心の防壁
社長室での話を終えた後、ヒロは廊下に立ち尽くしていた。窓から街の景色を眺めつつ、彼は哀愁を帯びた顔つきをした。
「魔術を使えない俺って、一体……」
そんな独り言を呟いたヒロは、自嘲的な微笑みを浮かべながらため息をついた。それからしばらくして、一人の少女が彼の側を通りかかる。
「おっす! ヒロさん、なんか元気ねぇッスね!」
――鈴菜だ。ヒロの寂しそうな背中を目の前にして、彼女は声をかけずにはいられなかったようだ。彼女の方へと振り返り、ヒロは囁く。
「何も気にするな」
相変わらず、彼は多くを一人で背負い込む性分らしい。そんな彼の態度は、鈴菜の心を余計に刺激してしまう。
「気になるッスよ! ヒロさんは……いつもいつも、一体何を抱えて生きてるんスか!」
「さあ。俺が知りたいくらいだよ」
「それって、どういう……」
彼の言葉の真意は、鈴菜にはわからない。ただ、彼女からしてみれば、ヒロの愛想笑いは仮面のようなものに見えた。一方で、ヒロは探りを入れられることを嫌っている。
「詮索するな。俺のことを知っても、君が得るものは何もない」
「ウ……ウチはただ、ヒロさんのことが心配で……」
「それはどうも。少しの間、放っておいてくれないか?」
そう言い残した彼は、すぐにその場を後にした。そんな彼の背中を見守りつつ、鈴菜は肩を落とす。
「ウチは、何もしてあげられねぇんスか……?」
彼女には、ヒロの支えになりたいという想いがある。しかしいずれにせよ、今のヒロが他者に心を開くことはないだろう。そこに紅愛が通りかかり、鈴菜に声をかける。
「アイツが事情を話したがらないのも、わからねぇことはねぇな」
その声に、鈴菜はすぐに反応する。
「紅愛さん。どうしてあの人はいつも……多くを語ってはくれないんスか?」
「ヒロには、己を信じる勇気が足りねぇんだ。だからアイツは、いつも心に防壁を張っている。そして一度でも他者の侵入を許せば、アイツの心を偽っている防壁は崩れ落ちてしまうだろう。きっと、アイツはそれを恐れているんだろうな」
それが紅愛の抱いているヒロへの印象だ。
「つまり、ヒロさんは自分に自信がない……ってことッスかね……」
鈴菜は訊ねた。紅愛は小さく頷き、補足する。
「まあ、端的に言えばそんなところだ。だがアイツには、並々ならぬ事情があるはずだ。一口に自信が無いと言えばシンプルだが、その根っこはもっと複雑に絡み合っている……そんな気がするんだ」
無論、二人はヒロについて多くを知っているわけではない。しかし彼の普段の言動を鑑みるに、紅愛の見解には妙な説得力があった。鈴菜は真っすぐな眼差しで彼女を見つめ、想いを語る。
「ウチ、ヒロさんには元気でいて欲しいッス。たくさん笑って、たくさん食べて、自分に胸を張って生きていて欲しいッス!」
そんな鈴菜の発言に対し、紅愛は同意を示す。
「ああ、同感だ」
三人のウィザードたちの心の距離は、着実に縮まり始めていた。
その頃、ヒロは相変わらず街中をうろついていた。彼は何かを思い詰めているのか、半ば上の空になっている。そんな彼の側を通りかかったのは、一組の親子だ。
「ママ! あのおにいさん! ましろを、ようちえんまでつれてってくれたの!」
そう叫んだのは、以前ヒロが幼稚園まで案内した女児――真白だった。
「娘を助けていただき、ありがとうございます! あの時、銀行でヴィランに人質にされていたもので、娘を迎えに行けなかったのです!」
母親は深々と頭を下げ、喜びに満ちた笑みを浮かべていた。彼女だけではなく、その娘である真白も嬉々とした笑みを浮かべている。そんな二人につられ、ヒロも安堵をこめて微笑んだ。
魔法石がなくとも、自分には誰かの笑顔を守ることが出来る――この時、彼はそう感じていた。