精霊と狩人
いつまでもそうしていたかったが、いい加減に恥ずかしさが限界に達しそうだったので、アイシャにもう一度こえをかけ、起き上がり、柔らかな草地に二人でならんで座る。
隣を見るとアイシャも冷静さを取り戻してきた様だ。目が合うと恥ずかしそうに顔を伏せて、黙り込んでしまった。
俺の方はとっくに昇天しそうな状態だったってのに、ほんとにそういうところがずるい。いつも感情ゆたかで、落ち着きが感じられないが、何処かに余裕が漂っているのだ。百年も生きていれば、自然とそうなるのだろうか? 想像も出来ない事柄だった。
身体へのダメージを確認してみたが、相変わらず左顎の腫れは引いておらず、動かすだけで痛みがあるが、普通に話す分には問題なさそうだった。先ほどまではあまり意識もしていなかったが、口の中もわずかに切っている様で、微かに血の味がした。他には、首筋、打ち付けた右膝と背中、腰あたりに痛みがあったが、こちらは行動に支障をきたす程ではない様だ。
こちらは汗まみれになっていたが、アイシャの方は汗ひとつかいていない。この状態で密着していたと思うと、彼女の美しい肌や髪を自分の汗が汚してしまった気がして、何とも言えない気分になる。
むむむ。これは不味い。汗を『体液』と置き換えると瞬く間に邪な妄想が展開されていく……。「もう、私の身体中、カイトのでヌルヌルだよぉ。責任……。取ってくれるよね?」むほぉぉぉ! 興奮で思わず声が出そうになるのを堪えた……。ははは、相変わらずだな、俺の想像力も。
まあ、こっぴどくやられたと表現してもいいぐらいだよな。今回の事で得た物も多いんだけど。
アイシャは強いのだろうと想像はしていたが、正直に言って、予想をはるかに上回る実力だった。
地球人じゃ考えられない身体能力だよな。この戦いの経験値で、もしかして俺も強くなっちゃったかな? とか思うけど、たぶん錯覚だろうなあ。
沈黙に耐えるのにも特殊なスキルを必要とするのだろう。早々に我慢できなくなり始めたため、挙動不審ぎみに辺りを見回す。
もともと外の探索をするつもりだったんだし、別に挙動不審って事もないかな。
アイシャの家を飛び出した時は、逃げるのに必死で、周辺の環境にもほとんど目がいっていなかったが、落ち着いて見れば、様々な物が目に入ってくる。
家の前には丈の短い草が密集して生えた地形が広がっており、土の色が見える部分はほぼ無く、所々には小さな色とりどりの花が顔をのぞかせていた。
家の左隣には菜園が見える。
あそこで何か野菜を育ててるのか? その中の一つ、他とは明らかにスケールの違う巨大な葉野菜が目に止まる。
何だあれ? あれだけ妙に大きくないか? 後で近づいて見てみるか……。
家の右隣には地下への入り口となっているのか? 地面に斜めに突き出した石と木製の建造物が見えた。その場の地面が掘られて続きは地下に隠れていた。
その隣には簡単な壁で仕切られ、骨組みの柱に屋根を乗せただけの様な、簡素な小屋があった。
そういえばこの家、外観はこんな風になってたんだな。
概ね中から見た構造のイメージと同じではあったが、屋根の上に土でも堆積しているのか、植物が繁殖しており、緑色に覆われて、そこもまた所々に生える花をつける植物がアクセントになっていた。まるで年代を重ねた廃墟の様な風格を持っているが、きちんと手入れされているのだろうか? その中で採光用の窓が光を反射して輝く姿は異質に思える。
屋根の上の方はここからだと見えないな。
壁面の下部は石材で覆われており、一階部分の寝室側の窓には備え付けられた小さなスペースがあり、花壇として利用されていた。多彩な色合いを持った花々が日光を受け、存在を主張するかの様に、煌めいていた。
あの花壇、中から見た時には気付かなかったな。花がもっと大きくなれば、内側からでも見えるかな?
先ほどから何処からか漂ってくる甘い匂いが気になっていたが、周囲を見渡すと家の前の広場の南側、俺の座っている位置の左には、大きな花畑があった。
その反対側には、食事前に話題に上った井戸や物干しらしき場所が見えた。
太陽の方角から考えて、南だと思ったが本当にそうかは分からない。
見渡してみれば、まさに生活スペースって感じだな。菜園まであると言う事は、先ほどのシチューの中身もそこの野菜かも知れない。
家の裏手、正面から右側は森の木々に覆われており、背の高いの木の向こうに丘が見えた。
辺りを見回す俺の様子が気になったのか、アイシャが声をかけて来た。
「どうしたの? さっきからきょろきょろしてるけど、何か気になるの?」
沈黙に耐えられなかったからだとか言えないな……。
「いや、家の中からじゃ見えなかった物ばっかりだし、気になってさ。見て回ってもいいかな?」
アイシャはもう落ち着いて来たらしく、いつもの様子に戻っていた。
そういえば俺の汗も引いてきたな。
「いいよっ。何ならお姉さんが、案内してあげよっか? 慎ましやかな我が家だからあんまり見る物もないけどねっ」
そうだった。また質問する事になってしまうけど、先に聞いておきたい事があるんだった。
「あのさ。落ち着いたら凄く気になって来たんだけど、聞いてもいいかな?」
アイシャはこちらを疑いの目で見る。
「……また、えっちな質問をするつもりなのかな……?」
えええ!? やっぱりまだ許されてないのか!?
「し、しないって! 自分で言うのも何だけど。この短期間でまた繰り返すほど馬鹿じゃないって!」
疑いは晴れていない様だ。自分の過去の所業を思い返すと反論は出来ないけど。
「ふぅん? ほんとかなぁ。カイトったら目が覚めてからえっちな事ばっかり考えてたでしょ? お姉さん、最初はカイトの体調の事を気遣って、何も言わなかったけどぉ。ずっとえっちな目で見られてたのは気付いてたんだよ?」
うあああ!? ここでそんな告白しちゃうの!? てか、最初から気付かれてたとか、思い出すと恥ずかしさで蒸発しそう。まあ、あの時はまだ、人生初のひとめぼれか!? ってくらいで、今ほど意識してなかったからな……。
「まあいいよ。これ以上うたがうのも可哀想だしね。それで、何かな?」
前の事を蒸し返す様な気がするけど、これは多分えっちな質問じゃないはずだ!
「えっとさ。さっきのゲーム、というか模擬戦? での君の動きや力を見てて思ったんだけど。……あれだけの力があれば、あの地下室から出てくるのなんて簡単なんじゃないか?」
アイシャの表情はあからさまに気分を損なったとアピールしてくる。
「もう! またその話なの? んぅ。でも、疑問に思うのも仕方ないかな……。それにはちゃんと理由があってね」
その答えに興味を惹かれ、傾聴する。
「ええっとね。私は、さっきの戦いだと身体のスイッチを『ハンターモード』に切り替えてたんだよ」
職業はハンターだと言っていたけど、モードって何だ?
「普段の生活は精霊魔法を多用するから、魔法を使い易い様に、『エレメンタリストモード』なの。その状態だと魔法はばんばん使えちゃうけど、ハンターモードみたいなパワーは出せないんだよ。これで分かるかなぁ?」
エレメンタリストって精霊使いとかの事か? そんな制限があるのか……。強い力を持ってても、何でも万能に、とは行かないのかもな。
「制限があるって事は、力を使うのに代償とかもあるのか?」
アイシャは小さく頷いた。
「あると言えば、あるよ。ハンターモードで力を使い続ければ、肉体へのダメージが蓄積していくし、エレメンタリストモードなら魔法を使う程、霊体を酷使しちゃう事になるんだ。それに例えばハンターモードで魔法を無理して使おうとすれば、必要なマナの量も増大しちゃうの。その行動に適した身体の状態じゃないと上手く行かないんだ」
ここでアイシャは瞳を怪しく光らせた。
「ふふぅん。でもねぇ。本気の本気な時は、制限なんて関係なしにどっちの力も使えちゃうの! 維持できる時間も限られちゃうし、そんな機会は滅多にないと思うけどねっ!」
ううむ。さっきはハンターモードだったみたいだけど、本気じゃないって言ってたし、本当に底が見えないな……。
俺もこの世界で生きて行く以上は、もう少し強くなれるといいのだが……。
先ほどの模擬戦で彼女の事を心の中で『脳筋エルフ』と罵っていたが、そもそも魔法も使える事を忘れていたな。さしずめ脳筋モードと言った所か。
「それで、もうひとつ聞いていいかな?」
また不機嫌さをアピールされる。
「もう! 今度こそえっちな質問でしょ! 前も二回目がそうだったもん!」
あまり言いたくない事だったが、聞かないと落ち着かない。
「いや、違うから! さっきの罰がまだ続いてるのか聞きたいだけだって!」
アイシャは怪しげな流し目でこちらを見る。
「ふふぅん。気になる? 気になるよねぇ! 教えてあげようかなぁ? どうしようかなぁ?」
勿体ぶった態度で焦らしてくる。興奮が冷め、落ち着いてみれば、身体はもうぶたれたくないと訴えている。彼女の機嫌しだいで続きが始まるのかと思うと戦々恐々としてしまう。
「ふふぅん? お姉さんに勝った少年にはサービスしてあげちゃうよっ。今日いちにちって言ったけど、もう許してあげましょう!」
安堵のため息を漏らす。
「でもぉ。またえっちな事をして来たら再開しちゃうからねぇ? そこは忘れないでね?」
すかさず釘を刺されるのだった。う、肝に銘じておきます……。
「さて、気になる事も解消されたかなっ? それじゃあ、我が家の周りを案内してあげよっか?」
頷いて立ち上がろうとした時に、ズボンの上を小さな影が這っていることに気付いた。しばらく座り込んでいた間によじ登られたのだろう。
んん? こいつ、芋虫か? 何かの幼虫かな? ふふふ、運が良かったな、今の俺はとても機嫌が良いんだ。指先で丁寧につかまえて、近くの草に移してやる。
その様子をアイシャに目撃されていた。
「ふぅん? カイトって生き物に対して優しいのかな? そういうのは良いトコだからどんどん伸ばしていこっ?」
内心では冷や汗をかくのだった。ははは、乱暴に払わなくて良かった……。あのネズミも投げなくて良かったな……。もし投げていたら彼女にどう思われていたか分からないぞ。
まず座っていた場所に一番ちかかった花畑を見に行く事にした。近づくと更に匂いが強くなる。最初にこの世界に来た時に、体感温度から春かと思ったけど、花も満開って感じだな。
小さい物から背の高い物、花びらの形や大小も様々で多種多様な花々が咲き誇っていた。赤や黄色、白に青など色合いも豊かで、草花に疎くても心が弾む光景だ。日光を受けて煌めく姿は宝石の様だし、影とのコントラストが美しく幻想的な情感を醸し出す。
次の自分の番を密やかに待つ蕾も幾つか見つけた、この花畑の様相もしばらくは安泰という事かな。
目を凝らしてみると、小さな生き物達がそれぞれのありようを謳歌する姿が見えてくる。あれは……、花に負けず劣らず美しい色とりどりの蝶が舞い、蜜を吸っている様だ。宙を漂う蜂らしき姿も見える、耳を澄ませばその騒々しい羽音が聞こえてきそうである。
葉にはそこかしこに齧られた様な跡があり、植物を糧とする様々な虫の存在を匂わせていた。先ほどの蝶もここで生まれ育ったのかも知れない。
「ここはねぇ。森の色んな所を周って種を集めて来たお花を育ててるんだっ! 今は春に咲くお花でいっぱいになってるけど。ほら、あっちも見て! あそこには夏や秋に咲くのも植わってるんだよっ!」
アイシャの努力の結晶と言う事かな? ん? 待てよ。数日前に道が封鎖される様な酷い嵐が来たって言ってなかったっけ? 見た所ここの花たちには被害の痕は見られないな。
気になる事と言えば、この世界にも四季があったのか。前に感じた通りで、今は春で合っているんだな。
「カイトもお花すきなのかなっ?」
輝く瞳で答えにくい質問を投げかけられる。興味があったとも言えないよなあ。
「いやぁ、俺自身はそんなでもないんだけど……。姉が好きでね。上手く育てられてた訳でもないんだけど、よく色んな植物を世話してたんだよ」
アイシャは少し残念そうな様子を見せたが、この話題には食いついてきた。
「カイト。お姉さんがいるの? ……カイトのお姉さんだったら綺麗な人なんだろうねぇ。ほんとに姉がいる人にお姉さんぶってたと思うと、ちょっとだけ恥ずかしくなって来ちゃうよ」
んんぅ? 何か遠まわしに容姿を褒められた様な……。まあ、お世辞かな。それよりも姉の事をまた思い出して、少し感傷的な気分になった。
「まあ……。多分もう会えることもないと思うんだ……」
アイシャは少し気まずそうだ。
「何か事情があるのかな……。ゴメンね? 余計な事を言っちゃったかな?」
これは自分の問題だし、それで彼女に気をつかわれるのも何か違うよな。今の所はどうにもならない訳だし。
「いや、思い出したら、ちょっと感傷的になっただけだし、気にしなくていいよ。それに、たびたびお姉さん風を吹かせて来るのもわりと気に入ってるんだ」
彼女は再び明るい顔に戻った。
「そうなのっ? じゃあ、今まで通りカイトのお姉さんをしてあげちゃうよっ! ふふぅん? いつだって甘えてもいいんだよ? ……えっちな甘え方じゃなかったらねっ」
そう言って胸を張るのだった。
いや、まったくえっちじゃない甘え方って想像できないんだけど!? それは俺の脳に問題があるのか!? むふふ、てか、女の子の口から「えっちえっち」連呼されるのも、良く考えるとご褒美だよな。
一人で鼻の下を伸ばしていたら、アイシャは神妙な面持ちで話し始めた。
「それにしても……。カイトにも色んな事情があるんだね。……私、カイトの事ぜんぜん知らないや。……無理しなくてもいいけど、話したくなったら遠慮もしないでね?」
うむ、やっぱり優しい娘だな。お互いの事を良く知らないのは同じ何だけどな。俺もアイシャの事を色々と聞いてみたいけど、こういうのは距離感が大事だしな。ここで生活していれば、いつか適切なタイミングが訪れるかも知れない。今はその時を待つのが正解なんだろうな。
ここでの暮らしに慣れた自分の姿など想像できなかったが、何事もなく平和な日々が過ぎればいつかそんな時が来るのかも知れない。隣に立つ少女の美しい横顔を見つめながら日々の安寧を小さく願うのだった――。