心の鏡、分かたれた肉体
「どうなっている……? この、数は一体……?」
喉の奥から絞り出された問いに、嘲笑が返る。
「はは! 言ったろ。これが、無明迷宮のもうひとつの力。恐怖の物質化だ」
数は、十二……! この数で同時に攻撃されたら……。
だが、ひとつ奇妙な事がある。浮遊する十二の頭部、その口元の動き、伴う発声は、全てが重なっている。一寸のズレもなく。本体は、ひとつしかなく、その事実を覆う隠れ蓑に感じられる。
「お前ぇ、血に特別な感情があるみてぇだな。こんなに大量に噴き出すなんてよ。……はは、一体だれの血なんだろうな?」
私じしんの恐れの反映……。
「だがよぉ。これを見てると、お前がただのヒトに過ぎねえ事が実感できる」
ここで、十二の視線が同時にこちらを射貫く。
「俺たちは、血を恐れたりしねぇ」
それは……! 血肉を持たない存在だからだ――! ただ、敵の血で穢れるのみの殺戮の化身! そこに自らを疑う感情など、伴うはずもない!
「しかしよ。しつけぇな、お前。もう何回しんでる? いや、こう言うのはおかしいか」
浮き上がっていた無数の手が、忌々しそうに握られ震える。
「……もう、何回ころしたか……。ああ、イラつくなぁ! 頭ん中じゃよお。血まみれの肉塊になった姿が何度となく浮かんだんだよ……。だが、その悉くを躱され、そうやってお前は、目障りな姿をさらし続けてる」
「今度こそ、俺たちの視界から、薄汚えノイズを消し去ってやるよ」
二十四の瞳が大きく見開かれた。
「最も確実な方法でな!」
そこで若き似姿の一体が、武器を構える姿勢を取り、一時、思案する様子で首をかしげる。
「ああ。そうか。さっきぶっ壊れちまった……」
他と動きが異なる! あれが、本体なのか――!? いや、それよりも気がかりなのは、今の発言の意味……。
「まあいい。なくても何とでもならぁ」
あれが本体であれば、他は姿を真似ただけの分身……? その位置を焼き付け、一直線に跳び込もうと試みるが、力を入れた左脚に激痛を感じ、動きが止まる。
「ぬぐううう」
見れば内側から弾けた様に、出血し、筋肉の損傷から力が抜けていく。
「はは。いいザマだな。もう、俺たちの力もほとんど残っちゃいねえが、後は、二重戦術陣があれば、それだけで事足りる」
他と動きの異なる一体は、こちらを鋭い目で見据え、いままでに見た事のない、冷たい表情を取る。
「……俺が、本体だと思ったか? その通りだよッ! だがよ、分かったからと言って、何が出来る?」
胴体に繋がらず浮遊していた右腕が真っすぐに伸び、その先端の人差し指がこちらを向く。
「自分の往生際の悪さが、どの程度か。それに、運命を塗り替える程の力があるか。……試してみるか?」
周囲を覆い尽くす程の数で漂う分身が、一斉に動き出し、補足したはずの本体もそれに紛れ、どれであったかが分からなくなる。
「ぬう! 見失ったか――」
「見失ったってぇ!? はは! 俺ならここにいるぜ。よおく、見て、今度こそ目ぇ逸らすなよ?」
視界を覆う分身たちの陰、その隙間を抜けた声に、引き寄せられる様に、素早く視線を走らせる。
「捉えた――!」
いや、判断を焦り過ぎだ。今の言葉が、真実とは限らない。
その時、また左脚に激痛を感じ、肉が削がれたのを見た。そして、内側より何かが飛び出す。
「ぬううう!? 今の物体は――」
それを右手で掴み取り、目を凝らし、正体を確かめる。
「これは――鏡の、破片……?」
だが、掴んでいたはずの破片は掌をすり抜け、中ほどに埋まった瞬間に、再び自らの血が噴き出す。
「ぬぐッ!」
まさか、透過した破片を秘密裡に飛ばし、それを……肉体の内側で実体化させ、無理やり肉を抉ったのか……!?
「オイオイ。そんな血眼になって確かめる事か……?」
周囲を飛び回る無数の影の中で、声が聞こえるが、その位置を捉える事は出来ない。
「短い間だったが、お前の習性が見えて来たぜ。……お前ぇ、イチイチ考えすぎだろ? それが足枷になってんのが分かんねえのか……?」
そして、笑いを含んだ響きに変わる。
「まあなあ、今更そんな事しっても意味なんてねぇな」
右肩の肉が削がれて内から弾ける。
「ぬうう!」
「正体を確かめた所で、これをどう防ぐ? そんな事に使う時間があったら、動いて俺を探した方が良かったんじゃねぇのかッ!?」
飛び回る無数の影に目を奪われるな……! それに目が眩めば思うつぼだ!
「ぬぐう!」
右脚に激痛と出血。もはや、動く力さえ尽きようとしていた。
確かに、思考は武器であり、同時に枷ともなる。だが、それがあったからこそ、これまで勝ち続け、生を手にした。それを今更かえるなど、愚考に過ぎない。
いや、この考えこそ、愚考か……。
「ふふ、ふふふ。……培われた性分は、変わりませんな」
「ああ? 遂に気でも触れたか?」
次々と貫かれる苦痛に耐え、両目を見開く。
「とうに覚悟は出来ています。この性と共に鬼籍に入る」
「その時が来るまで――!」
「しかし! それは今ではないッ!」
削がれ続ける肉体は、血を流し、身動きも取れずに天井に張り付き続ける。
「ああ? そのザマでよく吠えるな。まあいい、そろそろ仕上げだ。お前の存在を、この世から消去する」
無数の影の裏から本体が姿を現し、視線が交錯する。
力を失い、垂れ下がった左腕の感覚を確かめ、その様相を思い起こす。
これが、思った通りの作用の結果ならば、恐らく――。
「ぬううう!」
直後、身体中に、何らかの力の働きを感じ、すぐさまそれが左腕を襲ったモノと同じだと悟る。
「ははは! 本当に、諦めちまったのかッ!? つまんねえなあ、もっと足掻けよ!」
動くな。耐え続けろ。
自らの思考に囚われ、それが己を縛る拘泥となる。確かにそれは、恩恵と損害を持つ、諸刃の剣だろう。それが、心の内にあり続ける限り、その呪縛から逃れる術などない。
しかし――。
「それは! 己の内にのみ在る場合だけだッ!」
「何の話だ? もうすぐ初期化が済む。……お前がこの世に存在した記録。その全てが今日、潰える」
感じる――今なら出来るッ!
こちらの視界を塞いでいた無数の影を一閃し、打ち砕かれた破片が、次々と天井へと飛び上がり、動きを止めた。常軌を逸した速さに、連続した打撃音と、それに伴うガラスの砕ける音のみが空間を震わす。
視認できない程の速さが、ただ無数の残骸を生み出す音のみを刻む。
「は――? な、に、した……?」
体内では、心音が、嵐の如き唸りを上げる。
「弱点は――」
全ての分身を打ち砕き、本体へ向かって、真っすぐに跳ぶ。
「己の内にあるからこそ、弱みとなるッ! しかし! それを敵に知られた時、それは異なる意味合いを帯びるッ!」
咄嗟に両腕を構え、防御態勢を取ったのを確認し、それを無視して全力で右の突きを繰り出す。
「そうだッ! 相手の弱みを知った時、対称となる者の心の内にも、新たな急所が生まれる――」
弱点を上手く突いた。そうして与えた損害。その成果を確認する事は、他では得難い高揚をもたらす美酒だ。それに呑まれ、酔い、驕った時、己の弱みであったはずのモノが、相手の喉笛に食らいついている。
心は、鏡の様な物だ。お互いに影響を及ぼし合い、その姿は万華鏡の如く移り変わる。良い影響も、悪い影響も、そのどちらも本質は、同じ、囚われれば、判断を誤らせ、破滅を招く。
「まるで皮肉の様ですな。鏡の化身であるはずの貴方が――」
「自らの心の鏡を曇らせた」
凄まじい衝撃波を伴い、防御した右腕が砕け、身体を直接、床に叩き伏せていた。破片は、一瞬で天井に縫いつけられ、それが次々と飛び上がり、逆さに天へ向かう煌めく雨の様に映る。
「言いたい事は、それだけか……?」
倒れ、半ば砕けた身体から鋭い一撃が伸びた!
「良くできた寓話だとでも? そんな事はよ――」
その一撃を無防備な頭部に受け、あまりの威力に、背筋が反り返る。
「ぬあああッ!」
飛び散った血が、天井へ吸い込まれるように消えていく。
「生き残ってから言えよ」
いつの間にか、上方へ向かう力が弱まり、ぼたぼたと、溢れる血が床へ広がって行く。
「何をしたのか分からなくてよ。一瞬、驚いた。だが、直ぐに分かったよ。さっき、俺も使った力だからな。あれだけの事で、自分の身体に何が起きたのかを悟ったってのぁ、すげぇよ。……でもよ、もう全部、出し尽くしちまっただろ? ボロボロで、力なしじゃ動かない肉体。残ったのは抵抗も出来ねぇ左腕のみ」
「はは! もう言っても仕方ねぇか。俺の左手は、確かにお前の頭蓋をぶち抜いた。貫いた脳の感触が指先から伝わって来る」
「はは、ハハハッ! 終わった――ようやく終わったんだッ!」
「ハハハ――」
「は――?」
再び動き出した身体を見て、勝利の哄笑が、凍り付く。
「なんで、何でまだ動いてんだよッ!? おま――」
「え――」
頭部へ真っすぐに伸びた、一撃を寸でのところで躱し、致命傷を避け、残った異能の力を振り絞り、指先への感触を偽装した。
「野生の本能……いえ、ハンターの習性とでも言えますかな? 窮地に陥り、他に手がない時、無意識に、自らの急所と同じ部位を狙う」
事前に得た情報により、それが読めたからこそ。最後の一撃を躱す準備が出来た。
当たれば即死の急所へ伸びる左手、それを前頭部の生え際の傾斜、頭蓋骨の丸みを利用し、逸らし、直撃を避けた。秘密裡に塗りつけたこの場を満たしていた恐怖の象徴である血液を用いて。
「戦とは、自らの恐怖と向き合い、克服する事でもある。……いえ、そう表現すれば、嘘になりますな。それを認め、共存する事を受け入れる。だからこそ、その先へ進む道が切り開ける……」
滑った指先は、表面の肉を抉りはしたが、命を奪う事は出来なかった。
「ふざけるなッ! このまま俺が、もう一度――」
動かなかった左腕が、頭を捉え、床へ押し潰していく。
若き似姿のふるった力は、恐らく肉体の時間を生まれる前まで戻すモノだったのだろう。それに気付いた時、雷光の如き閃きが脳裏に走った。そうだ、一日に二度、発動できない力。その制約が破られたことを意味していたからだ。
「く、ク、ソ、が。何で、左が」
肉体の時が戻った。それにより、未来の自分が使ったはずの力の制約が消去され、過去に巻き戻された身体は、再びバーサークの発動を可能とした。子供の時の様に、やせ細り、未発達に戻って行く自らを俯瞰し、その事実に辿り着いた。
そして――。
「貴方は、ひとつの失敗を犯していたのですよ。即ち、私の肉体の全てを同じ時まで巻き戻さなかった」
やせ細った腕に押され、軋む頭から声が漏れ出す。
「バ、カ、な」
そんな事は、信じない。そう、続いたのだろうか? 砕け散った頭部は、塵となり、周囲の光景が一変し始める。
「左腕のみが、違う時に存在していた。故に、バーサークを発動する時、肉体の内部で遮断されていたため、影響を受けずに残った」
狭かった部屋は、高い天井と、月明りの射し込む冷たい石の壁に囲まれた空間へ変貌する。
自らのやせ細った左腕に目をやる。
「存在する時の位相のズレ。それがあったからこそ、最後にもう一度、左腕のみでバーサークを発動できた」
砕いた頭の感触が残る掌を開閉し、動きを確かめていると、術者が滅びたためか、巻き戻された肉体が、老いた現在のモノへ戻って行く。
「ふむ。今度こそ、勝った――間違いない様ですな」
「しかし、肉体が若返った時は、肝を冷やしましたぞ。このまま戻れずに終わったら、どうなるかと」
もう一度、元に戻った左腕を見つめ、その側面をなぞる。
「ロゼさま……」
体内での時の位相のズレ。それだけでは、肉体の情報は同一であり、バーサークを限定的な部位に作用させるなど、不可能だっただろう。
「すべては貴女の……」
追加で時を戻された左腕は、若き日、あの方に出会う前まで戻っていたのだ。私が眷属となり、力を授かる前、故に、同じ肉体でありながら、そのふたつには、内部での遮断が起きた。
眷属となった私の肉体の情報は、それ以前とは書き換わっていたからだ。
先に眷属としての影響を受けた左腕いがいが、バーサークを使い、眷属となる以前の左腕を最後の一撃に用いる。
「やせ細り、力を失った。最後の時までその印象が、強く刻み込まれていた。それ故に、左腕が完全に脅威としての認識から漏れていたのでしょうな……」
完全に認識の外側から伸びた力。だからこそ、透過で防御する事も忘れ、もう一度、私を攻撃すれば全てが終わると思い込んだ。
「その致命的な隙がなければ、到底なし得なかった結果でしょう」
勝利の余韻に浸り、ゆっくりと辺りを見回すと、部屋の隅に、何者かの輝く髪が見えた。
月明りを受け、光を返すそれを見つめ、息を呑む――。
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