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「あっはっはっはっは!流石ユリシア我が妹だ、誘拐だがな!どうするんだこれ、面白すぎる!」
「あらあらまぁまぁ、お名前は?ミーリィ、夕食をもう一人分用意してもらえる?悩んでしまうわ、あなたのお部屋はどこにすればいいかしら」
家に着いたのは夕方で、母と兄は家族四人で夕食を摂ろうと私と父をまっていた。カイリの手を引いてダイニングルームに行き、ただいまの挨拶と使用人達に出迎えへの感謝を伝えたあと、今日から彼も一緒に暮らすと宣言する。
「レイクリッヒの次男坊だけどユリシアが結婚するっていってるから五人目の家族だぞ~~~!」
ショック冷めやらぬ父はくにゃくにゃ私に続けて、執事は笑顔のままワインを全部零した。
頭と察しが良い兄は爆笑し、母はメイドにもう一人分食事を頼む。
名前を聞かれたから所在なさげにしているカイリがたどたどしく自己紹介して、あらそうなのこれからよろしくねぇと、母に気に入られていた。
「お母様、カイリの部屋は私の隣はどうでしょう。ちょうど空いていますし、必要なものがそろうまでは私がすぐに貸せますから。お兄様、婚約することになったから、お互いを知るために同居するだけです。誘拐なんて物騒な……それに、お兄様にも良いことがありますよ」
「うん?聞こう」
「私が家を継げば、お兄様はなにも憂いなく公爵家の婿にいけます」
「成程任せろ、可愛い妹の恋路を全力で応援しよう」
にこりと笑いあい、かたく手を繋ぐ。六歳上の兄は貴族の学園に入ってすぐ公爵家の一人娘とお互いに一目惚れして、毎日五回は私に惚気を聞かせてきた。
今朝だって「さっさと卒業して公爵家を継ぐ彼女を支えたい……」と床を転がりまわって、「睫毛の角度まで愛らしい……」と唸って箪笥の角に頭をぶつけていた。
優秀で掴みどころのない愉快犯だった兄をここまで変えるとは……と恋の恐ろしさに慄いていたが、やっと気持ちを少しだけ理解する。
カイリの傍にいたい、もっと彼の好きなものや、嫌いなものを知りたい。カイリを閉じ込めたり、傷付けたりするところにいて欲しくない。
彼が誰もいない庭で残されたお菓子を食べていた理由は聞かなかったけれど、痩せていることとか、抓られた痕と無関係ではないだろう。
いつか聞かせてくれるだろうか。胸の内を明かしてくれるほど、カイリと親しくなりたい。心を読んだように兄ににやつかれて、むっとしながら表情を正す。
振り返って、カイリに笑いかける。
「ご飯にしましょう!」
そう言って両手を握ると、彼の白い頬が、少しだけ赤みを帯びた。
兄の仕事は早かった。
レイクリッヒ伯爵家には借金を払うことと引きかえに彼を婚約者として引き取ると認めさせて、レイクリッヒ当主の父、カイリの祖父や親戚にも手を回した。
王家や教会にも正式にカイリが私の婚約者であると承認を受けて、父がくにゃくにゃから回復するころには、カイリはすっかり私の婚約者として、家族の一員になっていた。
最初、カイリは連れてきた猫のようで、何をするにも、何を使うにも不安そうだった。
それでも彼はだれにも礼儀ただしくて優しかったから、使用人達はみんな彼が好きになった。私はなるべくカイリの傍にいて、ハミントンについて説明しながら、彼の緊張をやわらげられるように努めた。
そのうち彼が我が家に慣れて、細かった手首は年相応の太さになった。何をしても理不尽に怒られはしないし、暴力などもってのほかだと知ると、彼はハミントンに貢献したいと勉学に打ちこむようになった。
レイクリッヒから、あの環境から助けてくれたのだから恩を返したいと寝食を忘れて領地や経営について学ぶようになった。そうしなければハミントンから追い出されるとでもいうように、必死に。
なんだか違うな?と思ったので、母に相談した。彼を都合の良い伴侶にしたくて連れ帰ったわけでも、部屋や食事を提供しているのでもない。
その頃にはもう優しい彼に恋していたから、彼も同じであってくれれば本当に嬉しく思うけれど、カイリの心は彼のものだというのは分かっている。
連れ帰って婚約者にしておいて今更とは思うが、いま私が望めば、彼に好きだと告白すれば、カイリは自分の心を蔑ろにして頷いてしまう。
それだけは本当に嫌だった。
母は、カイリが私と結婚したくないなら強制してはいけないし、恋を押しつけたってお互いが不幸になるだけよと私に言い聞かせた。でもあなたはそれを分かっているのだから大丈夫、いつか彼にも伝わるわ、と太鼓判を押して、私の頭を撫でた。
それからはカイリにとっての私が、感謝するべきハミントン侯爵家の婚約者ではなくただのユリシアであれるように、彼を色々なところに連れ出した。夜はちゃんと眠るように毎日見張って、カイリがまだ眠気が来ないと訴えたときには、彼のベッドに潜りこんで茶色い頭を抱きしめた。そうされると安心する、と彼は夢うつつの中で、私に語ったからだった。
街に連れて行って、演劇を一緒に見た。手に汗握る展開に私の方が盛りあがって、劇よりユリシアの方が面白い、とカイリは笑った。
春になると花によって色が変わる丘を訪れて、彼が目を輝かせるのを嬉しく思った。一緒に美しい場所をたくさん探して、絨毯のように赤い木苺がしげる湖のほとりとか、真冬に鼻の頭を赤くしながら、家の屋根裏から流星群を一緒に見た。
木苺はコックに手伝って貰ってジャムにして、星の降る空は絵に写して、ハンカチの刺繍のモチーフにした。
カイリは音楽が好きで、ハミントンに来てから色々な楽器に触れるようになった。特に上手なのはピアノで、夕方家族でくつろいでいる時とかに、リクエストに応えてなんでも弾いてくれた。
丁寧な手つきで鍵盤に触れる彼が格好良かったので、私も楽器を練習するようになった。
二重奏をしたくて選んだのはヴァイオリンで、二人で演奏するようになると、家族や使用人達にたくさん褒められた。身分の近い貴族が集まるお茶会や演奏会でも弾くようになると結構話題になって、色々な人にぴったり音が重なっている、お似合いの二人ですねと褒められるたびに、こそばゆくて笑いあった。
カイリはちゃんと休むようになって、気を抜いてくつろぐ姿を、私や家族の前で見せるようになった。穏やかな時間は幸福で、この日々が永遠に続くと、少しも疑っていなかった。
蒼天の中、大きな鳥が羽を広げて、悠々と飛んでいる。
数年前を、ずっと隣にいた彼を思い出しながら紅茶を口にふくむ。色々な茶葉をブレンドした苦みはカイリが好きなもので、木苺の香りは私好みだった。
ジャムを作った次の年は、木苺をつかった紅茶作りに二人で挑戦した。乾かす途中でカビが生えてしまったので上手くいかなかったが、試行錯誤する日々は本当に楽しかった。
淹れたてだったカップの湯気は、随分と薄くなっていた。
思考を飛ばしている間も、周囲の視線は私やハロルドから離れない。教師を呼ぶような気の利いた生徒もいなさそうだ。
興味のない私に気づかず、青年と少女四人はまだ立ち去らない。自分の話に熱中して、どれだけ自分達五人が愛し合っているかの演説を始めていた。ちょうど少女達によるハロルドの素晴らしさが語り終わったところらしく、会話のバトンは青年に繋がる。
目の前でハロルドがまだ喋っている。性格は気に食わないが彼はカイリの兄、そろそろ返事をした方がいいだろう。
「素直じゃない女め、どうせ俺に袖にされたからあの愚図を引き取ったんだろう! そうやって俺の気を引くつもりだったな? 俺は優しいからな、今すぐ誠意を込めて心の底から謝るなら許してやろう!」
目の前で知らない他人がまだ喚いている。最早カイリの兄でもなんでもない、カイリを指して愚図と呼んでいるならぶっ殺してやる。
こんな所に良いフォークが、と空の皿に添えられた銀食器を手にとった瞬間、テーブルに影がさす。
慣れた足音に振り返ると、柔らかな空色の瞳。
私の最愛の婚約者、選択授業のせいで百分と少しぶりのカイリが、そこに居た。
「ユリシア、何もされてないな? ……何の用ですか、ハロルド・レイクリッヒ殿。彼女は俺と、昼食をとる所なのですが」
片手にバスケットを持っているカイリは、空いている方の手を牽制するように私の肩に回した。余裕綽々だったハロルドの瞳が、剣呑なものに変わる。
大丈夫と伝えるように笑いかけて、肩に触れる手に自分のそれを重ねる。最高に格好いいと思いながら。
見上げる先、彼の紺のネクタイが揺れる。性別が違うだけで同じ形の制服なのに、彼が着るとどうしてこんなに格好いいのか。絶対にスカートとズボンの違いだけではない。私より一回り大きい手のひらや目元のほくろや薄い唇、彼を構成するすべてが本当に格好いい。
私の婚約者が世界一格好いい。
耳のかたちまで最高、とフォークがどうでも良くなって、ハロルドへの殺意もどこかにいった。
甘えるように、隣に立つ彼の腹の辺りに頭を擦りよせる。
さりげなく息を吸う。太陽の匂いは懐かしくて、本当に久しぶりだった。
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十三歳になってしばらくして、カイリからもう私と一緒に寝ない、と言われた。夜や午睡のときには体温の高い彼の胸元に顔をうずめて彼の匂いや暖かさを満喫するのが大好きだったから、それはもう必死に抵抗した。
なぜか父と母はカイリの肩を持って、兄は公爵家に笑顔で婿入りした後だからちっとも助けてくれなかった。
兄の色恋沙汰ではあんなに惚気まくったのだから少しは可愛い妹の力になってと縋っても、あいつも男だから仕方ない、むしろ誠実で良いじゃないかと言うだけだった。
夜カイリの部屋のドアをノックしても自室まで送られたあとに鍵を掛けられたし、昼寝しているところに抱きついても飛び起きられたあとに両親のところに連れて行かれた。
デビュタントではカイリは私だけと踊ってくれたし、私の髪を梳かすのが大好きなくせに。私専用の香油をたくさん集めているくせに。
手を握る、肩にもたれるだけではなんとなく物足りない。信用できる使用人ばかりの家で慎みとかは気にしなくても良いと何度言っても、十八になるまで耐えるため、としか言われなかった。
そんな日々が一年続いて、ある時ついにカイリの部屋の鍵を手に入れたから、月のない深夜、彼のベッドに潜りこんだ。
すぐに目を覚ました彼は、毛布の中にいるのが私と気づくと固まった。抵抗されないのを良いことに彼の熱で温かい毛布に包まれながら、私よりずっと逞しい身体をぎゅうぎゅうと抱きしめる。昔みたいに抱きかえしてくれないことは不満だが、久しぶりの温もりに飢えていたので構わなかった。
「…………あと四年あと四年あと四年」
「カイリ、十八になったら何があるんですか? 私は今カイリに触れたいのに」
あと四年を繰り返すだけの生き物になってしまったカイリに、十八歳になることの意味を問う。
十五歳になる来年には学園に入って、三年間寮で生活することになる。集団生活の場では今みたいに一日中共にいたり、気軽に手を繋いだり、髪に触れたりできなくなってしまう。それまでにカイリを、大好きな婚約者を、たくさん補充しておきたかった。
「………十八になって、学園を卒業したら」
「はい」
「俺達は結婚するだろ、ユリシアが嫌じゃなければ」
「絶対に全く嫌じゃないですよ」
「結婚したらする行為っていうのがあって」
「なるほど」
「それは結婚しなければするべきじゃない事でーーーだめだごめん待って深呼吸させて、ユリシアがほんとうにかわいい」
「どうぞ」
私も思う存分深呼吸する。風呂上がりの彼は石鹸と柑橘の匂いがした。甘めの柑橘はこの間贈った香水かなと思いつつ、首筋に顔を埋める。
どうして俺はこんな苦行を? と悟りきった目でカイリは呟いた。何のことだろう。
本当に彼は暖かくて心地良かった。一晩中ひっつき虫になる覚悟だったけれど、触れたところから眠気がこみあげる。夢心地のまま足を絡めて、そのまま瞼を閉じた。
嘘だろ……?と声が聞こえた気もするが、気のせいだろう。ぐっすりすやすやと、眠ってしまった。
目が覚めると太陽が昇っていて、身体をおこして伸びをする。ゆっくりしっかり眠れたなと思いつつ下を見ると、荒みきって死んだ目をするカイリがいた。
「おはようございます、カイリ」
「おはよう。俺に何か言うことはないですか?」
「カイリが私に敬語使うの珍しいですね」
「そうじゃない」
「うーん……?よく眠れましたか、私はぐっすりでした」
「一睡もできなかった、死ぬかと思った」
「わ、私はそんなに重かったですか……?」
「やめろ!俺に昨晩を思い出させるな!!!」
「突然の情緒不安定」
離れてくれ、足を離してくれ……と呻くので、絡めていた足をといて、ベッドのわきに座る。窓の外でさえずる小鳥の声を聞きながら寝癖のついた柔らかい髪を撫でると、あまりに酷い、残酷だ、と彼は泣きだした。……泣きだした?
「カイリ、なんで泣いているんですか?!そんなに重かったですか、痛い所はどこですか?ごめんなさい、痣とかーーー」
「やめろ! 脱がせようとするな!!!」
そんなことを言われても、痛みに泣く彼を放っておけない。確認するだけですから!と叫ぶ私とナニの確認だ?!と悲鳴をあげる彼の攻防が続き、シーツや彼のシャツはぐちゃぐちゃになる。
「よぉ、朝から騒がしいな義弟!まさかついにユリシアと一線を……………邪魔したな!!!」
たまたま実家に戻っていた兄が、開けた扉を勢いよく閉めたことで、戦いは終わった。
助けてください!とカイリは扉に縋りついて兄に泣きつき、私は夜に彼の部屋に行くことを禁止されたほか、学園に入るまで母から淑女教育受け直しの罰をくらった。
幸福で穏やかな時間は、終わりを告げたのである。