その剣、鋼の如し
しばらく床のされるがままとなっていたが、背後から再びドアの開く音が響く。アイシャが戻って来た様だ。彼女はこちらをからかう様に声をかけてきた。
「ふふぅん。いつまでそうしてるつもりかなぁ? 三弱少年!」
先ほどかけられた言葉の三つの弱が一つの単語になり、うつ伏せに倒れた情けない背中を嬲る。
残された力を振り絞る様に、喉の奥から震える声を絞り出し、懇願した。
「も、もう動けないんだ……。頼むからここに置いて行かないでくれ……」
その言葉を聞きつけたアイシャは、昼間の俺の言葉を思い出したのか、喜々としてそれを復唱してみせた。
「ふふぅん? カイト、確かに言ったよねぇ。お願いするならちゃんと敬語で言わないとって!」
うぐぐぐ……。こ、ここでそんな言葉を持ち出して来るとは……。何たるサディスト……! いや、これは――報い、なのか?
「わ、分かったから……。もう、声を出すのもしんどくて……。う、うぐぐ。お、お願いします。アイシャさん、動けないので助けて頂けませんか……?」
屈辱的ではあるが、必要なことならば、彼女の足だって舐めるぜ! 靴は御免だけどなあ! むしろ生足なら大歓迎さ! 指の隙間まで丹念に犬の様に舐めまわしてやるぜぇ! へっへっへ! つ、爪先から滴る彼女のエキスを舐めとって、左右で味の違いが表れていないかテイスティングしてやるぅぅぅ! そ、そして下腿に跡を残しながら這いまわり、大腿へと進出し、その最奥で決勝戦! 否ッ! 優勝するのだあぁぁぁ!
意識が朦朧として来たためか、妙なテンションになっていた。断っておくが、普段の俺は足を舐めて興奮したりはしなぁぃ! 生まれてこの方『豊かな実り』一筋だからな。先ほどの一件でエルフ耳という新しい地平を開きかけてしまったが。
そう、あれは何歳の頃だっただろうか。学校からの帰りに道端に落ちていた、あからさまに怪しい雰囲気を放つ、一冊の『書物』を手にしてしまった時から物語の幕が上がるのだ。
幼き日の俺は、その表紙に写るダイナミックかつ先鋭的で、この宇宙の全てを包み込んでしまう様な『真理』を目の当たりにしてしまったのだ。それは、全ての理性を嘲笑い、一撫でで灰塵に帰す、俺がそれまでに大人たちから教えられてきたあらゆるモノの価値を歪めてしまった。
救いを求める者を決して拒まない、まるで神仏の様な姿は、ゲームばかりが世界の全てであった幼き俺に、この世にはそれ以外にも無限の地平が広がっている事を教えてくれた。
そう、それは可能性と言う暴力が姿を成したモノ。全てを等しく受け入れる大洋の如き器。ヒトに無限そのものを希求する事の意味を指し示すモノ。
その出会いが――俺の世界を二つに分けた。
そして今、俺は出会ったのだッ! 飽くまでも想像の世界の産物でしかなかったそれが、現世にも存在しうる、その生き証人に――。
その瞬間から、俺の世界の全ては再構築され、世界の半分が失われた今、残る全ての可能性は『豊かな実り』へと結ばれ収束していくのだ。
そう、それが世界の選択だった――。
「ふふぅん。仕方ないなぁカイトはぁ。そこまで言うのなら、お姉さんが、助けてあげましょう」
背中越しにこちらへ近づいて来る足音が響いた。そして微かな衣擦れの音が鼓膜を揺さぶり、背中に何かが押し当てられる。
何だ――? 何か、温かいモノが流れ込んで来る?
「生命力じゃなくて体力を回復させる魔法だよ。そんなに強力な訳でもないけど、これで寝る準備が終わるまでは動き回れるんじゃないかな? あ、でもまたえっちな事を企んで暴れ回っても、もう助けてあげないからねぇ?」
再び衣擦れの音が鳴り、足音が遠ざかっていく。
身体に――。力が湧いて来た? 今すぐにでも立ち上がって、その辺りを走り回れそうなくらいの力を感じる。
「あれ? どうしたの? カイト。もう立てるはずだよ。早く寝る準備しよっ?」
彼女の言葉を受け、立ち上がろうと、両手に力を込めたその時――、別の場所から激しく脈打つ様な力の奔流を感じた。その力が床へと放出されているのか、徐々に半身が浮き上がって行く。雪の下から芽吹く春の植物の様だ。いや、アスファルトを突き破って伸びる木の根の如き、生命力の象徴は、あらゆる重圧を押しのけてその主張を強めていく。
何だ!? これは――!? ま、まるで鋼の様な硬度だッ――!!
「えっ!? どうなってるの!? カイト……。なんだか身体が浮き上がってきてない――!? おかしいなぁ。今の魔法にそんな効果ないはずなんだけど――」
彼女が再び近づいて来る気配を感じ、うつ伏せのまま慌てて制止する。
「ま、待ったぁ! それ以上、来ないでくれっ!」
足音は止まったが、彼女は疑問を感じているはず! このままではいつか白日の下に晒されてしまうだろう。この秘密は守らなければ! な、何とかして時間を稼ぐんだ――! そうだ! 多少、危険かも知れないが、彼女の興味を引きそうな地球から持ち込んだ言葉を使って――!
「さ、さっき。君を壁際に追い込んだ時、突然、部屋の明かりが消えて、その後にまたパっと点いただろ? あれってまるで電気みたいだよな? 一体どんな原理なんだ?」
頭に浮かぶ言葉を早口でぶつけていく。無視してこちらに近づいてくるかと思ったが、彼女は律儀に答えを返してくれた。
「デンキって……? ああ。雷の事かな? そんなに高度な魔法じゃないよぉ。あれはねぇ。ただの周囲を明るくする魔法だよっ」
くそぉ。まるで鎮まる気配がねぇ。いまだ半身は浮き上がったままだ。
「ひ、光の精霊魔法って適性がないと使えないって言ってなかったっけ?」
何とか質問を繰り返して足止めするんだ。
「そうだけど。あれは精霊魔法じゃないんだよっ。マナを持ってる人なら教われば誰でも使えちゃう様な、すっごく初歩的な魔法なのっ。明かりを点けるだけなんだけど、霊体のマナのキャパシティが低すぎると失敗しちゃうかなぁ? でも、ホントに簡単だからカイトも使えると思うよっ。……私の場合は、注ぎ込むマナの量が過剰で明るくしすぎちゃうんだけどね。えへへ。簡単だけど、光量を調節して完璧にコントロールするには長い修行が必要なんだって! この魔法の達人は日常生活から危険な場所の探索まで引く手あまただって話だよっ!」
適度に相槌を入れつつ、質問を継ぎ足しながら時間を稼ぐ。彼女が喋るのを嫌がる性質じゃなくて本当に良かった。
「さ、さっきさ。雷の魔法は高度だって言ってたけど、どうしてなんだ?」
まだ質問攻めを継続する。
「ああ、それはねぇ。雷の魔法はねぇ。まだ正体が良く分かってないんだ。風の精霊の力の延長で、一部のマナの性質を変異させられる術者だけが扱えるとか言われてるけど。実際には、未確認の雷の精霊が居て、その子の力を発現させてるんだって話もあってねぇ。本当の所は分からないんだ。確かなのは、雷魔法の使い手は大陸全土を探しても限られてるって部分だけかなぁ? ……えへへ。これも人から聞いたり、本で読んだ知識なんだけど」
まだまだぁ。
「せ、精霊と精霊素って何が違うんだ? さっきの明かりを点ける魔法は光の精霊素と関係してるのか?」
「してるよぉ。精霊素を励起させて精霊を顕現させてその力を借りるのが、精霊魔法でぇ、精霊素に働きかけていても、精霊の実体化は伴わないのが普通の魔法なんだよっ」
「さ、さっきから気になってたんだけど、そこの食卓に重ねて置いてある食器が匂い始めてるよな? ほっといてもいいのか?」
「ああ、うん。気付いてた……。明日、私が近くの川まで持っていって洗って来るからぁ。それまでは我慢してくれるかな?」
「か、川が近くにあるのか? それは初耳だ」
「うん。あるよぉ。家の前に背の高い草むらがあるでしょ? 昼間に二人で入ったよね? あそこを抜けてぇ、しばらく真っ直ぐ歩いたら見えてくるんだよっ。あんまり大きな川じゃないけど、水質は綺麗なんだ! ……川じたいはぁ、もう一つ大きなのがあるんだけどねぇ。そっちはグリームヴァルトと繋がってるからあんまり綺麗じゃなくてねぇ……。それに森の中心の大精霊域を通ってるから私でも行き辛いんだよ。川の汚染に精霊たちが怒ってるからぁ。まあ、精霊域に満ちてる浄化の力で、水質も良くなっちゃうから、都の人達も反省する様子がないんだよねぇ」
「そ、そこのシチューとかもさ、まだ残ってるだろ? ほっとくとこっちも傷まないかな?」
ここでアイシャはこちらへ歩き出した様だ。慌てて制止する。
「ま、待った! 通るのなら食卓の反対側にしてくれ!」
疑いの眼差しで見られているのだろうか? しばしの沈黙の後に、怪訝そうな声が聞こえて来る。
「ねえ? カイト、さっきからそこに寝転がったまま、全然うごかないよねぇ? 何してるの?」
何でもなぁい! 本ッ当に何でもないんだぁぁぁ! ナニを気にしてる訳でもないんだぁぁぁ!
「き、気にしないでくれ! それよりも鍋はどう対処するんだ!?」
彼女は俺への疑いを抱きつつも、食卓の反対側を通って、台所へ向かってくれた様だ。ブーツを履いた両脚が目の前に見えた。
「ふふぅん。クリオライトとぉ、エレスティアルを用意してぇ。お鍋の周りに置いて行きますっ! そして水の精霊にお願いして、一晩、保冷の魔法をかけ続けてもらえばなんとぉ! 明日も問題なく食べられるでしょう!」
頭上からは青色を帯びたまばゆい光が降り注いで来るが、この姿勢では直接みる事はかなわなかった。そ、そろそろ、鎮まってきたみたいだな。アイシャが話に付き合ってくれずに、いきなり側へ来てたら不味い事になっていた……。彼女の話好きに救われた。
目の前に見えていたブーツがその先端をこちらへ向ける。
「ふふぅん。カイトォ? 何を隠してるのか知らないけどぉ。もう質問タイムはおしまいだよっ! どうせえっちな事を隠してるんでしょっ! そんな秘密あばいてあげるんだからっ!」
彼女が駆け寄って来て、土間から板張りへと踏み込んだ瞬間、その振動で身体が震えた。側に立つとすぐさましゃがみ込み、俺の胴体を両手で掴み、無理矢理ひっくり返す。も、もっと優しくしてぇ……。
ここで彼女の不思議そうな顔が天井を背景に目に入る。
「あれっ? ……何にもないねぇ? てっきりお腹側に何かを隠してるんだと思ってたのに……。それに、さっき向こうから見た時は、身体が少しだけ浮き上がってなかった? おかしいなぁ」
くくくく。この戦いは俺の勝利の様だな。
そのまま何事もなかったかの様に、ごく自然に起き上がり、振り向きながら彼女に声をかける。
「寝る準備をするんだろ? 早く行こうぜ?」
アイシャは首を傾げながら、後ろについて来た。
寝室へのドアを開き覗き込む。中は昼間に侵入した時よりも暗くなっていたが、作業台に乗せられたランタンが辺りを照らしているため、その周囲では問題なく活動できそうだった。
ここで先ほどの彼女の言葉を思い出す。た、確か――。『一緒に寝る』とか言ってた……よ、な!?
頭に急激に血が上り、血管が沸き立ち始めるが、後ろから普段どおりの柔和な声が響く。
「はいっ! カイト。まだ入らないで、しばらくドアの外で待っててねぇ。イイ子だから……ね?」
んなあ!? い、良い子だってぇ!? 彼女はそんな俺の様子に目もくれず、寝室へ入っていき、振り返った。
「ふふぅん。い、ま、からぁ。私はここで着替えちゃうけどぉ、覗こうなんて思ってもムダだからねぇ?」
んなあ!? き、き、着替えるだとぉ!? 生着替え見るぅぅぅ! じっくり観察しながら実況しちゃうぅぅぅ! 興奮を抑えながらドアノブの辺りを無意識に確認する。鍵、付いてない! 良し!
「鍵なんて確認してもムダだよぉ? 魔法で施錠しちゃうからぁ。触れたら骨まで痺れるよぉ? ふふふふ、ふう」
その言葉を最後にドアは閉められた。ドアに触れようとした瞬間に、隙間から光が漏れ出し、ドア全体が薄い光の幕に包まれて行き、気が付けば青い光を放つドアの幻像が浮き出していた。その薄い膜の向こうに本物のドアが見えるが、触れる気にはなれなかった。
「ほ、骨まで痺れるって……。冗談じゃないんだろうな。恐ろしい!」
そのドアの幽霊の様な幻像を眺めながら手持ち無沙汰にしていると、突然ドアの光が消え開き、内側から彼女が姿を現した。
あれ? このパジャマって朝に俺が着てたやつ……な訳ないよな。同じタイプの予備が幾つもあるのか? そうだ! 下着だ。ブ、ブラは外したのか? ノ、ノーブラ? 先っぽが浮いちゃったりしてない!? 目、目を凝らせ朝食の奴の目の様に凝視するのだ。い、いや、そもそもこの世界ってブラジャーあんの?
「おまたせぇ。イイ子で待てて偉いよぉ。少年? ご褒美にナデナデしてあげちゃおうかなぁ?」
うぐぐ、やけに挑発的だな。くそぉ。ご褒美なら生着替えが良かったっ!
「もうドアに触れても大丈夫だよ。ほらっ、カイトも早くこっちの部屋に入って着替えて!」
えええ!? 自分は隠れて着替えたくせに俺には生着替えを要求するのか!? 先ほどの魔法の余波もあるかもしれない。また大変な事になったらどうするつもりなんだ!?
「ん? どうしたのぉ? カイト、心配しなくてもアナタの着替えもちゃんと用意してあるよっ」
その言葉に吸い寄せられる様に、寝室へと踏み込んでいた。背後でドアが閉じる乾いた音が響く。は、入ってしまった。俺用の着替えがまた彼女のパジャマなのか気になって自然と誘導されていた。
彼女はすぐにタンスの一段を開き、そこから薄緑色の簡素な上下の服を取り出し両手で広げて見せた。緩やかな身体を締め付けないラインはやはり昨日から朝にかけて俺の着ていた彼女のパジャマか……! に、匂いは!? 彼女の……! す、するわけねぇ!
あるとしたらお日様の匂いとかタンスの匂いだろ。
「ええと、じゃあさ、着替えるから向こうの部屋に行っててもらえるかな?」
彼女は心底、不思議そうな顔で宙を見つめ顎に指を当てた。
「どうして? ここでパパッと着替えちゃっていいよっ」
ぐわぁ!? やっぱり最初からそのつもりだったのか? お、俺にだけ生着替えさせるのか!?
人の羞恥心やプライドを何だと思ってるんだ?
「あ、そっか。カイトも恥ずかしいよね。分かったよ。お姉さんはあっちを向いててあげるからぁ。それでいいよね?」
よくねぇ!? き、着替える音とかを聞いて一人で楽しむつもりだなぁ!? どうする? ここで折れたら男が廃る!? 今日いちにちの戦いの記録を敗北で終えるのかぁぁぁ!?
どうすればいいのか。その答えを得られないまま着替えの時間は刻一刻と迫りくるのであった――。




