神域・混沌・深淵。そして悪夢の王
全力のジャンプは、アイシャに先導されながらしばらく続いたが、彼女が着地した所で、こちらは僅かに距離が足りず、崖から落ちかけてしまう。
「うわあ!」
落ちて行く身体が思い切り伸ばした手を、アイシャが力強く引いた。上からはジジの焦りを含んだ声が聞こえる。
「急げ! こ奴ら数が多すぎる! これ以上は持たぬぞ!」
アイシャに引き上げられ、対岸に登ろうとした所で足首に激痛が走った。
「ぐあ!」
首をひねり、下を見ると、赤く禍々しい目が三つ光る、下半身は芋虫で上半身は蝙蝠の奇怪な生物に噛みつかれていた。アイシャがそれを覗き込み睨みつける。
「カイトから離れて!」
飛び出した石礫が目に当たり、怪物は「ギャ」と悲鳴を上げて落ちて行った。急いで引き上げられるが、噛まれた足首が痛む。
「くそ! 腱は切れてないよな!?」
足の筋肉にはしっかり力を感じる。恐らくそこまで深い傷ではないだろうが、暗闇の中では判然としない。
「アキュラ!」
アイシャが治癒魔法を唱え、応急的に傷を塞ぐ。「ありがとう」と言いながら、素早く立ち上がるが、やはりまだ少し痛んだ。
「でも、動くのには問題ないみたいだ! 急ごう!」
先ほどまで三つ見えていた光は、もう一つだけになっていて、それも掻き消えようとしていた。
「あそこだ!」
光が消える前に、その場にフロアを放ち、仮の目印とする。だが、可燃物が何もない場所では炎も長くは持たない。ジジは俺が目印をつけた場所へ手に持っていた松明を投げつけた。一瞬ほのおが揺らいだが、松明の火は燃え続けてしるべとなる。
その時、上空から凄まじい咆哮が聞こえた。
「オオオオッ!」
首だけを動かしそれを確認し、絶句する。
巨大な人型の身体に、蝙蝠の様な翼。そして牛の様な頭部には二本の角が伸び、身体の至る所に赤い目が光り、こちらを凝視している。それが風を切りながら、突進してきていた。
「何だあいつ!? 悪魔!?」
「カイト! 見ちゃダメだよ! 出口だけを見つめて走って!」
そうだ、アイシャもジジも俺のスピードに合わせてるんだ。俺が足を引っ張ってるッ!
集中しろ! 余計な事は考えずに、目印に向けて駆けろ!
背後では、轟音と振動が響き、あの十数メートルはある巨体が、着地したのを感じさせた。
「ここじゃ! ヒトが通り抜けられる程度の小さな穴がある!」
ジジが指した場所へ向けて跳び、転がりながら滑り込むと、背後から巨大な手が伸び、周りの岩石を打ち砕いたが、鋭い爪は光の障壁に弾かれてこちらへは届かない。
「オオオオッ!」
怒りを感じさせる咆哮と共に、悪魔は障壁を破ろうと何度も殴打を繰り返すが、そこへ奥から現れた二人の兵士が先端の輝く槍を構え、巨大な手に向けて突き立てた。
「グオオオ!」
全身を完全武装した鎧兜の兵士の一人が、振り向いて叫ぶ。
「早く奥へ! 結界を一時的に後退させます!」
奥からは更に二人が加わり、長い槍を持って悪魔と対峙する。
「我々が時を稼いでいる間に早く!」
先に立ち上がっていたアイシャに手を引かれ、起き上がり、奥へと駆けると、突然しかいが開け、奇妙な人工物に囲まれた空間に出た。その大きな部屋には、何人もの聖職者らしき人々が、跪き両手を広げた祈りのポーズを取り、その周りは白い光で覆われている。床には巨大な魔方陣らしきモノが描かれていて、その線が溝になっていて、白く発光する不可思議な粉に満たされている。
跪き整列する人々の奥から一人の女性が歩み出た。
「何とかここまで辿り着きましたね。夢想者よ。貴方がた程の功績を打ち立てた者を、無惨に死なせてしまっては、私たちの沽券に関わります。本当に無事で良かった」
白金の結いあげられた髪は複雑な模様を象り、その頭部には小さなティアラが飾られ、純白の衣服は、極限まで薄く豊満な女体のおうとつを強調し、まるで裸の様に見えるが、嫌らしさは全く感じない。不思議な女性だった。その瞳は銀色で、吸い込まれそうな輝きを放つ。
なんて言うか、すっげえ、エロい格好してんのに、エロさを感じない……。不思議だ。神聖にさえ思えちまう。それに、美人だな。エルフでもない人間まで、こんなに美人ばっかなのか、この世界。
横からアイシャが脇腹に肘を入れてきた。
「うぼ」
横目で見ると、苛立たしそうに目をそらし、頬を膨らませた。
ええ!? い、今のはそういう目で見てた訳じゃ……。
「ふふふ。仲がよろしいのですね」
ああ! 初対面の人にアイシャの粗暴な態度をばっちり見られちまった! もう! いつもそういう子なのかと勘違いされちゃうじゃん!
「その声、先ほど儂らを導いた声と同じじゃな」
アイシャとは対照的に至って冷静なジジが、問いかけると、女性は口元を隠して笑い、自己紹介を始めた。
「その通りです。夢想者よ。私は、オリヴィア・ヴェールフォールと申します。ウィルスマイト王国のフィフラ聖神殿の神官長を務めております。王国の人々には、深淵払いの聖女と呼ばれる事もありますわ」
ウィルスマイトって確か、アイシャが前に言ってたな。何だっけ? そういや、あのノームも。
話の腰を折るのは分かっていたが、隣のアイシャに小声で尋ねると、不満そうに答えが返ってくる。
「前に話したでしょ? ウィルスマイトは、私たちの精霊の森の西に位置する、とっても広大な人間の王国だよ。他国、他種族との融和政策を重視してて、農業と商業が中心なんだけど、工業も盛んでね。……ほら、私のクロスボウを開発した発明家のおじさん! あの人もウィルスマイトの人だよっ!」
聖女は、変わらず穏やかに微笑み、俺たちの話が終わるのを待っていた。
「お話は、もうよろしいのですか?」
ジジはその言葉を制し、話し出す。
「そなたの肩書は分かった。じゃが、格式張った答えで、ヒトの値打ちは全く分からぬな」
後ろに控えていた兵士風の身なりの男が、声を荒げ、ジジを非難する。
「貴様ぁ! 聖女さまに対して無礼だぞッ!」
ジジは「ふん」と鼻で笑う。
その男の存在に気づき、後ろに立っている連中を見回してみたが、それぞれが統一された制服などを着ていない、いわゆる傭兵やら冒険者といった身なりで、ほとんどが微動だにせず状況を見守っていて、時折まばたきをしたり、こちらの視線に気づいて睨みをきかせて来たりと、関わると実に肩の凝りそうな連中だった。
ふうん? 言葉は悪いかもしれないけど、この聖女さまの犬って雰囲気だな。何処か意志薄弱で、状況に一石を投じる様なカードも持っていない。まさに飼い犬と言った所か。
言っちゃ悪いけど、そんなに強そうでもないしな。
性格の悪そうな言葉がどんどん溢れてくるのに、自分でも驚いた。もしかすると、先ほどの一戦での変化を経て、心の中で何処か調子に乗ってしまっているのかもしれない。
いけない、いけない。そういう所は暴走させちゃダメだ。あのプリシラみたいになっちまう。
「良いのですよ。事実ですから、あの様な言葉で、ヒトの本質は分かりません」
聖女は変わらず、穏やかに答える。ジジの態度は、怒ってもいいモノだったと思う。それに対してこの反応。どこまでも寛大なのか、それとも……。目の前の聖女は、少しだけ底の見えない雰囲気を醸し出し始めていた。
そこへ、先ほど助けられた兵士たちが戻って来て、聖女に報告する。
「結界の後退作業! 無事、終了いたしました! 我々に損害もありません!」
彼らの槍と鎧兜は悪魔の血で汚れていて、短い間に壮絶な戦闘があった事を想起させた。だが、奇妙な事に、槍だけは血に汚れても、何処か清浄な雰囲気をまとっていて、それが高価なマジックアイテムに思えてくる。そんな物を四人ぜんいんに行き渡らせるのだから、彼らが精鋭なのか、ウィルスマイトがとんでもなく豊かなのか。その答えは分からない。
「良くやってくれましたね。深淵の落とし子たちは、しばらくは不活発になるでしょう。貴方がたは、守りの任を立派に果たしました。奥で休んでいてください」
「はっ! 直々のねぎらいのお言葉、痛み入ります! それでは、失礼いたします!」
兵士たちは、こちらを一瞥し、会釈をして奥にあった扉の先へと去っていった。そして、入れ替わりで休憩を取っていたらしい四人の兵士が現れる。新しい兵士たちは聖女に短い挨拶をし、持ち場へと急いだ。
だよなあ。あっちの方が余程つよそうだし、誠実に見える。
彼らが守りの任ならば、後ろにいる連中は何をするのだろうか?
その疑問の答えを問う様に、ジジがまた聖女に話しかけた。
「先ほどそなたの発した。夢想者。とは何じゃ?」
聖女はそこで始めて俯き。胸に手を当て、答えづらそうに逡巡する。再び上げられた瞳には、強い決意の色が見えた。
「貴方がたは、神夢学についてご存知でしょうか?」
ジジが素っ気なく答える。
「いや、初耳じゃな」
俺とアイシャもそれにうんうんと頷き肯定する。
「神夢学じたいは、人の歴史の始まりから存在する学問だと言われていますわ。そして、その本質は、人の夢を研究する事です」
「夢……?」
聖女は再び俯き、何かつらい思い出でも想起したかの様に、かすかに震える。
「夢は個人のモノではなく、眠りにつく人々の集合意識の塊とされています。そして、夢の存在する神域、そこは、神々の領域でもあります。ヒトは夢の中で、神に出会い。その寵愛を受けたり、逆に烙印を押されたり、けれど、そういった事が起きるのはごく稀です。だからこそ稀有な例を求め、神夢学は発展してきた」
そこで一度ことばは切られた。見ると胸にあてられた手は、先ほどよりも強く震えていた。
「しかし、歴史を経る中で、おぞましい幾つかの異界を見出したのです。それが、混沌と深淵」
混沌と深淵!?
「それらは、神域とは対象的に暴力的で、破壊や絶望の申し子とも呼べる存在が、闊歩する異界。眠りは、ヒトを強制的にそれらに繋いでしまう危険性を孕んでいるのです。……多くの強力な精霊たちに守られた、貴方がたエルフの地では、考えられないことかもしれませんが、夢から人々を守っていた、夜の女神がお隠れになられた今、外の世界の夜は、常に危険と隣り合わせなのですよ」
何か壮大な話になって来たな。
「それと夢想者なる言葉は、何処がつながる?」
ジジに促され、聖女は言葉を続ける。
「夢想者とは、深淵の広がる異界を探索し、悪夢の王とアビスワームの掃討を目的とし、夢を見る者の総称なのですよ」
話が見えてこない。アビスワーム? 悪夢の王?
「無意識を司る異界。混沌に入り込める者はほとんどいないとされています。しかし、悪夢を司る異界である深淵は、より人々に身近なモノです。そこに跋扈する深淵の落とし子たちと、無作為に人々の夢を食い荒らし、悪夢を与え、時には廃人に追い込んでしまうアビスワーム。夢想者とは、これらの脅威に対抗するためのヒトの総称でもあり、組織名でもあるのです」
ん。ちょっと話が掴めてきた。でも――。
「悪夢の王って何ですか?」
発言する気はなかったが、思わず声に出していた。
「悪夢の王。……それについては、何も分かっていません……」
え? そうなのか?
「アビスワームの分身の討伐に出た夢想者が、時折、何の脈絡もなく全滅する事があります。私たちが、この聖域にて、常に夢想者の状態を監視し、適切な手助けをしています。しかし、悪夢の王と呼ばれる何か。……それに遭遇した者たちは、突然、交信が途絶え、そして、二度と戻ってこない。王国の数千年に及ぶ長い夢想者の歴史の中で、それは気まぐれの様に起き、そのたびに噂がたち、正体も分からない伝承が、少しずつ形を取っていった……」
聖女は顔を上げ、俺の瞳を強く見据えた。
「それが、悪夢の王です」
何らかの別の要因から生まれた噂が先か。それとも本当に実体のある危険な存在が、深淵に古くからいるのか。今の話では、どちらか分からない。だが、今では、その伝承じたいが討伐対象となっている。
「気味の悪い話だな……」
聖女は、また俯き、何かを言うのを躊躇している様だった。
「……貴方がた。貴方がたは、その悪夢の王に遭遇した可能性があります」
え!?
「貴方がたは、確かに深淵に入り込んでいた。しかし、私たちの監視網から漏れていた。そして、突如としてその姿を現した。これらの状況が示すのは、貴方がたが、アビスワームの分身と戦っている最中に、悪夢の王が近くにいた可能性を示唆しているのです」
どうなってるんだ? 井戸の魔物と思っていたのは、アビスワームとやらで、そこに伝承の存在もいたかもしれないだって!? 混乱してきた。情報を整理しないと……。
「そ、その悪夢の王は出会えば全滅するんでしょう? 俺たちは、何ともありませんが……」
聖女は俯き、震える手をもう片方で押さえた。彼女にとって恐ろしい記憶とつながる名前なのだろうか? その答えは分からない、だが、悪夢が実体を取った様な不気味な場所で、ここに来られたのが、救いとなったのは事実だった――。
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