魔法少女ドストエフスキー
「杏奈!」
ボールをキープする私を呼ぶ声。すかさず左足でパスを出す。受けた結莉はワンタッチでゴール前に走る私へパス。ディフェンスを振り切ってノーマークの私は……ゆっくりしたボールをゴールに見立てた木の間へ蹴った。私のシュートは羅梨沙ちゃんに阻まれた。同点ならず。
「あーミスった!」
私は口惜しそうに笑って手を膝につく。本当は何もミスなんてしてない。手加減みたいなもんだ。ラリサちゃんは私とユーリより二つ下の四年生だから。妹の要奈が私のプレーを見て笑う。みんなが笑ってくれるように、私はこの試合をコントロールしないといけない。
ラリサちゃんのゴールキックから再開しようとしたとき、公園の端の木陰に、誰か大人がいることに気づいた。公園なんだから、そりゃ私たち四人以外にも誰か来ることはある。ボールがあの人のところに行かないようにしなきゃ。私の次にイリナもその人に気づいた。その人は長い髪が真っ赤で目立つ。
「……え?」
イリナがそんな声を上げたから私もあの人の方をもう一度見ると、オモチャの銃みたいなものを持った女の人がこっちに近づいてきた。
「あなた、中々イイわね」
私が話しかけられた。さっきのミスプレーのことかな? 私が何か返事をしようとするのも待たず、女の人が銃を私に撃った。
「あああああっ!」
その赤黒いビームは結構痛かった。
「お姉ちゃん!」
「アンナ!」
「アンナさん!」
みんなの声が聞こえたけど、そこから少し私の記憶は飛んだ。例えるなら、映画なんかで急に場面転換するような感じ。
体感では次の瞬間。私はつぶった覚えのない目を開けた。誰かの膝の上に頭がある。自分の背中から脚にかけて、乾いた砂の感触。公園だ。
「もう大丈夫?」
頭を撫でてくれてるのは、知らないお姉さん。中学校の制服を着てる。
「お姉ちゃん!」
イリナと、みんなの顔も見えた。
少しクラクラする。風邪が治った直後みたいに。ちょっとだけ顔を横に向けると、あの女の人がいた木陰がなくなってた。女の人はどこかに行ったみたいで、木は幹から倒れてた。
「あの木は、どうして……」
「オッソロスのせいだよ」
私を膝枕するお姉さんが言った。
お姉さんは色々あって週一くらいの頻度で変身してオッソロスという悪い人たちと戦っているらしい。お姉さんの話だと、あの女の人はオッソロスの偉い人で、あの人の赤黒いビームを浴びると眠っているストレスに包まれて身長十メートルくらいの怪獣になる。さっき、私がその怪獣になってこの公園で暴れていたところを、お姉さんが止めてくれたみたい。
「ねえ、アンナ」
私が立ち上がってすぐ、ユーリが尋ねる。
「あんたを暴れさせたストレスって、なに?」
……答えられない。っていうか、そんなの私にもわかんないよ。
「もしかして、私のことですか?」
今度はラリサちゃん。
「違うよ。そんなこと、ありえない。みんなと遊ぶのは楽しいことだから」
「その子と何かあったの?」
地面に座ったまま、お姉さんが聞いてくる。
「いえ、別に」
私は短くごまかした。
「そう? ま、無理に聞きたいわけじゃないからいいけど。でも、このままってわけにもいかないよ」
お姉さんが続ける。
「私にできることは暴走を喰い止めることまで。結局はあなたの中に押し戻しちゃってるんだから、どうにかして発散しないといけないんだ」
「ストレス発散なら、私たちにはスポーツがあります」
私たちはみんな、体を動かすのが好き。
「あの……ミーラヤ、さん」
イリナが座っているお姉さんと同じ目線までしゃがんだ。この人、ミーラヤって名乗ったんだ。輝いてるなあ。二つの意味で。
「さっきの人『またすぐ来る』って……」
「うん。私がもう少しここにいるよ」
やっとお姉さんが立ち上がった。紺色のスカートが砂まみれになってる。
「サッカーやってたんだって? 私も混ぜてくれないかな?」
お姉さんも入れて、PK戦で遊んだ。ゴールを決めた人がゴールキーパーになって、四人連続でシュートを止めた人の勝ち。イリナとラリサちゃんには特別ルールとして、ゴールマウス外のシュートなら蹴り直しができるようにした。
「んなー!」
私がお姉さんからゴールを奪い、イリナとラリサちゃんのシュートを止めたあと、ユーリにシュートを決められた。そのときの私のリアクションがこの奇声。左手を伸ばせば止められたと思うけど、フェイントに引っかかったふりをして右に大きく動いた。自慢じゃないけど、この四人で普通にやれば私が勝てると思う。でも、それじゃみんなが面白くない。
「アンナちゃん、だったね。いい名前じゃん。今のフェイントに引っかかったの、わざとでしょ?」
シュートの順番待ちの間、お姉さんに話しかけられた。
「……優しくなんかないですよ」
今のキッカー、ラリサちゃんを見て答えた。やっぱり、お姉さんは深く聞いてこない。かわりに、こんなことを教えてくれた。
「ドストエフスキーって知ってる? ロシアの作家なんだけどね。うん、サッカーじゃなくて作家。『苦しむこともまた才能である』っていう言葉を残してるんだって。悩んだり、苦しいって思ったりすることって、嫌だよね。でも、苦しむことができる人って、今が自分や誰かにとってだめな状況なんだって気づける人だと思うんだ。まあつまりどういうことかっていうと——」
「あらあら楽しそうねえ。みんなでボール遊びだなんて」
聞き覚えのある声。みんなの視点が一ヶ所に集まった。まだ一本だけ立ってた木の太い枝に、あの女の人がいた。
「オッソロス! この子たちの邪魔しないで!」
お姉さんがどこからかステッキを取り出した。
お姉さんがカラフルなステッキを頭上で振り回すと、制服がピンク色で派手なのに変わった。あと髪も伸びてピンクになった。
「涙の数は強さの証! ミーラヤ・ローザブイ!」
変身に三十秒くらいかかったけど、女の人は待ってくれた。案外いい人なのかもしれない。青い髪のお兄さんと二人一組になって愛と真実の悪を貫いてそう。
「今日は一人? この間はシーニーとかいう青い子が『みんながいるから乗り越えられる!』って言ってなかった?」
「シーニーはテスト前なの! ほっといてよ!」
「そ、そう……。あら? シーニーとあなたって同じクラスじゃなかった?」
「それは聞かないで!」
「……まあいいわ。やっておしまい!」
女の人が私に指示する。
「うっ」
胸の奥から吐き気みたいな嫌な気分がこみ上げてくる。
「させない!」
お姉さんが私の頭をステッキで叩いた。
「いたっ!」
もしかして、さっき頭が痛かったのは同じ方法で私を止めたから?
「無駄よローザブイ! 私がいる限り、その子の暴走を止めることはできない!」
高笑いが聞こえる。一旦おさまった嫌な気分が、またすぐにこみ上げてきた。
「どうしよう……。あのオバさんを倒さないとアンナちゃんを止められない。でも、いま私が離れたら……」
「誰がオバさんよ! 明日までは二十代よ!」
オッソロスの女の人が遠回しに年齢と誕生日を教えてくれたとき、石を持ったユーリがお姉さんの前に出た。
「なら私、あの人を倒す!」
「……ごめん! お願い! すぐ戻るから!」
お姉さんはユーリ、イリナ、ラリサちゃんを置いて、私を公園の外まで背負ってきた。
「落ち着いて、深呼吸して……」
お姉さんに背中をさすられて、少しずつ嫌な気分は消えてった。でも、急に涙がこみ上げてきて、せきとめる間もなく決壊した。
「わわっ! どうしたの?」
急に泣き出した私を前に、お姉さんはオロオロするしかなかった。
「私、この嫌な気分の原因に、心当たりがあるんです」
まだ涙は止まってないけど、話せるくらいにはなった。お姉さんに聞いてほしいことがあった。
「……それは、何かな?」
「私、人をいじめたことがあるんです」
三年前。私は初めてラリサちゃんと出会った。ラリサちゃんはイリナと同じクラスで、イリナと仲のいい友達だった。運動は好きだけど、上手じゃない子。リフティングができないし、パスも思うようにできないし、ボールを手で投げてもコントロールは悪いし遠くまで飛ばせない。それはラリサちゃんの個性なんだけど、私はそう考えてあげることができなかった。具体的に何をしたかは言いたくない。とにかく、ラリサちゃんは一時期、私に会ってくれなくなった。私が反省してることをイリナから伝えてもらって、やっとまた遊んでくれるようになった。
「私は優しくなんかないです。最低です。百回謝っても足りません。だから、せめて私が笑い者になれるようにしてたんです。なのに、またみんなをこんな目に……」
「そっか。キミのストレスは、自分がみんなに迷惑をかけてるって思ってることだったんだね」
「もう嫌なんです。私のせいで苦しむ人を見るのは」
「……そっか。……ごめん。私、そろそろ戻らなきゃ。もう少しここにいて」
お姉さんは公園に戻ってった。私にはそのとき、公園の中が見えた。三人が倒れている中で、女の人がお姉さんと戦ってた。
「みんな!」
私は思わず、公園の中央に駆け出した。
「来ちゃだめ!」
お姉さんが振り返り、私に叫ぶ。その隙を見て、お姉さんが女の人のロープに捕まった。
「くっ……」
「ずいぶん弱いのね。今からでも他のメンバーに来てもらえば? それか、あの子が怪獣化して、私を襲うことができれば勝てるかもね」
「それは絶対だめ!」
お姉さんが必死に抜け出そうとしてる。まただ。また私は……。
「アンナ」
足元のユーリが顔を上げた。
「やっちゃいなよ」
それはユーリが時々見せる、不敵な笑みだった。
「でも……怖いよ。怪獣になるくらいの力があって、もしその力で、また誰かを傷つけることになったら……」
「あんたのストレス、ラリサちゃんに嫌がらせしたことでしょ?」
「……」
「そのことを気にしてるの、あんただけじゃないよ」
「え?」
「私もね、ずっと考えてることがあるんだ。ずっとあんたの友達で、ずっと隣にいたのに、自分には何も責任ないのかなって。……私があんたの暴走を止めることはできなかったのかな、って。私に勇気がなかった。ごめん」
「お姉ちゃんがイリナたちのこと今も考えてくれてるの、私もわかってた」
いつのまにか、三人とも立ち上がってた。
「でもさ、それじゃお姉ちゃんが楽しくなかったよね。……もう大丈夫だよ。ごめんね、お姉ちゃんの気持ちをわかってあげられなかった」
「私、誰かを憎み続けて生きるなんて嫌です。ずっと悲しみ続けるアンナさんを見てるなんて、嫌です。……仲直りのときに素直に言えばよかったですよね。ごめんなさい、素直じゃなくって」
「今度は絶対止める。あのオバさんさえ倒したら、私たちがアンナを止めるから。だから、やっちゃえ!」
「みんな。……ありがとう」
私の胸の奥から、強い力が湧いてきた。
「あれは⁉︎」
女の人の力が緩んだ瞬間、お姉さんが脱出した。私の体を光が包む。
「はああああっ!」
女の人は、私のパンチ一発で空まで飛んで星になった。何か捨て台詞を言ってた気もするけど、よく聞こえなかった。
「はっ、はっ……うあっ!」
気が荒立っている私を、背後からイリナとラリサちゃんが組み伏せた。
「息を吐いて! ずっと!」
目の前のユーリが怖い顔をする。私は限界まで肺の空気を出した。
「吸って! ずっと吸って!」
ユーリに言われるまま、今度は吸う。これを何回か繰り返すと気分が落ち着いて、光が消えた。
「すごい。みんなすごいよ! 変身しないでオッソロスを倒すなんて!」
まだ制服に戻ってないお姉さんが驚く。
「みんな……ごめん」
上体を起こして私が言うと、みんな不満そうに頬を膨らませた。かわいいけど、なにそれ?
「聞きたい言葉はそれじゃないんじゃないかな?」
お姉さんが私に言った。それなら、言いたいことはあとひとつだけ。
「ありがとう」
今度こそ、みんな笑ってくれた。