三途の川の渡し
こちらに向かう乗用車は、既に息もかかりそうなほど近くに来ている。幾ばくかの猶予もない。決断を求められていた。選択肢のない状態で解答を迫られる過酷さに息が詰まる。
「自由記述問題ってわけか! 上等だ!」
迫りくる乗用車に、確実な破滅をもたらす、死の象徴――、『鉄の棺桶』という不吉な言葉を連想した。
冗談じゃない。そこに入り、運ばれるのは『誰』かを考えれば、洒落になっていなかった。
「まだだ! まだ終わってない、何かできるはずだ」
混乱で何も考えられなくなりそうな中、何かが引っかかっている事に気付いた。
そうだ――、運転手!
乗用車が近づいたために、ライトは目くらましではなくなっていた。運転手の様子を確認できるだろう。それに何の意味があるかは分からないが、確かめずにはいられなかった。
まっすぐに運転手を見据えた。その姿を視野にとらえ、驚愕する。
「おっさん! じゃねえか! 「超」も何もない! 強いて言うなら「超」おっさんだ!」
夢も希望もなかった。
こちらを悲愴な表情で見つめる中年の男性は、頭が禿げ上がっており、憐みを誘う外見をしていた。
この男性が自分を轢いた後に、どのような扱いを受けるのかを考えたら、少しは留飲が下がるかも知れない。
「そんなわけねえ! 憐れなのはこっちだ!」
子々孫々、末代まで、いや、来世まで祟ってやる――。
もうどうしようもないのだろうか。何も答えは得られなかった。
その時、目覚めてから今まで、鳴りを潜めていたあるものが再び姿を現した。
胸の中心あたりから拡散される不快な響き――それは瞬く間に全身を巡り大気と溶け合っていく。心音が、すこしずつ速く大きくなっているようだった。
「なんだ? これは、何の意味もないんじゃなかったのか」
目を閉じて、全ての情報を遮断したかった、だが、それすらも許されない。目を背けることは許さないと言いたげに、心臓が激しい主張を始める――。
動かない身体に何度も念じた。
「頼む、何でもいいから動いてくれ!」
耳のすぐそば、脳の中心で爆音が響いた――。ひときわ大きな心音が告げたのは世界との別離のしらべだったのか、その瞬間――、呪縛がとけたかの様に、身体に力が戻り、時の流れは加速した。
「動く、動くぞ!」
すぐさま身を翻し、衝突を避けようと試みるが、全ては手遅れだった。
脳を震わせるような鈍い音とともに身体が宙を舞う。
骨まで響く強烈な衝撃と激痛で息も出来なかった。吹き飛ばされた視界は都会の夜空を捉えていた。夜の帳がおりても、消えることのない明かりによって、照らされた星のない空。
ああ、一度でいいから、本物の満天の星空ってやつを見てみたかった。ゲームでは何度も見たんだけどなあ。後悔……? 後悔は、ないけど、もう少しだけ他のことをやってみても良かったな――。
このまま意識は暗転し、全ては終わるのだろうかと思った――。
痛みが消えた? それに暗いけど、これはもうさっきの空じゃない。視覚は働いているし、意識もはっきりしている。ここは何処だ?
知らぬ間に三百六十度、全方位が真っ暗な空間を浮遊していた。
宇宙から地球に向かって、滝の様に墨をぶちまけた、そんな連想をさせる漆黒の闇だった。
「死後の世界? 真っ暗で、何も見えない。それにこの浮遊感は何だ?」
再び、無限の時の中にいる感覚にとらわれた。ここに来てから一秒しか経っていない気もするし、既に永遠に近い時間を過ごした気もした。時間の感覚さえも薄れていく。目の前にあるのが闇なのかも定かではなくなる。四肢の感覚もなく、身体は溶けてひとつの塊となったようだった。
ただ浮遊感があるだけ、他には何も感じることが出来なくなっていた。
目を動かそうと意識した瞬間に、からっぽだった眼窩に再び眼球が現れた様な奇妙な感覚があった。
すべてが曖昧な空間だが、意識した部分だけは明瞭になるのかも知れない。
精神は疲弊していた。いや、魂が磨り減ったのだろうか?
「疲れたな……」
もう何も考えたくなかった。今は、瞼も動かせるはずだ。少しだけ休もう。
祈るように目を閉じた。
目覚めた時には、全てが元通りになっていればいいな。そう願いながら、意識は闇の中へ還っていった――。
※ ※ ※
気がつくと、いつの間にか眼前の光景が変わっていた。
「まぶしい! 何だ?」
今まで暗所にいたせいか、暗順応していた目には光の刺激が強すぎた。反射的に目を細め、右手で光を遮る。
真っ暗だと思っていたら、今度はこの明るさ、目だけではなく、思考も置いてけぼりだ。何らかの幻覚を見ているのだろうかと疑ってしまう。強烈なまぶしさに耐えながら、見た景色はどうやら空の様だった。
そうか、目を閉じていた間に、何かが起きたのか。
まぶしさに慣れて来たら、今度はあることに気付いた。
「背中が何かに押し当てられている? いや、俺は倒れているのか?」
とすると背後にあるのは地面か? 真っ暗な空間で浮遊している様な感覚が長く続いたために、脳は情報の整理が出来ず、混乱をきたしていた。自分がどんな状態にあるのか、直ぐには飲み込めない。
いや、待てよ? 背中が地面の上にあるという事は――、不自然だ。背中には何かがあったはずだ。何か自分にとって、とても大切なものが――、宝と呼んでも差し支えのない――!
「そうか!」
両肘と腹筋に力をいれ、勢いよく上体を起こした。
「背負ってたリュックは? なくなってるのか! どうしてだ?」
慌てて、両手で背中を探ってみるが、肩が攣りそうになっただけで、何の収穫もなかった。いや、想定される物は失われたことが分かった。
周囲を落ち着きなく見まわし、宝物の入ったリュックサックを探すが、何処にも見当たらない。少なくとも、この辺りには落ちていないだろう。
「他になくなった物は?」
まず最初に、左胸のポケットに手を当てた――。
ない! 愛読書だった『秘法の整理学』がない! その場で叫びだしたい衝動に駆られる。ゲーム以外で初めて、人生のパートナーとなれる本に出会ったと思ったのに!
「他にも! 他にも何かなくなってるのか!」
ズボンのポケットも探ってみる。家の鍵、財布、携帯、ハンカチ、ティッシュ、手帳、すべて失われていた。どうなっているのか? 衣服は着用しているが、他の持ち物は全てない。装備していた物だけが残っているということか?
「何てこった!」
右手で顔を覆い、大袈裟に、天を仰ぐ。指の隙間から青空が見えた。
いや、過剰な表現ではないな、これは自分がここに来る前の「つながり」が失われたのに等しいのだ。落胆を隠せるはずもない、今すぐにこの場に伏せて泣き出したい気分だった。だが、状況はそんな気持ちも汲んではくれない。
「そもそもここは何処だ?」
この段階になって、初めて疑問を抱き、同時に計り知れない不安を感じた。いったい自分はどうなってしまったのか?
「あの世」と「この世」とは、意識が途切れることもなく、こんなにもシームレスにつながっているものなのか?
いや、あの時、目を閉じた後の記憶はなかった。しばらく意識を失っていたのかも知れない。
そういえば、ここに来る前に車に撥ねられたはずだが、身体の何処にも痛みは感じず、服もめくって確認してみたが、目につく怪我らしきものもなかった。あの時は確かに激痛も衝撃も感じたはずだ、大量の内出血が起きていてもおかしくない。
「天国か、地獄か、それとも三途の川の手前とか?」
自分で言っていて、可笑しくなってくる。そんな単純な話じゃないんだろうな。
まあ、持ち物が全てなくなっている事、怪我らしきものが一切、残っていないことを考えれば、「あの世」、でも不思議ではない。
「とにかくここが何処か確認しないとダメだな」
力なく緩慢に立ち上がり、身体を左右に捻り、辺り一帯についての情報の取得に努める。
前方、百八十度の範囲は全て鬱蒼とした木々に覆われていた。自分の居る場所だけが、空き地の様になっているのか?
背後を振り返り、そちら側も見まわしてみる。
変わらない、目に入るのは、青々とした木々ばかりだ。他に目立つものは何もない様だ。
いや、視線を少し落としてみると、とてつもなく巨大な倒木の残骸らしきものが転がっていた。朽ちかけた姿は時の流れを想起させるが、具体的な経過時間は分かるはずもなかった。
「この木が倒れたせいで、ここだけが広々とした空き地の様になってるのか」
その倒木のそばへ引き寄せられるように、弱々しくおぼつかない足取りで歩き出していた。
歩いてみると良く分かるが、小さな木が幾つも芽吹いていた。この巨大な木の倒壊によって、日光を遮るものがなくなり、この場に撒かれた種子が成長の糧を手にしたのだろう。
成長具合も様々で、またいで通らなければいけないほど大きいものもあった。
成長の途上にある、それらの木々を見つめていると、ふと小さな生き物に対する愛着の様なものを感じる。
頑張って、大きくなれよ――、そんな感情だ。
それはとても不自然なものにも感じられた。
「ははっ、自分がこんなありさまなのに、随分と余裕があるもんだよな」
もう一度、空を見上げた。まぶしさに目を細める。
これだけ日光が注いでいれば、光合成には問題ないんだろうな。それに、雨でも降りだせば、水分の供給も十分そうだ。
植物の成長に必要なものは何か? そう考えたところで、思いつく。
「そういえば、ここでも普通に呼吸は出来てるな。俺のいた現実とつながっているのか? 地球なのか? 似たような構造を持つ別の世界なのか?」
できれば、最後の選択肢は拒絶したかった。「非現実的」すぎる。さっきまで死にかけていたと思ったら、『異世界』にいた。そんな笑えない話もない。
「死んだと思ったら、訳の分からない場所に放り出されるなんて、そんな世界、バランス調整を放棄してるぜ」
世界自体が違うかも知れないと、心の中で突っ込みを入れた。
『異世界』という、選択肢を念頭に置くと、あたりまえの様に太陽らしきものが空に昇っている事も、自然と呼吸が出来ていることも、この空き地の周りが森で覆われていることも、地面の様子が変わらない姿なのも、周囲にある全てが不思議に思えてくる。
「同じ宇宙の別の星とかだったら、環境の条件自体が全く別物になってくるはずだよなあ。降り立った途端に息が出来なくて死亡とか、その辺に生息してる微生物に抵抗力がなくて病気になるとか、放射線を浴びまくって細胞が破壊されるとか、そういうことが普通に起きそうなもんだ。……でも、ここでは何も起きない」
まあ、専門家でもないし、何が分かる訳でもないが、もしかすると、後々なんらかの体調不良に見舞われて酷い目に会うかも知れない。あくまで可能性の話だが。
あまり考えたくない事柄ではあった。
そもそもどれくらいの間、あそこに倒れていたのかも分からないんだったな。数分かも知れないし、一日くらい経ってる可能性もあるのか?
「普通に呼吸ができるのは、大気の組成が地球と似ているってことか。太陽も一見すると普通の太陽にしか見えない」
もちろん地球上でも太陽を直視した事などなかった。印象の話である。一瞥しただけで、網膜に強烈で煌々とした残像を長時間、映し出す。そんな体験をしたことのない者は、そうそういないだろう。
「後は――、木か? 木も専門家じゃないし、見た目だけじゃ何も分からないな。でも、普通に木と認識してるし、特に気になる、変わった所がある訳じゃないっぽいな」
ここで、あることに気付いた。
「音がしないな、正確には声だろうか?」
意識を聴覚に集中させ、周辺の音を拾い集める――。
聞こえるのは、ときおり吹く風で木々の葉が擦れ合う音くらいだった。地球環境でなら、こんな場所では鳥たちが盛んに鳴き交わす声が、反響する鐘の音のように聞こえてくるものだ。
周囲に動物の姿もない。
「まあ、警戒心の強い動物は、俺がいるだけで出てこないだろうけど、鳥の声もしないのは妙だよな? 鳥がいない世界なのか?」
世界――と、口にした所で思い出す。地球ではあり得ないことが起きているのなら、それ自体が、ここが『異世界』であると示しているのではないか?
「まあ、まだ別の星の可能性もなくなった訳じゃないけど、地球ではない可能性は高まったな……」
できれば地球であって欲しかった。だが、その可能性は新たな事実と向き合う度に低くなっていく様だ。
「そうだ、温度! 地球――、俺のいた日本は夏だった。ここはどうだろう?」
服装はまったく同じだが、あのうだるような暑さは感じなかった。もし気温が同じだったら、来た瞬間に暑さに呻いていただろう。
かと言って、涼しさや寒さも感じなかった。夏服でいても丁度いいくらいの温度なのか。
「春、なのかな?」
ここに季節があるかは知らないが、温感は記憶を頼りにそう告げていた。
「生物の生育に必要な条件は揃っているってことか? もちろん人間にも……」
まだだ、『異世界』であるという、決定的な証拠はまだない。
「決定的な証拠ってなんだ? 魔法とか異種族とかか?」
俯きながら、顎に指を添え、そう呟いた時、視界の端に奇妙な物が映った。
顔を上げ、その方角をみやった。その瞬間に――、目を丸くし、硬直している自分がいた。
「なんだ? あれは?」
森が少し見切れ、空がより広く見えている場所にそれはあった。
「月がふたつある?」
重なる大気の帳に溶け合ったそれは、地球上で見るよりははるかに大きく、確かに双子の様だった。
目にした瞬間に悟った。ここは地球ではなく、成り立ち自体がまったく異なる世界なのだと。頭を抱えてうずくまりたくなる衝動に駆られたが、そんなことで事実は何も変わらない。両手がかすかに、小刻みに震えていた。
これは――、絶望か? 違うよな? 多分そうじゃない。
心の叫びと向き合わずに頭を振り、芽生えようとする雑念を振りほどいていく。今は、迷っている時ではないのだ。
「他の星の可能性が消えた訳じゃないけど、とりあえずここを『異世界』と仮定してみてもいいかも知れないな……」
避けたかった可能性だが、もう地球ではないと確信したのなら、別の星でも『異世界』でも大した違いはないのかも知れない。
「俺は、どうすればいいんだろうな――」
元の世界へ帰る方法を探し求めるのか、それともこの新たな世界を終の住処とするのか? どちらにせよ、この世界で生きていく術を見つけ出せなければ、話は始まらない様だった――。