無名の不死者『死の騎士』
目についた金色の輝きを確かめるため、一歩を踏み出そうとした時、肉体の状態が、先ほどまでの記憶と異なる事に気付いた。痛みも感じず、右半身を中心に、至る所で起きていた出血も、見えなくなっていた。
「ふむ。奇怪な現象に思えますが……」
身体の隅々まで視線を動かし、状態を確認する。怪我がひとつも残っていないのは、もしかすると肉体の時が過去に飛んでいたのが原因かもしれない。
最初の左腕を巻き戻した作用。その時、異能により難を逃れる前に、肩から全身へ駆ける力を感じた。そこへ傷を負ったため、術の影響が解けた今、現在に戻った肉体は、生命反転によって回復された状態に回帰した。
「コートも、その下の服もぼろきれの様なありさまですが、こればかりは仕方ありませんな」
もはや、防寒作用どころか、衣服としての基本的な役割すら果たせそうにない。破け、刻まれ、弾け飛んだ残骸を身にまとっている。特に酷い左腕は、肩回りを除いて剥き出しだ。自然とため息が漏れ出すが、傷が消えた事は、幸いだった。
「早急に脱出を……しかし、道も分からない今、流れに身を任せるしかありません」
とりあえず、先ほど気になった何者か、その姿を確かめに歩みだす。
石の床に足音が響き、壁で反響し、部屋中にこだまする。音に気付いたのか、目の前にうずくまる影に動きがあった。
金色の、輝きを放つモノは確かに髪の毛の様だ。艶やかに伸びる長さから、女性かもしれない。
「あ……」
近くまで寄った時、床に倒れ伏していた影が、声を発し、こちらを認識した。
とても幼い、十にも満たない少女の様ですな。しかし、この容貌、何処かで見た覚えが……?
「あ……」
喉の奥から絞り出す様な声。それと共に、右腕が伸び、細い指先がこちらへ近づく。それを目にした時、少し前の記憶が蘇った。
「貴女は……。先の無明迷宮に踏み込んだ時に、出会った……」
その場ですぐに崩れ落ち、伸ばされた手は空を切った。あの時は、ただの悪辣な罠の類だと感じていた。そうではなく、あの姿こそが、陣の主のモノだったのか。
懇願する様な大きく緑の瞳がこちらを見つめる。震える指先、あの闇の中では、手に取る事は叶わなかったそれに、無意識に指を伸ばしていた。
少女の手を優しく包み込んだ、その時。部屋に奇妙な声が響く。それは疑いようのない賞賛を表していた。
「見事だ……!」
その声が聞こえた方向へ、素早く目をやり、薄暗がりを見通す。
「その娘の、伸ばされた手。救いを求めるそれを、握り返した。成し遂げたのは、貴公が起首だ」
「訪れた誰もが、空を切った指先を二度、目にする事すら叶わず、命を落とした。己が魂に誇るがいい。今、この時、永劫の呪いは破られ、解き放たれたのだ」
暗闇に伸びあがる巨大な人影、いや、その頭部を目にした時、背筋に電流が走った。それを人影と表す事に、疑念が生まれ、瞬く間に全身へと広がり、骨髄にまで染み込んでいく。
「剥き出しの……骨?」
頭の形状は、ヒトの頭蓋骨そのものであり、見たところ兜の類にも思えない。先ほど発した言葉は、ひとつひとつが、空洞の頭部の中で反響し、幾重にも連なって聞こえた。その声は、低く軋み、まるで硬直の始まったヒトの死体をあなぐらに打ち捨て、それを幾度となく繰り返した様な不快で、心臓を締め付ける響きを帯びていた。
スケルトンの様な、低位のアンデッド。そんな存在が、人語を流暢に話す、記憶をいくら探っても、該当するモノは見当たらず、眼前に聳える影が、見慣れた対象ではないと、暗に訴えかけ、それが否が応でも不安を刺激し、心をざわつかせる。自然と隣の少女の手を握る指に力が入り、緊張に堅くなった末端の血管が収縮し、しびれを引き起こす。
リッチ……? いや、巨大な身体に全身を覆う重装の鎧。永遠の命を求めた魔法使いの成れの果て、過去に何度か相手取った彼らの中に、戦士の様な外見をした者はひとりもいなかった。
高位のアンデッドに、剥き出しの人骨を象った者が他にもいるのだろうか?
「貴方は……何者ですかな?」
乾き、上手く回らない舌を無理に動かし、問いかける。
巨大な影は、手に持っていた抜き身の剣を床へ突き立て、それを支えに籠手で覆われた両手を柄尻に揃える。それが戦意がない事の表明なのか、逆の意味となるのかは分からない。
「生憎、名は持たぬ。……貴公の如き強者に名乗れぬ様では、武人の名折れ。それを承知はしているが、許せ。ない袖は振れぬのだ」
巨大な影は、至極、残念な様子で言葉を返す。ただのアンデッドがこれほどまでに感情豊かに話すものだろうか? しかし、名前がないとは、どういう事だろう。生前の名を忘れてしまった? 復活させた何者かが名を与えなかった? 或いは――。
「……下衆の間で通る名ならばあるのだが。これはあまり好まぬ」
「それでも構いません。是非とも高名をお聞かせ願いたい」
しばしの沈黙の後、また不気味な反響が聞こえた。
「……死の騎士。安直で、重みもなく、誇りも感じぬ。まさに下衆共が面白半分に囃し立てるに相応しいつまらぬ名よ」
死の騎士……? 一度も聞いた覚えはない。この大地の地下ではノームとアンデッドが終わりのない抗争を繰り返していると言うが、そこから漏れ聞こえる噂でも、今の名が挙がった事はなかった。
「しかし、やはり強者との交わりは心地よいものだ。貴公、まったく恐れておらぬな? 何、緊張は手に取る様に分かる。だが、それを恥じる事はない。緊張と恐怖は別物よ。強張る肉に対して、心は弾み、相対するだけで、互いの力を値踏みする。……その真価を問うために」
外見と似つかわしくない饒舌さが、油断できない相手だと強く感じさせる。いや、全身を針の様に刺す威圧感。それがそうさせるのだ。表情があったなら、にこやかな笑みでも浮かべているのだろうか? 月明りに白く光る頭蓋の底の見えない眼窩を覗いていると、早急に脱したいという思いが膨らみ、焦りが血液に乗り身体中をくまなく巡りだす。
悠長に話すその姿が、一変し、次の瞬間には刃がこちらに食い込んでいるかもしれないのだ。
「さて。話が長くなったな。幾ばくもなく下衆共が、慌ただしく這い出して来るだろう。……貴公、目的を果たしたのならば、早々に立ち去るがいい」
話が見えない。一方的に切り上げられた会話の裏に何がある……? そういえば、この部屋は一体なにを目的に作られたのか。奥に続く通路の先には何が隠されている……?
まったく敵意らしきモノを感じない、それが原因で緊張が緩んだのか、いままで蓋をされていた言外の思考が溢れだして来て、口をついて出る。
「……その通路の奥。先には何があるのですかな? 答えによっては、放ってはおけません」
頭蓋骨の剥き出しの顎が擦れ合い、薄気味悪い音を立て、鎧に覆われた両肩が上下に揺れた。
笑って、いる……?
「貴公。いささか無粋よな。二兎は追えぬと心得よ。……その娘の手を取った。ならば、娘を連れて去るがいい。それが道理というものだ」
確かに、もう戦う力は残されていない。だからといって、見て見ぬふりは出来ない。地上での悲劇。その原因が、もしこの先にあるのなら、例え一命を賭しても任を遂行せねばならない。
「……その目を見れば分かる。強欲は身を滅ぼすぞ。救うか進むか、ふたつにひとつであった。時はさかしまには流れぬ。既にその娘の手を取ったのだ。ならば、むずがる赤子の様に醜態を曝す必要もあるまい。潔く離脱せよ」
それを言い終えた時、床に突き立てた剣が閃き、天井へ向けて振り抜かれた。
「英雄には常に決断がつきまとうものよ。……もし、道理を越えて、この先を望むのならば、我を相手取ると知れ。不本意ではあるが、守りを任された以上は、最後まで貫き通す、それが武人の誇りよ」
「機を失えば、潔く退く。命を投げ捨てる凡夫より、引き返す勇気を持った者。それこそが斯様な時代に求められる高潔さよ。……貴公、履き違え、この場で塵となるを望むか? では、その握った手は、どうする。強く握り返され、感じているのだろう、その願いを? 自らの救済の意思をおざなりに、蛮勇を振るう。そうして何を得ると言うのだ」
先ほど剣閃が空を切った。驚いた事に、それは触れてもいない物を切断したのか、時間差で天井が鳴動を始める。
「さあ、選べ、決断せよ。轟音と振動を聞きつけ、この場は間もなく騒然となろう。さすれば全ての切っ先が貴公に突き付けられる。その娘を守りながら、躱し通せるか?」
幾重にも刻まれ亀裂の入った天井から落石が起き。貫いた巨大な穴から白く柔らかな月光が射す。それを見上げ、逡巡する。
「あ……」
その時、繋いだ手に動きがあり、少女が声を漏らした。言葉にならない、まるでため息の様な発声。しかし、それが内包する感情を、その願いを無意識に読み取ってしまった。
ただの思い違いかもしれない。だが、例え錯覚であろうと感じ取ってしまった以上は、もう黙殺は出来ない。目の前に落石の崩れ落ちた山が出来ていく中、震える床から異なる振動を感じた。
「この音は何処から聞こえている――!?」
「凄まじい振動だ! 聖院ぜんたいが震えているぞ!?」
遠くから響く声と足音が、壁を伝い反響しながら近づいて来る。もはや幾ばくの猶予もない。先の戦いでほぼ全ての力を出し尽くした。回復も挟まずに更に交戦するのは現実的ではない。ましてや、目の前の死の騎士がどう動くかの予想がつかない上に、駆けつける他の者の戦力も不透明だ。
死の騎士の行動によって判断の時間が削られ、今すぐ決断しなければならない状況へと追い込まれた。
「失礼。年若い女性をこのように扱うのは気が引けますが……」
握っていた手を離し、少女を両手で抱き上げる。羽のように軽い身体は、重さをほとんど感じさせず、金の髪が軽やかに揺れた。
「ようやく覚悟が決まったか」
死の騎士は満足げに頷き、月明かりに照らされた剥き出しの骨を不気味に光らせる。
天井に空いた、完全に地上へと貫通したと思しき空間を見上げ、ルートを予測しながら跳び上がった。
「英雄よ。焦らずとも機はいずれ訪れよう。……貴公が生きてさえいればな」
跳び上がり、すれ違う瞬間、黒く底の見えない眼窩と視線が交錯し、身体が強張るのを感じた。
「……信じられない事ですが、あの一振りで本当に、地上まで大穴が空いたようですな……」
滑らかに繰り抜かれた穴を、壁を蹴り反転しながら地上へと向かう。下からは、その場に集った兵たちの叫びが聞こえた。あと少し遅れていれば脱出は不可能だったかもしれない。
にわかに耳が捉える音声が変わり、いまだ騒乱の続く地上へと飛び出していた。繰り抜かれた穴は、侵入した聖院の中央の建物のすぐ隣に大口をあけていて、陰から周囲の様子を窺う。
「……随分と苦戦しているようですな。しかし、こうなってしまったからには、加勢する事も出来ません」
悪魔と化した女に対する兵たちは疲弊し、辺りの地面には身動きひとつ取れずに転がる姿が幾つも見えた。
既に死んでいるのか、生きているとするなら、今からでも的確に処置を施せば救えるかもしれない。
「……いえ、考えてはいけない事でした。迷いは捨てねば」
それに、私じしんの肉体も限界が近い。少女を安全な場所へ隠し、早急に出来るだけ周囲に人のいない場所へ向かわなければならない。
「……でなければ、次にお嬢様に討たれるのは、私となる」
それが避けられない運命だとは思いたくない。若き日にロゼさまに誓った。その時のあの方の想い、そして自身の想いにも反する結果となる。それは、とても受け入れがたい事だ。
新都のお嬢様へと旧都での事件の報せが入るのは、どうあっても明日の朝いこうとなるだろう。その間にどれだけの犠牲者が出るか……。
それ以上かんがえる間もなく、身体は動き出し、旧都の連なる屋根を跳び、視線を風のように走らせ、周囲から遮断された安全地帯をくまなく探し始めていた。
聖院から離れ、しばらく屋根の上を進んだ時、人の気配をまったく感じない廃墟の一帯に、二階のある比較的おおきな建物を見つけ、そこのバルコニーに降り立った。
傷は残ってはいないが、異能の力をほぼ感じないため、床板とその下の構造が加速した体重を受け止め、軋み、張り裂けるような音が静かな一帯に響き渡った。
「少々、迂闊とも言えますが、この身体の状態では……。今の音を聞きつけた者が近寄って来なければいいのですが――」
「うぐ――!」
にわかに沸き起こる胸を刺す激痛に、人を抱えていたのも忘れ、その場にうずくまる。両手から離れた少女は、小さな音を立て、隣に尻もちをついたようだ。
「不味い――」
これは、明らかに傷の痛みではない。急がなければ――。
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