不可視の恐怖
白衣の男はバルコニーへと踏み出し、外の良く見える端へと歩いていき、手すりに掴まりながら、乗り出す様に遠くを見た。陰に潜む私に気付いた様子はない。
「何の予兆もなく、あれほどの変異を遂げるとは……。大体の者は、特定の段階を経て変異しますが、時折あの様に、突然すがたの変わる者がいる。その法則性は、いまだ解明されていません」
部屋の中にいたもうひとりは、その言葉につられた様に、バルコニーへと出てきて、先の男と同じく、遠くで行われる戦闘へ目を向けた。一見すると柔和に映る細い目が、大きく見開かれ、不安そうに揺れた。
「劣勢なのでは? あのまま押し切られれば、ここへ向かって来るやも……」
先に出た男は、落ち着いた様子で話す。
「心配いりません。ここを守る兵は、あの様な弱兵ではありません。……何せ、秘密を守る事も兼ねていますからな。精鋭揃いです」
後ろの男は、また額を拭い、何処か不安そうに手を強く握った。
「そうですな。ここの地下には、重要な守るべき秘密が……。それを隠し通す事は、何にも優先されます」
ふむ。秘密とは……何を意味しているのか……。
外の様子も気になるが、あちらに加勢すれば、私はここの者たちに認知されてしまう、曖昧な通りすがりの誰か。その方が動きやすい。
外の脅威を取り巻く人々を見捨てる気がして、心が痛んだが、優先順位は変わらない。何よりも、問題を起こす根源を断たねば、同じことが繰り返されるだろう。一時の善意に流され、大悪を見逃してはならない。
「ん? ……おや。部屋の扉、開いていましたかな? 内密の話であったのに、不用心でしたな」
「ん、おお。本当ですな。まあ、二階に上がれる者は、限られていますから……」
通り過ぎた先の廊下は、部屋と違って薄暗く、僅かに開いた隙間から明かりが漏れる。
部屋の中から短い会話と足音が聞こえ、扉は閉められた。
「奇妙な……。これではほぼ暗闇です」
もう日が暮れて随分と経つ、だが、廊下の明かりが一切ないのは、何処か不気味だ。
力を使い、暗がりを見通すと、冷たい空気に満ちた廊下の姿が浮かび上がってくる。
「他に部屋らしき物はありませんな」
彼らの会話からして、何処かに地下への道があるはずだが。同時に気になる事も言っていた。ここを守る兵は、精鋭であると。
「そんな気配は、一切かんじられません」
何らかの生物であれば、ただ生きているだけで特有の気配を発するものだ。それは、呼吸や鼓動、筋肉や骨格、血管の動き、はたまた神経の閃き、そういったモノが、極僅かであっても、外側へ影響し、環境に変化を与える。それを読み取るのは、索敵の基本技術だ。
ゆっくりと歩き出し、自分が感じている漠然とした感覚が、昔はよく感じた親しみのある感情だと気付く。
「これは――恐れ」
暗闇など慣れたものだ。一歩先さえ見通せぬ闇へと立ち入った回数も思い出せないほどに多い。だが、この感覚は、闇によって引き起こされたモノではない。
「何かが――いる」
しばらく行った先に曲がり角があり、そこを通って数歩すすんだ所で、下り階段が見えた。
踊り場を挟み、逆方向へと伸びる一階への階段の先をゆっくりと視界に捉える。
下にはまた暗い廊下が続いているのか、左右に伸びる道はここからは見通せない。
「ふむ? 奇妙ですな。先ほど、指揮官らしき男が逃げ込んだ。……そこは、これ程の暗さではなかったはずです」
一階への階段を警戒しつつ、一段ずつ降りる。板が軋まない様に、力を使い、降り切った所で、左右に伸びる廊下を覗き見て絶句する。
「なんと――」
長い廊下が見えるかと思われたが、そこに道はなく、壁で区切られた行き止まりだった。ゆっくりと近づき、壁に手を当て向こう側から伝わって来るモノがないかを調べるが、その先は虚空であるかの様に、何も感じられない。
「どうなっている……」
壁が破壊できるか試すため、徐々に力を込めて押すが、異様な頑強さで、鉄製でもひしゃげる程の圧力でもヒビひとつ見えない。
「まるでこの壁じたいに非破壊の特性があるようだ」
壁を調べるのを諦め、振り返ると、また下り階段が見えた。奇妙な事に、そこからは螺旋階段になっていて、地下にそんな構造を容易に築けるものかと疑問が沸き起こる。
「ふむ。ここから先が、地下であるなら、地面を掘り抜き、これ程まっすぐに、深く階段を築いたと……?」
降り始めて、周囲の壁へ目を向けるが、剥き出しの土などではなく、確かに木製らしき壁に覆われている。
「……隅を支える柱に、継ぎ目がありませんな……」
中央に続く底の見えない穴を覗き、深さを測ろうとするが、視覚では何の情報も得られそうにない。
「本当に奇妙ですな。これ程の長大な柱を継ぎ目もなく作り出す……? 仮に、木製であれば、どれ程の巨大な樹木を加工したのか……」
コートのうちより、紙片を取り出し、それの端を破り、小さな火を付けて投げ落とす。燃えながら落ちた紙片は、中央の穴を照らすが、幾らか下へ進んだ所で、燃え尽きたのか、再び暗闇が覆った。
「深い……。現代の建築技術に、これ程の穴を築くモノがあるのでしょうか?」
奇妙な事に、耳をすませば風の音が微かに聞こえた気がした。
「建物の中で風が……?」
すきま風か、地下にてつながる空間が外に開けているのか。
調べ様にも手段がないため、一抹の不安を覚えながら、少しずつ段差を降りていく。
床板は軋み、変わらぬ暗がりが続き、壁の様子も一切かわる事はなく。しばらく進んで振り返り、上を見たが、既に天井も見えなくなっていた。いや、それどころか、降りてきたはずの階段が、離れる程に曖昧になっている気がする。
「ふむ。ひとつ都合の悪い想像が……」
頭の中で、この奇怪な現象の答えを探すが、それは、あまり考えたくはない答えだった。
「……既に、何者かの戦術陣の中……かもしれませんな」
突出した才能、もしくは努力の結晶、はたまた神や超自然的そんざいからの下賜、そのどれにも属さないモノ。いずれにせよ過去の記憶を遡っても、戦術陣に踏み入った時、ろくな事は起きず、間違いなく圧倒的な不利を強いられる。
時間の感覚も曖昧になり、気が遠くなるほど階段を降り続けた、螺旋の律動に同期する周囲の壁が、踊っている様に錯覚し始める。
そこで、下る段差の先に、何かが動いたのが見え、咄嗟に構えを取り、ゆっくりとそちらへ踏み出した。
「これは――」
年のころは、十にも満たない様な、小さく、しかし見目の美しい金髪の少女が階段の下に立ち尽くしていた。僅かに俯き、垂れ下がった両手、左にはうさぎのぬいぐるみらしき何か。それの耳を引っ張り、床を擦る。その裸足がふいに動き、こちらへ踏み出し、段差を一歩のぼり、顔は上げられ、緑色の大きな双眸が懇願する様に見つめてくる。
「あ、ああ――」
右手がゆっくりと伸ばされ、しなやかな指先が何かを掴もうと、動かされる。
「む!?」
だが、その瞬間に、強烈な腐臭が漂い始め、伸ばされた手と共に、全身が湿り気と、濁った音を立て崩れ落ちる。その場には、黒い得体の知れない塊と、薄汚れた衣服、金色の不気味な髪の束のみが残る。
「何とも悪辣な……。この陣の主は、ヒトの恐怖を糧とするか……」
その時、背後から何かが動いたのを感じた。すぐさま振り返り、その正体を探る。
「む!? 壁が――動いているッ!?」
それはこちらを押し潰す様に迫り、押し出された身体が、階段の中央の空間へとはまり、落ちて行く。
「ぬううう!」
四肢を伸ばし、引っ掛かる場所を探すが、先ほどまで小さな隙間であったはずの空間は、広がり、階段じたいが離れていくのが見えた。
「如何なる力か――!?」
しかし、これだけでトドメを刺せるとは、思わぬ事ですな!
力を使い、空中を蹴り、急速に離れていく階段へと飛び移る。
「むう。奇怪な動きを見せはするが、階段じたいは確かに物質の様ですな」
床板を踏みしめ、感触を確かめるが、それは木製である事を示す反発を返す。
「これは――次の手、ですかな?」
突然、右頬を濡らした何かを拭うが、それは血液らしき紅く粘性の液体だった。見えない天井から、次々と滴り落ち、雨のように降り注ぐ。
「ぬう、濡れた部位が、滑って――」
それだけではない、衣服に染み込んだそれは、異様に重く、身体が押し潰されそうになる。
「この負荷は――」
まるで重力が増したかのようだ。
動きを阻害され、しゃがみ込んだ所へ、再び壁が迫り、弾き飛ばされたが、不思議な事に、広がっていた空間は元の大きさに戻り、代わりに階段の段差がなくなり、滑らかな板でつながる。
「ぬおおおおッ!?」
滑り台さながらに渦巻いた階段の成れの果てを、流れる血液に乗りながら押し出され、壁へと激しくぶつかっては、また滑り反対の壁へ衝突を繰り返す。
普通のヒトならば、この衝突の威力だけで息絶えているだろう。
防御を固めていた力を、別の働きへと変え、空中に滑り出し、宙を蹴って上空へと跳び上がるが、どこまで行っても天井は見えず、やがて跳躍の限界点へ達し、身体が落ち始める。
「む!」
そこへ、また壁が迫り、驚いたことに、元の大きさよりも空間が小さく縮んでいき、押し潰そうとする。滴っていた血液はいつの間にか見えなくなり、身体は収縮した壁に挟まれ動けなくなっていた。
「くッ! この圧力は……!」
凄まじい圧力で押し潰そうとする壁に、全力で抵抗するが、ただの木製に見えるそれは、どれだけ力を加えても歪みもしない。
「くう……! あまり、試す気にはならなかったのですが……」
物質透過には明確な欠点がある、しかし、このまま押し潰されては、元も子もない。そして、もうひとつの懸念、それはこの空間の不自然さに起因する。この壁は確かに圧力を感じるが、本当に実体があるのだろうか? 意を決し、徐々に壁をすり抜けていく。本来ならば、透過の欠点につまずき、それ以上の進行が不可能になる境目を越えても、問題は起きずに通り過ぎていた。
「やはり……。これを試すのは肝が冷えましたぞ。それにしても……」
頭を振り、周囲を見回す、壁の外に広がる無限とも思える黒い空間。そこには、巨大な人骨らしき手があり、そのうちにある四方が壁の物体を押し潰そうとしていた。
「この壁の中が、戦術陣だとするとこの空間は一体……?」
いや、そもそも透過によって戦術陣の外へ出るなど、いままでに試したことはない。
「ここもひとつの陣の内部なのでしょうか……?」
悠長に観察をしている時間はなかった。壁の外にあった右手らしき人骨は、こちらを感知したのか、壁を圧縮していた指先の向きを変え、身体に突き立てて来る。
「ぐあああッ!」
切り出された丸太の様に巨大な指が、身体を抉ろうとしたのを、寸でのところで透過させ、すり抜ける。
「あが……! 一瞬、判断が遅れれば、完全に貫かれていましたな……」
身体の前面に酷い傷が出来、血が流れ出し、黒い空間に吸い込まれる様に落ちて行く。巨大な人骨の指先をすり抜けて向こう側へ出た所で、反転し、骨にしがみつくが、その瞬間に、また血の雨が降り始め、握力を奪おうとする。
「くッ! 一方的に弄ばれるばかりで、攻略法が見えて来ませんなッ!」
人語を操る者ならば、自らの明らかな有利を悟れば、自分から手の内を曝け出し、勝ち誇り、それが突破口となる事もある。
だが、この陣の主は、言葉を話せないのか、それとも沈黙を貫いているのか、どちらにせよ、付け入る隙を一切みせない。
「もう、掴んでいられない――」
異常な量の血液が手に絡みつき、また衣服へと染み込み、重くなった身体を支える事が出来ず、手を放し落下する。
先ほどまで近くに見えていた階段を囲んでいたと思われる壁と、それを握る人骨は、急速に離れていき、落下速度の異様さに首をかしげる。
「おかしい……。まるで何かに弾き飛ばされた様な速度……」
宙を砲弾の如き速さで飛び、更に加速を続ける。まるで空間じたいが、身体を押している様な奇妙な感覚に陥った。
「何も見えない場所に、力が働いている……?」
ひとつの仮説が頭を過った。
ここは、外と同じ物理法則が働いている訳ではなく、何者かの力によってその全てが制御されているのか?
「いえ、物質の影響度を変えれば、確かに法則も歪んだ。外と全く異なる訳ではありません」
始めはただの物質操作の能力かに見えたが、陣の中だと思われた壁を越えても、まだ異常な空間が広がっている。このまま吹き飛ばされれば、何処へつながる? それとも――。
「ぬああああッ!?」
その時、身体の背面が発火し、強烈な熱を感じた。
「これは――!?」
慌てて消そうとするが、自らの力の働きを上回る何かがあるのか、炎は瞬く間に全身を包もうとする。
発火する程の速度で飛ばされていたとは思えない。やはり、法則が操作されている――!?
相手の正体が全く見えない中、全身を炎が包もうとしていた。このまま何も出来ずに、灰となるのだろうか――。
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