冒涜の旋律
数日後、慶壱のスワンプマンは、オリジナルが安楽死を施された世界で演奏を始めた。彼の奏でる音色は美しく、聴衆の胸に沁み渡るものだった。それでも人々には、彼のピアノ演奏を楽しむ心を上回る感情がある。
――彼らは皆、あのピアニストがスワンプマンであることに気づきつつある。
ワイドショーでは、相変わらず芸能人たちが持論を展開している。
「美河慶壱の右手はもう動かない、今の医学では治せない……それが我々の知る事実でしたよね? やはり、今の慶壱は、オリジナルではないんじゃないでしょうか」
「オリジナルの慶壱が見つかれば、それが動かぬ証拠になるんじゃないの? 何にしてもさぁ、命を冒涜したような技術に手を染めるような音楽家がいたら、それは命も音楽も冒涜してると思うんだよね」
「オリジナルが見つからないということは、どこかに失踪したか、あるいは自殺したのでしょうね。母親がお腹を痛めて産んだ体を、ピアノを弾くためだけに捨てるなんて、常識では考えられませんね」
案の定、あの技術そのものが忌避されているだけのことはあり、慶壱の決断は反感を買っていた。
大手SNSでも、彼に対する批判の声は絶えない。
「右手が動かなかったら、生きることをやめるのか。ピアノを弾けなかったら、自分の与えられた命を否定するのか。『出来ない』を理由に命を投げ捨てることが当たり前になってはいけない」
「もう美河の曲をまともに聞けなくなった。自分の音楽を続けるために、別の人間を生みだし、己の生き方を押し付けるなんて、正気の沙汰とは思えない」
「スワンプマンを作ることが人生の選択肢であってはならない。自分の人生は、自分自身で背負うものだ。己の生を否定することが何を意味するのか、それを理解できない人間は心が弱すぎる」
もはや人々には、自分たちが血の通った人間を攻撃しているという実感がなかった。
演奏を再開して以来、慶壱のスワンプマンは無数の殺害予告を受け取った。今の彼の家の壁には「音楽やめろ」「人でなし」「音楽家の恥さらし」などの暴言が書き殴られており、庭は大量のミントで埋め尽くされている。スワンプマンは雑草を掻き分けながらポストの方へと突き進み、そして郵便物を確認した。そこにあったのは、一封の封筒だ。彼はそれを持って玄関を通り、自室の机の前に腰を降ろした。
「なんだろう……また殺害予告かな……」
そんな不安を覚えつつも、彼は封筒の中身を確認せずにはいられない。彼は封筒を開封し、その中に指先を入れた。
「痛っ……!」
机の上に、何枚もの剃刀が散らばった。己の血だらけの右手を見つめ、慶壱のスワンプマンは激昂する。
「なんてことを! 私の手は、私の命と同然なんだぞ! 音楽家の手を傷付けるなんて、何を考えているんだ!」
こんな時でさえ、彼の怒りの原動力は音楽への執着だった。彼が生まれたことにより、世の中における「美河慶壱」への印象は大きく変わった。それでも、彼はスワンプマンとして生まれたことを後悔していない。
「何故だ! 何故、誰も理解しない! 私はただ、音楽にこの身を捧げただけだと言うのに!」
更なる怒鳴り声をあげた彼は、卓上に置かれた楽譜を床に叩き落とした。今の彼に、人並みの理性はない。
その時だった。
彼の前に、一人の少年が姿を現した。
「この世界では、スワンプマンは幸せになれない。ここは一つ、痛みをもってして世間の連中に反旗を翻さないか?」
――逢魔だ。彼の右手には、注射器が握られている。見知らぬ少年の訪問を前に、スワンプマンは怪訝な顔をする。
「それは、なんだ?」
「ヴィランショットだ。こいつを打てば、お前はヴィランになれる」
「私が、ヴィランに……?」
妙な提案を前にして、彼は少しばかり頭を悩ませた。