向日葵と、
「ごめん」
そう言われたあの時、俺は何て言葉を返すのが正解だったのか、今でも思い出す時がある。
結局は何も言えずに、ただ「おう」って答えただけだったけど、あの時にもっと違った気の利いた事を言えていれば、何か違ったのかも知れない。
そんな訪れなかった未来を想像して俺は少し苦しくなる。
ただの俺の感傷。きっとあれで良かったんだ。そう思っても消せる事のない罪悪感が、俺の心を締め付ける。
「ありがとう」
お礼を言われる様な事を、俺は何もしていない……。
◆
とてもとても暑い夏の日だった。まっさらな青空に入道雲がもくもくと。
なぜか道端に一本だけひょろりと伸びたひまわりと目があった気がして立ち止まった。
自転車を急いで漕がないと、部活に遅刻してしまうのに俺はスマホをジャージのポケットから取り出して撮影した。
青い空と白い雲と黄色いひまわりと。
我ながら上手に撮れた。
いつもの通学路でプロカメラマンになった気分。
満足して頷くと声をかけられた。
「気が済んだならどいてくれない?」
びっくりして声がした後ろへ振り向いたら、クラスメイトが座っていた。
名字は知ってるけど名前は知らない。必要があれば会話するけどくだらない話をする間柄ではない。
そんな特別でもない普通のクラスメイト。
「佐倉……?」
俺が驚いた顔で名字を呼ぶと、向こうもオヤっと驚いた顔をした。
「伊藤くんって僕の名前知ってたんだ」
「なんだよそれ、知ってるだろクラスメイトなんだから」
少しカチンと来て言い返すと佐倉は笑った。
「そっか、そりゃそうだよね」
そう言うお前も俺の名前知ってたんだなとは言い返せなかった。
佐倉は成績上位の学級委員で、クラスの事をきっと誰よりも熟知してる。もしかしたら担任より分かってるかも知れない。
社会担当の遠藤は何かって言うと仕事を全部佐倉に任せてたから。
「伊藤くんはこれから部活?」
「おう」
サッカー部の今日の練習は午後からで、こんな暑い日にやらせんなよって思うけど皆で集まって練習するのは楽しい。
「佐倉はこんな所で座って何してんだよ」
「写生だよ」
「しゃせい……?」
「うん、絵を描いてた」
「あっ」
写生の意味が一瞬分からなくて恥をかいた。そう言えば佐倉は美術部だったんだ。
誤魔化すように自転車から降りて横へ移動する。
「ひまわり?」
「そう。なんだか凄く綺麗だったから」
「ああ、やっぱり。だよな。俺もつい写真撮った」
「凄い勢いで漕いでたのに急ブレーキで止まるからびっくりしたよ」
「……そんなだったか?」
「うん、漫画みたいに効果音聞こえるかと思った」
声を抑えてくすくすと笑う。俺の周りにはいない柔らかな笑い声。
サッカー部の連中は皆大口開けてギャハハと豪快に笑う。当然俺もそうだと思う。
「ちょっと意外だったよ。伊藤くんが止まって写真撮るなんて」
「あー改めて言われると恥ずいな」
自分でも似合わない事をした認識はある。でも目があった気がしたんだ。ひまわりと。バカげてるけど。
「部活何時から? 急がないの?」
言われてスマホを見れば完全に遅刻だった。
「やっべ、オレ行くわ!」
「うん、自転車気を付けなね」
「おうよー」
手を振る佐倉に軽く手を上げて返すと自転車にまたがる。
なんだか不思議な気分だった。ふわふわと、入道雲みたいな。
学校に到着したらそんな気分どっかに飛んでいって消えてしまったけど。
グチグチと説教してくる先輩にひたすら頭を下げて、同級生には遊ばれて。
練習はあっという間に終わって俺は佐倉との会話を思い出さなかった。
◆
夏休みが終わった。
スマホに残ってるひまわりと、通学路で枯れていくひまわりを見て、心の中であの日の出来事を思い出したりしたけどそれだけで。
あの時に感じた不思議な気分はもう二度と俺に流れる事はなく、いつもの毎日。
夏休みも毎日の様に会っていたサッカー部の連中と飽きずにギャハハと笑い合って女子に白い目で見られる。
隣の席の有村は俺達に嫌そうな目を向けて「うるさい」と文句を言った。
「有村さ〜んすみませーん」
おどけて言うと消しゴムが飛んできた。難なくキャッチして手の中で転がす。
心底嫌そうな顔をする有村にムラっとする。やっぱり俺は変態かな。
「伊藤くん、返してあげなよ」
透き通った声が聞こえた。有村から視線を上げれば、隣に佐倉が立っていた。
「さ、佐倉くんっ」
ガタンと大きな音を立てて有村が立ち上がった。さっと染まった赤い頬。
ああ、だめだ。もやもや雨雲が立ち込め、一気に降り出しゲリラ豪雨。
「ほらよ」
佐倉に消しゴムを渡して俺も立ち上がる。
教室を出る瞬間、すれ違った遠藤が何か叫んだけど聞こえなかったフリをした。
こんな時、屋上は便利だ。
誰にも知られてない鍵の壊れたドアは偶然見つけた。
誰も管理してないのずさんだなって思いながら、俺も先生に報告する事なくこうしてふらりと訪れる。
ひたすらガキだと思う。自分はアホだ。だけどこの俺が女子に優しくする姿なんて想像できない。
気持ち悪いだろ。それこそサッカー部の連中に笑いの種にされるのがオチだ。
それだけは絶対にイヤだ。
「伊藤くん、サボりはだめだよ」
「あ?」
影がさす。一瞬ピントが合わなくなって目をしぼめる。
寝転がった俺を上から覗き込んでいるのは佐倉だった。
俺は起き上がると睨みつけた。
「佐倉、何で」
「ここが分かったかって? 実はここで良くサボってるの知ってたんだよね」
「は!? まじかよ」
「遠藤先生僕に探しに行かせるから」
「……なんで」
「少し時間経ったら見つかりませんでしたっていつも教室戻ってたよ」
初めて聞いた話に顔が歪む。なんだよそれ。俺はつまり佐倉に目こぼしして貰ってた訳かよ。
嫌そうな俺に気が付いたのか、佐倉は目を伏せた。
「じゃぁなんで今日は声かけた訳?」
「……ごめん」
「は? 答えになってないし」
「……うん」
顔を伏せたままの佐倉は力なく頷いた。
また、イヤな気分だ。俺が虐めているみたい。いや、実際に虐めてるのか?
「……この間、普通に話したから、調子に乗っちゃったんだと思う」
「はぁ?」
言われた事が理解できなくて声がキツくなる。この間、ってあれかよ。
「……ひまわり?」
「うん」
「……絵完成したの?」
「うん!」
元気よく頷いた佐倉は嬉しそうだった。
「実は文化部発表会で今度美術室に飾るんだ」
「へー」
「凄く上手に描けたから伊藤くんにも見に来て欲しなって」
「俺が!? 美術部に!?」
およそ縁のない美術部にのこのこ佐倉の絵を見になんて行ける訳がない。
しかも美術部には有村もいるのに。
「……やっぱり無理だよね。ごめん、忘れて」
「おう」
返事してからため息が出た。また変な気分だ。さっきまでのイライラは消えてたけど、今度は何とも言えない居心地の悪さを感じる。
「……じゃあ、僕は先に戻るね。伊藤くんもちゃんと授業出なね」
「……おう」
歩いていく佐倉の後ろ姿を見ながら、何故か俺は声をかけた。
「佐倉! 気が向いたら見に行くよ!」
振り返って大きく頷いた佐倉は、笑顔だった。
◆
今日は年に一度の文化部発表会初日。今日から一週間文化部の日頃の成果を発表する。
吹奏楽部は6時間目を使って演奏し全校生徒でそれを鑑賞する。
その後は自由だ。帰るもよし、華道部の生花を見に行くのもよし、手芸部の作品を見に行くのもよし、理科部の研究レポートを読みに行くのもよし。
そして美術部の絵を見に行ってもいい。
運動部の連中はする事もなく、この期間は部活もないので大体は皆文化部の友達の所へ冷やかしに行くかさっさと帰るかだ。
俺は去年サッカー部の連中とさっさと帰って遊びに行った。
今年も当然そうするつもりだった。
「わりー先帰ってて。遠藤に俺呼ばれてて」
「なんだよ伊藤〜説教?」
「お前授業サボり過ぎなんだよ」
「何で見つからねぇの? 俺この間真似したらソッコーで学級委員長に捕まったけど」
各々勝手な事を言いながら教室を出ていく。嘘をついた事に心臓がドクドクしてる。
嘘つく必要なんてなかったかも知れないけど、素直には言えなかった。
どうしてだか分からなかったけど、俺は佐倉の絵を見に行きたかったんだ。
絵の良し悪しなんて俺には分からないし興味もなかったけど、佐倉があのひまわりをどうやって描いたのか知りたかった。
誰もいなくなった教室でしばらく時間を潰す。
すぐに移動したら見に来ている奴らとかち合うかもしれない。
文化部にまるで興味のない運動部の奴らがどばっと帰って、興味のある発表を見終わった奴らがパラパラと帰宅していく様子を教室の窓から眺めていた。
なんとなく動けなくなる。本当に俺が見に行って良いのか。
誰でも見ていいんだから俺が見ても当然いいんだけど。
チャイムが鳴った。
『もうすぐ最終下校時間です。まだ教室に残っている人は早く帰りましょう』
「やべっ」
放送が流れて慌ててカバンを掴むと教室を出る。
美術部は昇降口までの通路の途中にある。ちょっと、除くだけ。
ドアが開いたままの入り口から除く。誰もいなかった。もう皆帰ったのか。
中に入る。
授業で使う事もあるから当然入った事はある。それでも中央の台に何個も飾られた絵はいつもと違った空間だ。
ゆっくりと静かに近付いた。佐倉の絵はどれだろう……。
「何してるの!!」
急に叫ばれて慌てて振り返ると台に手をぶつけた。
ガタンと台が大きな音を鳴らして、立てかけてあった絵が倒れた。
「きゃあ!!」
有村の悲鳴が耳に痛い。
「ひどい!! 伊藤くんひどいよ!!」
駆け寄ってきた有村は絵を拾うと胸に抱える。
涙が浮かんだ瞳は俺を強く非難していた。
「何でいつも意地悪するの!? 隣の時だけじゃなくて美術部に来てまでこんな事するなんて最低だよ!」
倒してしまった絵が有村だったのかと気づいて何も言えなくなる。
そうだよな、有村から見たら本当にその通りだ。ひどいクラスメイトだよな。
「倒すつもりはなかったんだけど……ごめん」
「…………」
「本当にごめんな」
俺はそう言って逃げる様に美術室を出た。
廊下を歩いて来る佐倉と目が合って、嬉しそうに話しかけようとした姿に気付いたけど、俺は無言で走った。
カバンを抱えて、あの時みたいに驚いた顔した佐倉の隣を、全速力で駆け抜けた。
◆
授業でも、隣の席の有村とは気まずいまま。
次の日に有村に「あれは事故だった。急に叫んだ私が悪かった」と謝られたけど、俺は「おう」としか言えなかった。
きっと佐倉が何かうまく説明してくれたんだろう。でも惨めな気分だった。
一週間が経ち文化部発表会は終了した。
初日以外、他の日はサッカー部の連中とすぐに帰宅した。
遊びにも誘われたけどとても行く気に慣れなくて家でゲーム三昧だった。
もやもやと曇り空が続いて晴れない。
早く忘れてしまえばいい。あんなの変だった。
制服が冬服になる。席替えをして、俺は授業をサボらなくなった。
有村にちょっかいを出さなくなって佐倉と話すこともなくなった。
サッカー部の連中とギャハハと笑って怒られて。それがいつもの日常でくだらなく楽しい。
それなのに、スマホのひまわりの写真を見ると変な気分になる。
別に大した写真じゃないんだから消去しちゃえば良いのに、なんとなく消せなかった。
そんなある日、俺は有村に呼び止められた。
「伊藤くんちょっといい?」
「おう」
荒ぶる嵐の様に、俺の胸が騒ぐ。そんな訳ないと思っていても、顔がニヤけてないか心配だ。
「これ」
有村はそう言って紙の切れ端を俺に手渡す。
「……なにこれ」
「広報の切り抜きなんだけど、記事見て」
「……記事……?」
言われた通りに目を向ける。そこには小さな記事。
「市の美術絵画展? 中学生の最優秀賞が公民館に飾られる」
「うん」
「で、これが?」
「……佐倉くんの絵が最優秀賞に選ばれたの」
「え! まじかよ」
「この間の全校集会で発表されたけど伊藤くんいなかったでしょ」
「あーまぁ……」
確かにサボった。そう言えば戻ってきたクラスメイト達が佐倉の周りに集まってたっけな。
「見に行けば?」
「え、なんで」
「あの時、佐倉くんの見に来てたんでしょ」
何も言えなかった。俺の中に留まっていたモヤは、もしかしたら有村の中にもあったのかな。
俯いていた俺の肩が衝撃を受ける。
涙目の有村が俺を叩いていた。
「絶対に行ってよ!!」
有村は俺の返事も聞かず帰って行った。叩かれた肩と、手の中の切れ端が熱を持っている気がした。
◆
もしかしたらクラスメイトに合うかもしれない。それでも行かなくちゃいけない気がした。
有村の震えた声が耳に残っている。
クラスで佐倉とも有村とも話す事はなかったけど、きっと二人は見に行くんだろうなと思うと少し気分は重かった。
『向日葵と、君』
そんな題名の絵は確かに佐倉の名前が横に書いてあって、確かにあのひまわりなんだと思う。
でも、俺の想像をしていたひまわりじゃなかった。
自転車にまたがったままスマホを構えた『君』の後ろ姿の横に、小さなひまわりが咲いている、そんな絵だった。
「俺が主役かよ」
恥ずかしくて死にそうだ。意味なく周りを見渡す。
この絵ならこの『君』が俺だって事は誰も気付かないと思う。個人を特定できる要素は何もない。
それでも、この出来事を知っている俺にはダメージがでかい。モデルは俺以外ありえない。
「佐倉を殴りてぇ」
「それは困るな」
困った顔した佐倉は、それでも俺と目が合うと嬉しそうに笑った。
ああ、そうか。この感じ。この変な気分。そう言う事だったのか。
居心地悪く思いながらこそばゆい。向けられた想い。
「ごめんね」
「……おう」
「こんなのどうかと思ったんだけど。あの日さ、自分の中で……凄く嬉しかったんだ」
「……おう」
「だから、絵に残しちゃった」
そう言って佐倉は涙を浮かべながら笑った。
俺はどうしたら良いのか分からずに「おう」とだけ答えた。
「これからも、話しかけたりしないから。ただ、凄く上手に描けたから、あの時は見て欲しくなっちゃったんだ。ごめんね」
多分、3年に上がったらクラスは変わる。俺達はもう話すこともなくなるだろう。
そして、別々の高校へ進学する。
名字は知ってるけど名前は知らない。必要があれば会話するけどくだらない話をする間柄ではない。
そんな特別でもない普通のクラスメイト。
それが俺達で。今でもこれからも。
1年経って初めて下の名前を知ったけどそんなのどうでも良くて。
「来てくれてありがとう」
そう言って頭を下げた佐倉に、俺は何も言わず家に帰った。
そしてスマホの写真を消去した。
◆
ひまわりを見ると思い出す。あの時、もっと気の利いた言葉をかけれたら、何か違ったのかな。
そんな訪れなかった未来を想像して少し苦しくなる。
『ありがとう』
そんな言葉必要なかった。
『ごめんね』
そんな言葉も必要なかった。
俺はきっとこれからも、ひまわりを見たら思い出すだろう。
あの日の事と、俺を見て嬉しそうに笑う佐倉の事を。