灰色の壁に咲く花ー中編
収容所に到着した日、バルド・ヴァルクレンを迎えたのは、灰色の石壁と容赦ない北風だった。
中庭には雪がうっすらと積もり、氷の結晶が風に舞って舞台のように輝いていた。
石畳が軋む音が響くたび、この地全体が生きた監獄であることを告げているようだった。
看守としての配置を告げられた瞬間、バルドの表情はすでに氷のように冷たかった。
囚人たちに同情の色はなく、声を発することもない。
彼の姿は、まさに“氷の看守”そのものだった。
同僚たちは囁く。
「……あいつは何を考えているかわからん」
だが、バルド自身ですら、心の奥底で感情を切り離し、虚無を受け入れていた。
その夜、屋上から見上げた北辺の空には、淡い月光が差し込んでいた。
「……まだ、今日も生きている」
無気力と絶望に沈みながら、ただ日々をやり過ごすしかなかった。
* **
囚人の群れの中で、ひときわ異彩を放つ存在
――エリス・レイノルズ。
無期刑囚でありながら、囚人に薬草や食事を分け与え、病人の囚人達を献身的に看病していた。
彼女の姿は、凍てつく世界に灯る小さな炎のようだった。
有期刑囚のアラン・ヴァルモントは、五年の刑期の三年目を迎えていた。
収容所で過ごす日々の中、彼はエリスと出会い、彼女の強さと優しさに心を動かされていった。
残された刑期の中で、アランはエリスを救う方法を模索し始める。
だが、無期刑の囚人を自由にする手段は限られていた。
脱獄以外に道はなく、信頼できる看守の協力が不可欠だった。
しかし、この場所には裏切りと暴力しかない。
アランの胸には、焦燥と絶望が渦巻いていた。
* **
ある寒い日、巡回中のバルドは、雪の中で薬草を摘むエリスの姿を目にした。
小さな手で雪をかき分けながら、慎重に草を集める彼女の横顔には、疲労や恐怖の影はなく、ただ静かな決意だけが宿っていた。
「……何をしている」
バルドの声は低く、しかし雪風にかき消されることなく、確かにエリスに届いた。
エリスは驚くこともなく、落ち着いた声で答える。
「病気や怪我をした囚人たちのためです」
その言葉は、バルドの胸の奥底に、微かな揺らぎを生んだ。
誰も助けることのないこの場所で、罪人の少女が他者を思いやる姿
――それは、凍りついていた彼の心に、そっと触れるものだった。
目の前にいるのは、冷酷な現実に屈せず、自らの意思で光を守ろうとする者。
氷の世界に差し込む一筋の光を見たその瞬間、バルドの内面で、何かが小さく、確かに揺らいだ。
中庭の石畳に響く雪解けの水音、囚人たちの重い足音、鉄製の扉の軋む音
――それらすべてが、バルドの感情の微細な変化を、静かに、確かに刻んでいた。
マスレイン収容所に来て以来、人間としての温もりを拒み続けてきた彼の心が、初めて他者の優しさに触れ、動き出そうとしていたのだ。
その夜、バルドは再び窓辺に立ち、雪に覆われた中庭を見下ろす。
エリスの小さな姿は、氷の世界に生きる希望の象徴のように、彼の胸に灯をともしていた。
長く閉ざされていた扉の鍵が、かすかに回る音を立てる。
――それは未来への扉の音。
まだ不確かで、遠い響きではあったが、確かにそこにあった。
* **
北辺の冬は、容赦なく人々の体と心を蝕んでいた。
凍てつく風が収容所の石壁を叩き、鉄の扉は軋みを上げ、雪は無言のまま中庭を覆い尽くす。
ある日、バルド・ヴァルクレンは重い倦怠と寒気に襲われ、寝所のベッドに倒れ込んだ。
体は震え、息は荒く、意識は霞んでいく。
仲間の看守たちは無関心に通り過ぎ、誰ひとりとして手を差し伸べる者はいなかった。
孤独は、再び彼の心を深く蝕んでいく。
その時、静かに扉が開き、エリスが薬草を手に入室した。
凍える手で彼の額を冷やし、温めた薬草をそっと体にあてがう。
「……これで、少しは楽になるはずです」
その声は低く、しかし確かな温もりを帯びていた。
バルドは無言のまま目を閉じる。
誰にも頼らず、誰も信じずに生きてきた彼にとって、少女の無償の思いやりは、胸に突き刺さるほど痛烈だった。
それは痛みではなく、忘れかけていた人間の感覚――温もりの記憶だった。
数日後、エリスの薬草のおかげか、バルドの体調は順調に回復した。
死をも覚悟した彼が、再び生きながらえることができたのだ。
その夜、バルドは窓辺に立ち、月光に照らされた雪の庭を静かに見つめていた。
心の奥底で、長くまとっていた氷の鎧が、わずかに軋む音を立てるのを感じる。
体調が回復し、通常の業務に戻ったバルドの変化を、影から静かに観察していたのがアランだった。
(……この人なら、協力してくれるかもしれない)
アランは慎重に距離を詰め、エリスの救出計画への参加を打診する。
しかし、バルドの瞳には葛藤の色が見え隠れしていた。
かつて正義を貫き、すべてを失った男
――名誉も、家族も、信頼も失った彼にとって、再び誰かを守るという決断は、容易なものではなかった。
その沈黙は、深い思案の重みを帯びていた。
一方、看守長グレゴール・ハルツは、暴力と恐怖で秩序を保ち、この腐敗した収容所を支配していた。
彼は少しでも気に入らないことがあれば、囚人たちを呼び出して立たせ続けたり、食事を抜いたり、無意味な作業を強いたりと、執拗に嫌がらせを繰り返した。
彼は、バルドの微細な変化にいち早く気づき、鋭い眼差しでその動向を監視し始める。 この場所で、誰かの氷の中に微かな火が灯ること――希望が芽吹くことを、彼は何よりも恐れていた。
だからこそ、グレゴールは囚人たちの前でわざとバルドを孤立させるような言葉を投げかけ、同僚の看守たちにも密かに疑念を植え付けた。 小さな嫌がらせや不信の種は、やがてバルドの心を締め付ける鎖となる。
そして、グレゴールは、陰湿な計略を巡らせ、バルドをじわじわと追い詰めようとする。
バルドの心に芽生えた温もりを、再び凍てつかせるための冷酷な意志だった。
アランがバルドにエリスの脱獄の協力をあおぎ、二人は緻密に、慎重に計画を練り始めた。
幾度もの検討と調整を経て、ついにその計画に陽の目が見え始めた――
実行まで、あと一歩という段階に。
だがその直前、グレゴールに計画を見透かされたのか、アランの仮釈放が突然決まる。
通常なら一ヶ月前に告げられるはずの知らせは、前日に唐突に下された。
翌朝、鉄の扉が開き、看守に促されるままアランは収容所を後にした。
囚人たちの視線を背に受けながらも、彼は振り返ることなく歩み去るしかなかった。
その姿は、バルドにとって「エリスを救うという希望の核」が引き抜かれた瞬間だった。
エリスの脱獄は果たされぬまま、計画は無言のまま頓挫する。 残されたのは、空虚な寝台と、胸の奥に燻る悔恨だけだった。
計画は、声なきまま潰え、アランもバルドその痛みを言葉にできなかった。
ただ沈黙だけが、収容所の冷たい空気を満たしていた。
その後、グレゴールはバルドを執拗に監視し、圧力を強めた。 まるで、わずかに灯った希望の火を、冷たい指先で潰そうとするかのように。
彼の視線は常に背後にまとわりつき、些細な仕草や言葉さえも記録されているかのようだった。
バルドが囚人に声をかければ、その場に不自然な沈黙が落ち、同僚の看守に微かな疑念が広がる。
それは直接的な暴力ではなく、じわじわと心を締め付ける見えない圧迫だった。
冬の収容所に、再び静けさが訪れた。
だがその静けさには、張り詰めた緊張が漂っていた。
バルドの心に芽生えかけた小さな希望も、鋭い監視の影の下でかすかに揺らいでいた。
冷たい空気がすべてを凍らせるように、彼の内に灯った微かな火も試されていた。
* **
病を患う囚人の病状は、日を追うごとに悪化していくものも多くいた。 凍てつく北辺の冬は、彼らの脆弱な体を容赦なく蝕んでいく。
そして、彼らを看病するエリスの体も限界に近づいていた。
それでもエリスは、自らの口に入れる分を削り、わずかな食料を惜しげもなく、病を患った囚人達に分け与え続けていた。
バルドにできることは、ただひとつ――エリスが病気の囚人につきそう献身な姿を、遠くから見守ることだけだった。
彼の胸の奥では、言葉にならない痛みと、わずかな誇りが交錯していた。
この収容所の冷酷な空気の中で、エリスの行為は小さな炎のように輝き、バルドの心に静かな余韻を残していた。
グレゴールの監視は一層厳しさを増し、エリスの脱獄はもはや絶望的だった。
グレゴールは冷酷に言い放つ。
「死にかけの人間に、食料など不要だ」
その言葉通り、病人達の食料は日を追うごとに減らされていった。
それでもエリスは、決して諦めなかった。
エリスの献身は、収容所の冷たい空気の中で唯一の温もりとなり、バルドの胸に痛みと共に深く刻まれていく。
その痛みは、ただの傍観者でいることへの苛立ちであり、同時に、彼自身の心に残された人間性の証でもあった。
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