K.1
俺の婚約者がこんなに可愛い。
頭のなかで百億回は繰り返した言葉が口から零れないように堪えながら、柔らかな銀髪を汚れていないほうの手で押し返す。
あと二年あと二年あと二年。
「こらユリシア椅子に座れ、膝に乗るな!」
「いーやーでーすーーー!」
頬にさらさらの髪が触れて、良い匂いがする。ユリシアは花や蜜の匂いが好きで、香油もそういう甘いものを使っている。
彼女が髪を揺らした瞬間に、ふわりと香る甘さが好きだった。肩にもたれられた時も、こうやって抱きつかれた時だって。ふわふわと香る彼女の匂いが、この世のどんな香りより好きだった。
何度も俺の手を引いてくれた、世界で一番大好きな女の子。最愛の婚約者を、その世界一かわいい顔を眺めながら全力で抵抗できるように自分の指を拭う。最短であと二年三ヶ月と八日を耐えられるように。
「あーんだけって言っただろ!」
「具体的に言葉で約束はしていません!!!」
必死にしがみつくユリシアを引きはがす。人前じゃない!人前じゃないから!と反論されるが、もはやそういう問題ではない。
いっそ酷い目に合わせてやろうか、そろそろ何も考えず十六なんて欲望真っ盛りの男に身を任せようとするユリシアが全部悪い気がする。
不埒な思考と欲望は、ここが昼間の学園で、大量に人がいるという事実に遮られた。
生徒の多い時間帯、廊下からいくつもの声が聞こえる。
「やだハミントンの二十四時間バカップルがまたいちゃついてる……」
「しっ見ちゃ駄目よ、恋人持ちじゃない人間が見たら目が潰れるわ」
「俺恋人が出来たんだよな……彼女と長続きするように拝んどくか」
「お前の彼女もこの間あいつらを拝んでたぞ、良かったな両思いで」
昼食時の騒がしさに紛れて聞こえてくるのは、余りにもいたたまれない生徒たちの会話。遠い目をしながら窓の外、白い雲を見上げる。ユリシアにも聞こえているだろうに、俺の膝を諦める様子はない。
頭を擦り寄せるな誘うように袖を引くな、自分が世界一可愛い顔をしていて俺が一挙一動にどうにかなりそうだという自覚を早く持ってくれ。
直視しないように目を逸らしながら、両腕を掴んでひき離す。本当にどうしてくれよう、この可愛い婚約者は。
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初めてユリシアを見た時から、なんて可愛い子だろうと思った。緩く編み込まれた腰までの髪は月のような白銀で、大きな瞳は明るい飴色、つんとした鼻に柔らかそうな桃色の唇。
極度の面食いでハロルドに絶対的な愛情を注ぐ両親が婚約を許すだけあると、思わず見惚れてしまった。
彼女は向かいの席に座った俺に紅茶を淹れてくれて、ハンカチを拾ってくれてありがとうと感謝を述べた。
いままで関わった誰よりも可愛くて優しい子だな、ハロルドなんかと婚約しないで、もっと幸せにしてくれる誰かを見つけてほしい。そう思って、唇を噛んだ。
だってハロルドと婚約したら、この子は絶対に不幸になってしまう。
ハロルドは、俺の兄は、誰よりも美しかった。人の欠点を探して嘲笑うのが大好きで、謝ったり頭を下げたり敬語を使うことは絶対にしなくて、自分より優れた人間を許せない兄は、けれど誰よりも見目がすぐれて、だから親にも使用人にも、彼らの話の中の貴族の子女たちにも持て囃されていた。
たまに家族の夕食に呼ばれた時は延々とハロルドを賛美する言葉と、兄がどれだけ人の心を捕らえて離さないのかを聞かされ続けた。
「一昨日のお茶会では、誰もがハロルドに心を奪われていたなぁ!出席したお前以外の少年はみな、猿のように醜かったから当然のことだが」
「おほほ、美しいハロルドの前ではその他が醜い動物に見えるのは仕方のないことだわ!侯爵家の娘たちもハロルドに見惚れて……。でもハロルド、あんなお茶会に出席できる程度の娘で満足してはいけないわ、あなたにふさわしいのは公爵家や王族の娘よ。それ以下はあなたに尽くすだけの道具。あなたはそれだけ美しいの」
「もちろん分かっているよ、母上。俺はこの国か、この国よりもっと栄えた国の王になるんだ。俺はそれだけ素晴らしいんだから。皆が俺を愛するんだから、俺が選ぶのは当然の権利だ。そうだろう、皆?」
「素晴らしいです、お坊ちゃま!こんなにも聡明で美しい方がレイクリッヒの次期当主とは、我が領の未来は明るい!」
「その通りだ!ハロルドが国王になってやっと、優れた俺にフェンデル侯爵家のすべてを継がせなかった愚かな父と、俺の価値を理解しない馬鹿な兄の鼻を明かせる。ハロルド、お前に使う金は一切惜しまないからな。何でも好きなものを買ってやろう」
豪勢で味の濃い料理に齧り付きながら、有名な農場で作られたワインや果実水を飲みながら、両親とハロルドは何度も同じ話を繰り返した。
同調しない使用人は早々にクビになって、ハロルドや両親を称賛する人間だけが残された。そんな使用人たちは仕事よりご機嫌取りに忙しかったから、屋敷の両親とハロルドがすごす部屋以外は、いつも埃が積もっていた。
歪な家だった。ハロルドを中心にして、誰もが荒唐無稽な夢の中にいた。
今なら、彼らがどんなに愚かな思いこみをしているか分かる。けれど外の世界を知らない子供の俺は、ハロルドの美しさは絶対的な価値があって、どんなに性格が悪くても美しいハロルドは皆に心から愛されていると、信じさせられていた。
当然、ハロルドが十二歳になっても王族や公爵家から美しい長男を婿にと頭を下げられる事は無かった。最初は見る目が無いと周囲を貶していた両親は、次第に焦り、いらだち始めた。
俺や使用人に当たるようになって家の空気が最悪だったころ、ハミントンから婚約の話が出た。
相手の身分が一つ上なだけの侯爵家な事は不満だったが、高い地位の家ではデビュタントまであと三年にもなって、婚約者がいない方が珍しい。もっと良い相手が見つかるまでの繋ぎだからと言い訳をして、両親はハロルドを二歳下のユリシアと婚約させると決めた。
その頃には俺は世界の全てから忘れられたかのように、自室で埃が積もっていた本を読んだり、部屋の前に置かれた食事を腹に収めるだけの日々だった。
随分と久しぶりに呼ばれた伯爵家の三人のための夕食の時間、彼らはハロルドに猫撫で声で語りかけていた。
「すまないハロルド、世界で一番すばらしいお前の婚約者が美しくも身分が高くもないのは不満だろうが、少しの間だけだから耐えてくれるな? お前ならすぐ、もっといい相手が現れるさ」
「そうよ、ハミントンに借金を払わせたあとで婚約破棄すれば良いの。こんなに格好いいあなたと一時でも婚約できるんだもの、相手にとってもありがたい話なのよ」
「分かっているよ父上、母上。借金どころか、その可愛くもない子を言いなりにして、侯爵家の全財産を貰ってやるさ。相手だって、俺の役にたてるから嬉しいだろう」
「流石です、お坊ちゃま!」
豪華な食事も、並べられたボトルの銘柄も、全てがおぞましいものに見えた。なんて醜い会話だろう。美しいと散々褒められる兄の顔も、兄の両親なだけあって整っているはずの両親の顔も、ひどく歪んでいた。
そうして、この二人の血を継いだ俺も、きっと醜い。両親や兄に散々容姿を貶されていたけれど、本当に自分の血が嫌になった。美しくなくて、顔が似ていなくて良かったと心から思うほど。
こんな家、絶えた方が良い。そう思っていた頃に、ユリシアが来た。
お菓子を食べながらユリシアと話して、まず彼女はハロルドと結婚するつもりはないことに安心した。家の人間は既に婚約が結ばれているかのように話していたけれど、そんなことはないらしい。
ハロルドに惹かれているなら後で家族に何をされても止めるつもりだったけれど、婚約は絶対ない、今まで出会った人の中でも一番性格が最悪でした、とユリシアは言い切った。
「もう二度と会いたくないですね。……あはは!なんですか、その顔」
どうでもよさそうにハロルドについて言い切った後、彼女は瞳を細めて俺を見た。兄について語る時とは違う、楽しそうな表情。
ユリシアとたくさん話をしながら、驚いていた。
知らなかった。兄は誰にでも愛されているわけではない事を。ハロルドの性格は最悪だと、俺と同じことを思う人がいる事を。
浮かんだのは安堵だった。何も考えずに兄を褒め称えない俺はずっとこの家で除け者だったから、世界で一人きりではない事に、心の底から安心していた。
けれど、そんなこの子と出逢えたのも、ハロルドが居たからだ。
ハロルドとユリシアが婚約の為の顔合わせをしなければ、俺は、ユリシアに出会うことすら出来なかった。
目を伏せる。カップの湯気は失われて、ティーポットの中身も、もう残っていない。
もっとこの子と話がしたい。くるくると変わる表情を見ていたい。もうすぐユリシアが帰ってしまうのが寂しくて、名残惜しい。
どうしてハロルドばかりが。どうして俺だけが。
「……ハロルドには勝てないよ。ユリシアは、ハロルドと婚約する為に来たんだろ?ユリシアみたいな綺麗で可愛い子と、婚約者として出会えるハロルドが羨ましい」
俺を褒めてくれるユリシアに、口から零れたのはそんな、未練がましい言葉だった。間違いなく物心ついてから今までで、一番兄に嫉妬していた。
そんな俺に、ユリシアは瞳を一つ瞬いて。
なんと、俺を連れ帰ると宣言した。
何を言っているのかと呆気に取られている間に可愛い顔で駄目ですか?と聞かれ、思わず頷いたら馬車に乗せられた。
魂が抜けているユリシアのお父さんの隣に座って、嬉しそうに俺に話しかける少女に見惚れていたら、ハミントン侯爵家に着いていた。
そうして俺は、ハミントンの一員になった。
あの時の事は今でもよく分からない。何がなんだか分からないうちにそうなっていた。俺の何かがユリシアの琴線に触れたのか、いつか俺がもっと自制出来るようになって、どんな破壊力のある殺し文句を言われても耐えれると確信が持てたら聞いてみようと思う。何年後になるかは分からないが。
ともかく俺は、ユリシアと暮らすことになった。
ユリシアのお母さんは優しそうな美人で、お兄さんは髪と目の色がユリシアに良く似たイケメンだった。
背筋のしゃんと伸びた使用人の人達とか、給仕をするメイドの人の美しい所作にひたすらに驚いているうちに、俺の部屋は決まっていた。
「ご飯にしましょう!」
そう手を握られて、ふわふわした気持ちのまま頷く。今までで一番豪華な食事は、ユリシアばかり見ていたせいで、あまり記憶に残っていない。
ユリシアの家族も、使用人の皆も、俺に本当に優しくしてくれた。おやつの時間も、目が覚めると顔を洗うための水が用意されているのも、初めてのことだった。
「ゆっくり慣れてくれると嬉しいです。カイリが気に入ったものがあれば、なんでも教えてくださいね」
そう言ってユリシアは俺の手を引いて、広い屋敷を案内してくれた。どの部屋も調和の取れた家具が置かれていて、塵一つなくて、実家とは何もかもが違っていた。
ユリシアと過ごして、彼女を知るたびに好きになった。沢山の人に囲まれた暮らしは楽しくて、ずっと続けばいいと願った。
幸福に慣れてしまってから、明日が来るのが怖いと思うようになった。
目が覚めて、この日々が夢だったらどうしよう。埃臭いベッドで目覚めて、湿気たパンと冷めたスープがドアの前に置かれていて、ユリシアがどこにもいなかったらどうしよう。
突然優しくされて沢山大切にされたから、また唐突に失うことを恐れた。
眠ることが怖くなって、代わりに夜も勉強した。役に立つ存在でありたい、恩を返したい。だからどうか、捨てないでほしい。誰に祈ればいいのかも分からずに、紙束にペンを走らせた。
長い夜を終わらせてくれたのも、ユリシアだった。眠れない俺を抱きしめて、ベッドの中で大丈夫と囁いてくれた。
「大丈夫、ずっと隣にいますから。明日も沢山お喋りして、一緒にご飯を食べましょう。ね?」
だから何も怖くないですよ、と優しい声と共に頭を撫でられて、飴色の瞳が細められた。暖かい毛布のなかで微睡みながら、ずっと、ずっと一緒に居たいと思った。
それからも沢山話して、遊んで、出掛けて、冒険して、笑いあって。
いつの間にか、怖い夢は見なくなっていた。