思案した。
そして、グレゴールの策略を逆手に取る方法を探りながら、密かにアランへ連絡を取る。
危険を顧みず、アランからはすぐに返信が届いた。
その一通の返答が、バルドの心に決意を灯す。
バルドは、エリスには何も告げず、ロゼ・ノアールと極秘裏に相談を始める。
夜の静寂の中、冷たい石壁に囲まれた一室で、二人だけの会話が交わされる。
ロゼの瞳には、死を前にした者の静かな覚悟があり、バルドの瞳には、かすかに揺れる希望の光があった。
それは、絶望の底で交わされた、未来への密かな決意だった。
「……ロゼ、お前の恩赦が決まり、出所できることになった……」
「……だが、お前は、ここを出てから、どうする?」
「行く先もなく、治療も受けられない……」
「そして、グレゴールが、お前に恩赦を与えたのは、最後に、収容所の外で垂れ死なせるためだ……」
沈黙のあと、ロゼは静かに口を開いた。
「……言いたいことは、わかるわ……」
「どうせ……出所しても生きられない私の命より、彼女の未来の方が価値がある……」
その声は弱々しくも、確固たる決意に満ちていた。
その眼差しは、エリスの未来だけを見つめていた。
バルドは拳を握りしめ、雪に覆われた中庭に立つ月光を見上げる。
氷を割る炎――それが、彼の胸に芽生えていた。
計画は危険極まりない。
ロゼの恩赦を利用し、ロゼの身代わりとしてエリスを脱獄させるという賭け。
犠牲は避けられず、失敗すれば二人の命が失われる可能性も高い。
それでも、誰もがその道しかないと感じていた――エリスを救うためには、希望という名の危険に賭けるしかなかった。
そしてそれは、二人に取り、命を賭してでも守る価値のある存在――それは、エリスだった。
エリスを救うことが、バルドの心に再び灯った炎であった。
かつて正義を貫いたがゆえに失ったもの――名誉、家族、信頼。
その記憶と、目の前の少女を守りたいという新たな想いが、激しくせめぎ合っていた。
冷たい北辺の風が石壁の隙間を吹き抜ける中、バルド凍てついた心に、静かに炎が灯り、彼は決意を固める。
それは、灰色に染まった北辺の空を、ほんのわずかに照らす夕焼けのような暖かな光。
弱くとも、確かにそこにある――希望の兆しだった。
* **
計画を実行するにあたり、一つの問題が立ちはだかっていた。
それは、エリスの腕に刻まれた火刑の痕だった。
エリスが薬師として手を使うことを知りながら、かつてエリスの姉、リリアナが選んだ罰――皮膚を焼かれる刑。
エリスはその痛みに耐え、自ら摘んだ薬草で傷を癒し、ここまで生き延びてきた。
だが、その痕は今もはっきりと残っている。
一方、エリスとして残る末期がん患者、ロゼ・ノアールの腕には、その痕がない。
もし、エリスに成り代わったロゼの遺体に火刑の痕がないと発覚すれば、計画は即座に崩壊する――それは、すべてを賭けた作戦の致命的な綻びだった。
バルドの胸には、深い葛藤が渦巻いていた。
余命いくなくもない囚人に、火刑の痕を刻む。それは、あまりにも非情な決断だった。
だが、自分がやるしかなかった。
エリスを救うためには、誰かが痛みを背負わなければならない。
ロゼ・ノアールが恩赦により、三日後に出所することが決まった。
その知らせを受けたバルドは、意を決し、夜の静寂の中、極秘裏にロゼの独房を訪れた。
北辺収容所の冷たい石壁が、絶望と苦悶を映す舞台となる。
ロゼはすべてを悟ったように、静かにうなずいた。
その瞬間、バルドの胸に灯った炎は、凍てついた空気をわずかに揺らした。
「……覚悟はできているか」
ロゼはうなずき、静かに手を差し出す。
熱を帯びた焼き印が肌に押し付けられる瞬間、ロゼの息が一瞬止まった。
焦げる匂いと血の滴りが立ち込める中、バルド・ヴァルクレンは焼き印を手に握りしめていた。
痛みと恐怖、そして救いへの希望――すべてが入り混じる。
だが、バルドの胸にも同じ痛みが走っていた。
彼は、自らの手で他者の命を守るための犠牲を与える――その重さを、肌で感じていた。
焼き印が刻まれた瞬間、ロゼの顔に涙が滲んだが、その目には絶望ではなく、未来への希望が宿っていた。
バルドもまた、胸の奥で封じていた正義と人間性が、再び息を吹き返すのを感じていた。
「……これで、エリスを救える」
バルドは小さく呟き、静かに視線を外した。
その夜、彼は一睡もできなかった。
ロゼのかすかな呻き声が、耳の奥に焼き付いて離れなかった。
だが同時に、その痛みは――生きている証として、彼の心の氷を溶かし続けていた。
* **
ロゼ・ノアールが出所する二日前。
バルドは、ついにエリスに今回の計画を伝える決意を固めた。
アランからは、事前にこう助言されていた。
「エリスの優しい性格を考えれば、本物のロゼを見殺しにはできないと言うだろう。 だから、エリスには間際に伝えてくれ。彼女が選ぶのは、必ず人を救う道だ。その選択が計画を揺るがすとしても――それがエリスだ」
昼の自由時間。
いつものように薬草を摘んでいたエリスに、バルドは一人になるのを見計らって声をかけた。
「明後日から、お前は、ロゼ・ノアールになる……。ロゼはお前に感謝している……。だからこそだ。アランも外で待っている」
今朝、エリスがいつものようにロゼに薬を届けた際、彼女の独房から微かに肉の焼けるような臭いが漂っていた。 その時、エリスはロゼには確認しなかった。
だが、すべてを悟ったのか、バルドの言葉に、エリスはしばし沈黙した。
やがて、静かにうなずいた。
そのうなずきは、決意の印であり、もはや後戻りできない道を歩む覚悟だった。
二日後、ロゼ・ノアールとして門をくぐるエリスの背中には、絶望の影はなく、ただ静かに、新たな未来を見据えるような決意が宿っていた。
外では、アラン・ヴァルモントが、エリスを待っていた。 二人は、静かに再会を果たす。
ただ互いの瞳に、これまでの苦難と、わずかな希望が映り込んでいた。
冷たい風が吹き抜ける中、その沈黙は、言葉以上に確かな絆を示していた
だが――マスレイン収容所内に平穏は長くは続かなかった。
エリスが出所してすぐに、グレゴール・ハルツは、異変を嗅ぎ取っていた。
エリスの所在が不明――だが確証がない。
彼は看守たちを分散配置し、囚人一人ひとりの動きを記録させた。
誰がいつ外へ出て、誰と話し、何を食べ、何を隠したか――
まるで獲物を追う狼のように、彼の目は収容所全体を舐めるように巡っていた。
「誰かが、俺の知らぬことを企んでいる」
その低い呟きは、冷気と共に石壁へと吸い込まれた。
しかし、囚人たちは動じなかった。
互いに視線を交わし、息を合わせ、細い鎖のような信頼を紡いでいく。
末期がんの囚人、ロゼは、エリスに成り代わり、彼女の監房へと、極秘にバルドによって移された。
本来ならば、こうした異変は他の囚人たちから漏れてもおかしくない。
だが、誰一人として口を割らなかった。
それは、皆がエリスに世話になっていたからだ。
彼女の献身と優しさは、冷たい収容所の中で、確かな絆を育んでいた。
ある昼休み、グレゴールは訝しげに問う。
「エリス・レイノルズはどこだ?」
囚人たちは、互いに顔を見合わせ、あらかじめ決めていた言葉を繰り返した。
「エリスは感染症の囚人を看病したあと、感染してしまった。私たちも同様です」
その一言が、疑念の矛先をわずかに鈍らせた。
感染という言葉
――それは恐怖よりも早く、監視の目を逸らす盾となった。
囚人たちは外出を控え、沈黙と咳を偽装して時間を稼ぐ。
その裏で、バルドは静かに情報を操り、グレゴールの目を別方向へ導いていた。
収容所の古い通風孔、壊れた配線、無線の雑音――
それら全てが、グレゴールを翻弄するための道具となった。
「……ここで、負けるわけにはいかない」
バルドは心の中で静かに呟いた。
彼にとってそれは、もはや正義の戦いではなかった。
守るべき者たち――エリスと、希望を信じた囚人たちのための戦いだった。
グレゴールは苛立ちを隠せなかった。
小さな齟齬、小さな嘘――それらが網のように絡み合い、真実を覆い隠している。
「この収容所のどこかに、裏切り者がいる」
彼は看守の中に密告者を作り、囚人の一人に囮を仕立てた。だが、囚人たちは互いの暗号と符丁で連携し、常に一歩先を行った。
情報は封じられ、監視は撹乱され、報告は意図的に遅延させられる。
その中で、バルドは冷静に全体を操っていた。
夜な夜な、囚人たちはグレゴールの不在な場所でささやき合う。
伝言は、パンくずと刻印で伝えられた。
「彼が動いた」
「今夜は見張りが一人」
そして、アランとエリスが外部から流した報せが、決定的な一手をもたらす。
グレゴール・ハルツ――かつて戦場で味方を裏切り、自らの部隊を撃ち殺したという記録。その非道な行為の証言が、ついに明るみに出た。
その真実は、囚人たちの中にいた犠牲者の家族の心に、静かに復讐の芽を芽吹かせた。
怒りと悲しみ、そして長く抑え込まれてきた恐怖が、ついに結束へと変わる。
* **
老朽化した収容所の配電盤
――錆びた鉄の中を、細い銅線が蜘蛛の巣のように走っている。
その夜、バルドは最終確認を終えると、低く呟いた。
「……ここが、終わりの場所になる」
囚人たちは、この計画を遂行するために、自分達のわずかばかりの食事を更に減らし、それを餌に、ネズミを特定の経路へ誘導した。
銅線に塗られた蜜の匂いをたどり、ネズミたちは通気口を駆け、グレゴールの監視室へと入り込む。
翌朝ー不審な音に気づいたグレゴールが、罠を仕掛けた扉を乱暴に開けた瞬間――
流れ落ちた水でぬれた床に、断線した配電盤の火花が交わる。
雷鳴のような閃光が走り、グレゴールの叫びが収容所に轟いた。
焦げた匂いが漂い、彼の巨体は、自らが築いた恐怖の王座の上で崩れ落ちた。
それを見届けた囚人たちは、誰ひとり声を上げなかった。
ただ、長く凍りついていた空気が、ゆっくりと溶けていくのを感じていた。
バルドは拳を握りしめ、冷たい床に膝をつく。
彼の胸には、痛みと安堵が混ざり合っていた。
「これが……お前の終わりだ、グレゴール」
その呟きは、雪解けのように静かだった。
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