鬼火の森
慎重に森に分け入っていく。少し踏み込むと、やはり肌寒さを感じた。薄暗さも想像していた通りだ。視線を上げると、重なり合った葉の隙間から木漏れ日が覗いていた。
漏れ出す光のおかげで、真っ暗ではないのが救いだった。
前方に目をやると、外部の者の侵入を防ぐかの様に、木の幹や枝が張り出してバリケードを形作っていた。
「どう考えても、歓迎されてる雰囲気じゃねえな」
振り返れば、森の入り口は明るく光に満ちていた、探索を始めたばかりなのに引き返したくなる。
迷いを絶つ様に目をとじ、前を向いた。
再び開かれた目に映り込むのは、背後とは対称的な隠者の領域だ。光と陰だけではなく、生と死の対比の様にも思える。
どんなに困難でも進むしかない、前にしか道はなかった――。
空気をかすかに震わす羽音が鳴る。何かが、右耳のすぐ側を通り、続いて目の前を横切っていった。雲の上で泳いでいる様な頼りない浮遊感だ。
「虫か! いたのかよ」
突然の乱入に緊張感が台無しである。
しかし、すぐにある考えが頭をよぎる。
「今の虫、まさか刺すやつじゃないよな?」
ただ周囲を飛び回るだけなら、まだ可愛いものだが、刺されたらそうは言っていられない。
「もしなんらかの病原体を持った虫に刺されたら……。最悪、そのままお陀仏もありえるな」
考えただけで、背筋が寒くなる。
虫よけの準備などあるはずもなかった。もし、刺す虫なら、なすすべもなく刺され放題である。
危険な毒や病原体を媒介する者でなくても、体中を刺されれば、痒くてたまらないだろう。その状態での精神汚染の程度を想像するのは容易だった。身体のいたるところが膨れ上がって、ホラーゲームのクリーチャーの様な姿になったら、もし原住民に出会っても、驚いてコミュニケーション不全に陥るかも知れない。様々な理由から虫に刺されるのは避けたかった。
「でも何の手立てもないんだ……。祈るしかねえ」
まるで生まれたての赤子のように無力だった。これが『異世界』の脅威なのか!
視線を落とし、今度は地面の方に目を向けてみる。
木々の根元には青白く発光する笠をかぶった、不気味なきのこが群生していた。視線を元に戻し、探索に戻ろうと思ったが、何かに見られているような奇妙な感覚から再び下を向き、闇に浮かぶ鬼火の如き異様な姿を凝視する。
「うっ! このきのこ、笠に薄く顔みたいな模様がある……!」
違和感の正体はこれか。どれも一様に同じ表情に見える訳ではなく、それぞれに個体差があるようだった。笑い顔、泣き顔、怒り、喜び、侮蔑や嘲り、憐憫の様なものまで多岐に渡った。目に錯覚する箇所は、他より一段と青白く浮かび上がって見えた。
まるで何者かの霊に憑依された様な姿は、聞こえるはずもない怨嗟の声を想起させる。
「不気味すぎるな……」
左右を見まわす、他にも大量のきのこが生えていた。暗がりに浮かぶ無数の視線に監視されている様だ。こんなものが食用に適するかなどと考えられるほど、図太い精神は持てそうになかった。意識するだけで心が蝕まれる気がする。この物体についてはこれ以上、触れないことにした。
「色々と見てしまったせいで、いきなり精神を削られた気がするが……。とにかく進むぞ。まずは目印をつける場所を決めとかないとな」
道に迷わず、進んできた方角を確認するためなのだから、すぐに目につく場所が望ましく、なおかつできるだけ同じ方向に面した箇所を選ぶ必要がある。
幾つかの木を調べてみたが、森の木々はそれぞれに個性的で、複雑な形状をしたものも少なくない。共通性を持った箇所は見つけられそうもない。
それに複雑に重なりあっている場所も多いため、ひとつ手前の位置からなら見えても、一歩、奥に踏み込めば、途端に把握できなくなる可能性もあった。振り返った時に、二つや三つは同時に目に入るほうがいいのだが、それは高望みの様だ。
「木々の間隔は距離の詰まった場所が多いみたいだから、ひとつの木を中心にしてその近くの二本にも印をつけていくか? つける場所はやっぱり幹の目線の高さ辺りか……」
分かりやすくはなるだろうが、労力も増大する選択だった。慣れない森での体力の消耗度合は未知数であるため、出来るだけ簡単な方法を取りたいが、贅沢は言えないのかも知れない。
側にあった一本の木に試しに傷をつけて、少し移動して距離を調整しながら印を確認してみた。
「暗いせいで、離れすぎると視認性が著しく落ちるな、幹の高い位置には、光が届く箇所もあるようだが……」
離れた時に、視認できる箇所という条件は思ったよりも厳しそうだ。できるだけ光の射す場所に近い、明るいところを選ぶしかなかった。
「ダメだ。考えているだけで時間が過ぎていく。この方法で進むしかない!」
決心して歩みを進める。
ひとつ木の裏手にまわる度に、振り向いて印を刻み、それを中心とした左右の木にも印をつけていく。大変な労力だった、最初はいいが、疲弊すれば継続できなくなる可能性もある。だが、ここでは迷うことは許されないのだ。
※ ※ ※
どのくらい歩いたのだろうか――、獣道とも呼べないような、鬱蒼とした木々の隙間を抜け、印をつける、その繰り返し。森に入った時は肌寒いと感じたが、体温は上がり、全身から汗がにじみ出ていた。張り出した枝や地面をうねりながら壁を築く根を避けて通るのはかなり体力を消耗する。暗がりを静かに這う根に何度も足を取られ、忌々しく思い足蹴にしたい衝動に駆られる事もあった。競り上がった根と枝のトンネルで身を屈めて通るのが精一杯な所も散見された。
片方が石で塞がれているために、厄介な枝や根を避けるのにも片手しか使えず、露出した前腕は枝に擦れた傷で埋め尽くされていた。血が滲んだり、炎症を起こし赤く腫れたり、見た目にも酷いありさまだ。さらに流れ出す汗が傷口に染みて、細い針先で撫でられるような痛みを何度も感じていた。
額に滲む汗が目に垂れてくるのを避けるために、拭おうと思っても、腕が傷だらけなので躊躇してしまう。なにより腕を上げる度に、暗がりでも十分に痛々しい傷を直視してしまうのが、心を荒ませる。身体が傷つくのが嬉しい人間もそうはいないだろう。
「傷になんの処置もせずに、ほったらかしておくと不味い気もするな……。でも今はどうしようもない……」
地面まで光が届かない場所が多いせいか、進路の邪魔となりやすい低木の類が繁茂していないのが、唯一の救いではあったが、地面付近の暗さは同時に大きな問題も起こしていた。
あのきのこだ――。
どんなに目を逸らしても、視界の端に映る、青白い鬼火のようなそれは、まるで呪いの様に、心に重くのしかかり、影を落としていた。早くここから解放されたいという思いが爆発しそうになる。この容赦ない視線をこれ以上、浴び続けたら発狂してしまうかも知れない。人の精神とはかくも脆いものなのか。
右手に持った。石も損耗が激しく、薄く鋭かった先端は、徐々に厚みを増し、丸まりつつあった。道具の耐久度については、あまり考慮していなかった。途中で印を残せなくなったら、引き返すことになるかも知れない。
「腕の傷も心配だが、このまま汗を流し続けたら、脱水症状を起こすかも……。それに、この群生地から早く脱したい……」
とりあえず何処かで水分補給ができればいいのだが……。
「ん? 何か聞こえる……。これは、水の流れる音か?」
かすかに聞こえる音は、川のせせらぎの様だ。地獄に仏とはこの事だろうか。川なら森も切れるためこの忌まわしい空間から解放されるはずだ。
「こっちだ!」
音の聞こえる方向へ走り出したいが、木々に阻まれて上手くいかなかった。鬱憤のたまる場所だ。焦らずに決めたルールを、鉄の意志をもって守りながら進んだ。結果的にそのほうが後々プラスに働くはずと信じたかった。
今までよりも強く、枝より低い位置から光の漏れ出す場所、この木を超えればその奥が目的地なのだろう。最後の一本を超えた時に、一気に視界が開ける。明るい場所に出るため、あらかじめ額に手をかざしておいた。
「思った通り、川だったな!」
発する声からも負の感情が払われたのが、分かる。
幅は三メートルくらいだろうか、浅く緩やかな流れの水は透明で澄んでおり、飲料水としても使えそうだった。なにより、開けたこの場所では、日光が当たるために暖かく、十分な明るさがあった。鬱蒼とした薄暗い森に蝕まれていた精神が、解放された様に感じる。
浅すぎるせいか、魚の様な生き物は見当たらなかった。その辺の石をどければ何か潜んでいるかも知れないが、生存に関係のないものに構う余裕はないだろう。
「水は澄んでいるし、明るいし、広い!」
子供の様に、はしゃぎながらせせらぎに踏み出した。靴と靴下に水が染み込んで少し不快だったが。この場所を見つけた喜びの方がはるかに勝っていた。
水は思ったよりも冷たかったが、運動で火照った身体を冷ますには丁度いい。
この場所では空が見える。そして、川は途切れるまで道筋を失うことはない。道として考えても、方向も分からなくなる様な、森の中を進むのとは比べ物にならないほど優秀だった。
「ん? 待てよ? 上流と下流。どっちを目指すのがいいんだ?」
下流に進めば、より大きな川や海に合流する可能性があるが、釣りの準備もないためそれほど魅力的には感じない。それに、川幅の狭さや浅さから見て、下流の終点に行き着くには、相当な時間がかかると予想される。途中が滝になって切れる可能性は……。上流と下流のどちらでもあり得る。
「もし下流に進んで、いつまでも終点が見えて来なかったら、最悪、ここの川岸で野宿になるのか? こんな不気味な森に挟まれて休む? あまり考えたくない光景だな……。いや、終点までたどり着いても川岸や海辺なら大差ないのか?」
何処にいても今の状態での野宿は、最悪の結果しか生まないだろう。
「川の方は大きくなると、鰐でも住んでそうだしなあ。海辺に出た場合は、危険生物がいるかは分からないが……。うむ、海の方はどんな感じか想像もつかないな」
一番良いのは、原住民の集落の発見だろうか? 言葉も通じないだろうし、まともにコミュニケーションが取れなければ、余計な危険を招く可能性もあるが、確実に火を起こす方法もない状態では他者に頼るのが正解に思える。
「あの、木をくるくるっとするやつ。ほんとにあんなので火が熾せるのかな?」
下流側にどこまでもこの森が続いていたとしたら、出発した空き地で野宿の方が幾らか救いがあるが、それは上流側でも同じかも知れない。
「上流側に進めば、水源地を目指すことになるのか? 地下からの湧水のある場所で行き止まりとか、登山する羽目に陥るかもな」
どちらに進んでも状況を劇的に改善する「何か」、など期待できず、進退窮まる状態だ。集落の発見は、あくまで希望で可能性は低く思えた。
「こういう時は、運で決めよう」
持っていた石を先端を上に地面に置き、先を指でつまみ、放した――。
石は小さな音を立てて倒れた。先端は上流側を指していた。決まったようだ。これ以上、答えの得られない問いを続けるのは無駄だろう。
「しばらくはこの川を上流に向けて、伝って行くか。その前に傷口を洗って、水分補給」
石を川岸に置き、川の水で前腕の傷を洗い清めた。少し染みたが、傷口を汚れたままにしておく訳にはいかない。
「傷はこれでいいかな? 包帯とかも持ってないし、これ以上はどうしようもないかな。次は水分補給だな」
飲んでも大丈夫だろうか? 透き通った水を両手で掬い上げ、しばし考える。森に入る前に食べた木の実は、今になっても腹痛は引き起こしていなかった。安全そうだと感じたものは、飲み食いしても良いのではないか。そう言い聞かせる。
時に慎重さは、得難い武器にもなるが、足を引っ張ることもある。ここで、水分補給をしないという選択はないだろう。
「目に見えない不純物とかが混ざってませんように」
祈りながら口をつけ、一気に流し込んだ。
久しぶりの水分に喉が満たされていく感じがする、水自体にかすかな甘味がある様で、とても美味しく感じた。
「美味いな! 天然水は成分によって味が違うって言うけど、これはいい味だし、飲みやすい!」
もう一度すくい上げ、飲んだ。適量はどのくらいだろうか。現実ではゲームの様に水分の数値化なんてされてないし、どの程度とればいいかの感覚が、麻痺しがちな現代人は飲みすぎに注意する必要がある。
「ぷはっ、美味い! もっと飲みたいけど、あんまり飲んで後の行程に支障が出てもいけないしな。このくらいにしとくか。それにこの川を進む間は何時でも好きに飲める!」
名残惜しくはあった。まあ、とても喉が渇いていたからこその美味しさもあるのだろうし、『過ぎたるは猶及ばざるが如し』と言う。ほどほどにしておこう。
頭ではそう思っていても身体はまだ水分を欲していたようだ。無意識のうちにもう一度、水面に手を伸ばす――。その時、左胸のポケットから木の実が一個ころげ落ち、小さな水音を立てた。
「そうだった。木の実を洗っておかないとダメかな? ああ、でも洗って乾かしてる暇はないよな。乾かさずにポケットに戻したらずぶ濡れになってしまうし……。そうか、汚れた木の実を入れてたポケットに戻したら意味ないな、服の洗濯なんて出来ないし」
転げ落ちた木の実の表面を洗いながら、考える。ここで全部食べてもいいのかも知れない。
「森に入ってから二時間は経った気がするし、食べてしまうか」
そう決めたら、後は、一個ずつポケットから取り出し、洗って食べるだけだ。いちいち腰を曲げるのも負担なので、川岸に座りながら作業を続けた。
「うん、相変わらず、美味い木の実だ!」
全て食べ終えるのに数分とかからなかった。もう二度とこの味には巡り合えないかも知れないが、もっと美味しい物もこの世界にはあるだろう。サバイバルついでにそれを探す旅も悪くない。
「さてと、他にやっておくべきことは……」
顔を洗い、支障のなさそうな範囲で身体の汗も洗い流しておいた。服の下も汗まみれだが、めくって水をかけたりすれば、生地が水を吸っていつまでも乾かないだろう。今ここで、裸になって水浴びができるほど、大きな川でもないし、服の匂いとべたつきは我慢することにした。乾いた汗が体表を覆った状態は不潔だし何より不快だが、出来ることには限度がある。
「ある程度すっきりしたし、そろそろ出発するかな」
両腕を空に向け、思いきり伸びをした。様々な原因で靄がかかっていた精神が明瞭になり、解きほぐされていく。
「まだ探索は始まったばかりなのに、こんなに苦労するとはな……」
前途多難を予感させたが、道半ばで引き返す選択肢はない。今は、進むことが最優先だった。青空のもとで解放された精神は、再び活力を満たし、決意をより強固にするのだった――。