猫かぶり王子は夢で愛を囁く。〜秘密を知った侍女は毎夜夢の檻に囚われる〜
品行方正、眉目秀麗、文武両道。ルシール王国の 第二王子であるアレクシス殿下を表す言葉といえば、この三つだった。
ハンナがアレクシスの正体を見てしまう日までは。
ハンナは今年二十二歳になる男爵令嬢だ。
行儀見習いのために、王妃ルナの侍女をしている。
ルナの寝室に飾る香袋を作るため、王宮のすみにある温室、ラベンダー園をのぞいた。ここのラベンダーはとても丁寧に育てられていて、香りが長続きする。
良質な睡眠を取ってもらうためにも、侍女が交代でポプリを作っていた。
ハンナは剪定ばさみとかごを持って温室の奥に入ると、誰かが日当たりのいいベンチに寝転がっていた。
この時間は執務室で事務仕事にあたっているはずの第二王子、アレクシス・ルシール・ヒラソール。
王室勤めのハンナが見間違えるはずもない。
柔らかな藍髪に金色野瞳が特徴的なお方だ。
いつでも穏やかな笑みを浮かべていて、物腰の柔らかい完璧な王子様。
王宮の敷地内にいるのに他人の空似なわけもなく。
「あー、やっぱり昼はだるい……仕事戻るの嫌だなぁ……。母上のこと嫌いじゃないけど、この血だけは困りもんだ……」
王子が吐いたとは思えないような愚痴も聞こえてくる。
素敵な御方だなと憧れていた理想の王子様像が、音を立てて崩れた。
「誰だ?」
「ひょえっ」
隠れる場所なんてないから速攻で見ていたことがバレた。
「……ハンナ、か。母上の侍女の」
「あああ、あの、えっと」
「いま見聞きしたこと、誰にも言わないでくれるかな」
笑顔に凄みを感じて、ハンナは高速で首を上下運動させた。
言ったところで誰も信じはしない。
みんなのあこがれ完璧な王子様が、本当はグダグダ怠惰な人だったなんて。
手早くラベンダーを摘んでダッシュで逃げた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その夜。
ハンナは夢を見た。
昼間いた、王宮の庭の一角……温室の中だ。
目の前のベンチにはアレクシスがいた。
ハンナは寝間着だったはずなのに、いつの間にか侍女の給仕服を着ている。
「誰にも言わないでって言う約束、守ってくれたんだね」
「……?? な、なんで夢の中にアレクシス様が? それに、昼間の言葉の続きみたいな……変な夢」
「そうだね、変な夢だ」
ハンナは驚きと混乱で固まった。アレクシスはハンナの一挙一動を観察して楽しんでいる。
「母上から聞いたけど、君には恋人も婚約者もいない。なら、僕と二人きりでここにいても誰にも咎められはしない」
ここは夢の中。本来ならひと目に触れる王宮の庭園であろうと誰も来ない。
アレクシスは、まるで恋人にするかのようにハンナを強く抱きしめた。
「へ?? い、いけませんアレクシス様! 私は、侍女で」
アレクシスは正面から、うろたえるハンナをじっくりと観察する。
「ここで何を言っても誰にも聞こえない。夢だから、何を言っても許される。夢の中では、人に望まれた人当たりのいい王子を演じる必要なんてない。だから君も」
アレクシスの言葉は、優しくもあり、情熱的でもあった。
ハンナはその言葉に応えるように、目を閉じる。少女なら誰もが憧れるロマンス小説の展開がそこにある。
自分に都合のいい夢を見ているだけだと、ハンナは自分を納得させようとした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌朝、王妃に付いて仕事をして……アレクシスと顔を合わせたときに、気づいた。
アレクシスが何か言いたそうに、ハンナを見ている。
顔を合わせるとハンナを見るけれど、いつもの品行方正な王子様のアレクシスだ。
王妃の侍女としての仕事を終えて湯浴みをして、ベッドに潜り込むと、昨日の夢の続きが始まった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
今宵の夢でハンナは、アレクシスの執務室にいた。
アレクシスは昼間の善良さが嘘のように、自由気ままで俺様な顔を見せる。
執務机に座らされたハンナの腿を、アレクシスの指先がなぞる。
「ハンナはこれを夢だと思っているのかい?」
「夢でしょう。王子様が夢に出てきて愛を囁くなんて展開、少女が焦がれるロマンス小説そのもので現実味が薄いです。なぜ私はこんな夢を見るようになったのかしら……。結婚願望が特別強いということはないはず……」
アレクシスは困惑するハンナの額に自分の額を合わせて笑う。
「惜しい。実に惜しい推理だね。夢は願望を映すもの、それは人間が考えた定説であるが、事実ではない。これがもし君の願望のあらわれなら、ハンナはこんな自堕落でどうしようもない王子に好きなようにされたいと思っていることになる」
「そんな趣味は、ないです。私は……遠くから見ているだけで良かったし、ただ憧れていた、だけで……自分がアレクシス様とどうこうなりたいとまでは……。それに、女性をからかって楽しむような悪趣味な人、私の好みと真逆の」
アレクシスに唇を塞がれて、背中が執務室につく。
「逆の、何?」
目の前にいるのは人をからかって遊ぶ俺様な男。みんなに尊敬される品行方正で完璧な王子様なんて、どこにもいなかった。
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翌日も、ハンナは王妃の侍女としての仕事をこなしていた。
「ルナ様。本日は一〇時からアウグストのロエリ王妃との会談です。十三時は第三魔法学院の視察となっております」
「わかりました。ご苦労様、ハンナ」
ルナのお供をして応接間に向かう途中、アレクシスとすれ違う。
「おはようございます、母上。今日は天気が崩れそうですから、外出のスケジュールがあるなら早めに予定を切り上げたほうがいいですよ」
「あら、そうなのね。気をつけないと」
アレクシスはルナの後ろに控えるハンナをちらりと見た。
品行方正、眉目秀麗……いつもの、誰に対しても穏やかで優しいアレクシスだ。
けれどハンナは居心地が悪かった。つい、アレクシスから視線をそらしてしまう。
主と恋仲になる……あまつさえそれ以上の夢を見てしまうなんて、不敬にもほどがある。
アレクシスは何も言わず、ただ微笑むだけだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
アレクシスの母、ルナは夢魔の血を引く半魔族だった。
夢魔の血が色濃く受け継がれ、アレクシスは人の夢を操る力をもっていた。
夜の眷属ゆえに、日の出ている日中に活動するのは不得手。
その代わり夜は普通の人間よりも活動できる。
品行方正な王子様を演じるのに飽きていたアレクシスは、自分の秘密の一端を見たハンナを、おもちゃにすることにした。
アレクシスはハンナの夢に入り込み、ハンナをからかうことに楽しさを見出していた。
ハンナがうぶな反応を見せる度に面白いと感じ、イタズラを試みて楽しむ。
ハンナが恥じらう姿、怒る姿、困った顔――それらがすべて彼の心をくすぐるのだ。
ハンナが困る表情、恥ずかしさに震える顔を見る度に、アレクシスの胸の中に喜びがわきあがった。もっと困らせてみたい。
今日も、ハンナがアレクシスの言葉に困った顔を見せたとき、アレクシスは心の中で何かが芽生えるのを感じた。
ただの好奇心や興味から始まったものだったが、次第に違ったものに変わっていった。彼女の反応に興奮していることに気づいた。
「泣いたところも見てみたいな。ねえ、ちょっと泣いてみて」
アレクシスは「紳士ならやってはならない」境界を踏み越えた。
両手を伸ばしてハンナの頬をおさえる。
「な、泣けと言われてその場で泣ける人は劇場の役者くらいですよ。無茶言わないでください」
ハンナが顔を赤らめながら一歩後ろに下がる。
普段の彼女なら、こんなことで怯んだりしなかったはずだ。だが、今日のハンナの反応はアレクシスにとって予想以上だった。
「……なら、君はどういうときに泣く? 教えてくれ。泣きたくなるようなことをするから」
「こ、こういうことをされるのは、困ります」
ハンナは小さく震え、アレクシスはその震えを楽しむように微笑んだ。
最初はただの遊びだったのに、次第にその興奮が自分の中で膨れ上がってきて、彼女を手に入れたくてたまらなくなっていることに気づく。彼女が抵抗すればするほど、それが自分の欲望をかき立てる。
「こんな風に君が困る顔を見るのは、たまらなく楽しい」
ハンナの反応をじっくり観察するアレクシスの目には、完璧な王子を演じるときの優雅さが消え、代わりに獣のような熱を帯びていた。
最初はただハンナをからかって遊ぶゲームだったが、今やハンナを自分の好きにしたいという欲望へと変わっていた。
毎夜、ハンナの夢に入り込み、心にもない愛を囁いては反応を楽しむ。
アレクシスは二十二歳――若さゆえの衝動に身を任せることが多くなっていた。完璧な王子として振る舞うことに疲れていたため、ハンナという癒やしを見つけて心を抑えられずにいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ハンナは悩んでいた。
夢が願望をあらわすなら……自分はアレクシス王子にあんなふうに翻弄されることを望んでいたのかと。
最初は一緒に街で買い物デートをしてみるなんていう普通のことをしていたのに、今では夫婦でもないとしないような過度なスキンシップをしてくる。
アレクシスはおそらく、ハンナのことを『母上に仕えている侍女の一人』としか見ていないだろう。
だからこそ、ハンナは普通の顔をするように努力した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
アレクシスの夢を見るようになって、もうすぐひと月。
ハンナは夢とうつつの差がわからなくなってきていた。
最近、現実のアレクシスもなんだかハンナに優しいような気がするのだ。
「今日は侍女の仕事が休みなんだろう、ハンナ。僕のお茶に付き合ってくれないか」
これはお願いという体裁なだけで実質命令。雇われの身で主君の命令に背くことはできないため、ハンナは頭を下げて従う。
アレクシスの部屋に二人分のティーセットが用意されて、アレクシスはなぜかハンナの隣に座った。
「ハンナは僕と同じ年齢だったね。仕事熱心だし真面目だし、引く手あまただろう。浮いた話はないのかい?」
「ないです……」
男爵家の娘とはいえ王妃に仕える侍女だ。申し分ない仕事をしている。
性格に難があるわけでもない。
けれど不思議と、両親から縁談について話をされたことはない。
二十代半ばの令嬢なら、多くが既婚で子どもの一人くらいは居るもの。
ハンナの姉たちも二十歳になるまでに結婚している。なんなら可愛い甥っ子姪っ子がもうすぐ三才になる。
「なら、僕の婚約者になるのはどうだろう」
「はい??」
言われた言葉の意味を理解するのにしばらく時間がかかった。
「私が、アレクシス様と、結婚する…………ということでしょうか?」
「不満かい?」
(これは夢? こういうことを言ってくるのはいつも夢の中のアレクシス様で……今は現実だから、アレクシス様がこんなこと言ってくるわけが……)
混乱して目を白黒させるハンナを見て、アレクシスは目を細める。
「悩んでいるね。これが夢か現か」
「な、なんで知って……」
あなたに迫られる夢を見ていますなんて本人に言えるわけもなく、ハンナは夢のことをこの一月誰にも言わずにいた。
なのに、アレクシスは夢を知っているようなことをいう。
「君は毎夜、僕の夢を見ているだろう。そして夢の僕は君にこう言うんだ」
アレクシスの指が、ハンナの顎にかかる。
「これは夢だから、何をしても現実の君には影響しない。だから思うままにしてほしいと」
「……アレクシス様?」
「これは現実だよ、ハンナ。夢だけじゃ足りなくなったんだ。夢でなく、本当に僕の番にならないかい?」
アレクシスの唇がハンナの唇を塞ぐ。夢と同じ感触がする。
本物のアレクシスにキスされるのは初めてなのに、毎晩の逢瀬のアレクシスと同じ感触。
ハンナはわけがわからなくて、アレクシスを見上げる。
「僕は夢魔の血を引いていてね。人の夢に入る魔法を使えるんだ。毎晩君と逢瀬していたのは、君の妄想でなく、目の前にいる僕。ずっと僕は本物だった」
「なん、で…………」
「ハンナのこと、本気で欲しくなっちゃったから。さぁ、答えは? 僕はちゃんと求婚したよ。答えを聞かせて」
たたみかけるように聞かれて、ハンナは首を左右に振る。
「こんな、だめです、だって、私以外にも、アレクシス様に憧れている人はたくさんいて、なのに、なぜ、男爵令嬢の私なのです。身分の釣り合いが」
「他の人の気持ちなんてどうでもいいよ。好きか嫌いかだけ答えて。迷惑だと言うのなら、もう今夜から君の夢にも入らないし、挨拶以外で関わることはしない。ね?」
息がかかる距離で耳元に囁かれて、ハンナは震えた。
ここで断れば挨拶を交わすだけの関係。
好きだと言えば、この一月夢でされてきたあれこれを現実のものにされてしまう。
(こんな、こんなのって……強引で人の話を聞かない俺様な人なんて、御免なのに、アレクシス様の本当の姿はこっちで、私が惹かれていたいい子は、みんなに言われるから仕方なくかぶっていたアレクシス様の仮面で…………)
強引で有無を言わさないのに、ハンナが振り解ける程度の力で抱きしめている。
突き飛ばそうと思えば突き飛ばせる。逃げられる。
ハンナの答えを待つアレクシスの顔は、迷子の子どものように不安に揺れている。
(だめだ。私は、もうとっくに)
アレクシスの素顔を見た日からとっくに、逃げ道なんてなかった。
みんなが望むから完璧な王子を演じて、根はめちゃくちゃ俺様で自分勝手な部分も含めてアレクシスという人なのだ。
「うぅ……なんで、こんな人を好きになっちゃったかな……」
アレクシスの腕に、今度は逃れられない強さで抱きしめられる。
「それは良かった。それじゃあハンナ。夢の続きをしようか」
「だっ、ダメダメダメダメ! やめてください。いつ誰が来るかわからないのにっ!!」
「大丈夫。明日の朝まで誰も入ってこれないよう魔法で鍵をかけてある」
「魔法の才能の無駄遣いですよ……っ」
自分勝手な夢魔の王子様と侍女が夫婦になるまで、あと少し。
END