№35 ジ・エンド
№35 ジ・エンド
突入した敵本営は、すでにもぬけの殻だった。
……いや。
どういうわけか、由比ヶ浜がひとりだけ立ち尽くしている。自衛隊はこの戦いの土産として、由比ヶ浜を残していってくれたらしい。
願ったり叶ったりの状況だ。
俺たちはバイクから降りて、『ゾンビ国民』やゾンビたちといっしょになって由比ヶ浜を取り囲む。俺たちに向けられていた殺気が、今は由比ヶ浜に注がれていた。
「勝負あったね、由比ヶ浜」
鉈村さんは、青くなって震え上がっている由比ヶ浜に向かって言い放つと、豪快に中指を立てて、
「ザマァ!!」
にやり、と笑って復讐を果たした。
これでやっと、鉈村さんも満足しただろう。積年の恨みを晴らせたのだ、今まで散々苦労してきたことが報われた。
「……ゴミカスどもが……!」
震えながら、由比ヶ浜はすっかり崩れ去った仏顔の代わりに、般若の形相を浮かべている。
「ゴミカスがゴミカスがゴミカスがゴミカスがゴミカスがゴミカスがゴミカスがゴミカスがゴミカスがああああ!! この私に、選ばれた人間に、手を出してタダで済むと思うなよ!? 貴様らはクズだ!! 無力で取るに足らないゴミカスが、いい気になるなよ!!」
「いい気になってるのはお前の方だ、由比ヶ浜! もうお前にちからはない、俺たちと同じ弱者なんだよ!」
怒りが収まらなくて口をついて出た言葉に、予想以上に由比ヶ浜は飛び上がって怯えた。
これがあの尊大な『令和のブッダ』の成れの果てとはとても思えない。すっかりすくみあがって、がたがたと震えている。
ゾンビたちや『ゾンビ国民』が、ずい、と迫ると、由比ヶ浜はその場にへたりこんで後ずさった。
「ひぃ! お願いします、いのちだけは!!」
みっともなく懇願する様は、まさに敗者のそれだった。見ているこちらがいたたまれなくなる。かわいそうだとすら思えてしまう。
しかし、由比ヶ浜がしてきたことは、到底許せるものではない。鉈村さんを殺しかけ、俺たちをないがしろにし、『人間の盾』なんて非道な作戦を発案した。今までの傲慢なおこないのツケは払ってもらわないといけない。
「どうだ、ゴミカス呼ばわりしてきたゾンビたちにみっともなくいのちごいをする気分は?」
俺が見下ろした先で、由比ヶ浜は平身低頭ぺこぺこと頭を下げている。
「ごめんなさい、ごめんなさい!! なんでもしますから!! 殺さないで!!」
すっかり戦意を喪失したようだ。自衛隊というよろいを剥ぎ取られ、今度はこいつが丸裸にされている。これが、無力なひとりの人間としての由比ヶ浜独尊だ。矮小で、姑息で、卑屈で、どうしようもなく情けない。ただ必死にいのちごいをすることしかできない。
これと同じような状態で生きてきたのが俺たち『ゾンビ人間』だ。そう考えると、同情の余地はある。
ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返して頭を抱える由比ヶ浜に、俺は最後のチャンスを与えることにした。
「じゃあ、こうしよう」
俺はポケットに入っていた十円玉を取り出し、由比ヶ浜に見せた。
「コイントスで決めよう。平等院が出たら、お前は死ぬ。出なかったら逃がしてやる。二分の一の確率で、お前が本当に選ばれた人間かどうかがわかる。いいな?」
「おい!」
横から鉈村さんが不服の声を上げた。鉈村さんからすれば、二分の一とはいえ由比ヶ浜を逃がすなど、受け入れられるものではないだろう。
しかし、俺は十円玉を握りしめてにっこりと笑ってみせた。
「大丈夫、結果は決まってます。運命ってやつは今まで散々俺たちを苦しめて来たんだ、ここまで来て知らん顔はできないはずです」
「でも……!」
「俺はそう信じてます。だから、鉈村さんも信じて」
我ながら強引だとは思ったが、鉈村さんはそれ以上何も言わず、こくりとうなずいて返した。
「わ、わかった! 君の提案通りでいい!」
二分の一の希望を提示されて、由比ヶ浜はすがるようにその賭けに乗った。まだ自分が選ばれた人間だと思い上がっているらしい。
俺は親指に十円玉を乗せて、神妙に告げた。
「いきますよ」
ぴん、と十円玉が宙に舞う。くるくる回転しながら飛んだ十円玉に、俺の、鉈村さんの、由比ヶ浜の、『ゾンビ国民』たちの視線が釘付けになった。
高く飛んだ十円玉が、落ちてくる。どちらが出ても恨みっこなしだ。回転しながら落下してきた十円玉を、俺は手の甲で受け止めて上から壊れた右手を被せた。
シュレディンガーの言うことが本当なら、由比ヶ浜は今、『二分の一生きている』。充分に『生きている』俺たちが負けるはずがない。
祈るまでもない、確信に似たなにかがあった。
息を荒らげながら十円玉が乗っている手の甲を注視する由比ヶ浜の目は血走っている。その口元にはいびつな笑みさえ浮かんでいた。
だが、残念ながらもう由比ヶ浜は、選ばれた人間ではない。
なんの躊躇もなく、被せていた右手をどかす。
そこには、平等院鳳凰堂の絵姿があった。
由比ヶ浜には地獄への門に見えただろう。笑みがひきつり、さあっと血の気が引いていく。
「選ばれた選ばれた、って言ってたけど、少なくとも神様やら運命やらには選ばれなかったらしいな」
なにごともなかったかのように十円玉をポケットにしまい込みながら、俺は当然の結果を受け入れていた。
由比ヶ浜の完全敗北だ。天にも見放され、活路を失った由比ヶ浜は、所詮この程度の人間だったということだ。
「……さて、ツケを払ってもらう時が来たみたいだな」
「待て! 待ってくれ!! もう一回だけ!! もう一回だけ勝負させてくれ!! そうすればきっと……!!」
往生際悪くすがりついてくる由比ヶ浜の手を跳ね除け、俺は冷たく言い放った。
「何度やっても同じだ。お前は負けたんだ。罪をあがなえ、由比ヶ浜独尊」
「待て!! 待ってくれえええええええ!!」
そんな声には耳も貸さず、俺はゾンビたちに、喰らえ、と指令を送る。
とたん、糸を引くヨダレを垂らした無数のゾンビたちが由比ヶ浜に襲いかかった。殺到し、押さえつけ、食いちぎり、手足をもぎ取り。盛大な血しぶきを上げながら、由比ヶ浜は最後まで泣き叫んでいた。
……叫びが収まり、沈黙してしばらくして、ゾンビたちがどいたあとには骨のカケラすら残っていなかった。
あれだけ俺たちを苦しめていた由比ヶ浜独尊の、その最期はあまりにも呆気ないものだった。
血溜まりを見た『ゾンビ国民』たちが、一斉に歓声を上げる。鬨の声は見る間に伝染し、膨大な数に達した国民たちが拍手喝采を送った。
そんな万雷の祝福の最中に立ち、俺はやっと手に入れた勝利を胸の奥で噛み締めていた。
勝った。
抗って、勝った。
俺たちは『生きてる』。
それを否定するちからに叛逆して、いのちを、尊厳を勝ち取ったのだ。
「……おつかれ」
「はい」
いつか交わした共犯者の笑みを浮かべて、俺と鉈村さんはハイタッチをした。それを見ていた五億寸釘が、ふっと笑う。
拍手喝采は鳴り止まない。この勝利は、『ゾンビ国民』全員の勝利だ。世界中の弱者たちの勝利だ。
鉈村さんが言っていた『何が楽しくて生きてんの?』という問いかけに、今なら胸を張って答えられる。
俺たちは、抗うために生まれてきたんだ。
生まれながらの叛逆者、それが俺たちなんだ。
苦渋と辛酸を舐めて、這いつくばって底辺をさまよって、それでもと頭上を見上げ、俺たちは生きている。
それを押さえつけるちからを跳ね除け、顔を上げて生きている。
死んだように生きていたっていい、弱々しくたっていい、居場所がなくたっていい。
ただ、どんな最低最悪な状況に陥ったとしても、『生きてる』と言い張って胸を張ればいい。
それだけで、世界は変わる。
閉じていたまなこで、世界を見ることができるのだ。
こんな簡単なこと、今まで気づかなかったのがバカバカしくて、俺はついふっと吹き出してしまった。それはそのまま大笑いに変わり、釣られた鉈村さんや五億寸釘も腹を抱えて笑い出す。
鳴り止まぬ喝采に包まれて、俺たちはひとしきり笑い転げて勝利を味わうのだった。




