音楽の重さ
ある日、テクノマギア社の社長室に一人の男が訪ねてきた。その目に敵意は宿っておらず、その手はアタッシュケースを携えている。彼がここに来た理由は、日向に反対することではなさそうだ。
「高円寺社長。私のスワンプマンを作ってはもらえませんか?」
そう――どういうわけか、この男は己を複製して欲しいと考えたのだ。奇しくも、日向は彼を知っているようだ。
「もしかして君は、美河慶壱かね? 君の曲はよく聞いているよ。特に、君のデビュー曲である『雨音の旋律』は実に良い音色だ」
「ありがとうございます。しかし、私の右手はもう動きません。あなたはすでに知っていると思いますが、私は数年前、鉄骨の下敷きになって以来、右手を動かせなくなりました」
「そうだな。当時のメディアはその話で持ち切りになっていたものだが、今では君の名前を懐かしく思う。しかし、君はまだ生きているし、意識もある。本当に、スワンプマンを作っても良いのか?」
本人の口からスワンプマンを作るように要求されるのは、日向からしたら初めてのことだ。慶壱は一度己の右手を見つめ、それから日向の方に目を遣る。その眼差しには、確固たる決意が宿っていた。
「世界は音楽を必要としている。どんな弱い人間にも、どんな孤独な人間にも、平等に楽しむことができ、平等に好きになることが出来る。それが、音楽なのです。音楽は、人の命よりも重いのです」
「それが、幼少期から音楽の道を歩んできた君の導き出した答え――というわけか」
「ええ。それに、感性は個々に委ねられる部分がある一方で、音楽の雰囲気作りには理論が伴います。端的に言えば、我々の感性は、不協和音が不快な音であることを共有しているのです。逆を言えば、誰もが心地よくなれる音があるということにもなります」
何やら、話が見えてこない。
「……つまり、何が言いたいんだ?」
そう訊ねた日向は、話の続きを促した。慶壱は表情一つ変えることなく、持論を展開していく。
「人々の疲れ切った心を、荒んだ心を、そして痛みを和らげること――それが音楽には出来るのです。そんな音楽を生み出していくためなら、私は、この命を捧げても良いと思っています」
「大した覚悟だな。君は音楽家の鑑だよ……慶壱。しかし、無償で君をスワンプマンにするわけにもいかないな。君の想いが本物なら、それなりの対価を払ってもらうぞ」
「……これでどうでしょうか」
そう呟いた慶壱がアタッシュケースを開くと、そこには一万円札の束がぎっしりと詰まっていた。ピアニストとしての道を絶たれてもなお、彼にはそれだけの貯金があった。印税で生活しつつも、彼は有事に備えて貯金を蓄え続けたのだろう。そして今まさに、彼は己の人生を賭けた選択をしているのだ。
「君の覚悟は買った。早急に、スワンプマンを作り始めよう」
これで交渉は成立した。しかし実際にスワンプマンを生み出す前に、一つだけ問題がある。慶壱は息を呑み、それから更なる覚悟を口にする。
「スワンプマンが完成した後、私を殺してください。私のスワンプマンには、オリジナルの私というノイズを気にせずに演奏に励んで欲しいのです」
この男は、まるで音楽に取り憑かれているかのようだった。音楽を重んじるあまり、彼には命の価値がわからなくなっているのだろう。そんな彼に心を打たれ、日向はどこか含みのある微笑みを浮かべる。
「君は本当に酔狂な男だな。だが、気に入った。右手が使えないままの君を複製しても意味はないだろうから、多少は遺伝子情報を『編集』させてもらう。そしてスワンプマンが完成したら、君を楽にしてやろう」
もはや慶壱に、後戻りは出来ない。そんな彼の頭にヘッドギアを装着し、日向は怪しげな装置を操作する。
これから、慶壱のスワンプマンが生み出されることとなる。