フィフラ・リヴィール聖院
破壊された街並みを抜けた薄暗い路地裏。そこに全身から血を滴らせ、息も絶え絶えな男が片足を引きずり壁伝いに歩いていた。真っ赤な衣服は、より紅い鮮血で汚れ、その魂がこの世に留まっているのが不思議に思える。
「クソ……クソッ! こんな、こんな終わりは、容認できん! 断じてッ!」
そこへ背後の暗がりより声が響く。
「無様だねぇ」
その言葉に、瀕死の男は苛立った様子で声を荒げる。
「レバンか……? 失せろ。今、貴様の相手をしている暇はない」
背後からは押し殺した笑いが聞こえる。
「そんなに興奮するとさあ。本当に死んじゃうよう? ……それにしても、無様だ。それ以外の言葉が見つからないよ」
「黙れッ!」
「……相も変わらず生意気だねぇ。僕は、立場上、君の上役なんだけどなぁ。……その礼儀をわきまえない態度もさ、使えると思ったから許されていたんだねぇ。今までは……」
一呼吸おいて断罪が始まる。
「でもさあ。期待外れって、こういう事を言うんだねぇ。侵入者を始末する所か、足止めすら出来ず、おめおめと逃げ出して。……君にはさあ、戦士としての誇りとか、ないのかなあ?」
静かな警告の様な言葉が返るが、それは虚勢にも思えた。
「それ以上つづけるのなら……」
暗がりからの声は、面白そうに問いかける。
「へえ? 今の君に、何が出来るって? ……でもさ、君の力に、期待があったのは事実なんだ。だから――僕が、有効活用できるよう、手配してあげるよ。くくく」
その言葉と共に、周囲の暗がりが動いた様に見えた。気が付けば瀕死の男は、闇の中に半身が呑み込まれていた。
「アア――アアアアッ!?」
男は断末魔の様な悲鳴を上げ、暗く底の見えない闇の中に落ちて行った。声までも吸い込まれたのか、もはや悲鳴も漏れ聞こえない。
「ああ、すっきりした。初めから、こうしておけば良かったかな……? くくく。まあ、一度くらいはチャンスを与えるのも、上位者としての雅量でもあるからねぇ」
暗がりの声は、一度も姿を現すことなく、最初からそうであったかの様に、夜の静寂と一体となった。
※ ※ ※
老人はよろめきながら天を仰ぎ、口の端からは唾液が流れ落ちる。
「あ、ああ。深淵が――悪魔たちが――アアアア!」
その言葉を最後に、老人は痙攣し、その場に倒れ込んだ。
「なんと!?」
素早く近づき、老人を助け起こす。「ご老人、気をしっかり――」開かれた瞳は白目を剥き、答えはなく、驚いた事に、急速に身体が冷たくなっていくのが、触れた部位から感じられた。
「い、一体なにが……?」
老人の身体は氷のように冷たく、呼吸も止まっていた。だが、痙攣は止まらず、全身が震え続ける。そこへ別の人影が走り寄って来て、後ろに控えていた白衣の男が、状況に似つかわしくない落ち着いた声で話す。
「その者は、もう助かりません。肉体に封魔の術式を刻み、聖布で包みなさい」
近づいてきた者は、同じ白衣で、そのふたつの影が、私を突き飛ばし、老人の衣服をまくり上げ、手に持った小刀で、直接きざんでいく。施されている印は、封魔の術式。魔法や、悪魔の力を封じる三精霊の刻印だ。
「……何とも。乱暴なやり方ですな」
その言葉を聞きつけた上役らしき、白衣の男が、穏やかに問いかけてくる。
「貴方は、見かけない顔ですね。ここに、どんな用があるのでしょうか?」
用も何も、全く状況が理解できない。この老人の最後の呻き、あれは何を意味している?
「……このご老人に、何が起きたのですかな?」
白衣の男は、そのつり上がった細い目をぴくりとも動かさず、無感情に答える。
「その者は、深淵に堕ち、悪魔に肉体を支配されたのですよ。早急に処置を施さねば、多くの被害者が出るでしょう」
深淵……とは、確か、ヒトが見る悪夢の元凶とされるモノだ。それによって、廃人となる。酷い場合には命を落とす者もいる。それは何度か目にした事があった。しかし、悪魔に憑かれ、肉体を支配されるとは初耳だ。
「そんな話は、初めて耳にしましたな……」
白衣の男は、答えないが、隣で続けられていた処置が終わったのか、老人の痙攣は止まり、その身体が、白い布によって包まれていく。
「そもそもここは、何をする場なのですかな?」
白衣の男は大袈裟な身振りで、周囲を見回した。
「そこかしこに、人々が眠る姿が見えるでしょう。この場は、旧都にて、聖院と呼ばれています。……分かりますか? この場に集った者たちの苦悩が。……彼らは皆、不治の病に冒されているのです。故に、救いを求め、眠っているのですよ」
話が見えない。不治の病、その治療に、眠りが関係あるのだろうか。
「理解が及びませんか? 眠りには、先ほどの老人の様に、危険な側面もありますが。……もしも、神域にて神に出会えたならば、その恩寵を受け、病が癒えるかもしれないのです。ヒトの手では、治す事の出来ない病がね」
神夢学。古代より続くと言う学問のひとつ。それによれば、眠りにて夢を見るのは、神の領域、神域の力だと言う。だが、ヒトが神に出会うなど、稀有な例で、ほとんどは何の意味もない夢だと言われている。男の口ぶりでは、この場で眠れば、何らかの効能がある様に聞こえる。例えばそれは、神に出会う確率を上げるといった、具体的なモノでなければ、これ程の人々が集まる事はないだろう。
ひとつの懸念があるとすれば、神夢学じたいが、学問ぜんたいから見れば、危うい立場である事だろうか。多くの学者が、神夢学に疑問を呈し、その宗教的、情緒的、神秘主義的な側面を指摘し、存在じたいに疑いの目を向ける。
「ご存知でしょうか? 夢は、眠りにつく人々の集合意識とされています。そして、闇雲に眠るよりも、聖なる場とされる地点で、集まれば、集合意識としての働きが強まり、神々に届く可能性が高まるのですよ」
白衣の男は確信に満ちた声音で語る。
「この奥、聖院の中央では、聖なるフィフラ・リヴィール神を祀っているのです。そのお力により、我らの祈りが聞き届けられる可能性が、飛躍的に高まります。……そう。闇夜を照らす光の様に」
どうにも胡散臭い話だ。フィフラ・リヴィールとは、太古より在る光の神の名だが、一部では邪神と解釈される事すらある。神学上は、非常に繊細な立ち位置の神と言える。ウィルスマイトでは、主神として祀る大神殿があり、彼の国を象徴する神となっているが、この帝国、それも旧都でそんな信仰があるとは初めて知った。
そもそも創世神話にもある様に、二度もの大戦を起こし、対立すると言われる神々の間で、そのうちの一柱である光の神だけを祀り、その力で他の神にも働きかけ様とは、いささか話がうますぎる。ヒト同士であれば、敵対勢力ととられ、戦の原因とすらなり得る。神は過去のいさかいを忘れ、寛大な処遇をもたらすと言うなら話は別だが。
身も蓋もない事を言えば、神々が本当に存在するかは、不確かな話でもあるのだ。私じしん、ある程度の信心を持ち、祈りも捧げるが、それは、神というヒトを超えた巨大な概念を通し、自らの卑小を知り、内面へ向き合うための儀式とも言える。
そういう意味では、火や風といった四大元素の神の方が馴染み深く、人々が祈るのに適した存在とも思える。……無論、瘴域や、魔物。悪夢の様な現実的な脅威が存在するのに、神が不在なのでは、救いを求める対象が消失してしまい、この世は一気に荒涼とした苦界になり果ててしまう。
現実的な心の救済の手段として、信仰が必要な事に、異論はなく、ゼスパール教の様な巨大な勢力が在る事に異を唱えもしない。……それによって血生臭い、よりヒト的な脅威が発生する危険性を否定する事もないが。
魔法の実在により、存在が証明されている。一部の地域で根強い精霊信仰。そちらの方がまだ現世利益に期待できるだろう。
だが、最後にヒトを救えるのは、やはりヒトだとも思う。
「何ですか? その目は。貴方もフィフラ・リヴィール神を、邪神などと呼ぶ不届き者の一派ですか?」
思案する私の態度から何かを見出したのか、白衣の男は不機嫌そうに、振り返る。それに追従する男たちが、先ほどの老人を担ぎあげ、前後に並び、歩き出していった。その背を無言のまま見送る。
「……行ってしまいましたな」
男たちの去った後、周囲を見渡し、目を覚ましている者がいないかを探す。ひとつ思い浮かんだ疑問について確かめておきたい。
「む。ただの寝返りでしょうか? あの男性は、今うごいた」
その男に近づくと、薄っすらと開いた目がこちらを捉えた。
「んん。誰だ、あんた」
まだぼんやりとした男に、穏やかに問いかける。
「ひとつ、いいですかな? この場にて眠りにつく前に、聖院の者たちに何かされませんでしか?」
男は怪訝そうにこちらを睨む。
「ああ? 何の話だ……? 何かって、何だよ?」
言葉選びが悪かったか。
「例えば、何らかの薬を飲まされたり、何か聖なる道具などを渡された覚えは……?」
男はしばし沈黙し、何かを思い出したのか、服の袖をまくって、こちらへ見せた。
「ああ、そういえば、右の手首。ここに、聖具だとかいう小さいナイフで、傷をつけられたよ」
ふむ。聖具? その刃に何らかの仕掛けが……?
「む? この手は――」
その時、唐突に、隣から青紫に変色した奇妙な手が伸び、私の左腕を掴んだ。強烈な力で、通常のヒトより、いくらか伸びた鋭い爪が、皮膚を裂こうとする。
そちらへ目を向けると、痙攣する髪の長い女。いや、もはや、そうは呼べないかもしれない。その目は、まるで別の生物の様に膨れ上がり、今にも飛び出しそうで、変色した皮膚を押し広げ、こちらを凝視する。血管が浮き、虹彩が極端に小さくすぼまり、瞳孔が消え失せる。
「ああッ!? 悪魔だ――」
目の前で寝転がっていた男が、慌てて這う様な動きで逃げて行った。
掴まれた腕に、さらに力が加えられるが、その程度では傷はつかない。
ふむ。ここは、思案のしどころですな。
身体に何かをされた、それが原因で悪魔化が起きているのならば、目の前の憐れな犠牲者を倒せば、何らかの痕跡を残すか……?
それとも対処を聖院の者に任せ、成り行きを見守るか。人々の変異が、仕組まれたモノで、この結果を得る事が目的ならば、ここの者は、犠牲者を滅ぼす事はせず、何処かに連れていくかもしれない。
「武器を持て! 早急に準備を整え、集結せよ!」
逃げ出した男が、状況を伝えたのか、奥から騒がしい声や、足音、金属の鳴る音が聞こえ始める。
あまり悠長に考える時間もなさそうですな。
決断し、身体を捻り、両手を近づけ、怪物となり果てた女の手首を掴み、骨も砕けそうな力を加えていく。
「申し訳ない。ご婦人。私には貴女を救えない……」
掴んでいた手が緩んだ瞬間に、引き剥がし、聖院の者に姿を見られない様に、素早く跳び上がり、隣にあった建物の上にしゃがみ込む。
奥からは、騒がしい音と共に、武装した者たちが駆けてくる。隊列は乱れ、盾を持ちながらも、それを敵に向けて構える事もしない。恐怖からか、足を取られそうになる者。練度が高い兵たちにはとても見えない。
彼らは荒い息を吐き、武器の先端は小刻みに揺れる。一応、指揮官らしき者がいるのか、その者は後ろから声を張り上げ、命令するが、足並みは揃わず、隊列が乱れたまま突進する。
武器を持つ手に、力が入り過ぎている。緊張のせいだろうが、あれでは剣も上手く扱えない。手の内に力が籠り、先端の加速が鈍くなり、取り回しも悪くなる。それに盾を持つ左半身を前に出すこともせず、防御の崩れた状態で突っ込んで行く。歩法も全く訓練されておらず、重心の乱れる普通の走り方だ。あれでは踏み込みに武器の振りを合わせる事すら出来ない。
恐怖を紛らわせる雄叫びが響くが、相手は怪物だ、あれで恐れるとも思えない。
せめて、槍であれば、隊列が揃っていれば、多少の格好もついたかもしれないが。
あの様子から、完全な変異が起きる事は、想定していないのかもしれませんな。彼らは貴重な戦力の様ですが、まるで素人が武器を持っただけの有様です。
「うわあああ――!」
ひとり、飛び出した者が、先ほどよりも幾らか巨大化した怪物に、右手で払われ、跳ね飛んでいく。その様子に恐れをなしたのか、後続の動きは一気に鈍り、その場にうずくまる者まで出た。かろうじて姿勢を維持する者も、自分より巨大で、射程の長い相手の間合いを外す事もせず、緩慢に後ずさる。
「これは……彼らに討伐を期待するのは酷ですな」
その時、後ろに控えていた指揮官が、退避するのが見えた。
「ふむ。士気ががた落ちの状況で、ひとり逃げ出すとは……」
指揮官は奥に見えたドーム状の屋根が目立つ建物へ逃げ込んだ。周囲にあれよりも大きい建物はない。あれが聖院の中心だろうか?
思い立ち、その後を追い、屋根伝いに飛び移り、建物の二階のバルコニーの暗がりに降り立つ。内部からは煌々と明かりが漏れ、そこから何者かの会話が聞こえる。
「良いのですかな? あれを捨て置けば、被害が拡大するのでは――?」
バルコニーと部屋を繋ぐ入口からそっと中の様子を窺う。
ふたりの白衣の男が向き合い、ひとりは落ち着かない様子で取り出したハンカチで額を拭ったが、もうひとりは至って冷静だ。
「今日は既に多くの収穫がありました。多少の犠牲が出ても、これだけの素体が揃っていれば、上納には問題ありませんよ」
遠くからは、悲鳴と激しい戦闘の音が響き、冷静な様子の男が、外を向き、歩き出す。
咄嗟に隠れたが、その歩みは止まらず、一歩、一歩バルコニーへと足音が迫りくる――。
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