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遭遇、未知の先触れ

 石を拾い直し、川沿いの木に最後の目印を刻む。なんらかの事情で上流から引き返す事になっても、ここからあの空き地まで戻れるはずだ。


 この森を再び通るのは、あまり想像したくなかったし、気が重くなるが、帰りは印を確認するだけで済むはずなので、行きよりは幾らか楽になるだろう。まあ、それも夜になっていなければの話ではある。森の中は木漏れ日がなくなれば、何も見えない闇に閉ざされるだろう。引き返すにも機会は限られており、その決断には勇気がいる。


 しばらく必要なさそうなので、石は左胸のポケットに突っ込んだ。生地が傷みそうだが、ずっと持っているのは邪魔だった。

 損耗度合を考えると、進んだ先で再び森に入ったとしても、印を刻む効果を維持できる時間は限られてくるだろう。その場合は、いちど解いて別の突起を使う方法も考えられるが、最も有効と思われる先端ほどの効率は期待できない。この石が機能不全に陥ると、羅針盤を失ったに等しい打撃を受ける。


 上空を見上げると、太陽は既に森の陰に隠れてしまっていた。具体的な時刻は分からないが、まだ十分に明るい。しかしタイムリミットは少しずつ迫っていた。進むか、引き返すか、その判断が出来なくなる前に、決断を求められる時が遠からず来るだろう。


「後のことを考えると、頭かかえたくなるけど、そろそろ行くかな」


 水際に戻り、一歩踏み出した瞬間――、不快な感触とともに奇妙な音が響く。靴に水が入ったのを忘れていた。慌てて靴を脱いで裏返し、水を切る。


「靴下もびしょ濡れだな。川に踏み込む前に、いちど止まって考えるべきだった」


 後悔先に立たず、悔やんでも仕方ない。片足立ちになって、靴下を脱ぎ、水を絞り出し、裸足で靴を履いた。それをもう片方にも繰り返す。靴はまだ水気を帯びていたが、さっきよりは幾らかましだった。


「靴下は、ズボンのポケットに詰めておくか。いつまでも乾かないだろうけど、ここに捨てていくのも忍びない。乾かせばまた使えるしな」


 気を取り直して、再び水際を歩き出した。


 川沿いに進む、両側の森の風景はあまり変化がなかったが、川の方は所々、幅が変わっていたり、蛇行したり、微妙な段差があったり、進行妨害の準備は万全だったようだ。いや、自然というものは元よりそういうものだろうか。


 しばらく進むと、ある大きな変化に気付いた。木々の陰からでも見えるほど、背の高い巨木が姿を現したのだ。


「あれは! あの木なら川が途切れても、目印になりそうだ!」


 実際に川幅は少しずつ、狭くなっており、もうすぐ途切れそうだった。


「川が途切れれば、道としての役目は終わりだしな。もういちど森に入る事を考えないと……。はあ、またあのきのこが生えてんのかな?」


 その時――、水滴が水面に波紋を作る、そんな微かな音が響いた。


「今、なにか聞こえた」


 今度は、もう少し乱暴な、何かが水面に叩きつけられるような音だった。

 間違いない、背後から水音がする。それも、何かがこちらに向かってくる足音の様な――。


 動物か――? 人型の生物の足音とは思えなかった。

 相手に気付かれるのが分かっていて、こんな音を立てるってことは、察知されても構わないと思っている。そもそも被食者は敵の目を避け、息を潜めて隠れまわるものだ――。

 捕食者――、しかも確実に相手を仕留める自信がある?


 水面を震わす侵入者の足取りは、徐々に曖昧な輪郭に縁取りを加えるように、その姿を現していく。明確な殺意を象るように。


 背後の音は一切の躊躇なくこちらに近づいてきている。

 

 冷や汗が一筋、額から頬を伝って流れ落ちた。

 意を決して、心の中の恐怖に抵抗するように振り返った。


 それは――、犬の様な、狼の様な姿をしていたが、ただひとつそれらとは決定的な違いがあった。


「なんだこいつ――。目が、ひとつしかねえ」


 本来あるはずの場所にはなく、顔の真ん中にひとつの目があった。現実とは思えない、不気味な姿に背筋が寒くなる。分かりやすいモンスターの登場だった。


 怪物はこちらと目が合っても、意に介さず、少しずつ距離を詰めてくる。歩いてきた道に目をやると、所々に赤黒い染みが出来ていた。慌てて自分の腕を見る。ひときわ大きな傷からかすかに血が流れだしていた。


「まだ! 血が完全には止まっていなかった! やつはこれの匂いを嗅ぎつけて来やがったのか?」


 得体の知れない怪物とほいほい戦う訳にはいかない。


「だったらやることはひとつ! 逃げる!」


 反転して走りだした! 川が途切れてまた森に入るのなら、あの巨木を目指すしかない。

 上体と首を捻り、後ろを確認する――、怪物も猛然と走り出していた。

 振り返った時の振動でポケットの石が落ちてしまったが、無視した。

 

「狼型の怪物じゃ、単純な走行速度では絶対に適わないはずだ! 森に入るしかないぞ!」


 両手を身体の前で交差し、張り出した枝をものともせず、へし折るつもりで森に突入する。また腕を擦り剥いたようだが、構っていられない。真新しい血が空中を滑り、赤い模様を描いていく。


 すぐに上方に目をやる。


「見えてる!」

 

 木々の密度が少しまばらになっているのか。森に入っても、巨木は頭を覗かせていた。

 最初に川から見上げた時と比べれば、かなり近くなっていた。


「なんとか、あそこまで行くんだ」


 奇妙なことにこちら側の森にはきのこは生えていない様だった。もしかすると地面まで届く光の量が関係しているのかも知れない。


「ま、いまはそんなこと重要じゃないけどな!」


 薄気味悪い視線よりも、背後の怪物の敵意に満ちた一つ目の方が大問題だった。


 もう一度、木を見上げ位置関係を確認する。これだけ近ければ、道を見失うことはないかも知れない。


 何か戦略があった訳ではないが、体力には限界があるし、闇雲に逃げまわるよりはいいはずだと思いたかった。

 相手は狼型の怪物だが、木の陰から陰へ、縫うように移動して行けば、簡単には追いつかれないはずだ。森でなら有利もないが、不利な条件は相殺とまでは行かずとも、大幅に低減されるだろう。


 滑るように走りながら屈み込み、地面から適当な枝を拾い上げる! すぐさま背後の怪物に投げつけた!


 枝は怪物の鼻辺りに命中したが、気の抜けるような軽い音を立てて落ちた。牽制にもなっていない。相手が人間だったなら多少の痛みにひるんだかも知れないが、怪物には通用しなかった。だが、思った通り、森の中では怪物の速力は十分に働いていないようだ。


「それでも、狼型だな! 少しずつ距離は詰まって来てる! ――不味い!」


 こちらが次の木の陰に回り込む前に、痺れを切らした怪物が吠え、飛び掛かってきた! 数メートルの距離をものともしない大跳躍だ! 怪物の醜悪な牙が眼前に迫る!

それを地面に倒れ込みながら、すんでのところで躱す!


「すぐに立ち上がらないと不味い!」


 ゲームならボタン連打を要求されそうなシーンだった。

 身体は長い森の探索で疲れて切っていたはずだが、思いのほか上手く動いた。両腕をつき、掌底に力を籠め、膝を立てて、一気に立つ!


 倒れた時に見つけた大振りの枝を拾い上げ、踵を返しこちらを向いた怪物の頭めがけて殴りつけた!


「なに!?」


 だが、決死の抵抗も意味をなさなかった。大きく開かれた口に挟まれた枝は、か細い悲鳴のような音を立て――砕け散った!


「なんて顎の力してんだ! こんなのに噛まれたら骨まで砕かれるぞ!」


 心なしか怪物の目に憎悪の色が映ったように見えた。


「はっ! 一切、抵抗することなく、大人しく餌になるとでも思ってたのか!」


 先端を砕かれた枝を、今度は怪物の口にまっすぐに突き立てた!

 すぐさま身体ごと旋回し、捻り倒す。

 怪物が情けない声を上げた、こちらへの抗議の意思も含まれている様に感じた。


「今度は効いたか? しばらくそこで寝てな!」


 再び巨木を目指し走り出す。目の前で森が切れ、巨木の輪郭を象った光の帯が覗いていた。


「もう少しだ!」


 巨木のある場所は、広場の様になっていた。あまりにも巨大な影が落ちるため他の木が育たないのか、それとも別の理由があるのか? 見当もつかないが、見上げた巨木はゆうに数十メートルの高さはある。幹回りも十メートル以上に見えた。とにかく想像を絶する巨大さだ。


 脇目もふらずに巨木に向けて疾走する。久しぶりの全力疾走は体中の筋肉を締め上げる様な感覚をもたらす。頭の片隅で日頃からもっと身体を鍛えておけば良かったと思う。


 減速もせずに両手を突っ張って巨木の幹にぶちあたった。筋肉や健がひきつる様な痛みを感じたが、これから起こるだろうことを考えると瑣末なことに思えた。


「さあ、どうする? このままじゃ一つ目野郎の腹へ直行コースだ! あの臭そうな口を通ってな!」


 息を切らし、肩で呼吸しながら、さきほどの衝撃と腕の痛みを脳内で反芻する。


「そうだ! この木を利用すれば!」


 振り返ると、怪物はまっすぐにこちらへ向かって来ていた。もう我慢がならないのか、目は血走り、口からは大量の涎をまき散らしている。


 その姿を目にした時――、眠っていた蛇が鎌首をもたげた。

 心音だ。急激に早まり、胸の中心から耳元へと移動していくように、音が大きく明確になっていく。


「またか!? どうなってる、いや、考えてる場合じゃねえ!」


 怪物の突撃をかわすには左右に避けるか、上に飛ぶか二つに一つ。どちらを選んでも紙一重で回避できれば、やつは巨木に衝突するだろう。いや、横に回避すれば身を翻して、追い縋ってくるかも知れない。そうなれば、打つ手なしだ。


「垂直に飛ぶのか!? しかし――」


 人間のジャンプ力で避けきれるほどの高さを得られるとは思えなかったが、これ以上、猶予はなかった。もう目の前に迫って来ている。徐々に口が開き、再びあの醜悪な牙が獲物を求め、怪しい光を放つ。


「やるしかない!」


 腰を落とし、両脚にありったけの力を込める――。


 その瞬間、周囲の音が消え、心音だけがその存在を主張していた。

 体が地面から離れる――、が、その速度と力は常軌を逸していた。この世界に重力など存在しないかのように中空に弾き出され、強烈な風圧を感じた。


「え――? これは、どうなってるんだ?」


 気が付けば、五メートル近い高さに放り出されていたが、身体は更に上昇を続けていた!

 そしてタイミングを見計らった様に、視界が渦を巻きながら揺らぎ、周囲の空間が鳴動する様な錯覚と共に、両脚に激痛が走った!


「ぐあっ!」


 筋肉が抉られ、骨から剥ぎ取られる様な、耐え難い痛みだった。意識が飛びそうになるが、闇に落ちていく手前で引きとめるように、体の中心から四肢の先端へと猛烈な濁流が迸る! その力は頭の中心で残響を生じていた。


 大気を震わすような拍動によって、無理やり意識を覚醒させられた!


 頭を振り、痛みに耐えながら、眼下を見やる。

 憐れな怪物が巨木に衝突し、悲鳴を上げていた。まさか縦に躱されるとは思いもよらなかったのだろう。


「やつは、もう、動けないかも知れないが、俺も、このまま、落ちれば只じゃ済まない……」


 上昇は止まり、下降に転じようとしていた。


 上空にも目をやるが、木が巨大すぎるために、枝には届かない。

 下にしか道はないようだが、地面に叩きつけられれば死ぬ可能性もある。


「何か、方法は――!?」


 転がる怪物を見て、閃いた。このまま怪物の上に落下すれば、筋肉や内臓などの構造がいくらか衝撃を緩和してくれるかも知れない。他に方法もなかった。落下時の姿勢制御にのみ意識を集中する――。


 強烈な加速度がついた身体は、地面に吸い込まれるように、落ちた――。


 怪物の断末魔の叫びと、激突の衝撃によって生まれた波動が、混ざりあいながら広場全体に響き渡る! 同時に体内には骨肉が潰れるような不快な感触とともに轟音が渦巻いていた。


「終わった――」


 身体は激突してもまだ運動量を失わず、弾き飛ばされていた。口から激しく血をまき散らし、横転しながら放物線を描き、地表を数メートル抉り、止まった。

 両脚の感覚は既になく、ありえない方向に曲がり、折れた骨が肉を突き破り露出しているのが、閉じかけた瞼の隙間から見えた。あの心音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。


「もう、まったく……。身体が、動かない……」


 今度こそ、ここで死ぬのだ――。

 追い打ちをかけるように、何者かの姿が目の端に映る。力を振り絞り、その姿を捉え、絶句する。先ほどの怪物と同種と思われる、一つ目が近づいて来ていた。


「まだ……、いやがったのか……!」


 発声とともに吐血する。

 見上げた怪物は下卑た笑みを浮かべていた。容赦なく、距離を詰めてくる。今度こそ餌食になるのか。


 眼前に迫ったそれは、嘲笑うように口を開き、下水のような腐敗した臭気を漂わせた。もう抵抗する力はまったく残っていなかった。


 死を覚悟する――。


 その時、奇妙なことに怪物は力なく地面に倒れ伏した。倒れた怪物の首筋には一本の矢が刺さっている。それが致命傷となった様だ。


「何が、起きて……?」


 喉の奥から血液がせりあがり、溢れだした。内臓を吐き出す様な感覚と共に、口から生命じたいが流れていくのを感じた。

 意識が暗転していく中、声が聞こえた。


「そこに誰かいるの? 大丈夫――?」


 女性の声、だろうか? 初めて聞いたはずのその声は、何処か懐かしさと安らぎを覚え、もっと聞いていたいと思わせる。不思議な力を宿していた――。


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