彼女の答え
果てがなく、無限の地平線が続く世界に、黒光りする金床の様に平らな鉱石が剥き出しになっている、奇妙な岩塊が一つ。
そこからは何かを殴りつける音が響き続けていた。
金属音に混じり聞こえるのは、肉が潰れ、骨が砕ける音だろうか?
近づいてみれば凄惨なその現場には、得体のしれない大小さまざまな肉片が辺り一帯に飛び散り、まるでそれ自体が生き物であるかの様に、不気味に蠢いていた。
そこに立つ人影は、既に削げ落ち骨が剥き出しになっている右の拳を、休む事なく岩塊に叩きつけ、その度に鮮血と共に、肉片が辺りを禍々しい赤で染めて行く。
「止まらない! もう拳が完全に潰れているのに、勝手に身体が動くんだ……!」
動作を繰り返しながらか細い悲鳴を絞り出す。
やがて、岩塊の一部は人の肉体を模した形状へと変わり始める。
殴りつける音からも高い金属音が消え、肉と肉、骨と骨がぶつかり合い、お互いを潰しあうおぞましい響きに変わる。
一度なぐるたびに血しぶきが上がり、怨嗟の声が聞こえて来る。口を模した場所からは悲鳴だけでなく、内臓の様な赤いひだに覆われた物体がはみ出し、地面へと零れ落ち、それもまた生きている様に、不気味な蠢動を繰り返す。震えるたびに体液が流れ出し、辺りは血と膿が混ざり合った腐臭ただよう地獄と化していた。
いつの間に現れたのか。血の海には不快な虫たちが這いまわる。
「止まらない……!? もうこいつは死んでる!? 死んでるはずなのに! 何故とまらないんだ!? 痛い、痛い! もう殴りたくないんだ、潰れた肉も、骨も見たくない! 止めてくれ! 誰か俺を止めてくれ!!」
絶叫が響き、それに呼応する様に、人型の白い発光体が現れて両手で右手を包み込んだ。
「大丈夫。もう大丈夫だよ。もう止まっていいんだ、アナタは誰も殺していない。命を奪ったりしてないんだよ」
気が付けば、両の目からは涙がとめどなく溢れだしていた。
「俺は……。ただ帰りたかっただけなんだ。安らかな世界に――」
狂気に満ちた世界の闇が白光に払われていく――。
無に包まれ、世界が消える瞬間、誰かに強く抱きしめられている気がした。
※ ※ ※
目を開くと、見慣れない天井が映り込んだ。いや、もう自分は地球へは帰れないんだった。これは――前にみあげた、彼女の家の天井だ。
俺は――。戻って来られたのか。
気が付くと、左手が強く握られているのを感じ、そちらを向く。
「アイシャ……」
彼女は椅子に座りベッドに上体を預けて眠っている様だった。
「また……君の負担になってしまったな……」
どれくらい時間が経過したのだろうか? 右手の窓をみやると、明るい陽射しが複雑なレースのカーテンを通して室内を照らしていた。
「そうだ。右手……!」
横たわったまま右腕をかかげ、状態を確かめる。
驚くほど綺麗に傷は完治していて、大怪我した痕跡すら消し去られていた。
振り回す様に、動かして、指の開閉を繰り返しても、全く問題を感じない。
そして身体の何処にも痛みや不調は感じなかった。
「まただ。自分で覚えている範囲でも四肢は完全に動かなくなっていたはずだ。特に金属の鎧を直接なぐった、右の拳は完全に粉砕されていた。それが――完治したのか?」
初めてこの家で目を覚ました時には、何も違和感は覚えなかったが、二度目を経てみると、薄ら寒いモノを感じ、漠然とした不安が首をもたげる。
「俺の身体は……。一体どうなっているんだろうな……?」
隣でベッドに突っ伏していたアイシャに動きがあった。
「うぅん。カイト……。死なないで」
その言葉を受けて、握られていた左手に力を込める。
「大丈夫だよ。俺は戻ってこられた」
安心したのか、不安そうな寝言はそれ以上きこえなかった。
もどってこられた……か。その言葉の裏に今回は――と続き、隠された不安が否応なくちらつき始める。
「思えば、まだ何も分からないんだもんな。あの力の事もこの治癒能力も――。そして、この世界についても」
再びアイシャが動き出し、おもむろに上体を起こした。
「うぅん。カイト……。目が覚めたの……?」
意識がまだ覚醒していないのか、ぼんやりとした様子だったが、瞬く間にその瞳には涙が溢れ、俺を強く抱擁していた。
「カイト! 生きてる! 生きてるよぉ! 良かった! ほんとに良かったぁ!」
小さな嗚咽を漏らしながら言葉を紡いでいく。
「今回は、もうダメかもしれないって。不安で、不安で! 私……!」
抱きしめられた彼女の両肩に手を重ねる。
「心配かけて、ごめん……。でも、俺、戻ってこられたよ」
その言葉に彼女は何度も力強く頷いた。
「うんっ! うんっ……! そうだね! カイトの帰る場所は、もうこの家なんだから……! 他の場所になんて、絶対いっちゃダメなんだから!」
彼女が泣きやみ、落ち着くまでそのままの状態でいた。
やがて、彼女は身体を離し、顔を上げた。
「カイトに、聞いて欲しい話があるんだ。私とお母さんの事なんだけど……。いいかな?」
無言で肯定の頷きを返す。
彼女はベッドの隣の壁に掛けられていた肖像画へと向き直り、語り始めた。
「もう、この絵は見たかな? 描かれてる人、私にそっくりでしょ? でも、違うんだ……。ずっと昔に亡くなった、私のお母さんが生きてた時に、最後に描かれた絵なんだよ。とても幸せそうに笑ってるでしょ……?」
そう言って、彼女は肖像画へ手を伸ばし、愛おしそうに表面を撫でた。そして感慨ぶかそうに呟きを漏らす。はるか昔の事を回想する様に。
「もう、百九年も昔の事になるんだね……。お母さんはね、わけあって、都を追放されて、この家を建てて、ここで暮らし始めたんだ。そして……。その時には、私はお母さんのお腹の中にいたんだ……」
言葉はそこで止まった。彼女の母が追放された理由……、それが気になるが、自分から問いかけることはしない。
「お母さんがこの家に来てからしばらくして、私が生まれたんだ。『貴方が生まれた時、私いがいに祝福してくれる人は誰もいなかったわ。でも、それを負い目に感じたりしないでね? それは決して皆が貴方の幸せを望まなかったからじゃなく、少し、恥ずかしがってただけなのよ。だから……貴方は幸せに、大きくなる事だけ考えていればいいのよ。私はそれをいつも見守っているから』今でも一字一句を覚えてる。私が少し大きくなって、物心のつき始めた頃にね、村の子供たちと比べて自分の境遇に疑問を持った時、この椅子に座って、抱きしめて頭を撫でながらこう言ってくれたんだ。……まだ良く分からなかったけど、すごく嬉しくて、安心感に包まれたのを覚えてるよ」
椅子の縁を指でなぞる、母の面影を探す様に……、そして彼女は肖像画から目を離し、こちらを見た。
「ああ、えっとね。いきなり村って言われても分からないよね? 昔は、この辺りにね、小さな村があったんだ。もう家の跡とかも全然のこってないんだけど……」
彼女は再び肖像画へ向き直る。
「実際に、私が成長するのに不都合なんてなかった。村の大人たちの中には、冷たい人や意地悪な人も居たけどね。……子供って、大人の影響を受けて、子供同士のコミュニティでも些細な差別をしたりするでしょ? でも、不思議な事に、私に冷たい家の子も仲良くしてくれたんだ。お母さんは、それは貴方が精霊に愛されているからよって言ってたっけ」
言葉は途切れながら、少しずつ過去を思い出す様に、紡がれていく。
思い出を語る彼女の声はとても幸せそうだった。
「お母さんは、先々代の『精霊の巫女』、誰よりも精霊に愛された人だった」
精霊の巫女? 初めて聞く言葉だな。
「私には父親はいなかったけど、そんな事、気にならないくらい幸せだったよ。そしてお母さんに見守られながらすくすくと成長していった。……でも、でもね。私が十五歳になったある日、お母さんの身体に重大な病が巣食っている事が分かったんだ」
とても辛そうに、絞り出す様に、振り返っていた。
「お医者さまにも見てもらったけど、数千年に渡って蓄積され、発展して来た森のエルフの医療技術でもどうにもならないって。呪い師や魔法使いにも頼って、治してもらえないか方々を駆け回ったけど、みんな匙を投げた。……そして、しばらくして余命は半年だって宣告されたんだ」
彼女は俯き、両肩が震えていた。膝に押し付けられた手には雫が落ちる。
「すごく悲しくて、身体が引き裂かれるみたいで、ずっと泣いてたな……。でも、私に対していつも変わらない優しさで、接してくれるお母さんを見てある決意をしたんだ。お母さんが亡くなるまでに、他のエルフの一生分の幸せを私からプレゼントするんだ! って……。今おもえば、浅はかな考えだったよね。お母さんはきっと苦しんでて無理をしてたはずだもの」
彼女は顔を上げ、再び肖像画の母の顔を見上げた。
「それから半年ちかくの間、私は仲間たちと一緒に、森の色んな所に冒険に出た。そこで手に入れた珍しい物や、冒険譚を持ち帰って、お母さんにあげるために」
とても懐かしそうに目を細めながら振り返っている様だ。苦しくとも、輝かしい青春の日々だったのだろか?
「思えば、私のハンターとしての知識や技術の基礎は、あの時に形成されたんだろうね。……でもね。余命が残り少なくなっていき、後、一月くらいになった頃、村中におかしな噂が流れ始めたんだ……。お母さんの病気は――、『呪い』なんじゃないかって……。誰が発端なのかは分からなかった。多分、お母さんが都から追放された事を知ってる人が言い始めたんだろうね……。私には、根も葉もない作り話にしか思えなかったよ」
彼女は悔しそうに歯噛みした。
「でもね……。その噂の効果は覿面だった。私の仲間たちも、小さい頃からずっと一緒だった友達だったのに、みんないなくなっちゃった。彼らが自分の意思で私を裏切った訳じゃなくて、村の大人たちが、急に家や土地を捨てて出て行っちゃったんだ。親の決めた事だからまだ子供だった仲間たちは、ついていくしかなかったんだね」
かける言葉は見つからなかった。ただ聞いている事しか出来ない自分に無力感を覚える。
「そして、村からは誰もいなくなった。私たちを除いては……。私は、それでも一人で冒険を続けようとしたんだ。でもね……、前みたいに楽しくなんてなかった。もう、独りぼっちだったから……。そんな私の様子を見て、お母さんは、無理しなくていいって……。この数カ月の間に一生分を数えても余るくらいの幸せをもらったからって……。それからしばらくの間は、毎日ずっと一緒に居たんだ。でも、残りがわずかになった頃、お母さんはもうベッドから起き上がる事も出来なくなっていた」
言葉は詰まり、小さな嗚咽が聞こえ始める。
「私は、最後にお母さんが生きていた証を残したいって思って、都へ出かけて、有名な画家に無理を承知で頼み込んで、この肖像画を描いてもらったんだ。……絵を描くのって、色々な準備がいるし、とても時間がかかるんだね。あの時の私は何も知らなかったから。……今おもえば、お母さんは、苦痛に耐えながら無理して身体を起こしていたんだろうな。私の最後の願いを叶えるために……」
再び肖像画を見上げた彼女の瞳からは大粒の涙が零れた。
「この絵が完成した日、お母さんは、眠る様に息を引き取った。最後に私を抱きしめて、貴方のおかげで私はずっと幸せだったから、これからは貴方の幸せを探して生きてって伝えて」
瞳からはとめどなく、涙があふれ出す。
「私は、ずっと、幸せだったんだ。お母さんや、仲間たちがいれば、他に何もいらなかった。……お母さん、どうして死んじゃったの……?」
それからしばらくの間、涙は流れ続け。俺は、それをただ見守っていた。いや、見守る事しか出来なかった。
泣き止んだ彼女はこちらを向いた。その瞳には強い決意が表れている。
「カイトのその治癒能力。何も分かってないんでしょ? 次もあるかなんて保証されてない。だから、もう無茶はして欲しくないんだ……。私、私は、もう――、大切な人を失いたくないから……!」
その言葉に瞬く間に心は満たされ、熱い想いがこみ上げて来る。
大切――か。
自然と彼女の手を取っていた。自分の言葉を振り返ったアイシャは、赤くなる。
「わ、私、いきなり何いってるんだろ!? で、でも、この手は、拒絶じゃないって思っていいんだよね?」
無言で彼女の手を強く握りしめた。体温が伝わり、彼女が目を覚ます前に感じていた不安、心に立ち込める霧を晴らしていった。
今は……。言葉は返さない、約束を果たし、彼女に相応しい男になれたなら、その時は堂々と答えよう。
「カイト……。聞いてくれてありがと。……お母さんのお墓はね、この家の前の広場から振り返った時に見える。丘の上にあるんだ。いつか、一緒に行ってくれると嬉しいな」
無言で頷き、ある一つの考えが頭を満たしていた。
強くなるとは約束したが、今の様な漠然としたやり方でいいのか? 失いたくないのは、同じだ。なら! 俺も彼女を守れる力が欲しい……! さっきの話を聞いていても、彼女の周りには、目に見えない悪意が渦巻いている気がしてならない。今の俺に、そんな得体の知れない脅威から守り抜く力があるか?
だが――、あの力は危険だ。あの戦いでは多少は使いこなせていたが、少し力のかけ方を間違えただけで、大怪我をしてしまう。それに、感情に流されれば、制御なんて出来るはずもない、あの巨大な戦士を吹き飛ばした時の様に。
これ以上、彼女の負担になりたくない! 何か、何か方法が、この世界ならではの解決法が――。
そうか!
「魔法! 魔法だっ!」
思いついた言葉を自然と口に出していた。アイシャは驚いた様子で俺の目を見つめる。
「えっ? 急にどうしたの? カイト?」
自分の思い付きがとても良い物に思え、興奮を抑えきれず早口でまくしたてる。
「俺が強くなる方法だよっ! 霊体のマナさえあれば――、魔法は誰でも使えるんだろっ!? なら! もうそれしかない! あの危険な力を制御できる様な魔法を身に着けるんだっ! いや! 欲を言えば、頼らずに済む様な強さを!」
アイシャは、目を白黒させていたが、しばらくしてとても可笑しそうに口元を隠した。
「ふふっ。何だか分からないけど、カイトらしいねっ。でも、魔法って言っても色々あるよ? それに――、簡単に使える様にはならないモノもいっぱいあると思うんだ。具体的にはどんなのを使いたいのかな?」
それは――もう、決まっていた。それしかない!
期待に胸を膨らませながら、まだ見ぬ力へと想いをはせる。それが唯一の道ならば全力で駆け抜けよう――、二度と後悔しないために――。




