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短編集・散文集

美味

作者: Berthe

 ちょっと待ってね、と彼をいつも惹きつけてやまない甘い声で言いながら、(みお)は華奢な手に提げていた袋をテーブルに置くと、なかにあるらしい箱のために袋は横に倒れることなくそのままの姿勢でぴたりと安定した。


 それを見届けるが早いか壁へ寄ってくるりと後ろを向いた澪をよそに、彼はその内側をたしかめたくなる。中身を覗いてみてもバチはあたらないだろうが、物欲しそうな顔をもし見つけられでもしたらと思うと、どうも格好がつかないような気がして、しばしためらいつつちらと視線を移すと、澪は早くも服を床に放って脱ぎ散らかしたまま、ちょうどフードのついた部屋着になろうと奮闘している最中である。


 お気に入りのそのルームウェアになかなか袖が通らず身を包まないので、なめらかなくびれとたおやかに伸びる脚線に目を取られたのも束の間、彼は頭を振って顔をもどし、心持ち前傾になりながらあごを伸ばすようにして覗き込もうとしたところへ、ちょっとだめ、やめて、待って、と小鳥のように甲高く甘い声が、覗き魔の犯行をその寸前で取り押さえるように、現行犯である彼の耳もとへ届いて身震いさせた。


  *


「見てないよ」と彼は苦笑を浮かべながらそれでも名残惜しく身を引くうち、テーブルの向かいへと立ち戻った澪は、かぶったフードを脱ぎながら髪を整え、


「さて、なんでしょう?」と、彼より一つ年上だけれど、まだ二十代前半のいたずらっぽい笑みをたたえて訊く。


「ケーキじゃないの? 甘いもの買って来るって言うから、その口になっていたんだけれど、でもドーナツかなあ」


「ぶっぶー。ちがいますよ、(だい)()くん。わかんない?」ききながら、彼を『くん』づけで呼ぶ澪の口角がすっと上がり、得意の鼻をうごめかしたその顔は未だ少女時代の面影をたっぷりと残している。彼はそれにいつものごとくすっかり嬉しくなって、


「わかった。洋菓子だね」と人差し指を顔の横にぴんと立て、さも得意げに範囲の広大な解答を提示すると、澪は目を見開き、と思うとたちまち憮然とした面持ちになり、


「はい、その通りです」と半ば呆れたように言いながら耐えられなくなってくすっと笑う。それにつられて彼も吹き出し、あたりが和やかな雰囲気に包まれたのに乗じて袋へ手を伸ばすと、今度は澪もさえぎらない。そのまま手を入れて取っ手をつかみ取り出した長方形の箱をさっそく開けようとする折から、


「先に手」と制され、目を上げると、顔の下で両のてのひらを広げる澪の姿が映り、彼はそれに逆らうことなく従うまま、二人仲良く洗面台に行き、入れ替わり手を清めたのちテーブルへもどり、澪を見つめながら決然と箱に手をかけ、造作なく開けてみると、


「ワッフル」


「そう。好き?」と、否定の返答を少しも予期していない信じ切った瞳をこちらへ差し向け、小首を傾げている澪へ、もとより期待を裏切るつもりもない彼は、


「好きだよ。えっと、何か飲む? 紅茶とかお茶とか、それしかないけれど」


 その言葉に澪はすぐさま首を横に振り、


「澪は水にする。夜はカフェインだめなの」


 と、二十代も半ばに差し掛かろうとしてもなお、みずから『澪』と名前で呼ぶことに、彼は今日も他愛なくときめいて、しかしすぐさま、この呼び方もいつかは変わってしまうのだろうか。いずれ似合わない時が訪れてしまうのだろうか? その折には出来れば居合わせたくないような心持ちがして、たちまち冷たく悲しい想いがよぎる間もなく、彼はそれを力ずくで振り切り、


「それならおれも水にする」と言い置いてキッチンへ行き、トレイへ水のグラスと小皿を二つ載せて立ち戻ると二人の前にそれぞれ並べ、そこで初めて心づいたように、


「座ろう」とうながす彼の合図に、二人は目を見合わせて微笑みながら、向かい合って腰をおろした。


  *


 四つ入っているもののうちで、それだけはお揃いにしたという『メープル』を取って早速ひと口齧ってみると、その美味に彼はたちまち爽快をおぼえた折から、


「どう。美味しい?」とすぐに答えを欲しがる澪へ、うん、美味しいよ、と答えようとして、はたと口をつぐんだ。


『おいしい』と答えるべきか、それとも『うまい』と答えるべきか、何でもない二者択一を前にして不意にためらってしまったのである。彼の趣味からすれば、自然と口をついてでて普段から優勢なのは、おいしい、の方であり、澪の問い掛けにも含まれていたその単語で返答してしまえば何らの問題もないようなものの、しかし、うまい、と屈託なく滑らかに言い切ることに彼は近頃、憧れめいたものを感じていたのを図らず思い出した。


 周りの連中に比して、旨い、とそれこそ上手く言えない自分を知って愕然としていたのである。けれど、美味しい、と、旨い、なら、うまい、の方が表現として卑近なぶん、先に覚えそうなものである。それとも、母親がわが子に最初に教える単語は、おいしい、なのだろうか。あり得る。それは大いにあり得る、それは躾の高低にまったく関わらない。この言葉に関しては子供は初めに、むしろ丁寧な表現に親しみ、その後、砕けた表現を知るのではないだろうか。彼はその推理に満足して決めつけるまま俄に嬉しくなるうち、


「ねえ?」


 知らず知らず遮断していた鼓膜を破って、これまで微かに反響していたような甘ったるい声に僅かな、けれども確かにそれと知られる小さな怒気を聴きつけ、


「美味しいよ、美味しい。これ好きだな」と、怠惰にも滑らかにこぼれ落ちる慣れ切った台詞におぼえず苦笑を浮かべても、澪はそれとは気づかないのか、


「でしょ」と、もう満足したように微笑みながらその手にワッフルを掴みひと口齧り、すぐとまた口を開き齧る、その度に、柔らかな美貌を縁取る髪の毛がさらさらとながれ、ときおり口もとへ近づこうとするのもお構いなしに、慣れたもののごとく小さな口でせっせと食べ続けるのを見守るうち、ふいと伸びてきた手にはっと心づくまま身を引くと、澪は前かがみになお腕をのばして彼の口もとの粒をつまむと素早く自分の口へいれ、


「澪のとおなじ味。おいしい」と事もなげに言ってにっこりした。

読んでいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これは小悪魔ですね。   彼がおいしいと旨いを迷うくだりが天然な感じで好きです。 お似合いのカップルで微笑ましい気持ちになりました。 [一言] そして今度は『ワッフル』! また食べたく…
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