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オットセイ

 しばらく天井を眺めていたが、いつまでもそうしている訳にもいかないので、恐る恐る起き上がる。

 鼓膜にはまだ頬を張られた音が反響している気がした。皮膚の表面には鮮明な痛みも残っていたが、それよりも激しくぶつかり合う音の残響の方が、自分に突き付けられた現実をより如実に示している様に思えた。


 アイシャは既に立ち上がっており、何事もなかったかの様に平静を装っている体でいたが、両腕は固く閉じられ胸を覆い隠していた。

 あんな事があったばかりだから無理もないか……。


「ふぅん? 私はとっくに起きてるのに今頃おめざめなのかなぁ?」


 どうみても根に持っているな。それはそうかも知れないが……。多少、理不尽なものを感じるな。


「ほんとにね? 今回の事でねぇ。カイトがどんな人なのか分かっちゃった気がするよぉ?」


 明らかな毒気をふくんだ棘のある言葉が発せられる。ここは反論とかせずに静聴すべきか? 下手に刺激しようものなら取り返しのつかないことになるかも知れないぞ……!


「ほぉんとにね? カイトがこんなに優しい人だなんて思わなかったしぃ、お姉さんも認識を改めないといけないかなぁ?」


 うぐ、明らかに反対の意味を内包しているな。少しだけ意地悪してやろうと思ったら、後であのアクシデントだからな。言い訳のしようがない。


「いや、待ってくれ! すぐに助けなかったのは悪かったと思ってるよ! でも、後のアレはわざとやった訳じゃないんだ!」


 アイシャはこちらを値踏みする様な表情で続ける。


「ふぅん? アレって何の事かなぁ? お姉さん、ちゃんと言ってくれないと分からないよ?」


 んなぁ!? ここで蒸し返すのか!?

 少なからず彼女も恥ずかしい思いをしたはずなんだが、また掘り返して何か得があるのだろうか?


「いや……、だから、その……。せ、接触しちゃってたのは事故なんだ! 信じてくれ!」


 懇願する様な気持ちで訴えかけるが、彼女は訝しげな表情でこちらを見つめ返すばかりだ。そして先ほどの言葉を繰り返した。


「だからぁ。ちゃんと言ってくれないと分からないよ?」


 先ほどとまったく同じセリフが再生される。

 いや、ちゃんと言うって言われても、具体的に何処をどう明確にすればいいんだろうか? そんな、デリケートな部分を……?


 ああ!? ま、まさか!? 今度は俺じしんの口から『あの言葉』を引き出すつもりなのか!?


 俺が『あの言葉』を過剰に意識している事は彼女も知っている。それをわざと言わせて恥をかかせるつもりなのか!? さっきはうっかりして心の中で唱えちゃったけどさ!

 意識している女の子に言われるのも、どうしようもなく恥ずかしいが、自分で口に出すのも身の破滅だぞ!? そ、それに、発した言葉は確実に彼女に聞かれてしまうんだ! それがどんな意味を持つのか、分かっているのか!?


「ほらぁ? どうしたの? お姉さんの耳が悪くなっちゃったのかなぁ? さっきから何も聞こえないよ?」


 うぐぐ、くそぉ、このまま屈するしかこの場を凌ぐ方法はないのか……?


「いや、だからさ……。その、『おっ  』と接触しちゃったのはわざとじゃなくてさ……」


 ダメだ! どうしても言葉に出来ない! 喉までは出かかってるんだ!

 アイシャはそんな俺の様子を見ても満足できないらしく、さらに執拗に攻め立ててくる。


「今なにか言った? もう少しはっきり言ってくれないと、お姉さん、分からないかも?」


 その容赦のない残酷な言葉に血の涙が溢れだしそうになる。

 てか、さっきからもう真面目な表情をするフリも飽きて、半分にやついてるじゃないか! あ、悪魔だ……!


 くそぉ! くそぉ! もうどうにでもなれの精神だ! 心の中で何度も唱えて予行演習するぞ!


 行くぞ――! おっ! おっ! おっ! おっ――!


 だあああ! ダメだ! これじゃオットセイじゃないか!? 心の中でさえ唱えることが出来ない! まるで言葉じたいが封印されているみたいだ。

 その時、アイシャが静かに語りかけてきた。


「また黙っちゃったね? ね? 少年?」


 さっきまでと打って変わって、アイシャの口調は柔らかいものになっていた。俯いていた顔を上げてみると、表情も険がなくなり、初めてみた時と同じ優しさを湛えていた。


「あはは、やっぱり可愛いね。カイトは」


 アイシャは破顔して笑った。いままでに見た笑顔のどれとも違う心の底からのモノに感じられた。前よりも彼女という存在が近くなった様に思える。


 許された……? のか?


 アイシャは自分の胸元を見ながら続けた。


「こんな言葉を口に出せなくて、そんなに一生懸命になっちゃうなんて……」


 何だろう? この安堵感は……。出会ってからわずか数時間なのに、もうこんなにも大きくなっているという事なのか?


「あ、あのさ、さっきの事。もう怒ってないのか?」


 図々しいと思われない様に、細心の注意を払って尋ねる。


「うぅん? そうだねぇ。今さっきの事は不可抗力だったって思ってあげるよっ」


 アイシャは人差し指を口に当て、楽しそうに笑った。

 それが彼女の口から聞けて、心底あんどしている自分がいた。だが、その言葉には続きがあった。


「さっきの事はと言っても、その前にイジワルされた事は忘れてないからねっ? そこは、ちゃんと釘を刺しておかないとねっ!」


 うぐ、反省してます……。いや、ほら。男の子的には好きな子には意地悪したくなるって言うじゃん……。


 それは小学生かぁぁぁ!


「でもねぇ。それとこれとは別の話なんだよねっ!」


 許されたと思っていた所に聞こえたその言葉に背筋が凍りつく。

 何の事だろう? まだ、何か不味いことをしただろうか!?


「ふふぅん。カイトはぁ。もう、忘れちゃってるかも知れないけどぉ? まだご飯は終わってないからねぇ? これからもっと、もっと美味しい物を食べさせてあげるから、……ね?」


 その言葉に両手で頭を抱えてうなりたくなる。

 うああああ! 忘れてた! あれだ! あの鉄板だ! あそこにある何かが俺の人生の終点なんだ!

 いや、先ほど地下室から取り出されたあの籠の中身――。あれがそうなのかも知れない!?


「ふふぅん。楽しみだなっ! カイトがどんな顔するのか! 美味しすぎてほっぺたが落ちちゃうかもね!?」


 晴れやかな心は一転して、暗雲たれこめる曇天の装いを見せ始める。いや、曇天では生温い! まるで巨大な積乱雲の中に飛び込んで永遠の嵐の中を彷徨っている気分だ。


 もしかすると俺。死ぬのかな――。


「さて、じゃあ座り直して、ご飯の続きを楽しもうか?」


 逆らうのも不自然だし、大人しくその言葉に従って着席したが、心の中は再び言いようのない不安で満たされていた。


 そういえば、さっきの籠がテーブルの上に置かれているな。何が入っているのだろうか? 恐ろしい物ではありませんように――! そう願わずにはいられない。


 アイシャはおもむろに籠に手を伸ばし、物体を覆っていた布を丁寧に取り払う。


 中から姿を現したのは――?


「さあ! ここにとりいだしたるは――?」


 アイシャがわざとらしく芝居がかったセリフで取り出したそれは――?


「パンだよっ!」


 それは何の変哲もないパンだった。

 いや、特徴を言えば、表面が硬く焼き上げられてそうな、地球で言うところのフランスパンの様な物だった。大きさは十センチくらいだろうか? 一般的な長いフランスパンのイメージとは異なり、楕円形でそれほど大きくはなかった。


 アイシャはそのパンを手の平に乗せて掲げていたが、唐突に冷めた雰囲気で言葉を紡いだ。


「さて、ここでカイトに質問だよ」


 ええ!? 何この無茶振り。

 さすがに困惑を隠せないが、彼女は気にする様子もなく続けた。


「このパンと私の胸。どっちが大きいかな?」


 そう言い放ち、自分の胸の前でパンを比べる様に並べてみせる。

 はあ!? 何だその質問!?

 不意打ち気味にぶつけられた真意も分からない言葉に脱力してしまった。


「ふふぅん。カイトの事だからどうせそういうえっちな事を考えてるんだろうなって思って、先回りしてあげたんだよ? お姉さんに感謝してよね」


 いや、考えてないから! 俺を何だと思ってるんだ!? パンに欲情したりしないぞ! てか、比べるまでもなく明らかに『豊かな実り』の方が、数倍はおおきいだろ!

 おお! 懐かしの『豊かな実り』! 自然に言葉が出てきたな。大分こころの調子が戻って来たか!? はっ!?

 これじゃ彼女の言った通りになってるじゃないか。嵌められた!


「ふふぅん。まあ、そんな事は大した問題じゃないんだけどねっ!」


 それなら言わないでくれ……。


「このパンはねぇ。このままだと表面が硬くて食べにくいんだけど。これをねぇ。お皿に残ったシチューにつけます! そうするとなんと! 柔らかくなって食べやすくなるでしょう!」


 そう彼女は宣言した。

 何か丁寧語も入り乱れてるし、変なテンションになっているな。セールスの文句としてはいまいちかも?


「そして、味ももっと美味しくなるの!」


 いうやいなや硬いはずのパンはいとも簡単にちぎり取られシチューにつけられていた。彼女はそれをそのまま口に運んでかぶりついた。


「うん! おいひい!」


 アイシャは左手をふくれた頬に添えながら喜びにあふれた声を上げた。

 そして一瞬で咀嚼を終え、間をおかずに再びパンに手を伸ばす――。

 電光石火の早業だ。呆気に取られて見つめていると、パンは次々とむしられ小さくなっていった。

 アイシャは手を止めることなく、こちらを見て一言。


「んん!? どうしたの? カイト。食べていいんだよ? 美味しいよっ!」


 パンに何かが仕込まれているのではないかと疑っていたが、そんな事はなさそうだな。お言葉に甘えて、食べさせてもらうとしようか。

 とは言っても、俺の方の皿にはもうシチューがほとんど残っていない訳だが、アイシャの方は最初からこうする予定だったからか、多めに残していた様だ。


 硬いパンをちぎり取るのに少し苦労したが、小さな欠片となったそれを皿の端に溜まったシチューめがけて擦り付け、口に放り込んだ。


 うん。確かに硬い表面が水分でふやけて少し柔らかくなっていて食べやすいな。それに、中は程よい弾力があり、表面の硬さとのコントラストが噛むだけで楽しい気分を演出してくれる。

 そしてエルヴンベリー入りのシチューの濃い甘味と、パンの塩味が舌の上で絶妙なハーモニーを醸し出し口の中を幸せにしてくれた。


「これは、文句なしに美味い組み合わせだな!」


 アイシャは鼻息あらく答えた。


「そうでしょ! 私のお気に入りの食べ方なんだよっ! カイトも気に入ってくれて良かった!」


 硬いパンも一度ひょうめんをちぎってしまえば、後は比較的かんたんに小分けに出来たため食が進み、気付いた時には、全て食べ終えてしまっていた。

 まあ、最後の方はシチューの残りがなくなってパンをそのまま噛むことになってしまったのが、玉に瑕だな。シチューが冷めていたのも難点と言えるけど、また温めなおす訳にもいかないし、そこは目を瞑れる所かな。


 アイシャの方を見ると彼女は一足先に完食していた様で、こちらを楽しそうに眺めていた。

 食事に集中してて気付いてなかったけど、もしかして、食べる所をずっと見られてたのか? 少し恥ずかしいな。


「どう? とっても美味しかったでしょ?」


 肯定する頷きを返す。


 これは――警戒しなくてもいい食材だったな。と言う事は――。


 水中にいる様な緩慢な動作で首を捻り、鉄板を見やった。何も怪我などしていないが、関節が軋み、油のさされていない機械の様な嫌な音を立てている気がした。


 うん。間違いない。あれだな。あの鉄板の上の何かこそが――。


 『本命』――、と言う事か。


「ふふふ、じゃあ今回の『大本命』! 行っちゃおうか? カイトも楽しみにしてたよね? 待ちに待ったこの時が来たんだよ!?」


 奇しくも俺の心の中の声と彼女の発した言葉が被る。

 ダメだ。言いようのない不安感が再び鎌首をもたげて心を蝕んでいく。ここからが俺の『運命の時』――か。


 アイシャはテーブルに置かれていた皿を手に取ると嬉しそうに立ち上がり、鼻歌まじりで軽くステップでも踏みそうな足取りで左端の鉄板へと向かう。


 鉄板は目線よりわずかに高い位置にある。

 ここからじゃ何があるのか見えねえ! 覚悟を決めるしかないのか!?


 俺も男だ! この程度のプレッシャーには屈っさねえぞ!


 ほどなくして鉄板の前で作業をしていたアイシャが戻ってくる。相変わらず軽やかにダンスでも踊り出しそうな足取りだ。皿は右手に高く掲げられており、その正体は依然として謎のままだ。


 ダメだ! 耐えられない! 抑えがたい緊張からか動悸が激しくなってくる。額には脂汗が滲んでいた。

 左手で胸を押さえながら、その時を待つ。


 そして――それは俺の前に現れた――! ッ!! これは!? この物体は!?


 長らく秘密のベールに覆われていたそれが――、ついにその姿形がつまびらかにされる。果たしてその正体とは――!? そして、運命の行く先は――!?


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