涓塵剛大渦
数えきれない分身が室内を埋め尽くしていく。もはやどれが元に狙いを定めた実体かも分からない。
「こ――こんな技、見たことない……」
「さっきからもう訳わかんなくて、息もままならない……」
「多分これが……」
出血が止まらず、床を打ち、その間にも新たな分身が生成される。
「生体のリソースにより、時空間の変換を行う。それの究極系がこれにござる。滴る血が動いた時間、そして移動した空間の計測。それらを先の腕の振りによる加速とは違い、分身じたいを形作る素材とする。そうして生んだ分身はさらに出血を繰り返す」
恐ろしい力だ……。なおかつこの男。あの風切りのように強力無比な異能を持ちながら、驕りを見せない。あくまで冷静に相手と自身の相性を見極め事を運ぶ。もしこれで、肉体的にも強靭であったなら、もはや無敵の存在となるだろう。
「さて、いつまでも出血を続ける訳にもいかぬでござるな。この攻防を終えた時、どちらが立っているか、拙者にも想像のつかぬ事柄にござる」
増え続ける分身の前面に立った者の幾人かが、同じ動作を取り、体幹を捻り、両腕を同時に大きく振るう。
「――ッ! 確かに視界に捉えていた、幾人かが消えた」
恐らく周囲の空間を高速で移動しているはず。だが、全く空気の流れに違いが現れない。どういう事だ。移動としての性質を見誤っているのか……!
「いや、惑わされるな。自らのたどり着いた神髄を信じ抜け!」
感じる。後方にそれぞれ異なる位置に三人、上方から迫る二人、左右の四人は全く同じタイミングで現れ、逃げ道を塞ぐためか、陽動か、どちらにせよ、前の三人は他よりも僅かに距離が遠い。そして、皆、現れた瞬間に気流を生んだ。
「ふんッ! はッ――!」
あらゆる方向から襲い掛かる気配に合わせ、目視せず肉体を素早く捌き、こちらへ伸びる手を打ち払っていく。
「なんというッ! なんという技術でござろうッ! 先から繰り返された動き、その真価がこれであったとは――」
感嘆の声が称賛と共に漏れ出すが、払った分身たちは消滅する訳でもなく、身体に見えない損害の蓄積を感じた。
「ぬうう! やはり……」
また私の異能の使用に反応したのか、表皮から出血が始まり、逆にシスの手首の傷が塞がっていく。その様子を注視したが、全員が同時に修復され、差異は見られなかった。
「ふう。やっと出血が止まってござる。まったく冷や汗モノにござるな」
出血の停止に伴い、際限なく繰り返されていた分身が生み出されなくなるが、その総数は過去の記憶を頼りにすれば、およそ二百ほどの規模に達していた。
「そう身構える必要もござらんよ。これだけの数、同時に制御するなど、流石に拙者にも――」
その言葉を強く遮る。
「嘘ですな。貴方と初めて相対した時より感じ始めた、凍てつく感覚。まばらに起きていたそれが、今はこうして話す間にも止まることなく沸き起こる。……何か、動かす方法があるのでしょう?」
シスは奔放にうねる髪をかきながら、気まずそうに答えた。
「いやあ、流石にござるなぁ。しかしてこの手段だけは、おいそれと漏らす訳にもいかぬでござるよ」
「まあ、それが普通でしょう」
何度となく感じた奇妙さが、嵐のように身体を過ぎ去っていき、シスの分身たちが一斉に動き始める。
「正真正銘の全力でござる。何が起きても後悔なきよう」
その場で肉体を大仰に動かす。あれらは全て他の分身を加速させるための仕込みだろう。そして、今まで見た限りでは、直接こちらの身体に攻撃を届かせる事はなかった。何らかの理由があって、出来ないのか。それとも――。
「攻撃に直接もちこめないのなら、いくらでも隙はある!」
足元を確認し、その材質を分析していく。今回は広大な空間であるため、自分を中心に追従するように力を発動し、周囲の一定の半径の床から摩擦をなくし、全周を囲む分身たちを滑らせる。
「おおっと! これはまた、近づくだけで身体の制御を奪われるとは――」
最も近くにいたひとりに目がけて拳打を繰り出し、接近に伴い透過を断続的に使う。
「ぬうッ!?」
しかし、捉えたはずのひとりが、また何の手応えもなく自動的にズレて打撃を無効化する。
「そうでしたか。先に見せた不可解な動き、あれと同じく、受ける力じたいを調整しているのですな」
それに対し、周囲のあちこちから答えが返る。恐らく本体がどれかをけむに巻くためだろう。
「ご明察の通りにござるよ。摩擦が減じれば、こちらにとっても都合がいい」
このやり方では、収拾がつかないようだ。だが、疑似的なバーサークを封じられた状態で、空中へ飛びだすのは難しい。あれを可能とするには――。
「ほっ! ほっ! 滑っても、わざわざ動かす手間が省けるだけにござるな。転んでしまっては、しばらく立ち上がれぬかと思ってござったが、この摩擦を減じる範囲。お主の周囲に限定されてござるな?」
床で滑り、手足を躍らせて倒れ込む分身たちの一見すると滑稽な動きの外で、他の分身たちが加速したのか、視界から次々と消える。
「全く厄介きわまりない」
他動的な働きでも問題なく加速のリソースを得られる。ならば、一気に力を反転させ、虚を突けばいい。そして、この試みが成功すれば、恐らく先の懸念も解消される。
「どうしました? 数ばかりが増えたのでは、永久にこちらへ届きませんぞ」
回避と反撃を流れるように繰り返す、拮抗して見えはするが、徐々にこちらが不利になるのは明白だ。傷がなければ異能のリソースの変換はかからないようだが、分身に損害を与えれば、すぐさま発動してくるだろう。
「焦慮は敵と知りつつも、繰り返すばかりでは芸がないでござるな」
業を煮やしたのか、加速する分身の動員が一気に増え、こちらの全周を囲んでも余るほどの数が同時に動いた。
視界の外にも同じだけ隠れていると思えば、一度に五十あまりが何らかの狙いを定めた事になる。
「感じる――」
周囲に気流が生まれ、こちらを狙う。さらにその背後にも、もう一重の分身の列が形成された。
「ふんッ!」
その瞬間に、一気に腰を落とし、生んだエネルギーを纏い、加速の準備をする。
「途切れれば、思惑は塵となる――」
一切とまる事なく、生まれたエネルギーを循環させるのだ。その規模を大きく育て、滞留じかんを伸ばし、上方の広大な空間を利用し、層を作る。
「余計な動きを挟めば、止まるのは息の根にござるよ」
一気に襲い掛かる分身たちは、既に滑り始めた者を踏み台にして、こちらへ踊り出る。その軌道を予測し、防御の神髄によって逸らし、弾き、周囲に分散させ、床の上で態勢を崩して転ぼうとする者へ、反転した力を加える。
「はて――急に摩擦が」
急激に反転した力の反応により、床へと縫い付けられたように留まり、困惑する分身たちへ強打を加え、後方に待機する数人も巻き込んではねつける。内部を破壊するよりも、吹き飛ばす距離に重きを置いた用法で、同時に接触の瞬間に産生されるエネルギー量も増加する。
「悪手にござるな。半端な損害は、自らの負傷として返るでござるよ」
対応する猶予を与えるな。出血が起きても、それ自体のひとつひとつは致命的ではない。なによりも、この分身をただ打撃で潰そうとする事じたいが悪手と言えるだろう。それ以外の手段で乗り切るには宙へ飛び上がるのが最善だ。
「ぬううう!」
分身を連続で吹き飛ばして行くが、与えた損害じたいは軽微でも、その度にこちらの異能による消費を生命力に置き換えられ、血が表皮から滲みだして来る。痛みも無視できるほど僅かな出血だが、このまま多く積み重なればいずれ致命傷になる。
損傷を相手に与えずに、なおかつ分身じたいを封じる方法があるとすれば、これしかない――!
「ほっ! まさか――上方へ逃げるとは、しかしてその状態を維持できねば、こちらへ整える時を与えるだけにござるな」
その予想は間違いなく外れるだろう。先ほどから分身を打ち、生まれたエネルギーを上空へと滞留させて少しずつ蓄積させた。それを大気の密度の操作を組み合わせて、空中で身体を振るい、推進力を生み出し、滞空する。
「ほ~う。これは予想外にござる。本当に浮いてしまうとは」
この状態ならば、加速によって一時的に宙へ届いても、そこから跳び上がる力を生めねば、落下だけが未来に固定された現象となる。そして――。
「今まで、何も考えずにその分身を見過ごした訳ではありませんぞ。……あるのでしょう? 持続時間が。初めの解説から推論すれば、それを生み出すために消費された時間を越えて存在する事は出来ないはずです」
この部屋の天井は高い、届かない距離を移動し続ければ、これ以上、攻撃を加える事なく時間切れを待てる。なおかつ上を取られる事もなければ、俯瞰し、見下ろした状態なら数が多くとも大まかに動きを把握でき、不意打ちを受けにくい。
「そこまで見抜かれてござるか。ならば、こちらもそれに相応しい振る舞いをするだけにござる!」
「ぬぐッ!?」
また――。心臓の力を入れ替えたか! しかし、今この空間には、私が生んだエネルギーが満ちている。それを流用すれば、収縮に問題は起きない。
「そう。そうなる事も予測済みでござる。故に――」
下方からこちらを見上げていた分身たちの数十人が、一気に勢いをつけて身体を振るう。
「これほどの数を同時に動かすとは、何か今までと異なる狙いが」
心臓の動きを弱められ、カバーするためにエネルギーを取り込んで補助する。その一瞬の隙を突かれたのか、ほぼ天井の間近に飛び上がっていたにも関わらず、上部に気配を感じ、頭部へのふたつ分の気流を察知する。
「これは――頭を挟み込み、逃げ場を失くすつもりか――」
上部にはヒトひとりが横向きに入り込める程度の隙間しかない。下方に躱すのも、旋回する推進力を生むのも、どちらも間に合わない。
両目が頭部に覆いかぶさる影を捉えた。それに掴まれそうになった瞬間――。
「ぬぐッ!」
自らの腹部を強く打ち、その影響で無理やり背を丸め、頭部への挟み込みを回避した。
「相も変わらず自傷を厭わない鋼の意志にござるな! しかして、その状態でこれはどう躱す――」
何の気配もなく、側頭部へと、ぴったりと吸いつくように別の分身の手がかざされた。
「馬鹿なッ!? 直接、触れられたッ――!?」
今までの距離を取った移動、それらは全て最後のこの時、一瞬の油断を誘いこむための罠だったのだ。正体の見えない力に疑いを持ちつつも、実際に起きていない現象についての思考を鈍らせ、選択肢としての可能性を虚ろに、巧妙に小さな穴に水を注ぎこみ、堤を崩壊させるように、徐々に、徐々にこちらの急所を広げていたのだ。
トドメの一撃を当てるためだけに、何度となく距離を置いた移動しか出来ないと、刷り込ませ、更に直前の行動により、致命的な硬直を生み、その確実性を極限まで高めた。
「終わりにござるな――」
まだだッ!
左の側頭部を表面から薄く透過していき、手がより内部へ入り込むように仕向け、その間に右肩を下げ、左肩を上げる準備を始める。
「最後っ屁でござるか? 往生際の悪い。表面を透過すれば、いずれ脳に到達する、それでは自ら死を受け入れるに等しい愚行にござる――」
動き出した掌が、ごく薄く頭部の組織の内側へと入り込んでいく、その僅かな時間を使い、引き上げた左の僧帽筋へと血液を一気に流入させ、爆発的に膨張させ、掌底を押し上げ、もはや剥き出しとなった表皮の摩擦を極限まで高めた。
「くッ!? 首の周囲の組織に、掌底が引っ掛かり、動かせないッ!?」
そして、そのまま動きの追いついた左肩で手首を跳ね上げた。
「ウグッ! 肩の衝突ていどでこの威力とは――!」
その隙に頭部の透過を解き、上部を覆っていたもうひとりに、背筋を一気に伸ばし、頭突きを繰り出す。
「ウガアッ!」
首の根本あたりを突きあげたのか、相手の頸椎が歪む不気味な感触と共に、更に力を加え、頭部にのしかかっていた肉体ごと跳ね上げ、天井へ叩きつけ、そこから生まれたエネルギーを下方へ投射し、直ぐ隣に迫っていたもうひとりを打ち払い、落下させ、すかさず脚で推進力を生み、宙で旋回する。
「アアアア」
悲鳴を上げ落ちて行く分身のふたりを見送り、宙で激しく旋回を続け、生まれたエネルギーの層が十分な量に達したことを確認し、下方を鋭く見据える。
「拙者の手の内は、ほぼ晒し申した。しかして、この無尽分身。再び出血すれば、幾らでも生める事を忘れなきよう!」
分かっていますとも、だからこそこの環境が整うのを待ち続けたのです。
「打ち払うだけならば、損害は軽微で済む。出血させるいとまなど与えませんぞ! ここからは――ただ一方的にそちらが、行動を制限され続けるのみッ!!」
部屋の上方を旋回し続けるエネルギーの台風の目に向かって、回転しながら直進し、暴風のように発達したエネルギーの大渦で集まった分身たちを跳ね飛ばしていく。
「このまま妨害を続け、新たな分身を生む隙を与えねば、再び本体が剥き出しになるッ!」
その時が訪れるまで、ただエネルギーの大渦とひとつになり、旋回を続けるのだ!
「涓塵剛大渦――!!」
態勢を立て直そうと藻掻く分身たちに立ち上がる暇も与えず、ただ払い、押し付け、床に超重力が生まれたように押し潰し続ける。
「くう――確かに、このままでは身動きひとつ取れぬでござるな――」
場の空間が生んだ新たな技を継続し、旋回し続ける中、唐突に、奇妙な咆哮が響いた。
「コオオオォォォ――」
「何だ……? この叫びは……!?」
「これは――これは、まさかッ!」
その声を最後に、まるで水中に没したように、周囲の音が聞こえなくなり、自らの呼吸音が膨れだす泡の如き質感を帯びる。
何だ、何が起きたというのだッ――!?
「いや、何かが姿を――」
シスの大量の分身たちを押しのけ、その中心に水柱が間欠泉のように立ち昇る。
「これは――」
圧倒的な存在感を示すそれと、宙に浮いたまま、言葉も忘れ、真っすぐに対峙していた――。
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