火災
それは三年半ほど前の夜だった。
「ママ! 熱いよ! 痛いよ!」
燃え盛る高層マンションの屋内には、子供の叫び声が響き渡っていた。現場にはすでに消防隊員が到着し、消火活動を始めていた。そのうちの一人は有無を言わさず、奥へと突き進み始めた。
「どうしたんだ! 博也!」
隊員のうちの一人が、大声を張り上げた。無論、博也と呼ばれる男は無意味な行動をしているわけではない。
「子供がいる! 今行けば、助かるかも知れない!」
そう返すや否や、博也はすぐに駆け出した。今の彼に、迷っている時間はない。
自分が駆け付けた先で、博也は絶望的な光景を目の当たりにした。
「助けて! 消防士さん! 助けて!」
涙交じりの声でそう叫んだ男児は、大きな瓦礫の下敷きになっていた。炎が燃え広がる中、博也はすぐに瓦礫を持ち上げた。しかし彼の力をもってしても、その瓦礫をどかすことまでは出来なかった。
「さあ、今のうちに……!」
「う……うん!」
「姿勢は低く、口元を押さえながら、階段で下の階を目指すんだ!」
そんな彼の指示に従い、男児はすぐに非常階段へと向かった。博也は安堵を籠めた微笑みを浮かべ、それから灼熱の炎に呑まれた。彼は全身を焼かれながら、力尽き、そのまま瓦礫の下敷きとなった。
――そんな彼の運命が変わったのは、それから数ヶ月後のことだった。
見知らぬ施設のベッドにて、博也は目を覚ました。どういうわけか、彼の体には火傷の痕跡がまるでなかった。
「俺は……夢を見ていたのか?」
彼がそんな風に思ったのも無理はなかった。何しろ、彼は確かにあの火災を記憶しており、その上で外傷が残っていなかったのだ。そんな彼の横で、一人の女が涙を流しながら微笑んでいた。
「そんなこと、もう良いじゃない。あなたが無事で、今ここにいる……それだけで、私は幸せよ」
「沙耶……」
「あなた……」
沙耶と呼ばれる女は感極まり、博也に抱き着いた。そんな彼女の後頭部を撫で、博也も微笑んだ。
それからの二人は幸せだった。時に二人は遠出し、観光地を巡った。彼らは海の見えるホテルから絶景を眺めることもあれば、山奥へ滝を見に行くこともあった。一見、この夫婦は円満で、何も欠けていないように見えるだろう。しかし沙耶には、とある隠し事があった。
あれから二年後――大雨の降る日のことだった。固定電話が鳴り響く中、電話に出たのは沙耶だった。その時、寝室にいた博也は、壁越しに彼女の声を聞いていた。
「はい。はい。ありがとうございます。ええ、私はオリジナルと共に生きていきます」
何やら不穏な話だった。博也は寝室の扉を開け、沙耶の顔色をうかがった。そんな彼に対し、沙耶は曇った表情を見せた。
「あなたは、本当の神崎博也じゃない」
「どういうことだ?」
「オリジナルはあの火災で、植物状態になった。だから私は科学者の知り合いに頼んで、極秘の技術で博也を身体年齢ごと複製したの。だけどオリジナルは、たった今、奇跡の回復を遂げた。神崎博也の代替品でしかないあなたは、もう用済みなの」
その口から語られた真実は『博也の代替品』にとって、聞くに堪えないものであった。
「俺は……神崎博也じゃない……?」
「ええ。言うならば、あなたはスワンプマンよ。複製された人間に、オリジナルの記憶のバックアップを移植しただけの……私の心の穴の埋め合わせでしかないの。あなたには、この家を出ていってもらうわ」
「そんな……馬鹿な。俺は、一体……なんのために、生まれてきたんだ……?」
「早く! 出ていってよ!」
「沙耶……」
もはやこの家に、このスワンプマンの居場所はない。スワンプマンは家を後にし、宛もなく街を練り歩いた。
「今の俺に、なんの価値が……」
雨に打たれ、風に吹かれながら、彼は己の存在意義を問うていた。