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燃え踊る神秘の精

 汚水に触れたつま先が震える。

 怖いからじゃないな……。強い嫌悪感のせいだ。でも、入らない訳には行かない。


 思い切って残った片手も離し、汚水に飛び込むが、音は控えめで、ドロリと身体を受け止める不気味な抵抗感に迎えられる。


「うへえ」


 気持ちわりぃ……。

 徐々に沈んでいく身体が、泥に呑まれて倒れてしまわない様に、両手を広げて動かしながらバランスを取り、少しずつ底へ足を下ろす。


「お」


 足先が底へ達したみたいだ。

 先ほどアイシャの解説にあった通り、底には水の流れらしきものを感じた。

 腰まで浸かった身体をゆっくりと動かしてみるが、かなり強い抵抗を感じ、素早く動くのは不可能に思える。


「これじゃ、いきなり襲われても回避は難しいな……」


 それに、考えたくないが、この見えない泥の中に何かいるかもしれない。そう思うと先ほどとは違う理由で背筋が震えた。


 徐々に前に進み、アイシャの飛び込むスペースを作ると、すぐに入った様で、何とも言えない粘りを感じさせる不気味な水音が響いた。だが、後ろから聞こえる彼女の声音は至って明るい。


「ホントだね。これだけ動きを制限されるとは思ってなかったよ」


 そこで、隣で浮遊していたジジが事も無げに答える。


「何。怪異が飛び出せば、儂が払ってくれるわ。案ずるに及ばず」


 まあ、そこは本当に信頼できるんだけど、この気味悪さの前じゃ、完全な安心には至れないよな。

 そして、指先を汚泥につけ、力を込めてかき混ぜてみる。


「……重い」


 まるで指に重りをつけられた様に動きは鈍く。動かす時間が長くなるほどより多くがまとわりついてくる。空気の層で守られているため、指を抜いてしまえば汚泥が絡む事はない。


「これ、結構やばくないか? 奥へ進むほど身体の動きが阻害されるんじゃ?」


 後ろのアイシャの方を振り向きながら問いかけると、彼女は何かを思いついた様子で、手の平を叩いた。場の空気に似つかわしくない軽快な音が鳴る。


「そうだね。そのままにしてたら面倒な事になるかも! でも、ちょっと思いついちゃったから試してみるね!」


 そういうと、彼女の手のひらが明るく光った。


「この場所は、汚染が進み過ぎてて水と風の精霊の力が、どっちも弱くなっちゃってる。でも――」


 アイシャの手の内がひときわ明るく輝き、羽衣を纏った妖精の様な十センチほどの姿と、先ほどのナイちゃんが現れる。


「私の固有精霊で、風の精霊の上位種のネヌちゃんだよ。ナイちゃんには休んでてもらうつもりだったけど、予定変更! 二人のコンビネーションで、この泥に流れを作ってもらっちゃう!」


 二人の精霊は、仲良く並び、お互いに何らかの魔法を使っている様だった。

 しばらくして、泥の塊に小さな流れが生まれたのを感じた。それは、逆らう様に、奥へと進んでいく。


「私が状態を監視して、逐一ながれの強さや向きをコントロールするね。だから、安心していいよ」


 そう言い終えたアイシャは、指先から火を放ち、俺が持っていた松明に火をつけた。それをしっかり握り、落とさない様に気を付けながら、彼女に尋ねる。


「なあ。この松明の火。小さな火の粉でも落ちたら一面が火の海になるんじゃないのか?」


 隣にいたジジもうんうんと頷きながら、アイシャの答えを待つ。だが、その答えを待つまでもなく、ある変化に気づいた。


「あれ? 空気の流れが……」


「ふむ?」


 俺の声につられる様に、ジジも洞窟の天井を見つめる。すると、舞い踊る火の粉が吹き上げられて天井ふきんで旋回しているのが見えた。

 そこでアイシャがすかさず答える。


「ふふぅん。気流を操作して落ちない様にするから大丈夫だよっ! あ、でもぉ。手からは離さない様に気を付けてね。直接つけちゃった場合は、燃え広がると思うから、その時はその時で対応策を考えるけど。危険は少ない方がいいから」


 何だか、自分ひとりの時では考えられない様な安心感に、心が軽くなると同時に、彼女の底知れぬ力を目の当たりにし、震えが走る。


「ふむ。便利なものじゃなあ」


 感心そうに呟くジジの隣で、頭の中では、あるひとつの想いが渦巻いていた。


 そうか……。強さや、力ってのは、破壊だとか暴力とかそんなモノだけじゃないんだ……。アイシャは精霊の力で、その場の環境をコントロールしてまで、仲間を守っている。もちろん、俺が師匠に教わったハキスだって、他人にかける事も出来るはずだ。そういう意味では、仲間を守れる魔法ではある。けれど、彼女の力は、個人の範疇を超え、周囲の環境にまで影響を与えている。その、計り知れなさ。


 何か、何か。そこにヒントがある気がしてくる。


 まあ、今はまだ壮大すぎて現実が追いつかないか……。


 気が付くと、しばらく考え込んでいた様で、目の前には不思議そうにこちらの瞳をとらえるアイシャがいた。


「どうしたの? カイト。私たちがいるとはいえ、あんまりぼんやりしないでね?」


 松明をしっかり握っている事を確認し、ゆっくりと力強く頷いた。


「ああ、大丈夫だよ。ちょっと、修行のヒントになりそうな事を思いつきそうだったんだ」


 それを聞いたアイシャの表情が明るくなり、嬉しそうな声を上げた。


「そうなの? さっそく役に立ててるのなら嬉しいなっ」


「むう! アイシャよ! 抜け駆けか!? そうなのじゃな!?」


「ええ!?」


 ジジはアイシャにちょっかいをかけ、自分こそが俺の役に立ってみせると息まく。


「むふう。カイトよ。おんしのための大盤振る舞い。儂の力をよう見ておれよ! 必ずや、その過程で行き詰った修行の手掛かりを得られるはずじゃ!」


「ほいほい、もちろん期待してるぜ」


 あまりに大胆な宣言に、少し恥ずかしくなって投げやりな返答をしてしまう。


「むむ? どこかよそよそしいではないか。おんしと儂の仲じゃ。遠慮はいらぬ!」


 いつになくご機嫌なジジを尻目に、アイシャにもう一つの疑問をぶつける。


「なあ、あのクロスボウは持って来てないのか?」


 その問いに、横からジジが言葉をつぐ。


「くろすぼう……? とは、いつも食卓のそばの棚に置いてあった、怪しげな機構を持った道具の事かの? 丁度良い、儂もあれが気になっておったのじゃが、問いかける機会を失しておってな」


 二人からの質問攻めに、アイシャは困惑ぎみに答えた。


「もう、二人とも緊張感なさすぎだよっ。……でも、怖がってないのはイイ事かな」


 アイシャは天井ふきんを見上げ、先ほどの空気の流れを目で追う。


「この中では風の精霊の力が弱まっちゃうのは予想してたから、クロスボウは使えないと思って持って来なかったんだ。……でもぉ。ネヌちゃんの力も借りるのなら、持ってきても問題なかったかなぁ」


 そう言ってこちらを再び見つめた。アイシャの両隣には、二人の精霊が浮遊する。


「さて、ジジちゃんの質問は、長くなりそうだから、帰ってからでいいかなっ? じゃ、進もっか」


 それにジジは不満そうな唸りを上げたが、すぐに洞窟の奥へ振り向き、先導する様に少し前へ飛ぶ。


「うむ。泥の内より何かが出でても、儂にはすぐに届きはすまい。喜べ、前を担ってやるぞ」


 アイシャが魔法の力を強めた様で、奥へと向かう流れが動き始めた。


「カイト? 上手く調節するつもりだけど、転びそうになったら直ぐ言ってね? いくら魔法で守られてるからって、こんな泥の中に埋まりたくはないでしょ?」


 「分かった。ありがとう」と振り向かずに答え、奥へと徐々に進んでいく。前向きの流れに乗っているため、動いても抵抗はほとんど感じない。

 そうしてしばらく進んだあたりで、先ほどの実験で松明の生んだ火の海が消えた辺りが近づいて来た。そこに向けて右手に持った松明を突き出す。


「さっき火が消えたのって、この辺だったよな……」


 ジジはその周辺を浮遊しながら警戒する。

 炎に照らされた場所には、周りから細かな粘性の泡を弾けさせる大きな岩の様な塊があった。それは、奇妙な事に、生き物の一部かと思わせる蠢動を続け、表面には浮き出した血管状の何かが見える。


「……何だ? これ……」


 それは道を塞ぐ様に、幾つかの塊に分かれ、列状に並んでいる。


「むう? これは、何とも面妖な……。じゃが、何か生命力と似た気配を感じる」


 浮遊して前に出ていたジジが、近づいて指を伸ばそうとした瞬間、塊のひとつが内側から弾けて、赤黒い腐敗した血液の様な物を飛ばす。


「危ないっ!」


 後ろで備えていたアイシャが、咄嗟に魔法を使い、ジジの前に旋風を巻き起こし、飛散した液体を周囲へ散らす。


「むぐ!? こ、これは――空気の流れで守られていても、強烈な腐臭を感じるぞ!」


 ジジは鼻を押さえ、呻き。その前には泥で出来た様な不気味な人影が現れていた。

 ドロドロと表皮が溶けだし、その下の肉体は赤黒く脈打ち、所々に骨格が剥き出している。一見するとアンデッドの様な姿だった。


「何だこいつ!? ゾンビ――?」


 その言葉に反応したかの様に、怪物の眼球のない空洞の眼窩がこちらを見据える。


「カイト! 危ない、驚いてる場合じゃないよっ! ウルグッ!」


 アイシャは背後から魔法の水弾を撃ちだし、怪物へぶつける。すると、赤黒い胴体が大きくのけぞり、後ろへ倒れそうになるが、それを支える様に、周囲の汚泥が伸びあがる。


「この泥――意志を持ってるのか!?」


 怪物は汚泥に支えられて、身体を起こし、そのまま宙へと浮き上がりジジを狙う。


「甘いわ! 匂いにさえ耐えられれば、貴様なぞただの木偶よ!」


 真っ黒な口内を露にし、今にもジジに噛みつこうとしていた怪物は、動きが止まり宙で震える。周りの汚泥も力を失った様に、水面へと崩れ落ちる。


「くふふ。魔力の波を利用した金縛りよ。知性もない怪異には解きようもなかろう」


 怪物は空中で動きを失い、吊り上げられたまま震え続けていたが、ジジが手を振ると突然、天井へ向かって飛び、叩きつけられ、次いで後方へと吹き飛んでいった。

 アイシャは不満そうにジジを咎める。


「もう、ジジちゃん。見えない所へ飛ばしちゃダメだよ。まだ生きてるかもしれないんだから! 向こうを通るとまた襲われちゃうよ!」


 それにジジの反論が始まろうとしたが、それより先に、列を成していた他の塊が弾け、四体の同種と思われる怪物が現れる。それをすかさずジジが縛り付け、アイシャへ問う。


「ほれ! 其方ならば、これをどうする?」


「さっきみたいに空中へ浮き上がらせて! 水面へ接触しない様に気を付けてね!」


 ジジは四体を同時に吊り上げ、絡みついていた汚泥がまた力を失い崩れ落ちる。


「これで良いのか?」


「フロア!」


 アイシャは聞きなれた魔法を唱え、小さな火花が横切り、目の前に真っ赤な炎の華が咲く。


「グオオオ」


 怪物たちは悲鳴を上げ、ドロドロに溶け落ちて行く。その時、また強烈な腐臭が鼻をついた。


「うぐ。酷い匂いが……」


 溶け落ちた燃える身体の一部まで風に乗って、水面に触れる事はない。燃える肉片らしき物が、空中を舞う姿は目を背けたくなる不気味な光景だったが、彼女の力は本物だ。その現象に何かヒントがないかと、必死に思いを巡らせる。


「あ、そういえば……」


 俺って、素じゃ、フロア使えないんだったな。

 その記憶に思い当たり右手に持った松明をじっと見つめ集中してみる。もう、完全に目を閉じる必要がなくなっていた。肉体と霊体が半ば通じ合っているのか、薄目を開けた状態で松明を見つめると、小さく舞い踊っていた火の粉のひとつひとつが、生き物の様に見えてくる。


「何だ……これ」


 そうか――こいつらが、火の精霊の原型なのか。


 だったら――。


 その小さく輝く姿を目に焼き付け、更に集中を深めて行く。瞳の中に映りこんだ炎が、頭の中で爆ぜ、燃え上がった気がした。半ば無意識にマナを放ち、そっと魔法の名を唱えた。


「フロア」


 瞬間、赤々と燃え上がる炎の奔流が宙へ向けて解き放たれ、溶け落ちていた怪物たちへ追い打ちを加える。だが、それでも炎は消える事なく、風に乗り、天井で渦を舞いた。

 背後からアイシャの険のある声が聞こえ、我に返る。


「もう! カイト、何してるの! 私は出力を抑えて使ったのに、そんなに全開にしちゃって!」


 ほぼ無意識に近かったため、言い訳も出来ないが、あの火の精霊の姿は、確かに瞳の奥に息づいていた。


「ご、ごめん。フロアって使った事なかったからさ。この、松明を利用すれば出来るかなって思って……」


 それを聞いたアイシャからは咎める口調が緩み、不思議そうな声音へと変わる。


「え? 松明の火に、精霊の力は宿ってないと思うけど。だって自然の火だもの」


 え? じゃ、じゃあ。俺がさっきみた奴らは何だったんだ。

 もう一度、松明を見つめてみるが、先ほどの赤く蠢く小さな影は見えなかった。


「何だったんだ……?」


 前からは、ジジの好奇心旺盛な瞳を感じ、後ろからはアイシャの疑問を受けながら、再びあの精霊らしき姿をイメージし、薄目になり、集中する。


「見える。見えるんだ……」


 確かに、ここにいる!


「フロア!」


 再びマナを放つと、今度は松明の炎を介さずとも、赤い奔流がほとばしった。それは空中へ向けて飛び、風に巻かれて舞い踊る。その幻想的な赤に照らされながら、自らの左手を見つめていた。その中には、確かに拍動する、赤い精霊の気配を感じた。


「はは! フロア、使えなかったのに、出来るようになってら!」


 俺の嬉しそうな声を聞き、前後から賞賛が飛び交う。

 何故かは分からない、そして、これが修行の直接的な進歩につながる訳でもない。あの精霊たちの正体も分からない。だが、新たな魔法の習得は、この上ない祝福に感じられた――。

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