助けてくれたのは――?
暗い、暗い、淵にいた。
何も見えず、何も聞こえない、身体を何かが這いまわる様な悪寒だけがあった。
「暗くて何も見えない。怖い。苦しい。痛い」
痛い――?
手を伸ばすと、腹は大きく裂け、おびただしい数の虫が蠢き、露出した内臓を生きたまま貪られていた。
伸ばした手にも飛び移り、振り払おうとしても粘液の様に連なり、喰らいついて離さない。
「怖い。苦しい。痛い――。誰も助けてくれない」
「どうして? どうして? どうして――?」
虚空に向けて放たれた問いに声が重なる。
「どうして? お前が殺したからだ――。奪ったものの末路――」
闇の中に無数の一つ目が浮かび上がり、こちらを凝視し、徐々に迫ってくる。
身体は――。
磔られた様に動かない。
「やめて! こないで!」
開かれた口にも虫の群れが入り込んでくる。
声にならない悲鳴をあげた――。
「 」
目の前に人型の白い発光体が現れ、虫も、一つ目も消え失せていた。
「大丈夫 い怪我 しっかりし 」
『誰か』が、何かを言っている様だが、上手く聞き取れなかった。
白い『誰か』が左手を強く握った気がした。
「必ず助けるから――」
最後の言葉は、力強く、温かく、迷いのない、救済の意志を表していた――。
※ ※ ※
何かが聞こえる。心地よさと騒がしさが同居する。いつも朝の訪れを告げていた何か――。
そうか、これは、鳥の声か。
あの『世界』に鳥はいなかったはずだ、今までの事は全て夢で、自室のベッドに横になっているのだろうか?
右手からは瞼を閉じていても分かる、光を感じる――。右? いや、自室は左に窓があったはずだ。
何者かが、ベッドの端に乗り、こちらを窺っている気配がした。
頭にわいた疑問と共に、弾けるように身を起こす!
「あ、目が覚めたの? 大丈夫――?」
「ここは、何処だ――?」
ふたつの声は重なり、ぶつかり合った。
「え――?」
何だ? 顔に柔らかな感触があった。いや、何かに頭部が包み込まれていた。
これは――? 柔らかく、豊かで、息が出来ない。
無意識にそれの正体を確かめようと手を伸ばす、その瞬間――。
「きゃあああ! いきなり何するの!?」
突き飛ばされ、左頬に鈍い痛みを感じた。皮膚が触れ合う乾いた音が鼓膜を震わすが、それを打ち消すように、銀の鈴を転がすような美しく愛らしい声が反響していた――。
いま鏡を見たなら、漫画のように赤く腫れた手形が頬に刻まれているのだろう。ひりつく様な痛みを感じながら、もういちど前を見据えて、両目を見開き! さきほどの感触の正体を確かめた!
そうだっ! 今まで「秘密」にしてきたがっ! なにを隠そう! 俺は、大きな『おっ い』が大好きなのだあ!
興奮で鼻血が出そうになったが、堪えた。
両腕で視線を避けるように塞がれているが、俺の鑑定眼の前には何の障害にもならない!
でかい! 胸、でかっ! いや、これは胸なのか!? でかすぎる――、衝撃的なサイズだ。
眼前に広がるのは、人の叡智を嘲笑い、ひと撫でで灰塵に帰すような暴力的な『何か』! それは、神々が築きし天上の楽園になる麗しの果実! 林檎――? いや! 西瓜だ!
心ゆくまで舐めまわすように観察し――。
待て! 心の中の『天使』だろうか? が、声を被せた。
いや、いや、いや、いや。待て、待て、待て、待て! 初対面の女性に対して、失礼すぎるぞ。俺は、『ヘンタイ』ではない! 『紳士』だ――。ぜひとも顔も確かめなければ!
それに、『おっ い』という表現は刺激が強すぎる。何か、他の良い言葉を見つけるのだ! 何だ。ただの『悪魔』だったか。
ええと? 豊かな、実り――? とか? たわわな果実? ……前者で。
『豊かな実り』から目を離し、逸る気持ちを抑え、まずは少女の服装を確かめることにした。
首周りは白色で短く、肩の中央がスリット状に切れ、金糸のあしらわれたケープで覆われており、上半身は深い緑色で、首から胸に向かって、二本の金色のラインが入っていた。そのラインの一部は複雑なアールヌーヴォー調の、植物に見立てた模様が描かれていた。その曲線がまた『豊かな実り』を強調していた。
さらに胸のすぐ下から腰に巻かれた、木肌の様な色の革状の帯は、防具の機能があるのかも知れないが、コルセットの様に締まっており、本来の機能、以上に、『豊かな実り』を際立たせていた。
ええっ!? ただでさえデカいのに、さらに服でまで強調してどうすんの!? この娘、雰囲気に見合わず、小悪魔的なあれなのか?
気を取り直して。袖口は、上腕の半分を覆っており、肩と前腕にはまた革製の防具が着けられていた。この世界ではこういう装備の着用は普通なのかも知れない。
下半身は――、ベッドの陰で見えない。ここで身を乗り出して、凝視すれば、正に全世界から『ヘンタイ』の認定を受けるに等しい恥をかくこととなるだろう。さすがにそれは出来ない。またの機会にしよう。
さて、お待ちかねのご尊顔を拝する時だ。視線を少しずつ上に動かしていく。
腰辺りまで伸びている、美しく細い金色の髪は、窓から漏れだす日光を受け、内側にこまかく光の束をはらみ、この世のものとは思えぬ輝きを放っていた。
肌は、肌理が細かく、透き通った雪の様な白い色だった。頬は『豊かな実り』に負けず劣らず、瑞々しく弾力がありそうで、指先でつついてみたくなる。知らず知らずのうちにその時の少女の表情を想像し、頬が緩みそうになった。
ひそめられた眉は、こちらに抗議の意志を示していた。髪と同じ金色のそれは、表情を形作る機能などではなく、存在そのものが美しく、思わず手を伸ばし、指でなぞりたい衝動に駆られる。
大きな二重まぶたの瞳は、つり目でもたれ目でもなく、まさに絶妙のバランスで成り立っており、金色で長い睫毛は上方に緩やかなカーブを描き、豊かな大地で繁栄を享受する植物の様に、濃く密集している。左右の目の形は、まったく歪みを感じさせないほど均一に見えた。
そして、『異世界』では珍しいことではないのだろうか?
その優し気でいて意志の強そうな瞳は――、髪と同じ金の輝きを放ち、見つめていると、吸い込まれそうになる。
金髪、金目――! 思わず息を飲む、幻想的な組み合わせだった。
ここで、目の前の少女の表情が変わる、怪訝そうだが、どこか柔らかい印象。どうしたの? とでも言いたげである。
続けよう。
鼻の彫りは深すぎず、額から優美な曲線を描き、高い先端へと結ばれている。控えめな主張の小鼻は可愛らしい木の実の様だった。
唇は上が少し薄く下が厚い、血色はよく艶やかな薄紅色をしていた。魅惑的な唇を見ていると邪な妄想を始めてしまいそうで、いちど観察を中断した。
なんか、胸の辺りがそわそわするな――、この感覚はなんだろう?
目の前の少女は、総合的に見ても『美少女』という言葉でひとくくりに出来るような存在ではなく、完璧な美しさを備えていた。
美の女神? それとも美の化身? 象徴? 体現者? どんな言葉を用いても、少女の存在を規定できないと感じた。
どうもおかしいな……。
これは、胸の高鳴り?
観察を始めた初期段階では、こんな感情はなかったはずだ。間違いなく少女を異性として意識し始めていた。
これは――、ひとめぼれ?
今まで、『二次元』を除けば、誰も好きになったことなどなかった。自分の感情が本物の恋なのか、分からなくなる。
まずいな……。今、さっきの様に目を合わせたりしたら、心臓が飛び出るかも知れない――! 落ち着け、心臓よ。今は、その時ではないのだ!
気を紛らわすために次の部位の確認に移ることにした。まだ、確認していないのは耳か。耳は髪型によっては隠れて見えないことも――。
両側の髪に隠された耳は美しく長く――。 ほら、やっぱり隠れて――、ん?
長く――!?
身を乗り出し、目を見張って食い入る様にそれを見つめた! 驚きのあまり高鳴りのことは忘れていた。
「エルフ耳――?」
それはファンタジーの『異種族』でお馴染みの『エルフ』の耳の様だった。
「いきなり何? ああ、この耳が珍しいの? そんな反応は久しぶりに見たかな」
少女は、気恥ずかしそうに、金の髪先を指で弄ぶ。
「君は、エルフなのか?」
頭が混乱していて、ぶしつけな質問をしてしまう。
少女は、一呼吸を置いて、答えた――。
「そうだよ。この『精霊の森』のエルフ族。――そういえば、まだ自己紹介をしてなかったね。私は『アイシャ』。この森でハンターをしながら暮らしてるんだよ、貴方は?」
エルフだったのか、神々しい様な美しさにも納得がいった。エルフといえば、美形と決まっているからな! おっと、質問をされていたんだった。だが、なんと答えようか……? とりあえず名前から。
「俺は、よ――」
待てよ、苗字は別に言う必要はないのか。
「俺の名は『カイト』、「カイトシールド」のカイトさ!」
名称から親近感を持っていた盾の名を口にするが、少女の頭には疑問符が渦巻いている様だった。
「かいとしーるど……?」
全然伝わってない! 首をかしげ、指先を唇に当てる愛らしい仕種に目を奪われたが、少なからずショックも受けた。そんなにもマイナーな盾だったか? それともこの世界には存在しないか、名称が違うのかも?
「ほら、騎士とかが使う、凧みたいな形状の大きめな盾! すっげぇかっこいいんだぜ?」
少女の瞳には、依然として困惑の色が浮かんでいた。
「うぅん、分からない、ごめんね。それで、カイトは何してたの? 冒険者? 騎士なの?」
何と答えればいいのだろうか? 冒険者でも騎士でもないな、ただの迷い人なんだが、それでは格好がつかない。
あれ? そういえば――。
ある疑問が浮かび、自然と口にしてしまっていた。
「俺たち、さっきから『日本語』で喋ってる……?」
奇妙だった。この世界の人々とは言語による意思疎通は不可能だと思っていた。だが、現実はどうだ。何の問題もなく話せている。どうなっているんだ?
「え? 二ホン……語? なにそれ? 『デム爺』なら知ってるのかなあ?」
そう言って、少女は右手の指を唇に当てながら、左手の窓へと目をやった。
窓には、白いカーテンがかけられており、半分ほどが覆われていた。複雑なレースの模様が光を受け、ベッドの端に煌めく水面の様な輝きを生み出していた。
レースって作るのにすごい手間がかかるんじゃなかったっけ?
一般的に普及しているのか? エルフの手先は器用で長命だと言うから、人間を超えるような熟練の職人がいるのだろうか?
それに、窓にはまるガラスは透明度も高く、地球のものと比べても遜色がない様に思えた。
最後に呟かれた『デム爺』とは、誰かの愛称だろうか? それよりも日本語でないのなら、この言葉は何だと言うのか?
「俺たちが話してる言葉は何ていうの?」
疑問をストレートにぶつけた。
少女が不思議そうにこちらを向く。
「あれ? 話してるのに、知らないの? 『古代ゼスパール共通語』だよ」
突然の『専門用語』に思考が硬直する。
ゼスパ何……?
「そっか、人間は「古代」は付けないんだったっけ? ほら、『第二次神界大戦』の後に、『ゼスパール教徒』たちが、大陸全土に広めた、どんな種族でも大体は使えるすごい言語!」
少女は、疑問のまなざしでこちらを見ながら続けた。
「人間、エルフ、ドワーフ、ノーム、ホビット。ちょっと変わった所で、セリアンスロープ、レプティリアン、ジャイアント。噂話だけど、ドラゴニュートも使えるらしいよ!」
呆けた顔で少女の言葉を聞き流していた。続々と連なるのは、異種族の名前だろうか? 後半の一部を除けば、大半はゲームで有名なものなので、音を聞き取れはするが、理解はできない。
そうだ! 日本語の本! 左胸のポケットに入った、愛読書『秘法の整理学』を見せれば!
そこまで考えた所で思い出した。
そうか――、ここに来た時にあの本はなくなったんだったな。……もしかして、世界の矛盾を防ぐために消し去られた……?
本や携帯は、元の世界の情報の塊であるため、この世界に決定的な矛盾をもたらしてしまうだろう。
特に携帯はインターネットの利用や通話は不可能にしても、保存された画像やカメラ機能などは隠しようがないほど異質な技術だ。いや、バッテリーの電力がなくならない限りは、存在自体が反則か。
今まで何故、自分がこの世界に来たのか? 考えたこともなかったが、裏に何者かの意志があるのだろうか? そんな不明瞭な疑問が、自身の存在の根底を揺るがすような不安感と共に、頭の中に根付き始めていた。未知の言語を難なく理解できるのも、自動翻訳される能力でも与えられた、とか?
分からない――。
理由が分かれば、元の世界に帰る方法も見つかるかも知れない。だが、今は他の疑問を優先して解決していくべきか。
もう一度、窓の外から聞こえる声に耳を傾けた。そして、おぼつかない足元を確認しながらベッドから立ち上がった。靴は見当たらず、裸足だった。床はシンプルな板張りの様だ、木目が複雑な模様を描いており、足を下すと冷たい感触と、かすかに軋む音が鳴った。
「もう立っても大丈夫なの? 肩を貸す?」
少女を左手で柔らかく制し、窓際に向かった。数歩、踏み出し窓のそばに立ち、再び意識を外へと集中させる。
やはり、ここでは、鳥が鳴いているな。いないんじゃなかったんだ。
外側を覗くと、ここも森だった。だが、探索の始まりに囲まれていた森とはまったく様子が違うようだ。明るく光に満ちており、木々だけでなく、草花も繁栄を謳歌していた。
左手にいた少女の方へ向き、言葉を紡ぐ。
「俺が通ってきた場所にはまったくいなかったんだけど、この近辺の森には動物がいるの?」
少女の美しい唇が動く。
「いっぱいいるよっ! 外に出ればすぐ分かると思うけど、ここは『精霊域』の近くだからね! 貴方が倒れていた場所から考えると、通ってきた森は『瘴域』の辺りだったのかな?」
また耳慣れない単語が飛び出してくる。『精霊域』と『瘴域』とは何だろう?
「それってどういう場所なの?」
少女はこの質問を待っていたかのように、何処か得意気な様子で話はじめる。
「『精霊域』はね! 私たちの暮らす『物質界』と、精霊たちが暮らす『精霊界』の霊的な重なりが最も強くなった場所でね、たくさんの精霊たちに守られた場所なんだよ! だからその近くでは、動物たちも安全に暮らせるから、本来の自然の秩序が機能している場所とも言えるのっ!」
ここでいちど言葉は切られた。
「それに対して『瘴域』は精霊たちの力が最も弱くなる場所で、禍々しい瘴気に満ちていて、たくさんの恐ろしい『魔物』の棲み家なんだよ! だから普通の動物たちは怖がって近づくことはないの。貴方が『瘴域』を通ってきたのなら、相当、運が良かったんだね」
少女のその言葉で、忘れていた記憶が、心の扉を叩く音が聞こえた。指先が、かすかに震え出していた。
「私が倒れてる貴方を見つけたのは、『瘴域』との境界に近い『境域』のご神木の所だったから。そこからここまで連れ帰るのは大変だったんだから! いっぱい感謝してよね?」
少女は悪戯っぽく笑った。
意識を失う前の事を完全に思い出していた。
そうか――、あの時の声はこの娘のものだったのか。
あの声について、考えると、不思議と震えは止まっていた。
「俺はあの時、大怪我してたはずだよね? 君が助けてくれたのか?」
少女は視線を落とし、途端に歯切れが悪くなる。
「えっと、そうとも言えるし、言えないかも……?」
なにかあったのか? あれ? そういえば、さっき靴がなくなってるのに気付いた時は、スルーしちゃったけど、俺の『服』、まるまる変わってる!?
薄い緑の簡素な上下で飾りなども見当たらず、ゆるやかで締め付けられることもない。
どういう事だろう? 率直に尋ねた。
「ああ! 服は、えっとね。ひどい怪我をしてたし、治療する時に、脱がしちゃったよ! いまは洗濯して外に干してるところかな? それでぇ、いま貴方が着てるのはぁ、『私のパジャマ』だよっ! えへへ」
少女は恥ずかしそうにしながら照れ笑いをつくる。
うぐっ! 左手で胸を押さえ、首を後ろにそらし、溢れだしそうになる鼻血を堪えた! 頭の中には、少女の言葉が何度も、何度も反響していた。
「ええっ!? 大丈夫!?」
慌てた様子で少女が駆け寄ってくる。
そんな様子も気に留めず、ある言葉がこだまする。
『私のパジャマ』だよ――、私の――、私の――、私の――、その事実は少女を意識し始めていた俺には、脳天に雷の直撃を受ける様な衝撃を伴っていた――。