血風無尽分身
シスの左手が伸びる中、先の言をなぞり、ひとつの閃きを得る。
そうか――加速のために、右腕の自由を犠牲にした。ならば、現在は分身が可能な状態なのか? どちらにせよ、ただ反射的に掴もうとしたのでは逃げられる確率が高い!
左胸に迫るシスの左手を透過で影響を断って防御する。だが――。
「そう来るだろう事は予測ずみにござる」
「ぬうッ!?」
左胸に伸びていたはずの左手が、弾けるように加速し、途中で軌道を変えて頭部へ迫る。
「その物質透過、明確な欠点があるのでござろう? 心臓なら、一時的な心停止。脳を狙ったなら、どうなるのでござろうか――」
シスは左腕の陰に重なって、こちらの視線を遮っていた左脚を、気付かれぬようにごく小さく蹴り上げ、そのリソースによって、左手を加速させたのだ。
不味い! このまま頭部を掴まれ、先のような衝撃を与えられれば、脳震盪で意識を失うかもしれない。しかし、この瞬間こそが、反撃の絶好の機会でもある。こちらへの攻撃に意識が集中し、自らの状態への注意が散漫となった! その隙に、素早く右腕を掴む。
「ふ。この手、何のつもりでござるかな? 確かに掴んで動きを止めれば、分身を押し通す事は不可能にござる、しかして脳への痛打にどう対処する――!?」
確かに、このまま脳を攻撃されれば、もはや他の手などなく、詰みだろう。
「ヒトは普通は、このような動作を取る事はありません。故に、一度みたとしても、その選択肢が、頭に強く残らなかった――」
「態勢を維持したまま――下がったッ!?」
下腿の大部分を一気に透過し、床へと落ちて行き、そのままシスの右腕を引き寄せ、右拳で最も近い鳩尾を打った。本来ならば、足の踏ん張りが効かない状態では、強打を与えるのは不可能だ。だが、今の私には、発生したエネルギー自体を操り、力を強化する術がある。
「ウガ――!」
追加の加速による軌道の偏向で、不安定な姿勢であったシスは、防御を完全に忘れ、右拳が肉体に食い込んでいき、後方へと吹き飛んだ。
「アアアアッ!」
両足の透過を徐々に解き、床の高さに戻り、固い感触を確かめつつ、吹き飛び、屈みこんだシスを見据える。
「お、おい! やべえぞ。研究主任が初めて攻撃を受けた!」
「どうなってんだ! さっきからあの爺さんの動き!」
「訳がわからない、どっちも現実を超越してやがる!」
膝をつき、腹部を押さえたシスは、口から大量の血を吐き、それが床に広がって行く。
「ふむ。紙一重でしたが、今のは急所に入ったようですな」
この男、やはり異能なしでは、一般人と同程度の脆弱な肉体でしかない。今の一撃を鳩尾に受けた、タダでは済むはずがない。
しかし、何だ……? この胸騒ぎは……まだ、終わってはいないと、私の本能が訴えかけてくる。
緊張で堅くなった手足が、構えを解く余裕を与えず、ただ心臓を補助するための動作を無意識に続ける。
「は――、ははは。……危うく死ぬところでござった。眼前には確かにあの世の境界が見えたでござるよ」
「なんと!?」
シスの血の嘔吐がにわかに止まり、左腕が身代わりのように変色していく。
「ウグ……! 死ぬよりは遥かにマシでござろうが、この苦痛も中々に堪える」
そのまま何事もなかったかのように立ち上がり、痛みに耐えて歪んだ笑みを向ける。
「あの瞬間、回避不能を悟り、異能による損害の転移を試み申した」
明らかに重度の骨折を負った左腕を指差して見せる。
「ああ~。これでは、どう考えても、動く訳がないでござるな。……はあ。拙者の生体が、このように壊れる姿など、見たくはなかったでござるよ。背に腹は代えられませぬが」
左腕を事前に犠牲にする覚悟を決め、急所への損害を無効化したと……!
「なんという覚悟……」
この男、ただの研究者などではない。覚悟の程は既に一流の戦士そのものだ!
「血液もそれを覆う構造も、生体のリソースのひとつにござる。故に、急所への損害による出血を、左腕からの発生にすり替えて事なきを得たのでござるよ」
信じられない力だ……。生命反転と環境統制の融合。あの力なしに、この男を倒す事など可能だろうか……?
「さて、少々、お血を拝借――」
「ぬうッ!?」
一体なにが!?
「このままの腕の状態では、差し障るでござるよ。拙者の目的に、ね」
小刻みな全身の協調運動を繰り返していた肉体に、にわかに染み出すような痛みが走り、表皮がすりむけた浅い傷が、広がって行き、出血が始まる。
「ぬううう! これは一体ッ!?」
ひとつひとつは、ごく小さな傷に過ぎないが、それがほぼ全身に現れ、ひりつく痛みに耐え、眼前の異様な光景を目にする。
「左腕の――骨折が!?」
シスの完全に折れて、奇妙な捻じれを伴っていた左腕が、元の形に復元され、出血の跡だけが残り、動きを取り戻した。
「バカなッ!? まさか、私の血を奪ってッ――!?」
ここで治した左の指先で眼鏡を弄び、不敵な笑みを浮かべる。
「ふう。一時はどうなる事かと……。しかし、この通り。完全に治り申した。……まあ、その想像は半分は当たりで、もう半分は外れ、といった所でござるな」
また興奮した外野の叫びが聞こえた。
「うおおお! 全部、ぜんぶ治しちまった!」
「しかも、相手は傷だらけだぞ!」
「なんて力なんだ……!」
尖らせた唇から息が強く吐き出される。
「ふう。騒がしいでござるな。血の魔法……。ごく簡単なモノが、一般に広く浸透してはいるでござるが、この魔法系統には、ひとつの特徴があるでござるよ。即ち、リソースにマナではなく、術者の生命力を使う」
それが何の関係を示すと……?
「お主のそれ。恐らくは心臓の収縮を補助するエネルギーの産生に使われている、繰り返される動き。――それ、異能の力でござろう? ほとんど意識する事もないでござるが、我ら、異能を与えられし者ども。宿命として、力を用いる時に、大なり小なり、特定のリソースを消費してござる。マナでも、生命力でもない、ね――」
まさか――!
「そう。そのリソースを、血の魔法と同じ、生命力に書き換えたのでござるよ。そして、お主が消費した血液から成るリソースを、拙者の傷に加算し、治したのでござる」
その言葉を聞き終える前に、弾けるように動き出していた。
これ以上、時間をかけてはいけない! 徐々にこちらが追い詰められ、最後には全ての選択肢が閉ざされるだろう。
「おっほおお! 拙速にござるなあッ! その焦燥――拙者へと届きますかな?」
次の一撃で畳みかける!
「ほう。また、物質透過でござるな? しかし、その用法では身体の時の消費の目隠しにはなり申さん」
両脚を半物質化し、床へと徐々に滑り込みながら、シスへと迫る。
「分かっていますとも! ならば、この二択にどう対処しますかな?」
シスを両の拳の間合いの内に捉え、相手が動き出す前に、床を右拳で強打し、それによって生まれたエネルギーを足元に伝わらせ、一気に上部へ解放する。損害を与えるのではなく、ただ上方へ強く打ち上げる事に集中した用法だ。
「ほ。肉体が、激しく浮き上がってござる――成程、得心がいったでござるよ。確かにこの状態なら――」
そうだ。宙へ浮けば、こちらの拳打の時の消費を正確に計測できたとしても、既に肉体には上昇し、落下する動きが未来として固定されている!
「おおおおッ!」
床を打った右拳を跳ね上げ、後方へ引き、その反動で左拳を浮き始めたシスの胴体へ突き出し、また瞬間的な透過と解除を連続で行う。
この位置関係では、急所を的確に打つのは不可能だ。だが――。
「上昇からの落下は、予定された動きとして未来のリソースを固定はするでござるな。けれども、まだ拙者の四肢は自由なままでござるよ。こちらからの妨害がないと思ってござるか!」
それも織り込み済みですぞ――!
強烈に引いた右腕は、左拳を加速させるためと思わせて、それは陽動だ。実際の狙いは――。
「ふんッ!」
弾けるように加速した、体幹から右腕の末端までが生んだエネルギーを、そのまま空中へ撃ちだし、シスを狙う。
「ほう。発生した運動エネルギー自体の投射! こんな離れ技が可能とは――」
空間を左から右へ薙ぎ払うエネルギーが、シスの前面を捉えた!
「とても良い狙いでござった。さりとて、これで奪えるのは片腕の自由のみでござろう!」
シスが左腕を動かし、エネルギーの投射を防御した瞬間、激しい波が渦を巻き打ち消されていく。
ここです――! 何故、両脚から床へ沈み込んだか、その理由が、予測できたかどうかが!
「明暗を分けますぞッ!」
沈み込んだ肉体は、骨盤の位置で止まり、臀部に強烈な衝撃を感じ、体重を受け止めたエネルギーが湧き上がり、それをすぐさま先の波を消そうとしていたシスの無防備な腋下へと送り込む。
「――ッ! これは――いささか予想だにせぬ展開」
物質透過による、通常はあり得ない形での床からの反作用の利用法。こちらのエネルギー発生の流れを読み取るこの男にも、透かした両脚を無視し、臀部を打ち付けて力を生むとは予想できまい。
「くうッ! 脇から押し上げられて、制御が――」
左脇から追加で打ち上げられたシスは、背を逸らした不自然な姿勢で、宙で回転を始めようとしていた。
「今だッ!」
その隙にすかさず、伸ばしていた左拳に、臀部の打ち付けで生み出したエネルギーの余剰分を割り当て、内から外へと時間差で弾き、拳の軌道を変え、脇腹を狙う側面からの拳打へと振り替える。
「まさに、まさに――! 一瞬で相手の自由を奪い取る。完璧な手管でござるなぁッ! しからば、これも、予想の範囲でござったか?」
シスの右肩の先からが四本に分岐し、一本がこちらの拳打を止め、二本目が外から内へ受け流し、三本目が手首を掴み、引き寄せ、肉体が宙へ浮き上がるのを感じた。
「ぬうッ!? 左腕のみを四本に分身させるとは――!」
引き寄せられる身体の頭部を狙い、最後の四本目が伸びる。恐らくこちらの脳を機能停止に追い込む算段だろう。
「ここからでござろう! この一瞬、これを破れるかが――」
「全ての――ウグッ!?」
最後の言葉は、呻きによって打ち消された。
「脇腹に――爪先が食い込んで――」
先に打ち出し、軌道を変えた拳打。それが止められる事は想定内だった。四本の腕で防がれるとは思わなかったが、しかし、それによって最後の本命であった左足での蹴りが、相手と私の腕の陰で、完全に隠された……!
「ウガアアアッ!」
悲鳴と共に横転しながら宙を舞ったシスが、床へ放物線を描き叩きつけられ、血の跡を残しながら滑っていく。
「――ガハ」
流石に、今の一撃は、損害の転移では防げまい。シスの全身に広がった重度の損傷を確認し、戦の終わりを確信する。だが、身動きひとつ取れず、荒い息を吐いていた身体が、突如として動きを止め、ついで不可思議な笑いが始まった。
「は――ハハハ! みごと、見事! 全くもって予想外! 今の今まで漫然と繰り返されるのは、拳打ばかり! そうであったはずが、唐突に蹴りを交え、それをトドメに用いるとは――!」
ぬう。何だ? この声は……? 生気に溢れ、瀕死のヒトの発したモノとは思えない……!
「今のは、確かに放っておけば死する定めでござった。故に、緊急ようの仕込みが発動したのでござるよ。これを使わされたのは、実に数年ぶりにござる」
何だとッ!?
シスは傷などひとつも残らぬ身体をゆっくりと起こし、こちらへ向き直った。
「先の技に、次元の狭間にて待機させた実体を用いたと申したでござろう? 常日頃より、隠された真の実体へと、時間、空間的リソースを溜め込み、こういった場合に発動する手はずを整えていたのでござるよ。――即ち、過去に待機させた、無傷の実体へと時空間の跳躍により、重なり、それを仮の殻であった今の生体と置き換えた」
その言葉に絶句し、無言で立ち尽くす。
「いやあ、しかして拙者も、まだまだ未熟にござるな。とっておきの手札を切る事になるとは想いもよらぬ結果にござるよ」
いや、まだ――まだ、何かある。今まで戦い抜いて来た、戦士としての本能とでも呼べるモノ。それが、警戒を促し、心の中で叫びをあげる。
「さて、拙者も、もう精魂尽き果てる手前にござるよ。……しからば、決する準備をし申そう」
心筋の状態は、ほぼ問題なくなったようだ。次の攻防、恐らく最後となるだろう。防御の神髄も取り入れ、何としても生き延びねば……!
おもむろに衣服の内を探ったシスの右手に、小さなナイフが握られていた。
むう。武器としては似つかわしくない、ましてやこの局面を左右する物にも見えない。何が狙いで……。
「ああ~。もう。はあ。嫌でござるなぁ。自らを傷付けるなど――」
シスは何を思ったのか、自らの左手首をそのナイフで切り裂いた。
「ウグ……! 何万回、覚悟を決めても痛いものは痛い。……回復の切り札はもうあり申さぬ。この本体に傷を負わすなど、考えたくもない事でござった」
「それは、嘘でしょうな。既に、その身体は仮の実体なのでしょう?」
「はは! 筒抜けでござったか! 何にせよ。アレはもう使いたくとも使えぬ状態にござるよ。仕込んでから最低でもひと月は経たねば、生体を形作るリソース不足で、発動ふのうでござる」
それを聞き、無意識に安堵している事に気付いた。
「その手首の傷、何のつもりですかな? 動脈が傷ついている。放っておけば、失血に至りますぞ」
シスの傷から次々と血が滴り落ち、床へ広がって行く。その様子を見守り、ある考えに行きつく。
「まさか――!?」
苦痛に歪む顔が、こちらを捉え、不出来な笑みを浮かべる。
「やはり勘も超一流でござるな。そう。――これこそが、拙者の最大にして、最後の切り札にござるよ。名付けて――」
シスの周囲の空間が陽炎のように揺れ動き、瞬く間に分身で埋め尽くされていく。一、ニ、三、四。心が冷静であれと訴え、数えて見るが、とても追いつくような速度ではない。これを破らねば、ここで命尽き、物言わぬ屍となるだろう。
「血風無尽分身――!!」
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