1.
初夏の頃、青葉の上を吹く強い風を、青嵐と云う。
「ユリシア・ハミントン!貴様とレイクリッヒ家の婚約を破棄してやる!このふてぶてしい女狐め、今すぐ跪いて俺に詫びるが良い!」
騒がしい声に、手持ち無沙汰に銀髪を弄っていた自分の手を止める。視線をあげると、想像通りの人物が。
青空の下、ようやく暖かくなった風にゆれて季節の花が咲き誇る。
丁寧に手入れされた花木は美しく、足元にしげる芝生もととのえられていた。
並べられたテーブルは使う人間に相応しくあれと願うような質の良いもので、大理石のそれは一つ一つ細かい意匠が異なっている。晴れの日のみかけられる紺地のテーブルクロスは対角に国章と校章が刺繍されて、アイボリーのティーカップや食器に良く映える。
この国の貴族のみが通える国立学園の昼食時、生徒の騒がしさが止まない食堂傍のガーデンで。金髪碧眼の青年、ハロルド・レイクリッヒは、私を睨んでそう宣言した。
どこの劇団の若手俳優と思うような見栄えする美貌と、すらりと長い手足。髪をかき上げる動作でさえ衆目を集めるその男は、突然の大声に関心を寄せる貴族子女達には目もくれない。
ただ私だけを、憎むように見下している。
青年のそばには彼に同調する、愛らしい容姿の少女が―――四人ほど。ハロルドに縋りついたり私を睨みつけたり、協調性は無い。
「……あれなんだろうね」「さぁ?」
そんな声が聞こえる。日常の中でいきなり婚約破棄なんて単語が出たのだから無理もない。
思い思いに食事を楽しむ周囲の生徒達の視線には、隠しきれない好奇心が。
仕方がないなと溜息をついた。紅茶が冷める前に、話を終わらせてくれれば良いのだが。
興味なさげな私の態度に、ハロルドは眉をつりあげた。芝居がかった動作で声を張り上げる。
「聞こえなかったのかユリシア!どこまでも生意気な奴だ。しかし調子に乗っていられるのも今だけだ、馬鹿な貴様にも分かるように説明してやろう。ハミントンとレイクリッヒ伯爵家の婚約は政略によって結ばれたものだ。粗末な鉱山があるハミントンは、素晴らしい鉱石の加工技術を求めて我がレイクリッヒ家に頭を下げた、つまりこの婚約が破談になれば困るのは貴様らのほうだ。そして!」
続く言葉は適当に聞き流す。そーよそーよ!と彼に重なる、少女達の姦しい声も。
二人掛けのテーブルに座ったまま、ぼんやりと空を見上げる。雲一つない見事な青空。六年前、二歳年上のハロルドと初めて出会ったときもこんな晴天だった。
雑音を振り払うように瞳を閉じて、視界の裏、晴れた空色の瞳を思い出す。
ハミントン侯爵家とレイクリッヒ伯爵家の婚約は、たしかに政略によるものだ。
利益の為に出会った私達だったが、私は彼に惹かれて共に過ごすうちに恋をした。
婚約解消するなら、彼が私以外の誰かと添い遂げるなら間違いなく私はひどく落ち込み、嘆き悲しむだろう。
私はレイクリッヒの子息を、心の底から愛しているのだから。
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「なんて生意気な奴だ!謝れ、謝らないなら、俺がお前を愛することは一生ないからな!!!!!」
雲一つない晴天の下、かつての私―――十歳だったユリシア・ハミントンは、ハロルド・レイクリッヒと出会った。
砂糖をふんだんに使った色とりどりのお菓子、その匂いを打ち消すほど強い花と香水の香り。二人が引き合わされたのはレイクリッヒ伯爵家の庭園だった。派手好きのレイクリッヒ当主が誇る庭には鮮やかな大輪の花や絢爛な彫刻が敷きつめるように並べられていて、それぞれの個性や良さを潰しあっていた。ゴテゴテしていて大仰で、正直ほんの少しも好みではなかった。
十二歳のハロルドはお茶会などでも評判になるほど美しい少年で、彼の両親は彼を心底甘やかしているらしい。一挙一動を褒めたたえ、彼なら公爵家に婿入り、いや王家の姫君と結婚してゆくゆくは国王にと信じて疑っていないと父からは聞いていた。
だから、たかが爵位が一つ上なだけの侯爵家との縁組は、たしかに彼らにとって不本意だったのだろう。はじめて私がハロルドの両親と顔をあわせた時、父のいる場ではにこやかに挨拶した彼等は、父が離れた瞬間に舌打ちして、いい気になるなよガキが、と形相を吊り上げた。
「うちのハロルドの婚約相手が、この程度の小娘だと!借金を肩代わりなんて調子にのりやがって……」
確かに婚約は、ハミントンから提案したものだった。鉄から宝石の原石までさまざまな鉱脈によって栄えているハミントンにとって、当主達の豪華な暮らしと比例して膨れあがった借金をかわりに支払ってもいいくらいには、レイクリッヒの職人達の加工技術は素晴らしく魅力的だった。
けれど決してレイクリッヒに押し付けたわけでも、既に決まったことでもない。私の両親は二人の子供を愛していたから想いあえる幸せな結婚をしてほしい、なんなら結婚しなくても幸せであってくれるなら構わないと私と兄に何度も言い聞かせて、私に将来の相手を選ぶ権利を与えてくれていた。
レイクリッヒに訪れたのだって候補のうちの一つというだけで、先週はある男爵家が開くお茶会に行ったし、来週は違う侯爵家の子息と顔合わせをする予定だった。
華美なガーデンテーブルで父の隣に座り、向かいのレイクリッヒ夫妻を見る。かつては整っていたのであろう顔には肉が張りついて、表情も意地悪そうに歪んでいる。
彼等の本性を見て、こんな家に嫁入りするのは嫌だなと思った。けれど両親と気が合わなくても結婚相手も同じとは限らないから、帰るまでは礼儀ただしくしていよう。そう考えて、テーブルに並べられた紅茶や菓子の前で背筋を正した。
しばらくしてやってきた少年は確かに、噂よりずっと美しい顔をしていた。群青の瞳は宝石のようで、金髪は太陽にきらめき、彼自身が贅をこらした豪奢な服にまったく負けていない。人々の話の中で天使や奇跡と比喩されていたのは決して誇張ではなかったらしい。高い鼻、長い睫毛まで、彼は完成されていた。
想像以上の、今まで見た中で間違いなく一番美しい人間に、父も私も息を呑んだ。彼の完璧な造形の唇が開くのを、呆気にとられて眺める。
「せっかく俺に会いたいっていうから来てやったのに、なんだ、この程度か! もっと可愛くないと俺には釣りあわないからな、隣に立ちたいなら努力しろ!」
あ、無いな。
声変わり前のソプラノで放たれた言葉に、僅かに高揚していた頭は一気に冷めた。
美しい顔をゆがめたハロルドのふんぞり返った表情も彼の両親の隠しきれない嘲笑も理解の範囲外で、私が今まで関わってきた節度や礼儀のある人々から、大きく外れた存在である事は確かだった。
隣にいた父が殺気だってカップにひびを入れてなければ、そのまま馬車で逃げ帰っていたかも知れない。かろうじて最低限の礼儀で挨拶の言葉とともにカーテシーをして、どかりと椅子に座ったハロルドやその両親から、延々とつづく自慢話を聞かされはじめた。
長くてつまらない話が終わったきっかけは、何だっただろうか。たしか、彼の話のなかで間違っていたことを指摘したとかだった。水を差された少年はひどく激昂して、調子にのるなと私に叫んだ。
生温い風が吹いて、大輪の花の一つが落ちた。
「なんて生意気な奴だ!謝れ、謝らないなら、俺がお前を愛することは一生ないからな!!!!!」
そう叫んで席から駆けだした。彼の両親も私に文句を散々言ってから、彼を追いかけてどこかに行った。
凄いものを見たな……と思いながら、レイクリッヒの使用人達もいなくなって二人きり、父と目をあわせる。
「……帰るか、ユリシア。どこかに寄り道して、好きなものをなんでも買ってやろう」
「ありがとうございます、お父様」
多分考えていることは一緒だった。二人で静かに頷いて、馬車に戻る。
さて帰宅というところで、テーブルにハンカチを忘れたことに気が付いた。すぐ近くだから一人で大丈夫と父に伝えて、来た道を戻る。彫刻や花々の植え込みをこえた先、さっきまで寒々しいお茶会が開かれていたテーブルでは一人の少年が席にも座らずに、残ったお菓子を食べていた。
彼は、シンプルなシャツとズボンを着ていた。
私と同じ位の年だろうか。柔らかそうな癖のある髪の毛は濃いブラウンで、目尻が下がった優しそうな面立ちをしている。背丈は私より少し高いくらい。目を惹かれたのは澄んだスカイブルーの瞳で、さっきの出来事に荒んだ心で見る今日の青空より、ずっと美しかった。
少年は私に気が付くと、驚いたように瞳を一つまたたいた。
「あ……ごめん。もう誰も食べてなさそうだったから、つい」
声の抑揚にも、気取ったところはない。優しそうな少年は、穏やかな声をしていた。
上手く言えないけれど、良いなと思った。穏やかで優しそうで、彼と仲良くなりたい。
「大丈夫ですよ、勿体ないですもんね。良かったら、座って一緒に食べませんか?」
だから、なるべく愛らしく見えるように笑いかけた。笑顔は武器よ、と母に鏡の前で練習させられたのが、初めて役に立ったかも知れない。
彼はもう一度またたきをすると、嬉しいと答えて、私の席の椅子を引いてくれた。
少年はカイリ・レイクリッヒと名乗って、ハロルドの二つ下の弟だと自己紹介をした。私も名乗ったあとに兄弟なのにあんまり似ていないですねと言うと、ハロルドの方がずっと格好いいよな、と表情が翳る。
そういう意味じゃなかったから、慌てて訂正した。
「椅子を引いてくれるとか、名乗ってくれるとか、そういうところが違いますね」
少なくとも私は、あなたの方が素敵だと思います。そう伝えるつもりで言ったのに、カイリの顔は晴れない。
「ハロルドは、そうしなくても皆に好かれるからな。……そういえば、テーブルにハンカチが落ちてたんだ。ハミントン……さんの?」
「そう!刺繍がお気に入りだったから、見つかって嬉しいです。拾ってくれてありがとう。ユリシアで良いですよ、私にもカイリって呼ばせてほしいな」
「そっか、綺麗な柄だもんな。俺もブルースター好き。ユリシアはほかにどんな花が……なんか、名前を呼ぶの照れるな」
「花なら大体好きです。でも小さな花が、草原の色を変えるくらいに咲き誇っているのが一番好きかも。うちの領に、春になると花に染まる丘があるんです。凄く綺麗で。カイリは……あはは、本当だ!ちょっと照れますね」
すぐに戻ると父に言ったのも忘れて、紅茶を淹れなおしてお菓子を食べながら、彼とたくさん話をした。好きなものも嫌いなことも、彼とはすごく気が合った。
ここまで言葉の裏や何を考えているかを考えなくていい相手は家族や使用人以外では初めてだった。
他愛のない雑談をしながら、婚約者候補として顔をあわせたのがハロルドではなく彼だったら良かったのにと考えた。今すぐ婚約したいほど大好きとは言わないけれど、出会えたのがカイリだったら、またお茶会をしたり私の家にカイリを招待したりして、もっと彼のことを知りたいと思っただろう。
楽しい時間はあっという間だった。気が付けば、ポットの中身は空になっている。
名残惜しくて、なんとなく寂しそうな彼に聞く。
「カイリは、婚約者はいますか?誰か好きな人がいたりとかは」
「どうしたんだ、突然。……いないよ、そんな話が出るわけがない。俺はマナーがなってないからお茶会なんて出せないし、家で何か開くときも部屋から出るなって言われてるんだから。……ハロルドが羨ましいな」
カイリがフリーな事に何となくほっとして、続く言葉を疑問に思った。慣れてなさそうなところはあるけれど、彼の仕草は丁寧で、まったく無作法ではなかった。それに、部屋から出るななんて。
いやなものを感じた目線の先、カイリのシャツから覗く同い年の男の子にしては細い手首に、赤い痕が見えた。
まるで、つねられたような。
「………………そんな事ないと思いますよ、カップの持ち方も綺麗ですし。十分上手ですよ、どこに行ったって恥ずかしくない。ハロルドなんてずっと足組んでテーブルに肘ついてましたよ?絶対カイリの方がいいです」
思わず、ハンカチを握りしめていた。
両親に溺愛される美しい金髪の長男の噂は聞いても、レイクリッヒに次男がいるなんて聞いたことがない。いやな予感は、きっと当たっている。
落ち着け、ここで騒いでカイリの両親を問いつめてもカイリの立ち位置が悪くなるだけだ。こらえる代わりの私のハロルドに対する恨みもこめた熱弁に、彼の顔が悲しそうに歪んだ。
「……だとしても、ハロルドには勝てないよ。ユリシアは、ハロルドと婚約する為に来たんだろ?ユリシアみたいな綺麗で可愛い子と、婚約者として出会えるハロルドが羨ましい」
そう悲しそうな顔をして、彼は私を綺麗と、可愛いと言った。
私が彼を好ましく思ったように、彼も私に好感を抱いてくれている。
それに気づいた瞬間。
雷に撃ち抜かれたような衝撃とともに、私は天啓を受けた。
そうだ、絶対にカイリをハミントンに連れて帰ろう。
決意は固い。迷わずに、さっきから視線を感じる生垣をふり返る。
「……お父様、いらっしゃいますね?好きなものを何でもくださると言われましたが、彼を連れて帰りたいです」
ガサガサっと激しく茂みが揺れる音。思わずというように、葉っぱを全身につけた父が立ち上がる。
「いや待てユリシア、買ってやると言ったんだ、彼は売り物では―――」
「カイリ、結婚するなら私はカイリがいいです。カイリと一緒にいたい。だから、この家じゃなくて、私と暮らしてほしい。……駄目ですか?」
「い、いいよ、ユリシア」
「やった!ありがとう、嬉しいです!これからはずっと一緒ですね!」
狼狽えながらのカイリの言葉に、言質は取ったと内心ほくそ笑んだ。椅子から降りて、帰りましょう、お父様!とカイリの手を握って宣言する。
「そうか~~~思い切りが良すぎないかユリシアは~~~?」
と魂の抜けた顔でいう父は、カイリが歳の割に細いことやシャツすれすれの抓られたような痕に気づくと、まぁ仕方ないか~~~と御者に彼も連れて帰ることを伝えた。
父は普段威厳があるが、すごく驚くとくにゃくにゃになるのだ。普段ストッパーになる母や執事がいないので、挙動不審な父と目を白黒させるカイリ、満面の笑みの私の三人を乗せて、馬車はなんの支障もなくわが家に到着した。