二つの関門
川を無事に渡り終え、さらに森の奥へと進んで行く。アイシャの家の周辺はかなり広い範囲が開けた土地になっていたが、ここは森の真っただ中だ。水を吸った靴が嫌な感触と音を立てているので、止まって水切りする。
「はあ、最初に一人で入った川を思い出すな……」
左手の木々の奥で草を揺らす音が聞こえたので目を向けてみると、鹿らしき動物が草を食んでいる様だった。
地面ふきんに見え隠れしていた大きな二本の角が、草をかき分ける音と共に持ち上がる。
「あれ? あの鹿、目を閉じてる……?」
不思議な事に、頭の側面についた目は閉じられていた。立ち止まってしばらく観察を続けていると……。
頭の正面の角の付け根あたりが動き始め――そこに、第三、四の目が現れこちらを見た!
「うええ!? 目が合ったって! アイシャ! あ、あの鹿! 目が四つあるし、正面にもついてるっ!」
腰を抜かしそうになりながら、慌てて少し前を歩いていた彼女の背中に声をかけるが、落ち着き払った声が返って来る。
「なに驚いてるの? 鹿はそれが普通だよぉ? 動物の観察もいいけど、遅れないようにちゃんとついて来てねっ」
それが普通なのかぁぁぁ!? こわ、どうみても怪物だわ、あれ……。
気を取り直して、前を向くと、周囲の草地が揺れて音が立っている。
何者かが潜んでいるのだろうか? だが、その姿はどれだけ待とうとも現れる様子はない。な、何か……。すっげぇ不気味なんだけど。こんなに明るい森の中なのにな。
足早にその場を通り過ぎるが、草は不気味に揺らめき続けていた。
それからしばらく進んだ辺りで、アイシャが立ち止まる。
奥に続く道の先からは、今までに聞いた事がない程さわがしい鳥の合唱が聞こえて来た。あまりの騒音に両耳を手で覆う。
アイシャは振り向かずに、こちらに言葉を投げた。
「着いた。第一の関門はここだよ……。この先はね、あの鳥たちのテリトリーで、通ると――」
そこで言葉は切られた。
通るとなんなんだ!? 道の先の木々から聞こえる音からは、何百羽もの鳥がひしめいているのが容易に想像できた。それが、何らかの脅威になると言う事か。
アイシャが進み出ると、一帯は一気に静まり返る。
「ふぅ。相変らずだねぇ。侵入者には容赦ないんだから――」
その言葉が終わらぬうちに、アイシャの姿がブレ、残像を描きながら高速に森を駆け抜ける。巻き起こった風で木々の枝葉が揺れて、音を立て、その上に潜んだ姿を一瞬だけ映した。雀よりは少し大きい、ムクドリくらいのサイズか?
「やっぱり鳥だな。あれの何が脅威なんだ? それにしても、すごい速さだな」
土煙が上がり、地面の表層が抉れ、飛び散っている中に何か白いモノが見えた気がした。
アイシャは一定の距離を進んだ所で止まり、こちらを振り向く。あそこまで行けば問題ないのか?
「カイトォ! ここだよっ! 一気にここまで走り抜けてぇ! じゃないと大変な事になるよっ!」
向こう側で手を振りながら彼女が大声で呼びかけて来た。やはり何かに警戒し、俺にも促している様だ。一体、何が?
彼女が何事もなく通り抜けたのが気に障ったのか、頭上の鳥たちは不満そうな声を上げ始めて、再び大合唱になる。一羽、一羽は小さくとも、集団になった鳴き声は周辺の空間を鳴動させている様だった。
「う、うるせえ! 耳がおかしくなりそうだ!」
大合唱の向こうからアイシャが何かを呼び掛けている様だが、騒音で上手く聞き取れない。
「落とし物が――」
聞き取れた言葉は確かにそう聞こえた。
落とし物……?
「とにかく、何か分からないけど、走り抜けるぞっ!」
身構えて全力で走り始める。
だが――。
彼女に比べて遅すぎたのか、鳥の群れはここぞとばかりに攻撃を開始した。
そう――。
フンの爆撃だ!
身体を捻って振り返ると、頭上から降り注ぐ白い軌跡が地面に絵の具を直接しぼり出した様な印を残していく。良く見ると古いフンの跡が無数にある。踏み込む前に気付くべきだったか。
「うええええ!? やばい、やばい!」
雨あられの様に、降り注ぐフンの爆弾が俺を襲う!
「うぎゃぁぁぁ!? く、くそ! 二、三発もらった! せっかく洗濯してもらった服がっ!」
まだ安全地帯への道程の半分も来ていない。頭上からは盛大な声が響き、戦意を高揚させている様だった。もはや狙うつもりもないのか。目の前にも嵐の様な爆撃が降り注ぐ。地面を踏みしめた靴の裏やズボンの裾も酷いことになっていそうだ。
「カ、カイトォ! 頑張ってぇ! もう少しだよっ!」
アイシャに励まされながら何とか走破したが、頭の上から肩、胸あたりまで奴らのフンまみになっていた。
「ぜぇ。はぁ。い、息が……。口で吸うと入りそうな気がして……!」
呼吸を整えながら、地球での記憶を掘り起こしていた。確か、あれは――、新しいゲームを買った帰りに公園で木陰のベンチに座って休憩してた時だ。家に帰るのが待ち切れなくて袋から取り出したゲームのパッケージを眺めていたら、そこに白い粘液状の物体が降って来た。まだ開封していなかったから良かったものの、もしそうでなかったら……。うおおお!? 許せんっ!
思い出と共に、怒りが沸き起こるが、どうにもならなかった。それよりも汚された場所の不快感が酷い。
「うええええ。頭にも乗ってるってぇぇぇ!? 目や口に入らなかったのが、唯一の救いか……。それにしてもくせぇぇぇ!」
上半身から酷い匂いが漂っている。鼻が曲がりそうだった。
アイシャはハンカチを取り出して頭を丁寧に拭ってくれたが、服に関しては多すぎて打つ手なしの様だ。今はこの服いがい代えがないのに、白いデコレーション付きになってしまった。いくらなんでも悪趣味な装飾すぎる。
「はぁ。酷い目に遭っちゃったね……。でも、ここら辺はあの子たちの縄張りで、通る人や動物には容赦しないんだ。これから人に会うのに凄いかっこだねぇ……。それに、匂いが……」
アイシャは俺に気を遣っているのか、控えめな様子で距離を取る。いや、それでも傷つくんだけどぉぉぉ!?
ううう、くそぉ! 振り返ると、凄惨な絨毯爆撃の跡が広がっていた。鳥たちは俺に盛大な爆撃をかまして気が晴れたのか、とても楽しそうに鳴き交わしている。それが余計に頭にきた。
「ま、まあデム爺は人の格好とか気にする人じゃないから……」
いや、でも、鳥のフンまみれで魔法を教えてくださいってのもなぁぁぁ!
前の川まで戻って洗う訳には行かないし、ほんとに詰んでるぞ。進んだ先にも、もう一つ川があったりしないのか? あ、最悪、アイシャに洗ってもらうとか? でも、それだと今度はずぶ濡れになるな……。いや、彼女の事だ。火の精霊の力とかで乾かしてくれるかも? ……いや、森の中で火は使ったらダメだよな、火事が起きたら大変だし。あ、そっか。川でもずぶ濡れになるのは一緒か。はぁ。
「ふぅ。それじゃ先に進もうか? 第二の関門もすぐに見えてくると思うけど、気を強く持ってね……?」
まだ何かあるのか!? 大変な道ってこういう意味だったのか……。絶望感を噛みしめながら彼女の後に続く。
森の中には、所々に開けた草原があり、そこでは兎や狐らしき愛らしい動物たちの姿が見えたが、もう心躍る光景ではなくなっていた。そう、全ては先ほどの鳥たちの許しがたい所業のためだ!
まあ、あの動物たちも良く見ると先ほどの鹿みたいな、秘密を抱えている可能性もあるが……、それだと可愛い所じゃなくなるな。
フンまみれでしばらく進むと森が切れ、小さな広場に出た。そこは花畑になっていて、舞い踊る蝶の姿が見える。温かな陽射しが幾らか気分を晴らしてくれたが、根本的な解決には至らない。
はは、これもフンまみれじゃなければ、心躍る光景だったのかもな……。前に見せてもらったアイシャの花園も、こういう場所から種を持ち帰っていたのかもしれない。
彼女は立ち止まり振り返った。
「ここの花畑、綺麗でしょ? 全部、野生の草花なんだけど、種類が偏ってなくて色んな花が共生してるんだよぉ。大精霊域の近く特有の現象なんだっ」
そうなのか、あの森からは大分とおくまで来たと思うけど、まだ近く判定でいいんだな。
ここで、アイシャは悲痛な面持ちになり、小声で話し始めた。
「カイト……。この先には……、春にしか見られないある現象が待ってるよ……。どうか、心を強く持ってね」
彼女の表情からはただ事ではないのが読み取れる。不吉な予感が膨張し胸を占めていく。
「さ、さっきのより、やばそうな気配しかねぇ……!」
花畑を抜けて再び森に入るが、彼女はまた立ち止まった。
「私が、カイトの手を引いて走り抜けられたらいいんだけど……。それだと怪我させちゃうかもしれないし……。カイト、ゴメンね?」
振り返った彼女の瞳は潤んでいた。そ、そんな目をされると余計に不安になる!
「でも! おんぶとか抱っことかそういうえっちなのはダメだよっ」
いや、俺は何も言ってないんだけど……。彼女は一人で想像して否定し、赤くなるが、気を取り直したのか、再び前を向く。
そして風の様に疾走し、その危険地帯を抜けて、振り向いた。
「カイトォ! 今度のは前みたいに速くないと思うから、良く見て躱せば当たらないかもしれないよぉ! 頑張ってぇ!」
何だ? 頭上の木々に目をやると――。
小さく蠢く影が幾つも見えた。
あれは――! け、毛虫かぁぁぁ!?
あれが頭や服の中に入った状態を想像してしまい、背筋が派手に震えあがる。
「や、やべぇ! 良く見ろって言われても! 落ちて来たら一瞬じゃ……!?」
地面に目を移すと、既に落下した虫たちがひしめいていた。生理的な嫌悪感から全身に鳥肌が立つ。
「つ、詰んでね? 上を向くと、これを踏みしめてしまって、下を向くと、落ちてくるのを躱せない……! い、いや、彼女の姿を思い出せ! 踏みつける分は無視するんだ!」
おもむろに走り出すが、先ほどの様な全力疾走はしない、枝を注視し、出来るだけ落下を予測しようと努める。
不味い――! 落ちてくるぞ! 急停止して、難を逃れる。
落ちた毛虫がスローモーションで見えて、鼻先を掠めた。
「うぐっ。ぞわぞわ来たぁ!」
再び走り出し、次が来る前に出来るだけ距離を稼ぐ、まだゴールへの三分の一にも至ってない!
「カイトォ! 危ないっ! 真上だよ!」
アイシャの言葉に素早く反応し、前方へ加速する! 振り向いた瞬間に、また落ちる毛虫が肩に乗りそうな位置を通ったのが見えた。
「うまい、上手い! その調子だよっ! あ、また真上に! ああ!? 前からも来るよ!」
アイシャのナビゲーションを信じて、進路を決めて行く。今度は斜め前に飛び込んだ――!
また毛虫が掠めそうな距離を落下する。良し! 今の所は上手く躱せてるな!
ここで、アイシャの絶叫が聞こえた。彼女がそんなに取り乱すなんて! どんな恐ろしい事態が……!?
「カイトォ! う、上ぇ! 一気に落ちてくるよっ! もう、周りを囲まれちゃってる――!」
うおおお!? 俺の身体よ――! 今こそ、その真の力を見せてくれぇぇぇ! ああ、乗った――。
「肩にぃぃぃ!? 頭もぉぉぉ!? うええええ!? ぎゃあああ!?」
数秒後、俺にたかっていた毛虫をアイシャがハンカチを巧みに使って、払いのけてくれた。う、うううう。も、もうお婿に行けないぃぃぃ……!
「はぁ、第二の関門、突破おつかれさまっ! ここを抜ければデム爺のお家はすぐだよっ!」
アイシャは歩き出したが、すぐにこちらを振り返りながら前を指さし、明るい声を上げる。
「ほらっ! もう見えて来たよっ! あれが――デム爺のお家だよっ!」
森の切れ目が現れ、その先の空間に家が見え始める。
丸太を組んだ家? ログハウスって奴か。
家の手前の広場には、土を盛り上げた人口の段差が作られ、そこにレンガの様な素材で出来た建造物が並んでいた。
「あれは……? 陶芸家って言ってたし窯かな?」
窯の周りにも大量の陶器が山積みにされていたが、失敗作なのか、放置されて朽ちかけている物もある様だ。
アイシャは簡素な屋根に覆われた入り口へと駆け寄り、ドアを叩いた。
「デム爺! 久しぶりだねっ! いないのぉ?」
家の中からは返答はなかったが、代わりに背後から声が聞こえた。
「なんだぁ? 騒々しい、何か用か……?」
振り向くと、一人の男が立っていた。アイシャはそちらに気付いて駆け寄る。
「冬いらいだねっ! 元気にしてたかなっ」
見た目は地球の人間でいう六十代の後半くらいに見えた。頭部は短い白髪で覆われていて、額から眉間には深い皺が刻まれ、険のある印象を強調していた。もちろんエルフ特有の長い耳もある。額と同じ様に、深い皺があり、房状の長い髭をたくわえた、口元が不機嫌そうに動き出す。それと同時に、長い眉毛がかぶさって目尻の垂れ下がっている、鋭い瞳が俺を見据えた。
「ふんっ。どうやら厄介ごとを持ちこんで来やがったな……?」
冷たい声が空気を震わす。
「もうっ。デム爺、相変わらずなんだからぁ。初対面の人に向かってそんな言い方はないよっ」
胴や下半身は簡素な作業着に覆われていたが、まくられ剥き出しになっていた、肩から手首にかけては、陶芸家とは思えない発達した筋肉が露わになっていて、血管が浮き出していた。そしてその肌も経年を思わせる、細かな皺を浮かべている。
想像とかなり違ったと言うか……。この態度、快く教えてくれるって雰囲気じゃないな。
本当にこの老人から硬化魔法を教わる事が出来るのだろうか? 前途多難を予感させたが、道がそこにしかないのなら、突き進むしかなかった――。




