『戦士』デトマソ
再び姿を現した少女の両手は、大きなパンを持ち上げていた。それを汚さぬためか、開きかけて止まった扉を肘で押して慎重に通り抜ける。そして私の視線に気付き、得意げな笑みを見せる。
「見て! こんなにおっきなパンがあったよ!」
上体を起こし、片手で支える私に向けて、パンが突き出された。
「これは……。確かに大きなパンですが、本当にもらっても良いのですかな?」
彼女の境遇を知る訳ではないが、あの家の外観から、十分な食料の備蓄があるとは思えない。
問いに対し答えは返らず、ただ無言でパンは突き出され続けた。これを受け取らねば、純粋な善意を踏みにじる事になるか……。
「失礼。食事の前の精霊への祈りを、黙して済ませていました。ありがたく頂きますぞ」
土のついた掌を払い、両手でパンを受け取り、再び少女を見ると、満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「うむ。これは、間違いなく至上の一品だ。心が洗われる程に美味です」
少女はその意味が理解できないのか、無言のまま笑顔を向けていた。
パンをちぎり、口へ運ぶ。それを幾度か繰り返す。ひとくち、一口。その過程で味が変わっている事に気付いた。
「これは――」
隣の少女が驚いた様子で声をあげた。
「ど、どうしたの!? も、もしかして、カビとか生えてたかな!? 綺麗なのを見つけたと思ったのに――」
食事に混じって味を変えたのは、自身の流した涙であった。自らの苦境を顧みず、他者へ無私の厚意を向ける。その純粋さに、心が震え、生まれ変わった私の魂を揺さぶる。
「いえ。この涙は――味のせいではありません。パンにもおかしな所はありませんぞ」
そうして、食事を終え、様子を見守り続けていた少女の頭部を、無意識に撫でていた。目を丸くし、不思議そうな眼差しが向けられる。
「お爺さんの手、おっきくてあったかい。……こんな風に撫でられたのって初めて。でも、悪い意味じゃないんだよね?」
その言葉に自身の行動に驚きが生じ、素早く引っ込める。
「失礼。初対面の女性の頭を撫でるなど、不躾すぎましたな」
「難しい言葉を使いすぎだよ。……でも、嫌な気はしなかったな。お父さんも、お母さんもいつも怒ってばっかりで、こんな事してくれなかった」
少女の境遇の一端を感じ取り、憐憫が過るが、それはこの娘の強さを侮辱する考えかもしれない。どちらにせよ、ヒトを救うとは言っても、個々の家庭の事情に土足で踏み込む事など出来ないだろう。
「空腹はおさまったようです。改めてありがとう。何か……お礼をしなければなりませんな」
少女は何かを言おうとしたのか、表情が目まぐるしく変わるが、こちらの動きを見て興味深そうに注視する。
コートの内を探り、財布を取り出す。運良く切り裂かれた部分と重ならなかったためか、中身は無事なようだ。
ふむ。旧都での通貨はブロン帝の銅貨でしたな。それの持ち合わせはありませんし、相場の分からないモノを通貨で返すのは、筋違いでしょう。ここはひとつ――。
「え! なにこれ?」
指先につままれた一枚の硬貨に少女の目が釘付けになる。
「これは、北にある新都で流通する、金貨と呼ばれる物です」
無形の価値に対する返礼に、何が適するかなど分からない。しかし、今の手持ちでの最大限の感謝の想いを表すには、これが最適だろう。
「すごい……。月の光だけで、こんなにキラキラしてる……」
家の住人は、眠りについているのか、動く気配は感じない。それは周囲の家屋も同じだった。運良くこの少女が現れなければ、どうなっていたか。起きていた理由は気になるが、敢えてそれを尋ねはしない。
金貨を少女の手に渡し、ちょっとした注告を残す。
「良く聞いてください。……いつか、貴女がこの旧都を出て、新都に赴く事があったなら、これを商人に見せて、両替してもらうといいでしょう。もし、出所を疑われたなら、オーフィニスティン家の騎士デトマソの名を出せば通じるでしょう。ただし、店の立地には気を付けて、中央通りである『月掲げの正道』から離れた場所は避け、狭い路地裏には近づかないように。事前に新都での冒険者ギルドの本部を訪れ、信頼の出来る人員に支援を要請するのもいいでしょう。その時も先ほどの名を出せば間違いありませんよ」
少女が混乱した様子で私の言葉を復唱する。
「そ、そんなに一度に言われても……。ええと? デトマソってお爺さんの名前?」
「そうです。……この名に少々、他とは違う反応を示す者もいるかもしれませんが、特に問題はありません」
持っていたハンカチに、先ほどの口頭で伝えた内容を血の精霊の力を借り、黒く刻み込んでいく。
「これに必要な事は書きました。この文字は魔法の力で、貴女いがいには読む事も、文字として認識する事も出来ません。そして、最後に、決してこの事を旧都で他人に話してはなりませんぞ。……それが例え、貴女のご両親であっても。必要な時まで大事に隠し持っていてください」
金貨をハンカチで包み込み、少女の小さな掌におさめ、立ち上がる。これだけの栄養の摂取では、まだ危険は残るが、いつまでもこの娘に負担をかける訳にはいかない。
「い、行っちゃうの? ……このハンカチ、不思議な感じがする。お爺さんは、魔法使いなの?」
こちらへ向けられた上目遣いの瞳が問いかけ、好奇心に揺れる。
「いえ。魔法はそれほど得意ではありません。強いて言うのならば、そうですな……」
「戦士――ですかな」
※ ※ ※
月明りの射し込む、騒然とした場にまるで時が止まったかのように、謎の声が響く。天井を見上げれば、巨大な円形の大穴が開き、その下には崩落したと思しき石の山。辺りには武装した者たちが、手持ちのランタンを掲げ、室内の破壊の痕跡を探る。彼らは一様に何かを恐れているのか、中央に聳える巨大な影を避けて動いていた。いや、それの存在を知っていながら、認識を拒絶し、いっさい感知せず調査にあたる。傍目からはそう見えた。
「あ~あ。どうしてくれるんですか。ねえ? 何か申し開きはありますかね? ねえ、死の騎士さま」
明確な非難の意思を示すその言葉に、巨大な影の頭部が僅かに動いた。
「下郎。貴様か……何用だ?」
何もない空間から、呆れたような声が響く。
「久しぶりに顔を突き合わせた旧友に、その態度は良くないんじゃないかなあ」
軋み、擦れる不気味な音が返る。
「姿を現す胆力もなき者が、我を旧友とは……片腹痛し」
闇の中から挑発が聞こえる。
「あれれ? いつの間にそんなにお偉くなられました? 武人気取りも、鏡を良く見てからにしてくださいよ。くくく」
黙して聳え立つ影は、両肩を僅かに動かし、覆っていた肩当が小さく跳ねた。
「……そうそう。鏡です。鏡。この場にありましたよね? あれは、我々のマスターピースとも呼べる創造だった。それを、アナタの怠慢で失ったんですよ? どれだけ重い責任を負ったのか、分かっていますか? くくく」
罵倒はさらに続く。
「それも、二体とも完全に破壊されるとはね……。壊した奴とは、少し前に外で会ったんだけどなあ。……あ~あ、ここまで強いなんて、予想外だったなあ」
闇の中で「こうなるのが分かっていれば、力を削ぐ罠を張っておいたのに」と独り言の様な声が聞こえ、それは周囲に散らばる粉々に砕けた煌めく破片に向けられていた。
「下衆の性分は変わらぬな。貴様が何をしようが、あの男はやり遂げただろう」
それに可笑しそう嘲笑が返る。
「あれえ? もしかして、敵に感情移入しちゃってます? そんな薄っぺらな共感で、見逃したんですか?」
答えは返らず、しばし沈黙が続いた。
「あ~あ。素っ気ないなあ。そうやって黙っていれば、アナタの罪から逃れられるとでも……?」
謎の声はそこで止まり、奇妙な事に床に散らばった破片が独りでに浮き上がり、空間の一点に収束していく。
「まあ、アナタの処分については、またの機会に。急ぐ事でもありませんしね。それよりも、今は――」
次々と何もない空間の一点に集まった煌めく破片は、内側へめくれるように消えて行った。
「回収完了。力もほとんど残っていないけど、ないよりはマシかな。あ~あ。古代の知恵の結晶がこんな形で失われるなんてねえ。ヒトの歴史も、移ろいやすく脆いモノだな」
続く言葉を最後に、月明りの射し込む闇は、再び慌ただしい捜索の音に呑まれて行った。
「だからこそ、永遠を求める、か――」
※ ※ ※
食料を譲ってくれた少女と別れ、道なりにしばらく進んだ所で、十字路からなる小さな広場に出た。そこには、旧都がまだ首都であった時の名残か、整然とした道が引かれているが、石畳はまともに残っておらず、あちこちが割れて隙間から雑草が生い茂り、外れた場所は、通行人に踏み荒らされたのか、剥き出しの土が、壁面に受けた月光に柔らかく照らされる。
広場の中央には、樹齢が如何ほどであるのか。家屋の屋根も遥かに追い越し、天を突くように伸びた巨木があり、それが視野の大部分を占め、異質な雰囲気を漂わせる。いまだに切り倒されずに残るとは、神木の類だろうか?
「や、やめてください! 手を放して――」
その巨木の前で、何やら諍いがあり、三人のごろつきらしき男たちが、若い女性の手首を掴んでいる。握る手への力の入りようが、剥き出しの前腕の筋の動きから見て取れる。
「ふむ。何やらただならぬ雰囲気……」
筋骨たくましい男に力ずくで何を求められているのか。事情は分からないが、そこへ素早く近づき、掴まれた手に自らの右手を重ねた。
「何事ですかな?」
一瞬で隣に現れ、手を置いた私に驚き、男たちが悲鳴を上げたが、自分たちの行動を恥じたのか、すぐに大袈裟な身振りで、居住まいを正すが、その瞬間に女性の手首が解放された。それに合わせて間に入り込む。
男たちは私の行動を見て、わざとらしく怒りの形相を取った。最初の驚きぶりから虚勢にも思えるが、この手合いは根に持つモノだ。女性を助けるにしても、後々てを出せないように上手くまとめる必要がある。
「なんだ爺さん? 俺たちの邪魔しようってんなら――」
ここで先頭に立った大男の表情が変わり、額から一筋の汗が流れる。そして、大きく息を吸う音が聞こえた。
「へ、変態だッ!!」
なんと!? 一体なにを見て!?
「や、やべえ! こんな夜中にこんな奴と会っちまうなんてよッ! マジでツイてねえッ!」
そういって腰が抜けたのか、上体をくねらせ、転げそうになりながら反転して一目散に去って行く。それを見守っていた他の二人も、しばし遅れて慌てて追いかけて路地の闇に消えて行った。
「むう。不可解な……。一体なにが……」
周囲を見回すが、それらしきモノは見当たらず、遠巻きに見守っていた傍観者たちと目が合う。すると――。
「ひ! こ、こっち見たぞ! あの爺さん!」
「ど、どうする? 逃げるか!?」
「あ、あんなボロボロの服。近場の貧民街の連中でも着てねえよ」
「そうだよな……。やっぱわざとだよな」
むう? 何やら解らしきものが朧げに……。
「くッ! まだこっち見てるって!」
「あんな筋骨隆々な身体をよ。至る所からはみ出させて……」
「アアッ! やっばい想像が……! も、もしかして誘ってんのかもしんねえ!?」
「オイ、逃げるぞ! さっきの動き見てただろッ!? 襲われたらどうしようもねぇ!!」
そして、一通り喚き散らした男ふたりは、「ひ! まだ熱い視線そそいでんぞ!」と残し、尻を抑えながら逃げ出していった。
そこに女性の不安そうな声が聞こえた。
「あ、あの。助けて頂いたのは嬉しいのですが、あなたは、その――変態なのですか?」
事態が呑み込めず、硬直していたが、自身の衣服は燃やされ、擦り切れ、刻まれ、弾け飛んでいた。その事実に思い至り、あの少女の寛容さが更に身に染みて分かる。
「ああ……。いえ、決してそういう者では……」
女性は落ち着いた様子で答えた。
「そうですよね! こんな夜中にたまたま通りがかった私を助けてくださった人が、変態だなんて、暴漢の虚言に過ぎませんよね」
どう納めるべきかと悩んでいたが、思わぬ形で決着がついてしまった。これであの男たちが二度とこの女性に手を出さなくなるとは思えないが……。
考えを巡らし、しばらく黙っていると、女性は不安そうに手を前に伸ばして宙を探る動きを見せた。その見慣れない動作に、昔の記憶が蘇り、ただ細いだけかと思っていた目に注視する。
「もしや――目が見えないのですかな?」
思わず声に出していたが、その不躾な問いに、女性は気を悪くしたのか、眉根を寄せて何かを考え込む仕草を取った――。
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