ヒロの誕生
あれから、雨は一週間ほど続いた。食事にありつけず、上着と段ボールだけで寒さを凌いでいたスワンプマンは、己の人生に限界を感じていた。彼は路地裏に腰を降ろし、それから雨空を見上げた。
「俺が死んでも、悲しむ人間もいないか」
――そう、元より、彼は神崎博也という男の代替品に他ならぬ身の上だった。そしてオリジナルが意識を取り戻して以来、彼は存在意義を失ったようなものだった。哀れなスワンプマンは静かに目を閉じ、膝を抱えながらうなだれた。寒さに震え、その身が衰弱していくのを噛みしめつつ、彼は全てを諦めていた。
そんな彼のもとに、四十代前半と思しき男が姿を現した。
「寒かっただろう。先ずは、温かいものを食べると良い」
そう言いながらカレーパンを差し出してきた男には、白髪交じりのオールバックがよく似合っていた。スワンプマンは一度顔を上げ、それから首を横に振った。
「俺は誰からも必要とされていない人間だ。見殺しにすれば良いものを」
そんな返答をした彼は、もう瞳に光を宿していなかった。彼の横に腰を降ろし、男は話を切り出す。
「私は高円寺日向――テクノマギア社の社長だ。言わば、ヴィランを倒すことを生業としている。私なら、君の力になれるだろう」
「もう良い。もう、良いんだ。俺は既存の人間のジェネリックで、オリジナルは復活した。今の俺は、偽りの記憶を背負い、死を待ち続けるだけの――何者でもない人間なんだ」
「うーん……話が見えてこないな。もし差し支えがなければ、君がそんな考えに至った経緯を話してはくれないか?」
事情を知らないからには、すぐ隣でうなだれている青年の考えも理解できない――そう考えた日向は、核心に迫るような質問をした。スワンプマンは少し迷ったが、すぐに事情を語り始めた。
「俺はスワンプマンだ。科学者が極秘の技術を用い、神崎博也という男を複製した。それが俺だ」
「ほう……そんな技術があるのか」
「俺の話を、信じてくれるのか……?」
すぐに話を信用した日向に対し、スワンプマンは驚きを隠せなかった。
「ああ……私も、遺伝子工学にまつわる仕事をしているものでね。スワンプマンとやらを生み出す技術が存在していても、驚くには値しない。さあ、続けなさい」
そう――日向はこの頃から、すでにウィザード細胞を取り扱う仕事をしていた。ゆえに彼は、スワンプマンを生み出す技術の存在を疑いはしなかったのだ。
「俺の記憶のほとんどは、オリジナルの記憶のバックアップだ。元々、オリジナルが植物状態に陥ったことで俺が生み出されたんだ。だが、俺のオリジナルは……神崎博也は、意識を取り戻した」
「なるほど……」
「俺はもう、事情を話した。何者でもない俺のことは、忘れた方が良い。君は……何も見なかったんだ」
もはやこのスワンプマンには、たった一つの選択しか見えていなかった。己の存在の全てを否定された彼にとっての、唯一の選択肢――それは死に他ならなかった。
一先ず、日向は傘を差し、それをスワンプマンの頭上に掲げた。
「君はまだ若い。今からだって、意味のある人生を送り、必要とされる命になれるはずだ」
「一体、どうやって……」
「私の会社に来ないか? 君のことは……そうだな……『ヒロ』と呼ばせてもらおう。ヴィランを倒し、市民を守るため、私は戦力を必要としている。どうだ……悪い話ではないだろう」
その提案に、スワンプマンは数瞬ほど迷いを見せた。彼は先ほど手渡されたカレーパンを頬張り、それを数口で食べきった。
「俺が、ウィザードに……?」
「君には死を選ぶ自由もある。だがその前に、私に与えられた生にしがみついてみるのも一つの手だろう」
「……わかりました、社長。俺は、ウィザードになります」
交渉は成立した。
この日を境に、ヒロというウィザードが活躍するようになった。