十万分の一の適合者
シスの分身を跳ねのけた巨大な水柱は、部屋の空気をまるで水中のように変えたのか、音が籠ったように変じ、呼吸は出来るが、吐き出す息は泡を伴い、上方へと向かう、まるでそちらが水面であるかのように。
「お! おい! なんなんだ!? なんなんだよ、あいつ――!?」
「隣で発した声すら、まともに聞こえやしない!」
「あれって、まさか――さっきは不完全だったアレが、真の力を現したんじゃ!?」
研究者たちが、何かを叫んでいるようだが、口元や表情の激しい動きは読み取れても、声は全く聞こえない。そして、彼らの口元からも泡が溢れ、上方へと浮かび上がって行く。
「遂に――遂に、完成したか! この時を、心待ちにしてござった!」
弾き飛ばされた分身の群れの中で、本体らしきひとりが水柱を見上げ、輝くような瞳を向ける。だが、一瞬あとには、顔を俯けて、上体が激しい痙攣を示す。
笑って――いる?
「拙者は、自らの好奇心のため、ただそのためだけに、他の全てを犠牲にし申した。……本来ならば、地獄へ落ちるような、許されぬ行為でござろう。しかしてこの業を背負いつつも、まだ終わる訳には行き申さぬ!」
まただ。何かを呟いているようだが、それも口から吐き出される泡のみで知らされ、声は一切とどく事はない。
「とはいえ、この場は拙者が治めねば。本体の根は深く、この旧都の地下に張り巡らされた。いま伸びあがったこれを払えば、こちらの脅威度を修正し、その時こそ真の姿を現すはず――!」
周囲で倒れ込んでいた制御を失ったと見える分身たちが、突然ブレ、本体らしきひとりへと重なるように集まって行く。
そして――。
「コオオオォォォ――!!」
激しく視界が揺らめき、宙に浮いていた身体の制御を忘れ、床へと落下していく。その最中に、集まった分身たちが爆発するのが見えた。
「全ての分身を集め、それを爆破した!?」
水柱は根元を吹き飛ばされ、上部が崩れ落ちてくるが、だるま落としのように次々と続く爆発で掻き消される。その光景を呆然と見据えながら、床へ着地し、足元で響いた音が、大気中のそれと同じである事に気付いた。
「先ほどまでの水中へ没したような、音の変化が、戻って――」
シスは吹き飛んだ水柱の残骸を見つめ、長い息を吐いた。
「はああああ。ひとまず落着、にござるな。さて、後は――」
こちらへ視線が向き、柔弱な笑みを示す。
「今のは、一体なにものですかな? あれが、貴方が命を賭して待ち焦がれた結果であると……?」
その問いに、弱々しい答えが返る。
「亜神ステュクス。拙者がそう呼んで、長らく観察していた対象でござるよ」
亜神……? その聞き慣れない言葉に、あのボンドの語った、邪神創造計画が過った。
何らかの関係が……?
「それは、何者です? この旧都で何が……?」
眼鏡を外し、取り出した手ぬぐいで拭き始める。
「答えなさい! 返答いかんによっては、この場で貴方の責任を問う事になる!」
こちらの威圧に動じる様子も見せず、ただ眼鏡を拭う。
「はあ、期待してござるよ。お主は、間違いなくヒトを越えた者、恐らくはここの職員の誰をも凌ぐ、ね。だからこそ、まみえた時から、この時を待ってござった」
「そんな答えを求めてはいない!」
走り出し、詰め寄ろうとした瞬間に、突如として視界が不明瞭になり、よろめきながら、足を踏み出し、かろうじて体勢を保つ。
「ぬう!? 視界が!? これは――」
僅かに先もはっきりと見えない視界の中で、複数の足音が、駆けるのを聞いた。
逃げ出そうとしている!?
「待ちなさい!」
「はは! 期待に沿えず申し訳ござらぬ。この結果は、確かに拙者の望んだもの、されども、まだここで潰える訳には行かず! 故に暗殺騎士デトマソ殿! お主を生贄とさせてもらおう! 答えずとも分かってござるよ。例え拙者を逃そうとも、お主は奥へ進む」
「これは――いわば予言にも等しきもの」
足音はどんどん遠ざかり、ほぼ聞こえなくなったが、不明瞭な視界のせいで、何もできずに見送ってしまった。
「くッ! この目の状態は――」
一体いつまで続くのか、そう思ったのも束の間、周囲が再び静寂に包まれた頃、視界は元に戻っていた。
「まさか、視力を、入れ替えたのか……?」
誰もいなくなった広い部屋を見渡し、奥へ続く通路を見つけ、歩み出す。
「皆、逃げおおせたようですな。全ての痕跡を消せと命じられ、二度も逃すとは……」
明らかな失態だ。
「しかし、予言とは笑止。私の使命も織り込み済みで、こうせざるを得ない事を把握していただけに過ぎませんな。……何処か、狐につままれたような、腹立たしくもあり、同時に不思議な高揚すら覚える……」
この旧都に入ってからの度重なる戦。その相手の中で、不測の事態を挟んだとはいえ、シスだけが決着を見ず、離脱した。
その事実が、思考を武器として生き続けた自分を、知性で上回るかもしれない者を見つけた感覚が、畏れと喜びの矛盾した二面性を心の内に示していた。
「暴力ではなく、ただ目的のために命を賭する。そんな者が、魔人信奉者の中にいたとは……」
自らの内に芽生え始めていた、高揚に蓋をし、その感情を押し流す。その裏に、共感が潜んでいる気がして、自身が生んだその感覚を、信念で塗りこめて白に還元する。
「いえ、こんな感情、まやかしに過ぎません。彼らは明確に、滅ぼすべき敵でしかない。……ここには、それを証明するものが溢れている……」
奥の通路を進むにつれて、まばらだった死体が、急激に数を増していく。それらの全てが透明の粘液をかぶり、流れ出した血液もそれと混じり、取り込まれたように、内側を赤黒く染めていた。
「この粘液、分厚い隔壁を抜けた時に見つけたものと同じ匂いが……」
海の匂い。錯覚にすら思えるその感覚は、嗅覚で知覚したはずが、それを越えて、記憶じたいに働きかけているように感じた。
ひとつの死体に近づき、しゃがみ込んで観察する。
「やはり、全く同一の匂いが、しかし、頭にこびりついて離れない、この匂いは、まるで嗅覚を通さず、私の記憶じたいに刷り込まれた偽りの情報のように思える」
原初の海の記憶。混沌とした命も、それ以外も、全て混ぜ合わせて、異なる色どうしを無理やり合わせて、不出来な粘性の坩堝と化す。そんな、知るはずもない、不浄な光景が頭の中で膨れ上がって行く。
「何なのでしょうな……。こんな感覚は、これまでの長い生の中でも、一度たりともなかったものです」
まるで――、まるで、最初からそれを知っていたかのように、ありもしない海の記憶が、蘇ったと錯覚させられる。
それについて考える程に、眩暈のような現象が酷くなり、額を抑え、俯く。
「く……。ただの幻かと思ったが、考え続けると、耐え難い不快感を生む」
ふらつきながら立ち上がり、そのまま奥の暗がりへと進んでいくと、おびただしい職員らしき死体に、入口を塞がれた小さな扉が隙間から覗いた。
「これは――、研究区画の、実験棟か何かでしょうか……? しかし、不可解な、半開きの扉を塞ぐこの死体の山は……」
その時、目の前の死体の山がにわかに動き、向こう側から生じた何かで吹き飛び、粘液に包まれた血が舞う。それを小刻みな移動で躱し、解放された扉の向こうへ視線を送った時、そちらから声がした。
「よう。随分と、遅かったじゃねえか。……ふあぁ~あ。あんまり暇なもんで、寝ちまう所だった」
この声、つい最近、聞いた……。確か……。
「貴方は、あの旧都の入口ふきんの酒場に現れた」
「ああ、覚えててくれて嬉しいよ。なんてな、本気にするなよ。くく、あの場じゃあ、アンタがここまで来られるとは、思いもよらなかった。運がいいのか、それとも……」
相も変わらず険のあるガラついた声は、聞いているだけで、鼓膜を通して体内までが腐敗するような不快感を生む。
「ま~あ、そいつぁ、今から確かめる」
「ぬ――!?」
面妖な、部屋の入口に立っていたはず、何故――私は室内に入り込んでいる……!?
「いいねえ、その面。どんな強者も、み~んな、そんな呆けた間抜け面さらして、硬直すんのさ。ただな、あまりにも何度も見過ぎて、こっちぁ辟易してんだ」
部屋の奥で、スライムのような粘性の塊の上に腰掛けていた男は、口の端を吊り上げ、歪んだ笑みを浮かべる。
「ちっとばかり、新鮮な反応が見てえよなあ? な、アンタも、そう思うだろ?」
「むう!?」
まただ! 一瞬で場所が変わった!?
先ほどまで、数歩分の距離にいた男が、眼前に座していた。
「ハッ!」
座り込んでいた男は、そのままの姿勢で、右拳を突き出した。
「舐められたものですな! そんな姿勢で、打撃が通るとでも――」
「ぬ――ぬぐ」
気が付けば、男の右拳は、腹に食い込み、鈍痛を引き起こす。
「あ~あ。通っちまったなあ、さっきの威勢はどうした? これは、小手調べだ、もし、今のが本気だったら、アンタ、どうなってたよ?」
にわかに背中に鈍痛と、衝撃を覚え、周囲に素早く目を向ける。
「一体、何が!? 壁際に何時、移動したのだ!?」
背中の痛みを堪え、男を見据える。
「はあ。あんま期待できそうにねえか。歯ごたえのある奴とやり合いたかったが……」
男は立ち上がり、唐突に語り始める。
「俺の名は、ヴィズゴ。元は死体だったんだがよ。故あって、ここの守衛の真似事やらせてもらってら。ん~。正式にぁ、保安担当員、とか言うんだったか。まあ、どっちでもいいさ。面白けりゃあな」
ヴィズゴ、とは、あの研究者たちの残した名か。性格の悪さで、風切りも凌ぐと……。しかし、元は死体だった……?
その言葉に、この実験所に入った時の、男の言葉が蘇った。
確か、死体に精霊を憑依させる研究と――、そして、つい最近に成功例が出た。
「俺の命は、俺ひとりのモンじゃねえ、この身体にぁ、十万人にも及ぶ、実験の失敗作どもの、儚く脆い魂が宿ってんのさ」
自らの心臓の位置を指先で示し、信じがたい数字を口にする。
「十万人だと……!」
突然、大声を張り上げ、堪えきれない様子で笑い出す。
「ハ――ハハハ! なんてな! それがどうしたってんだよ。なあ? そんな、虫けらどもの命に、どんな重みがある!? 俺だけだ、俺だけがいれば、それで全て済む! 必要な犠牲でも何でもねえよなぁ? 失敗作どもは、はなからそうなる運命だったってだけだ」
この男が一言、言葉を紡ぐごとに、その傲慢さが、度し難い悪辣さが、浮き彫りになって行く。
「それはただの自己紹介ですかな? それとも、遺言ととっても?」
「ハ! 言うじゃねえか! だったらやろうぜ! それだけが、この場で許された唯一の言葉だろう!?」
大きく開かれた口が、息を吐き出し、再び閉じようとする、その過程を追い、身構えた。
つもりだった――。
「ぬう!? またしても!?」
狭い部屋の中で、向き合い、今にも戦が始まろうとしていた。一歩ふみこめば、お互いに拳が届く間合いで。
「それが――何故ッ!?」
先の相手との距離は、およそ一リーブと五クラウン。その詰まった間合いが、一瞬で十リーブはある、大きな開きとなる。そして、周囲の狭かった室内は、広大な空間となっていた。
空間の広さ自体を自由に変えられるのか!?
「困惑してんな、おい! もっと新鮮なリアクション頼むわ。見飽きて鼻でもほじりたくなっちまう」
そう言って、指先を鼻の前でくねらせたが、間髪入れず弄ぶ手が、握りしめられ、そのまま何もない空間に突き出された。
ように見えた。少なくとも、こちらの視界には確かにそう映った。
「ぬぐ!?」
自らの視覚を疑いたくなる、腹部からの痛みと衝撃に息が詰まる。
「あ~あ。また一発はいっちまった。おい、爺さん。ボケてんのかぁ? それともまだ、マジになってねえか?」
先ほどと同じ部位に、より深く拳が食い込み、胸郭が軋む音を聞いた。
「ふん!」
痛みも無視し、右拳をヴィズゴの顔を目がけ突き出すが、それは左手で内から逸らされ、難なく受け流される。
「お! さっきより、幾らか痛みが増したはずだが、そいつを無視して攻撃に移るとぁ、いいねえ、気概だけは一流だ」
今の距離で打ち込んで、容易く逸らすとは、奇妙な能力だけではなく、戦士としても一流のようだ。
だが――!
「聞き捨てなりませんな! 人々の命を弄び、その屍の上に立ち、自らを神であるかのように――」
「ほう? その思い上がりを、不遜を、アンタが正してくれんのか?」
逸らされた拳を引き戻し、左の突きを放とうと力を込めた。
「ぬう!?」
しかし、また不可解な力で距離が開き、ヴィズゴの姿が豆粒のように小さくなった。
「それが出来る奴を、待ってた。そう言えば、嘘になるか? いいや、これは確かに俺が望んだ事だ」
戦の最中に、自問自答の余裕を見せるとは……!
「そうだ。アンタが、それをやってくれよ。その手で」
「出来るもんならなァッ!!」
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