救いとは響き渡る魂の共鳴
激しく増していく痛みに呻き、焦燥感が身体中に広がって行く。
「大丈夫……?」
その言葉に驚きを隠せず、隣の少女に目をやる。
「言葉を話せないのかと思っていましたが、勘違いだったようですな」
あの地下より救出し、これまで全く声を発しなかった少女は、こちらの言葉には反応せず、少し俯いた。そのぎこちなくはあるが、可憐な仕草が、余計に焦燥感を煽り、すぐさまその場を跳びだしそうになる。
「説明をする猶予もないのです……。私は直ぐにこの場を離れなければいけません。……しかし、決して貴女を見捨てはしない。必ず戻ってきます。だから、ここで待っていてください」
俯いていた少女は、長い髪を揺らし、小さく呟く。
「ミラ」
その言葉の意味がすぐには呑み込めず、僅かに硬直し、考えを巡らせ、やがて解と思しきものに行きつく。それをゆっくりと、自らを落ち着けるようになぞり、問いかける。
「貴女の、名前ですかな?」
少女は、小さく頷き、伏し目になる。
「ミラ……。貴女の纏う何処か神々しい雰囲気に、相応しい、美しい名ですな」
少女の右手が自らの髪に触れ、その先端を撫でる。
神々しい気配。無粋な言葉を用いれば、何処か、ヒト離れをしている。あの場での壮絶な戦いの経験がそう思わせるのかもしれない。この少女が、あの鏡の化身たちの術者なのか。いまだにその真相さえ分からないが、死の騎士の言からも、何らかの関係があるのは間違いない。
「うぐ!」
胸の内で増幅し、激しい鼓動のように連続した痛みが、限界の近づきを告げる。
バルコニーから屋内へ繋がる扉を静かに開き、中を覗き込む。廃墟となってどれだけ時が経ったのだろうか? 室内は暗く見通しが効かないが、薄汚れた壁、テーブル、そういった家具と共に、扉が生んだ僅かな気流が埃を浮かせたのか、射し込む月光を薄く反射する。生き物の気配はないが、完全に安全な環境とも言えないだろう。だが、夜の寒さと人目を避けるにはこの部屋に残していくしかない。
「早くこちらへ」
少女に手を伸ばすと、こちらの手を握り、ゆっくりと立ち上がり歩き出した。解放されて間もないが、全く動けなかった訳ではないらしい。最も彼女がどれだけの時をあの場で過ごしたのか、想像もつかないのだが。
少女を室内に導き、隅に置かれた長椅子の表面に厚く積もった埃を払う。
「むう。埃が気流に乗って舞い上がる……」
どうにも清掃という行為には愛着が湧かない。戦いばかりを繰り返して来た自らの過去を寸時の間、悔いるがそれは現状には似つかわしくない感情だ。限界を感じつつもそんな考えの浮かんだ自身の業に苦笑する。
「少々、埃っぽくはありますが、ここへ」
少女は素直に長椅子に腰掛けた。そしてこちらを見上げ、次の言葉を待つ。上目遣いの大きな緑の瞳に見つめられ、慈しみに似た想いが湧き出して来る。少女の衣服を確認する。この気温では少々、寒さが堪えるかもしれないが、先ほど手を握った時と抱きかかえた時の身体の温かさを思い出し、感じていた疑問が表出した。
囚われていた場所の性質や、出自の不明瞭さ、それらの要素からヒトではない者かと漠然と思ったが、間違いであったかもしれない。ここで、このボロのようなコートを置いて行っても、大した助けにはならないだろう。残された時間が刻一刻と壊れた砂時計のように漏れ出していくのを、胸を刺す痛みが訴えかける。
今は迷う時ではない。
「もう一度いいますぞ。……必ず戻ってきます。もし、何者かが近づいてきたなら、息をひそめて隠れてください」
これ以上、言葉をかけ続ければ、置いていく事に抵抗が生まれるだろう。黙して振り返り、再びバルコニーに出て、一気に跳び上がる。
「どうにか人気のない場所へ――いえ、それは後ろ向きな考えだ」
まだ猶予がある。何とか食料を――。
「ぬぐッ!?」
少女を隠した廃屋からしばらく屋根を跳び、廃墟化した一帯から抜け出た辺りで、肉体を貫通するような激痛が襲う。その痛みで意識が朦朧とし、体勢を崩し、地面へと落下し叩きつけられた。
「くッ!」
骨にまで響く衝撃を受け、その場で呻きながら反転し、仰向けになり、コートの内を探る。
「期待は出来ませんが、ここに携帯用の糧食が……」
指先がぼそぼそとした乾燥した物体に触れ、それを掴もうとしただけで崩れ落ちるのを感じた。
「やはり……。包んでいたはずの袋まで、焼け落ちたか、もしくは……。どちらにせよ、これでは食べられない」
あらゆる事態を想定し、コートに耐熱の術式や、幾つかの耐性をもたらす魔法をかけておくべきだったと、僅かな後悔と、自分の迂闊さへの内省を始め、それにまた苦笑する。内ポケットから抜いた指先には、黒く焦げ付いた粉がまとわりついていた。
「……誰?」
すぐ近くの家の玄関の扉が、恐る恐る開かれ、子供らしい高い声が聞こえる。
しまった! 思ったよりも進行が速い!
倒れた自らの肉体に現れ始めた変異に気付き、今すぐ離れろと叫びだしそうになる。無思慮にそうすれば己の情動が引き金となるだろう。
だが。
今、ここで、誰かの恐れや、不安の籠った悲鳴を聞いてしまえば――。
もう――。
「大丈夫ですか!?」
土を蹴る音が、徐々に近づいて来る。
不味い!!
今すぐ離れなさい! 我も忘れ、そう叫んだと錯覚するが、既にヒトの言葉すら失われていた。喉はただ掠れた息を吐き出すだけで、声にはならない。変異の象徴である肉体に浮かび上がる紋様が黒く脈打ち、視界が徐々に色をなくし、灰色に近づいていく。
その一瞬で、無限にも近い内省を繰り返していた。
何故こうなってしまったのか、これは、最も受け入れがたい結末だ。自身の油断が招いた? 無意識のうちに育った傲慢さが? 自らが強みだと思い続けた思考も、所詮は思い込みにすぎず、あの鏡の化身が指摘した弱みそのものなのか。考えるより早く行動していれば、猶予を削られる事なく、任を続行できたのだろうか?
いや、任を侮り、十全の備えを怠った。それこそが破滅を引き寄せたのか?
否!!
風切りと鏡の化身の二体。その姿が鮮烈に浮かび、意識は憎悪に塗りつぶされていく。
奴らのせいだ! 奴らの――! 奴らが大人しく直ぐに死んでいれば、こんな事には! 弱者の分際で! 強者に歯向かい、その手を煩わさせる! 弱い癖に自尊心ばかり無意味に肥え太り、魂に蛆がたかっている事にも気付かない! そんな無価値な存在が! この私を――!
弱者の分際で――!
噛みしめた歯が摺り合わされ、不気味な音を立てた。
爆発しそうな怒りと憎悪の中で、視界が揺らぎ、大穴に渡された細く、心もとない縄の上で体幹を小刻みに震わせ、落下への恐怖に耐える幻が現れる。それが激情を流し去り、真下に開く深淵を覗き込む。
そうか――。
全ては私の驕りが生んだモノなのだ。戦とは常に綱渡りの連続で、危険をこそ友とし、それを飼いならして初めて戦士として完成されると。
しかし、それこそが驕りだったのだ。
戦いを繰り返し、打ち破り、生を手にするたび、徐々に、徐々に、心は蝕まれていたのだ。相手を劣った存在と呼び。その力の全てを目にして打ちのめす。歪んだ欲望。
何度もいい訳を繰り返し、その歪さに目を伏せて来た。
その帰結がこれか――。
暗い底の見えない穴が手招きしているように見えた。
いつも、一人で戦い、孤独の中で私の心は、底知れぬ虚無を抱え込んでいたのか。綱渡りをしていたのではなく、この底の見えぬ穴こそが、私の深淵であり、私じしん――。
あの時、あの方に救われた頃より、この穴は私の中で育ち始めていたのだ。
ただ、救いを求めて――。
希望を、救いを求めて開いたはずの穴を実際に満たしたのは、敵の絶望や恐怖。そういった負の感情だった。本来、手にしたかったモノには届かず、相対し、敗れた者たちの死に寄り添う穴は、時を経るごとに変質し、目的じたいを知らずにすり替えた。
これを死で満たす事が、生まれた理由なのだと。だが、それは、私が恐れ続けて来たバケモノの性そのものではないのか。
幻の中で、底の見えない穴を見下ろし、気付かぬうちに両目より大粒の涙が溢れだす。
落ちゆく身体が伸ばした手。必死に空を掻くそれが掴まれたのは、ただの一度であった。そして、救いを知った。
ただ他者に対し、二度目を求める。赤子のような純情が、それこそが、私の原動力だったのか――。
だが、二度目が訪れる事はなかった。
涙も吸い込み、全てを黒く染めていく穴を見据え、足をそっと宙に浮かせる。
帰ろう。
本来、終えられたはずの時の始まりへと。
帰ろう――。
だが、無限に続く浮遊感に包まれたはずの身体は、一向に落ちる気配を見せない。その時、耳元で、闇を払う声が響いた。
「大丈夫!?」
その瞬間、再び意識は覚醒し、歪み、灰に染まった視界は、元の闇夜を、先に見える星空を捉えていた。
「良かった。生きてた――」
恐怖など微塵も感じない。ただ、相手を気遣う優しい声が、鼓膜を揺らし、脳を越え、魂の内にまで響いた。
気付けば倒れた右手が、強く握られていた。
その声の主は、十にも満たない少女のようだった。粗末な衣服、手入れをされていない光沢を失った毛髪。明らかに貧民街の住人らしき姿。だが、その少女は予想に反し、私の風貌を見ても全く恐れる事なく、手を伸ばしたのだ。
その時、背筋に電流が走り、ミラを救い出し、手を取った。そのイメージが心に波紋のように広がる。
「そうでした……」
目に映った星空の瞬く無数の星たちが、過去に目にした人々の顔に重なり、急速に流れ、彼方より去来する。
「喋れるんですね! 何があったの――」
奈落より救われたあの時より、常に孤独に救いを求め、彷徨った。
それは、錯覚だったのだ。
こちらの右手に重なる手に、指先に力を込め、そっと握り返す。
この通り、今も救われた。私が虚空で伸ばした手。それは恐らく何度となく掴まれて来たのだろう。
だが、私の心の曇りが、その事実を拒んでいたのだ。無意識に救済のハードルを高くし、あの方の影を追い求め続けた。それはまるで恋のような純情だったのかもしれない。しかし、それが孤独の幻を生んだ。
「ずっと、一人で生きて来た気になっていました」
少女は言葉の意味が呑み込めないのか、慌てた様子で返す。
「え! え!? 何のこと!?」
心の中に何度となく現れ渦巻いた、深淵の綱渡りの幻影は、その瞬間に、亀裂が入り、粉々に砕け散っていた。
「こんなに老いて、初めてそれに思い至るとは……はは! 私も、まだまだ未熟ですな」
ゆっくりと上体を起こし、少女に礼を返す。
「ありがとう。貴女のおかげで救われましたぞ」
少女は目を丸くし、私の言葉を反芻しているようだ。
「え! え!? 私、まだ何もしてないよ!」
一時、幻影の崩壊と共に、抑え込めたようだが、まだ暴走の危険は消え去ってはいない。見るからに食うにも困る身なりの少女に、それを求めるのは気が引ける。だが、このままでは何も変わらない。
「申し訳ないのですが、何か、食べ物を持って来てもらえませんかな?」
「え! お腹が減って倒れてたの!?」
それに曖昧にはぐらかして答える。
「え、ええ。そうです。もう空腹の限界でしてな。意識が朦朧としていたのですよ」
少女は、慌てた様子で振り向き、転げそうになりながら走り出す。
「待ってて! 何もないかも知れないけど、絶対みつけてくる!」
そう言って、直ぐ近くの扉の開いていた粗末な家屋に消えた。土を固めたと思しき壁は、所々が崩れ、構造が覗いている。この冷え込んだ春の夜に、あの家で眠るのは堪えるだろう。
開いたままの扉の内から何かを探る音が響く。
「ふむ。今はただ純粋な魂を信じ、待つのみ」
先ほど自らの心に、長らく巣食い続けた幻影を打ち破った時に、感じたモノを反芻する。
「ミラ……」
そんなつもりで、あの場で戦い抜いた訳ではなかった。だが、彼女は確かに救いを求めていたのだ。掌を握り、掴んでいたその手の感触を思い描く。
「救いを求めて彷徨った。そんな私にも、ヒトを救う事が出来るのでしょうか……?」
そして、また星空を見上げ、思い出に現れる人々の顔をなぞっていく。
「私は、正しさのため、ただ戦いだけを見据え、その結果すくわれる人々を見ていなかったのだ」
思えば多くの敵と自分いがいの血も見た。それが悪により、無為に流される事を止める。本来おうべき使命とは、それだったのではないか。
「今からでも、遅くはないでしょうか……。いえ、この危機を乗り越えたなら、その時こそ自らの意志で救おう」
ただ、手を伸ばし、救いを求めるのではなく、こちらに向けて伸ばされた多くの手を掴み取ろう。
力の限り。
「この老いた心の臓が、止まり、役目を終える、その時まで――」
静かになっていた家屋より、再び動きがあり、音が聞こえる。
心にあり続けた澱が、流され、新たな決意と共に、瞬く星々を見つめた――。
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