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ナマだけど、ナマじゃなかった

 この上ない程の喜びを動作の全てから溢れださせているアイシャがテーブルの、しかも俺の目の前に置いた物体はとても食べられるとは思えない代物だった。


 その、信じ難い造形を一瞥しただけでも全身に悪寒が走り、吐き気がこみ上げて来た。


「うっ……! あ、あのぉ。アイシャ、さん? 何か……、俺の前に置かれたんだけど、これ、俺が、食べるんですか?」


 久しぶりに自然な丁寧語が踊り出してくる。いや、目の前の何かから逃れるために脳が誤作動を起こしているのか?


 疑問、そんな言葉ではとうてい表せない感情が脳内で渦巻く。猜疑や絶望、そんな言葉に置き換えてもまだ足りない気がする。震えるからだは明らかにそれを拒絶していたが、この状況は出口のない牢獄の様に俺を捕らえ、逃げ場はないのだと耳元で囁き続ける。


 てか、これ! 人間の食べ物なのか!? そもそも食べられるのか!? 分からねえ! まったく分からねえよお! 何なんだ!? 日本語にはこんな感情を表す言葉がねえ!


 脳の処理がまったく追いつかない。止まらないエラーを吐き出し続け、このまま停止してしまいそうだ。


 そんな俺の状態など気に留める様子もなく、アイシャはごく自然にこともなげに言い放つのだった。


「そうだよ? 他に誰がいるの? おかしな事を聞くんだね、カイトってば! もしかして遠慮してるの? もう! 可愛いんだからぁ、そんな必要ないんだよ? これは貴方のためにあるんだから、たっぷり味わってねっ!」


 満面の笑みでそう告げられる。そこに悪戯心はあっても、悪意は感じられない。いや、悪意が感じられないのが余計に恐ろしい。

 待てよ? 食事前に「償い」とか不穏な言葉を口にしてたし、やっぱり分かっててやってるのか!?

 悪意があるのか、ないのか、どっちなんだ!?


 残念ながらその答えが得られたとしても、目の前の現実は何一つ変わりはしないのだが……。


 ダメだ! ここには一縷の望みすら存在しねえ!

 全ての光を閉ざし、終わりのない永遠の夜に包み込む絶対的な虚無。生ある者の全てを憎み奪い尽くす破滅の象徴。この場においては絶望すら生温いと言うのだろうか?


 うああああ! 今、目が合ったよ!? やべえ、発狂しそう!


 持ち主の悲惨な最後をその奥に宿しているのか? それは怨念のこもったまなざしをこちらに向けていた。


 うぐぅ。ダメだ。せめて……、せめてこれが何なのかを確かめるんだ。そうしないと俺は……!

 物としての正体は分かっても観念としての落としどころがない、いわば存在が宙にぶら下がった状態の不定の狂気そのものなのだ。存在じたいを無かった事にしてしまいたいが、消せない以上は認めてしまわなければ、やがて狂気に呑まれてしまうだろう。


「アイシャさんんん! これ! これの名前は!? 早く教えてくれ――! ください! 手遅れになる前に!」


 アイシャは俺のただならぬ様子に気付いたのか、不思議そうな顔で首をかしげていた。そして何かに合点がいったのか。手を軽く叩いて皿を持ち上げた。


「そういえばお料理の名前をまだ言ってなかったね! ふっふっふぅ! よぉく聞いて! これはねぇ――!」


 勿体をつけるためか言葉はそこで区切られ、アイシャは得意気に皿を掲げて、その上の何かを俺の目の前に突き出す。持ち上げられ、傾いた皿の上でその物体は不気味に転がり、何度か視線は遮られたが、まるで意思でも持っているかの様に、再びこちらを凝視する形で止まった。


「『ナマ目玉焼き』! だよっ!」


 アイシャがそれの名前を高らかに宣言した。

 部屋の隅々まで声は行き渡っても、目の前にいるはずの俺の脳内には言葉は遅延してまだ届いていない。そこにだけ空間を隔てる不可視の壁がある様だ。

 半ば呆然としながら、言葉の意味を咀嚼しようと努力している間もアイシャは『それ』の説明を続ける。


「キュクロプス一体につき一つしか取れない『超希少部位』! ナマだけど! ナマじゃない! 目玉焼きぃ――! どぉ? 思わずくすっとしちゃう、お洒落な名前でしょ?」


 ここでやっと意識は言葉の意味を飲み込めた様だ。直視してはいけない狂気そのものだった『それ』に名前が与えられ、認識できる存在へと変貌する。


 えええええ!? そりゃ、ありのままの目玉なのは分かる! 分かったけど! 何でも焼けば食べられるとか、どんな「脳筋種族」だよ!? 怖い! 肉食エルフ怖いぃぃぃ!


 洒落た名前だと思えるような余裕がある訳はなかった。運命は残酷だ。名称が確定しただけで、それが食べ物かどうかの切り分けはまだ出来ていないのに、彼女はそれを食せよと言う。


 喉の奥からこみ上げて来そうな濁流を感じていたが、波は去ったかも知れない。


 うぐ! いや、まだ吐き気はあるな、でもこいつの名前が分かったからか、観念としての器が与えられて、多少は安定して来た様だな……!? とりあえず発狂は避けられたか!?


 アイシャは皿を置き、何処から取り出したのか、いつの間にか手に持っていたガラス瓶の蓋を開け、『ナマ目玉焼き』に中身を振りかけた。


「とっても良い匂いでまたお腹へってきちゃうよ……。お塩を適量かけてぇ、ナイフとフォークも用意して……。はい! 召し上がれ!」


 扱いやすい様に、持ち手の部分をこちらに向けてナイフとフォークが置かれた。気遣いはありがたいが、素直に喜べない。


 適度に焦げ目が付き、白く濁った眼球がこちらを凝視する。

 わあ、ほんとだぁ――嗅覚に全神経を集中してみれば、食欲を刺激する良い匂いが漂って――。


 わけねぇ!


 どんな強靭なメンタルならこれを美味そうだと思えるんだよ!?


 この――目玉野郎をよぉ!


「どうしたの? 食べ方も教えてあげた方がいいかな? えっとね、まず最初に眼球の正面についてる角膜の部分をナイフで剥がしてみるといいよっ!」


 ダメだ! どうあっても食わすつもりだ。くそぉ……! 覚悟を決めるしかないのか!? 神よ、この哀れな子羊を救いたまえ……。

 いや、心からお願いすれば彼女だって許してくれるかも知れないぞ――!? そうだ、「食べたくないです」と言うんだ! 彼女の天使の部分に訴えかけるんだ!


 そう思ってアイシャを見たが、その期待に満ちた瞳からは逆らえないオーラが発せられていた。て、天使も……。これを望んでいやがる……!

 うぐ、この上なく純真な輝きを宿すまなこ……! 宝石みたいに煌めいてる!

 ダメだ……。この目を見ちまって裏切れる訳がねぇ……。俺は……、彼女の虜なんだ……。そう、いわば『愛の虜囚』……!


 なんて綺麗な言葉で誤魔化せる訳ねえ! くそぉ! 俺が縋りつくべき蜘蛛の糸は一向に垂れてくる気配はねぇ!


 ここは――、紛れもない地獄だ!


 震える手でナイフとフォークを取り、装備する。その間もアイシャの期待に満ちたまなざしが注がれていた。それを裏切ることが何を意味するのか、分からない。分からないが、試す度胸は湧いてこなかった。

 思い切って、目玉の側面にフォークを突き立て固定し、正面の角膜の隙間にナイフを差し込み、徐々に剥がしていく。

 動作の間、フォークを装備した左手は形容しがたい不気味な反発を余すところなく感じている。思わず投げ捨てたくなる異様な感触だ。

 若干の抵抗の後に、角膜は皿に剥がれ落ちた。


「わぁ! 上手に剥がせたねっ! ころころさせずに固定するのって結構むずかしいんだよ? カイトって手先が器用なのかもね?」


 お褒めの言葉を頂いたが、まったく嬉しくない。どんな些細な事でもいい。この場を荒立てずに穏便に逃げだせる方便がないか、作業中も脳をフル回転させて探し続けていた。


「さあ! 食べてみて! 新しい世界への扉が開いちゃうよっ!」


 いや、もう十分に開いているんだけど。これ以上ひらいたら帰ってこられなくなりそう。


 精気のないうつろな瞳で作業を続ける。フォークで角膜を下から掬い上げ、口元へ運び――。一気に口内へと放り込んだ!


 うぐぅ! やべ、吐きそう……。


「どうかな? 美味しいかなっ?」


 アイシャからの問いかけもまったく耳に入らなかった。

 何だこれ。何か寿司ネタでみかける、ある種の貝みたいな歯ごたえ……。食感を楽しむモノなのか!?


「こ、コリコリしてて……、すごい歯ごたえ……」


 食べながら答えるのに品があるかなど、自分に問う余裕もないまま喋っていた。


「そうでしょっ! その食感、クセになるよねぇ! 私には遠慮せずに余すところなく味わってね!」


 口の中が余すところなく侵略を受けているんだけど……。


 薄々かんじてはいたが、アイシャはどうやら『これ』を食べた事がある様だ。恍惚とした様で『これ』の食感を反芻している。


 こいつにそんな熱量を抱けるなんて……。俺はなんて娘を好きになってしまったんだ……。

 俺にもそれだけの想いと覚悟が必要と言うことか……。


 いや、てか、ただ希少ってだけで価値があると思い込んでる可能性もあるな? 怪しい……。まあ、疑うのはこのくらいにしておこう。口の中にあるこいつをどうするか、その処遇を今すぐ決めなければ――!

 何故なら味がまったくしないんだ! 塩の味しかしねぇ! それ以外にあるのは虚無のみ……。噛んでても何の楽しみも与えてくれない。……これを食べ物だと認めていいのか?


 そんな事を考えているとアイシャが感極まった様子で話しだした。


「ほんとはね……。カイトは嫌がって食べてくれないかも? ってすごく心配だったんだ! でも良かったぁ。ちゃんと食べてくれてるし、カイトはものすごく器の大きな人だったんだね……!」


 うぐ! 今の言葉で驚いて飲み込んじまったあぁぁぁ! うあああああ、奴の角膜がぁ、俺の食道を通って胃にぃぃぃ! な、内臓が侵略を受けているぅぅぅ!


 ぐふ。


 アイシャが何やら俺を再評価していた様だが、そんな言葉を嬉しいと感じる暇もなく力なくテーブルに突っ伏した。腕が皿を押しのけて小さな音が鳴る。


「あ、あれ? どうしたの? もうちょっとで希少なお肉が零れちゃうところだったよ!? もう、気を付けてねっ!」


 もし、『あれ』が皿から零れて、床にでも落ちていたら、彼女はひどく傷ついただろうな……。だが、俺はそれを望んでしまっていた。そんな自分が憎い!


 それに、どうせ零れるのなら『豊かな実り』が良いぃぃぃ!


 ふう、まだこんな事を考える余裕があった自分に驚いた。俺って思ったよりタフなのかもな?


 ふひっ。そう思うと俄然やる気が出てきた。そうだ! 今度は俺が侵略者になる番だ!


 そう、彼女の心の侵略者になあ……!


 脳内には一瞬で春を謳歌する妄想が展開されるのだった。「カイト……。私、感動しちゃった。……あの、あのね。私、『結婚』するならハンターの矜持を共有してくれる、器の大きな人が良いって。ずっと、思ってたんだ。……カイトならぁ、いいよ?」うひょおおお! 完璧なプランじゃねえか。


 そのためには、何としてもこいつを完食しなければ……! 弾ける様に上体を起こし、再び目玉野郎と向き合った!


 うぐぅ、さっき皿が移動して転がったはずなのに、またこっち向いてやがるぜこいつ――! 何て執念深さなんだ。是が非でも俺を許さないつもりか!?

 だがなぁ、そんな怨念もよぉ、もうすぐ終わるんだよぉ。俺の、胃液に溶かされてなぁぁぁ! 俺の愛のために死ねぇぇぇ!


 勢いに任せて、フォークも使わず、獣の様に目玉にかぶりついた!


 ふひひっ! 誰が勝者か思い知らせてやるぜ! 目玉野郎!


「すごいっ! 野性的な食べ方っ! そんなに食欲が刺激されちゃったのかな? ご飯に対して貪欲な人って素敵だよっ! カイト!」


 考えなしに口に放り込んでからそれが勇み足だったと気付かされる。アイシャの口からは望んでいた言葉が引き出されていた気がしたが、既にそんな事を考える余裕はなくなっていた。


 何だこれ!? 虚無だ――。虚無の味がするゴムだこれ!?


 それは、ゴムの様な異常な弾力を有した何かだった。勿論、肉の味などなく、塩味のみである。

 好意的に解釈すれば、イカに似た弾力とも思えなくもないが、問題は自然と噛む時間が長くなるため脳内で余計な想像をする余力を与えてしまうことだった。


 うぐぅ、奴の目玉が体液をまき散らしながら俺の口内を凝視してるぅぅぅ!?

 やべぇ。吐きそう!

 うう、今、噛んだ歯に何かくっついたぁぁぁ!?


 噛んでも噛んでも小さくなる様子のないそれを、悶絶しながら噛みつづける。

 時間は永遠に引き延ばされ、咀嚼に終わりはない様に思われた。


「ふふっ! いくら噛んでもなくならないでしょ? ずっと幸せを感じててもいいけど、いつか終わりは来ちゃうんだ。……カイトも思い切ってごっくんしよ? お姉さんも応援してるから、ね?」


 すぐ隣で囁かれ息が吹きかかるのを感じた。

 アイシャはいつの間にか椅子ごと俺の隣まで移動していたのだ!

 えええ!? いつのまに!? てか、すぐ隣で凝視されちゃってるぅ!?


 口内の絶えない怨嗟の視線と、隣から浴びせられる容赦のない熱い視線との両面作戦となっていた。これは敗北は必至だ。


「カイトってば、こんなに情熱的な人だったんだね……。お姉さん、感動しちゃったよ……!」


 そう囁いて、アイシャは咀嚼を続けて膨らむ俺の頬に、その可憐な指先を伸ばして触れた。


「ふふふっ、可愛い。でもぉ、焦らさないでぇ、もう終わりにしよ?」


 まるで脳内での妄想が具現化したかの様なセリフと行動に顔中が熱くなり、鼓動が早まる。

 これは――、夢か!? いや、口内の地獄がこれは現実だと訴えかけてくる。地獄と天国の板挟みにされ、体が半分にちぎれてしまいそうだ!


 アイシャは相変わらずこちらに熱い視線をそそぎ、俺がこれを食べ終えるのを心待ちにしている様だ。

 彼女はもしかすると人が食べている姿に幸せを覚えるタイプなのかも知れない。『美味しそうに』と注釈をつけておきたくなるけど。

 パンを食べてた時も嬉しそうに見つめてたしな……。


 心は決まった――。俺、こいつを飲み込むよ。見ててくれアイシャ――!!


 そう決意し、目玉を喉の奥へと押しやり、一気に飲み込んだ!


 うぐぅ!? 奴の目玉が、俺の食道を焼け付くくらいに見つめてるぅぅぅ!? ぐはっ! ここさえ堪えれば、もうすぐだ――! ……は、ははは。胃に至った様だな。後は、俺の胃がお前の怨念ともども消化してくれるだろう。


 戦いは終わったのだ。俺の勝利でな――!


 隣にいたアイシャの方へ視線を向ける。

 彼女の頬は上気し、熱い視線を宿した金の瞳は少し潤んでいる様だった。


「はいっ! よく出来たね! お姉さんが、満点あげちゃうよっ!」


 心の中で問いかける。「じゃ、じゃあさ! ご褒美は!? 勿論あるよね!?」頑張った俺にご褒美ぃぃぃ!


 彼女は俺の方へ両腕を伸ばし、抱き寄せようとして、動作を止めてしまった。


 ええ!? そこで止まっちゃうの!?

 情動のままに身体を動かしたが、冷静さが影を差してしまった様だ。

 そのまま行けば、『豊かな実り』に顔を埋められたのにぃぃぃ! 両目からは血涙が溢れだしていたことだろう。


「あははは。えっとね、でもえっちなのはダメだからねっ――! ナデナデしてあげるねっ!」


 そして抵抗する間もなく、頭を優しく撫でられてしまうのだった。

 うぐぐ、これも嬉しい気はするけど、複雑……。そう思いつつも、俺が犬だったら尻尾を猛烈に振り回して喜びを表現していただろう。

 ご褒美としては、今はこれで十分なのかもな。今はな!


 ともかく、これで、あの一つ目と俺との戦いにはひとつの決着がもたらされたのだろう。


 身体の傷が癒えたなら心の傷もいつか乗り越えないといけないもんな……。


 身体の向きを直し、外へと続く扉へ目をやる。


 ついに食事を終え、長らく心に影を落としていた不安も払拭されたいま、この先へ広がる世界を確かめる時がやって来たのかも知れない。外には何が待っているのだろうか、希望か、はたまた絶望か、それが何にせよ、確かめずに進む道は用意されていないのだった――。

 

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