普通
それはある日の晩のことだった。とある駐車場を歩いていたのは、腰にウエストポーチを着けた男だった。彼は右手で車の鍵を握っており、左腕で三つの七輪を抱えていた。
男は一台の車に乗り、そして鍵をかけた。
男はウエストポーチの中から点火棒を取り出し、七輪の中の練炭に火をつけていった。それから彼は瓶を取り出し、その中に入っている錠剤を全て飲み込んだ。車内は煙に包まれており、七輪の火力は徐々に勢いを増していく。
「これで良いんだ、これで……」
もはや男は、後戻りの出来ない状態だ。やがて炎は運転席のシートに引火し始めたが、彼がそれを気にする様子はない。彼は静かに目を閉じ、眠りに就いた。
翌朝、男は病室で目を覚ました。その体は包帯に包まれており、彼が酷い火傷を負ったことを示唆していた。
「くそっ……おれは死ぬことすら、上手くいかないのか……」
そんな独り言を呟いた彼だったが、その場には返事の出来る者はいない。男は苛立ちを覚え、ベッドから起き上がる。
「なあ! おれが何をしたっていうんだよ! 死に方くらい、選ばせてくれても良いだろ! おれに未来なんかないんだよ! どいつもこいつも、おれの明日を背負えもしないくせにさぁ!」
病室から廊下へと、彼の叫び声は広く響き渡る。その声色には、悲哀と怒り、そして憎しみが混じっていた。
そんな中、別の男が一人、彼の病室を訪ねる。
「……先ずは事情を聞かせてくれないか?」
――ヒロだ。無論、男からしてみれば、彼は何の面識もない赤の他人である。
「誰だよ、あんた。まさか、あんたがおれの自殺を止めたのか?」
「まあ、そんなところだ。俺はウィザードだからな」
「そうか。自殺を止めることに税金は使うけど、その根本的な原因を解決することに税金を使わないのがこの国なんだな! 弱者が見えないところで泥水をすすって生きるのはどうでも良くて、自殺の件数が増えるのは見たくないんだもんな!」
男は酷く錯乱している。どんな言葉を投げかけられようと、彼が聞く耳を持つことはなさそうだ。それでもヒロは、男を説得することを諦めない。
「君の望みはなんだ? 何をもってして、君の人生は満たされるんだ?」
「普通に生きている普通の人間が、普通に手にしている全て――それがおれの望むものだ。この世には『何をもって普通とみなされるのか』などと言葉の揚げ足を取る者もいるが、現実問題として『普通』という概念は存在するんだ」
「ああ、確かにこの世界に『普通』というものは存在する。だが俺は、それが君の本当に望んでいるものには思えないな」
彼の言葉に、男は怪訝な顔をした。
「『普通』がおれの望みじゃないだと? おれが好き好んで社会的弱者になったとでも言いたいのか?」
「そうじゃない。俺が思うに……どんな幸せ者であっても、この世の中そのものを拠り所にしている者はそうそういないと思うんだよ。心を通わせられる仲間――それが多くの人間の拠り所であり、君が本当に求めているものだと思う」
「心を通わせられる仲間? それがおれの望むものだったとして、それはおれが手に入れられるものなのか? あんたの知らない世界には、誰からも必要とされない人間だっているんだよ!」
ヒロの言動が癪に障ったのか、男は激昂した。ヒロは深いため息をつき、不穏な一言を口にする。
「嫌というほど理解しているよ。誰からも必要とされない人間は、確かにいると。少しばかり、昔話に付き合ってはもらえないか?」
何やら彼には、ただならぬ過去がありそうだ。しかし寝台に横たわる男は、その話に興味を示さない。
「出ていけ! おれを一人にしてくれよ! それか、今すぐおれを殺してくれ!」
もはやこれ以上の対話は無意味だろう。ヒロは肩を落とし、病室を後にした。